外村大(1966-)。東大教授。「強制連行」という単語を使いはじめた朴慶植と面識がある。
以下は、外村教授のホームページに掲載されている鄭大均『在日・強制連行の神話』(以下『神話』)に対する反論文(朝鮮人強制連行―研究の意義と記憶の意味―)の要約である。
【要約】
「戦時下の動員政策によって、本人の意思に反して日本に連れてこられ、甚だしい人権侵害を受けた朝鮮人がいたことは間違いのない」事実である。暴力的な動員については、個人の体験、見聞からも見て取れるし、その過酷な様子は『内鮮報告書類編冊』『近代朝鮮社会史話』『民主朝鮮』『朝鮮新話』などにも収録されている。朴慶植本は北朝鮮に遠隔操作されて書かれたものだと鄭大均は述べているが、その評価は正しくない。朴がこの本を書いたのは、植民地支配のせいで朝鮮人でありながら朝鮮語が話せない自己に愕然としたことなどを契機として、植民地支配を受けた朝鮮人の苦しみを訴えたいという思いがあったからである。
「強制連行」という言葉について、革命を輸出しようとした北朝鮮とその〝いかがわしい〟言説に動かされた左派系日本人が、80年代にメディアを通じてそれを流布したことにより広まった(つまり在日の実生活と無関係に広まった)と片付けるのも早計である。
というのは、まず渡日の経緯には労務動員(強制連行)以外に、たとえば斡旋や募集など様々なものがあって、そのなかには詐欺的なものもあり、そこでは「強制連行」の場合と同じような過酷な労働を強いられた朝鮮人も多く存在していた。そして強制連行(労務動員)とそれ以外の形態(斡旋や募集など)の渡日がしばしば区別がつかないことがあることも勘案すると、渡日の話を親から聞かされた子供が「うちの親も強制連行でやってきた」と(いろいろ混同しながら)自ら語るようになるケースもあったことは十分想定できるからである。
「日本に継続して居住した朝鮮人のなかで、戦時期の労務動員政策が直接の渡日の契機となっていた者やその子孫は相対的には数が少ないことは確か」であるが、戦後も植民地支配の反省もない日本人に「『いやなら国に帰ればよい』といった声が浴びせ掛けられる」などされているうちに、「好き好んで日本に住んでいるわけではない」という反発心が生まれ、次第に「植民地支配の犠牲者」という言葉に共感していったのである。
「強制連行」が強調されるの契機や背景について考える際には、こうした在日朝鮮人の置かれた状況を踏まえなければならない。個人の生活に即した分析が必要なのである。しかし鄭大均には「個人の生活やそこから生み出される思想的営為を基礎に据えて歴史を理解しようと」する姿勢が欠けている。
付け加えると、在日朝鮮人史は今日それなりの研究蓄積を持っているが、1980年代までは研究は少なく、そうした中で、日本人にせよ、朝鮮人にせよ、大部分の人々は、ほかの渡日の背景を含めた体系的な在日朝鮮人史を認識することができず、インパクトの強い「強制連行」の契機のみを記憶する傾向が生まれたという事情もあった。
「在日朝鮮人の形成史に触れる際、あたかもほとんどの朝鮮人が強制連行で渡航したかのように語られる場合があ」ったことは認める。だがそれは、以上のようなさまざまな事情があったためなのである。
しかし日本社会にそうした強制連行についての「神話」が浸透しているのかどうかについては疑問がある。
いずれにせよ、「強制連行」という言葉が生まれた背景も植民地期の過酷労働と戦後の日本人の無反省や差別にあるのだから、そこを考えなければならない。
これを更に要約すると次のようになるだろう。
「強制連行」の嘘話を言っていた人間がいたことは認める。しかしそもそもこの問題の本質は植民地支配と日本における不遇な生活にあるのだからそこを直視しなくてはならない。
筆者も、さまざまな経緯を排して、この主張を単独で読めば、そこに賛意を示すことにも吝かではない。しかし問題はそう簡単ではない。
鄭大均および筆者の主張
「強制連行」という用語について鄭大均と筆者の問題意識は、鄭大均『在日・強制連行の神話』および「強制連行」問題とはなにか の中でも整理したが、およそ一致している。まとめて言うと次のようになるだろう。
「強制連行」は、学問的な用語ではなく、日本人に贖罪意識を与える道具、プロパガンダの道具だった。それはまるで朝鮮人を非人道的に酷使した国家犯罪であったかのように語り、〔創氏改名や日本語強制などとともに〕「植民地支配」の全体像を歪めていった。この「植民地支配」の虚構はさまざまに政治利用された。 〔さらにその歪んだ「植民地支配」観は90年代には従軍慰安婦問題にまで発展していく〕 ※〔〕は『神話』に直接の言及はないが筆者の考えを入れて補ったもの。
では、この鄭大均(と筆者)の問題意識をふまえて、以下、外村教授の反論文がはたして反論になっているか検討しよう。
外村反論文の検討
まず外村は「強制連行」という言葉が定着していった経緯について次のように説明している。(「要約」ではなく本文から引用)
【引用】
在日朝鮮人史は今日それなりの研究蓄積を持っているが、1980年代までは研究は少なく、また(現在でもそうだが)、学校教育を通じてそれについて学ぶ機会はほとんどなかった。そうした中で、日本人にせよ、朝鮮人にせよ、大部分の人々は、ほかの渡日の背景を含めた体系的な在日朝鮮人史を認識することができず、インパクトの強い「強制連行」の契機のみを記憶する傾向が生まれたのである。 ※下線強調は引用者。以下同じ。
戦後の朝鮮人史については研究が不十分なところがあったため、結果、朝鮮人と日本人の双方に「ほかの渡日」は脱落してインパクトの強い「強制連行」のみを記憶する傾向が生まれたと外村は主張する。文面からは「だがそれは意図的なものではなかった」というニュアンスも感じられるが、はたして本当にそうなのだろうか。
【要約】【引用】、そして『アボジ聞かせてあの日のことを』(1988)に含まれる証言の種類・内容とその割合(→§語りたかった「強制連行」像)、『朝鮮新話』(→§描写の問題)、またそこから派生した書籍や表現を考察すると奇妙なことに気がつく。
【要約】でも示したように、外村は、親から聞かされた厳しい労働の話は、強制連行(労務動員)の過酷労働と混同しても不思議ではないものであったため、それゆえいつしか「強制連行」という言葉で一緒くたに語られるようになったにすぎないと擁護している。もちろんそうした混同はありうることであり、筆者もそうした諸般の事情があったことは理解しないでもない。
しかしながら「語りたかった『強制連行』像」で見たように、1100人もの証言を集めた『アボジ』には「連行」場面がほとんどなく、過酷労働の表現についてもかなり限定的である。にもかかわらず、『朝鮮新話』などの文言――それは杉本幹夫が指摘したようにそれは戦時徴用や過酷労働の場面ですらなく逮捕や犯罪の場面なのだが(→§主語省略による誤解)――が「強制連行」の常套句と化し、あたかもそれが全体の姿であったかのように『アボジ』「渡日の背景」の扉や日本の教科書にも採用されていくのはなぜなのだろうか。 1980年代までは研究が少なかったから、混同したから、などと外村は擁護するが、それにしても当事者が多数健在している時代に、わざわざ少数の極端な「インパクトの強い」事例に話が収斂し全体像が歪んでいったのはなぜなのか。
百歩譲って誤解が「強制連行」だけならともかく、「創氏改名」「日本語強制」についても「強制連行」と同じような強度の誤解が生じているのはなぜか(→稿末の関連拙稿等参照)。 創氏改名について言えば、2000年代に入ってからも民団は相変わらず名前を強制的に変えさせる非人道的政策であったかのような記事を書いているが、それも「研究が少な」いことが理由なのか。
外村は要するに「強制連行」の定着は不可抗力だったと言いたいようだが、そうではなく、直裁に言ってしまえば、日本人がよく知らない、あるいは反論が難しいことを逆手に取って(一部の民族意識の強い)在日(や本国人)が「強制連行」の実態について積極的に嘘をついてきたからではないのか。
(cf.→§在日側は「強制連行」をどう見ていたか/→宮台真司(在日の強制連行問題))
【引用2】
ところで、鄭大均氏の『在日・強制連行の神話』のテーマは「在日コリアンのほとんどは戦前日本が行った強制連行の被害者及びその末裔だ、という『神話』」が、「どのようにして拡がり、どう今の日本社会に影響しているか」である(引用部分は新書のカバー裏に記された言葉)。
筆者は、そもそもそうした「神話」が浸透しているのかどうか自体に疑問を持つ。ただし、在日朝鮮人の形成史に触れる際、あたかもほとんどの朝鮮人が強制連行で渡航したかのように語られる場合があることは認める。
次に、外村は反論文で、在日が「強制連行」で渡航したかのように語られていたことは認めるとしながら、同時に、そうした「神話」が日本社会に浸透しているとまで言えるかは疑問であるとしている。
つまり「神話」が浸透しているかはともかくも、少なくとも実際問題としては、その影響は大きくなかったと言いたいようである。
しかし日本の教科書に書かれ、広辞苑の項目として載り、また有名漫画等にも描かれているのに、なぜ浸透していないと思ったのか。(→『はだしのゲン』にみる朝鮮人強制連行)(→つかこうへいが描いた「強制連行」)
仮に強制連行の「神話」が浸透していたことが疑問であるなら、「創氏改名」「日本語強制」の「神話」が浸透していたことも疑問なのか。 こうした「植民地支配」の世界観は日立訴訟(1974)にもすでに現れているし、小林よしのりも1990年代には自虐史観が浸透しきっていたと述べているがどうか。
カルト宗教(統一教会)が歴史問題を利用できたのはなぜか。
仮に「強制連行」等によって構築された「植民地支配」の虚構(後述)が浸透していなかったとすれば、1990年代に荒唐無稽な「従軍慰安婦」が信じられてしまったのはなぜなのか。(→「慰安婦問題」とはなにか)(→つかこうへいが描いた「従軍慰安婦」)(→朝鮮半島を「紀伊半島」に置き換えるとわかる「従軍慰安婦」問題のおかしさ)
在日側の「事情」を存分に斟酌するのはよい。しかしそうであるなら、「個人の生活やそこから生み出される思想的営為を基礎に据えて歴史を理解を」という外村教授の持論を、ぜひ1980年代の日本側にも当てはめて実践してもらいたいものである。そうでなければそれは鄭大均が批判する「見たいもの主義」(136頁)そのものではないだろうか。
まとめると、外村教授の反論――(1)「強制連行」という言葉の流通は不可抗力だった。(2)強制連行が定着していたと言えるかは疑問であるし影響は大きくなかった――はいずれも事実認識としてまちがっている思う。
そしてもう明らかなように、この反論は冒頭に述べた鄭大均および筆者の問いかけに応答していないと思う。
外村反論文の評価
筆者の歴史認識は【A】から【B】のような変遷をたどった。
【A】 「植民地支配」「強制連行」(そして創氏改名、皇民化政策、従軍慰安婦等々)は、大日本帝国による非人道的行為(国家犯罪)であった。ゆえに戦後の日本人が教科書で学び、国民的反省を迫られるに相応しいものだとされてきた。
【B】 ところが調べていくと、実際のそれらは国家犯罪などでなはく、社会問題、労働問題、行政問題の類にすぎなかった。すなわち日本人が「贖罪意識」を感じる必要などまったくないものであった。(→「植民地支配」をめぐる2つの世界観)
A→Bのような歴史認識の変遷をたどった筆者からすると、外村の反論文は、日本を犯罪国家として規定するプロパガンダとして使われ、「植民地支配」の実像を歪めてきた「強制連行」という言葉の威力を過小評価し、あたかも「強制連行」が、戦後ずっと正しく徴用(労務動員)的、そしてその中における労働問題的なイメージで使われてきたかのように、そのような正しい認識が中心だったかのように、言うものであって、それは歴史(日本の戦後史)の改竄行為であると感じる。
鄭大均および筆者の主張(再)
次の記事は2014年のものだが、鄭大均がわざわざ「朝鮮人も日本国民だった」と述べているのは、そうでなかったかのような言われ方がなされてきたということを示唆している。「強制連行」という言葉や、朝鮮人の犠牲者性を特権的に語る口調が長年、あたかも朝鮮人が非同胞(世界観A)(*1)であったかのような誤解(印象)を、その聞き手に与えてきた。実際、筆者はそのように誤解してきたし、その種の誤解が筆者だけではないこともわかっている。(→関連資料参照)
日本帝国時代には、日本人も朝鮮人も日本国民だったのであり、徴兵であれ、徴用であれ、戦時期に国民に課せられた運命共同性のようなものだった。戦場に送られた男たちのことを無視して、朝鮮人の男たちの被害者性を特権的に語るのが強制連行論であるが、それはあきれるほどの偏向ではないのか。
拙著『在日・強制連行の神話』は(中略)今読み直してみると、強制連行論の「おかしさ」には触れても、「こわさ」には十分に触れていないことにも気がつく。韓国に長くいて、強制連行論が教科書に記述され、博物館に陳列され、歴史テーマパーク化し、ドラマ化され、独断的な被害者性の主張が民族的、宗教的な情熱で自己実現していく様を目撃していたはずなのに、そのこわさを十分に伝えてはいないのである。
(中略)
外村大(とのむら・まさる)氏の『朝鮮人強制連行』(岩波新書、2012年)は「日本の朝鮮植民地支配はさまざまな苦痛を朝鮮民族に与えた。そのなかでも第二次世界大戦下の労務動員政策は食料供出と並んで、とりわけ民衆を苦しめたものとして知られている」という文に始まる。(中略)この本、本文では「強制連行」よりは「労務動員」や「徴用」の言葉を使うのに、書名には『朝鮮人強制連行』とあるのはなぜか。
(出典)産経新聞 https://www.sankei.com/world/news/140705/wor1407050038-n1.html
鄭大均の「特権的」「偏向」という言葉は、単に朝鮮人の犠牲者性を強調しすぎていることを非難しているのではなく(それもあるが)、犠牲者性を特権的に語ることが「植民地支配」の全体像についての誤解を招いてきたという批判を含んでいるのである。
同胞としての、単なる戦時徴用あるいは賃金労働であったはずのものが、いつしか強制労働(すなわち国家犯罪)であったかのように語られるようになり、それに沿った「植民地支配」観(虚構)が構築されていった―そのことを批判しているのである。
もしもこうした指摘に対して、それでは「植民地支配の問題を曖昧にし、忘れさせる作用を持つ」ので受け入れられない、という再反論が来るようなら重症である。
「強制連行」の問題点は「従軍慰安婦」のそれと似ている。
(1)過酷ではなかった朝鮮人の存在には触れずに、過酷だったケースばかりを取り上げ、また日本人や台湾人の存在については無視し、あたかも朝鮮人だけ非人道的に扱われていたかのように言って、誤った世界観(A)を喧伝する。
(2)「日本軍が拉致誘拐した慰安婦が20万人いた」(国家犯罪)は嘘だったが、それはともかく問題の本質は「女性の人権」であるからそこを直視すべきだ、と本質論を持ちだして責任を回避する。
こうした態度は歴史認識問題における左派に共通の特徴であるが、嘘話の責任を誰も取らないという点もまた共通である。
【引用3】
最後に、在日朝鮮人がしばしば「強制連行」を持ち出し「被害者アイデンティティ」で固まっている状況があるという、鄭大均氏の指摘について、触れておきたい。仮にそのような状況があるとすれば、確かにあまり幸福な状況ではないと筆者は考える。
ただし、そのような状況が現在、それほど一般的に見られるかどうかは、実は疑問である。
鄭大均氏は、ほとんど1980年代以降の歴史研究には言及しないわけであるが、実際にはこの間、在日朝鮮人の生活史、運動史等、「強制連行」以外の分野も広く明らかにされて来ている。また、在日朝鮮人を扱った歴史研究以外の著書や映画等においても、近年では、「被害者性」のみを強調するのではなく、むしろ自ら道を切り開いてきた側面を前面に打ち出した作品が多い。つまりは、「在日朝鮮人は強制連行を強調し被害者性をアイデンティティの核にしている」という鄭大均氏のいう「在日・強制連行の神話」自体が「神話」である可能性が高い。
最後に外村は、在日が被害者性をアイデンティティの核にしているというのも「神話」の可能性が高いと述べている。
しかし本国人を含めた朝鮮人のほぼ全体が、「強制連行」以来――いや本国人の場合は「強制連行」が端緒ではないかも知れないが――、着々と構築してきた世界観Aによる「被害者アイデンティティ」を核にしていることは「神話」でもなんでもなく、まぎれもない事実だと思うがどうか。(世界観Aについては→「植民地支配」をめぐる2つの世界観) *2
まとめ
以上、鄭大均および筆者の、「強制連行」という言葉を発端に、日本国内で徐々に「植民地支配」が誤解されていき、ありもしない「歴史問題」が生まれ(→「朝鮮半島をめぐる歴史問題」とはなにか)、それを朝鮮人側が政治利用してきた(そしてそれに対して誰も責任を取っていない)という問題意識に対し、外村教授の反論文は、「強制連行」という言葉がいかにして生まれたかという朝鮮人側の事情を説明するだけにとどまっており、筋違いで無意味であることを説明してきたつもりだが、どうだろうか。
そして、こうした「戦後の経緯」をふまえれば、朝鮮人側(および日本の進歩的知識人)がこれを直視し総括し、解決するための真摯な努力がなされないかぎり、日本人と朝鮮人の和解は到底不可能なことであるという日本人側(筆者)の発想も理解されると思うのだが、どうだろうか。
(終)
*1) 鄭大均は、筆者が「植民地支配」をめぐる2つの世界観で示したような整理の仕方、つまり「非同胞」と「同胞」(世界観Aと世界観B)というような整理の仕方は思いついていないようだが、発想としては、鄭大均と筆者は同じ方向でものを考えていると言ってよいと思う。
*2) 今の本国人の歴史観はまさしくこのAであろう。なお本国人だけでなく、今日の日本人も、朝日新聞や学校の教科書だけ読んでいたらAだと錯覚するのではないだろうか。日本国内でいまだにAが勢力を持っているのはなぜなのか。
〔参考文献〕
『在日・強制連行の神話』 鄭大均 2004年