「日本語強制」政策がどのように誤解されていたか〔皇民化政策〕

◆どのように誤解されていたか

朝鮮総督府が行った悪政とされるものに<皇民化政策>というものがある。 筆者(1970年生)と同世代人は、朝鮮人に日本語日本名を強制することによって日本人化を強制した政策だと学校で習ったはずである。 しかしこの政策については2つの誤解がある。それは内容の誤解と時期(期間)の誤解である。

(1)まず日本語強制政策の内容について、総督府は朝鮮語を禁止し、朝鮮語を話す朝鮮人を逮捕していたという誤解がある。 この手の誤解は学校教育にもあらわれていて、たとえば1970年代から在日朝鮮人問題に関わっていた辻本武氏のページには次のような日本人教師の発言が見つかる。

(イ)日本の学校の教師の多くは、当時の朝鮮では日本語が強制されて、家で親と話しする時も朝鮮語を使えば警察に捕まったというような話を信じており、これを子供たちに教えています。 これは十年以上前*に、ある教師と話をしたなかで、私が「当時の朝鮮では学校のようなところでは日本語が強制されたが、一旦校門を出ると、家庭や親戚、近所、友人間の会話は朝鮮語だった」と言ったら、その教師が「え!それはウソでしょう。そんなこと、学校では教えていない」ということで、こちらがビックリしたことがありました。 おそらく今でもこのようなことを教えている教師は多いと思います。(資料) *この文章は2015年2月のもの。「十年以上前」は2000年前後に相当。

また創氏改名(日本名強制政策)の内容についても同様の誤解があった。すなわち、あたかも民族名が禁止・廃止され、日本名を拒否すると逮捕されるかのような誤解があった。(→梶山季之『族譜』の間違い(嘘)について) (→「創氏改名」の誤解がどれほど定着していたか

(2)次に皇民化政策の時期について、併合直後から行われていたという誤解があった。たとえば、創氏改名についての証言になるが、ネットを探すと次のような発言がみつかる。

(ロ)例えば、全く知らなかったのだが、韓国併合から、日本式の氏を創設できるようになるまで、30年の歳月がかかっていることである。私は、韓国人や左派系の主張を聞くに、「創氏改名は、併合直後から終戦まで、36年間続いたもの」であったと早合点していたのだが、実際に施行されたのが、1940年2月

(ハ)ここで、「?」と疑問を感じる人がいるかもしれません。 ●日韓併合は1910年の8月29日から始まったんじゃないの?1940年に創氏が始まったとすると、それまでの30年間は朝鮮人は自分の姓を堂々と名乗れてたの? ●創氏があったのは終戦までのたった5年間? ●届け出って...?創氏は強制じゃないの? ●届出の期間が6ヶ月間? ●創氏は分かったけど、改名はどうしたの?創氏改名はセットでしょ? (資料

実際の<皇民化政策>は、併合末期5年程度の政策だったにもかかわらず、(ロ)(ハ)のように併合直後から何十年も強制されていたかのような誤解が生まれていたのである。

なぜこのような内容時期の誤解、すなわち長期間弾圧されていたかのような誤解が生まれていたのだろうか。

それは、1980年代から90年代にかけて、学校教育やメディアの中で教師や進歩的知識人、そして「被害者」側である在日および本国人が、1910年からの「植民地支配」が、あたかも過酷な統治であったかのような調子で、きびしく日本側を糾弾していたからである。*1
そのような空気の中で、南京大虐殺など、日本と日本軍のイメージが最悪であり、かつ在日や本国人が遠い存在であった(実態をよく知らない)中学生高校生が、たとえば次のような説明を受けたらどのように誤解するか、想像してみてほしい。

これはある朝鮮学校通学経験者が投稿した記事である。

(ニ)朝鮮学校は、戦後朝鮮半島が植民地から解放されたあと、日本に留まった朝鮮人の子供たちのために作られた「国語講習所」が元となっている。 なぜそのようなものが必要だったのか。朝鮮半島が植民地であった当時では、皇民化政策の中、朝鮮語教育は排除されて行き、日本語教育が徹底されたために、朝鮮人の子供たちは、朝鮮語が話せなくなっていた。また、皇民化教育により、「日本人」としての教育しか受けられなかった朝鮮人の子供たちは、「朝鮮人」としての精神を育むことすらできなかった。 そのため特に解放後、祖国である朝鮮へ帰国することを希望していた朝鮮人たちが、子供たちに朝鮮語を教えるための場が切実に必要だった。 (資料

この投稿はじつは2014年のものなのだが、皇民化政策についてこのような説明のされ方は1980年代には存在していた。この説明を80年代の中高生が素直に読んだ場合、在日が朝鮮語を話せない原因が、まるで「植民地支配」によって何十年も朝鮮語が全面禁止されたところにあるかのように勘違いしないだろうか?
そして、在日が皇民化政策のせいで朝鮮語を話せなくなったのだとすれば、皇民化政策は本国でも実施されたのであるから、本国でも朝鮮語が不自由な世代がいるのだろう…と日本側(筆者)が誤解してもおかしくはないのではないだろうか?

もうひとつ、毎日新聞の記事もみておこう。なんと2013年の記事である。

(ホ)1910年、日本は朝鮮半島を植民地化した。40年には民族名を日本風の名前に変えさせる政策を打ち出した。戦中は多くの朝鮮人が日本で働くことを余儀なくされ、敗戦後も約60万人が生活基盤を築いた日本にとどまった。そうした人々が民族の言語や文化を取り戻す場として、各地に朝鮮学校がつくられた。毎日新聞2013.11.8(資料

この記事後段の「取り戻す」は、あたかも皇民化政策によって言語や文化が禁止され失われてしまったものを取り戻そうとしているかのように読めないだろうか?*2
(※この記事には「40年」という時期が記されているが、以前は時期のない説明が多かったと思う)(※この記事には、前段に創氏改名と強制連行の説明が置かれている。「強制連行」については諦めたようだが、創氏改名のデタラメは健在である。大新聞が2013年にもなってまだこんな記事を書いているわけである。1980年代がどうであったかは推して知るべしだろう)

こうして筆者は1980年代に、(イ)のような教育と(ニ)(ホ)のような説明によって内容と時期を誤解し、てっきり併合直後からの禁止政策(皇民化政策)によって朝鮮人は朝鮮語が不自由になってしまったと思い込んでしまっていた。
そのため、今思えば間抜けな話だが、ソウル五輪(1988年)のときに、朝鮮語が不自由な世代がいるのではないか、そういう世代の人が画面に出てくるのではないかとはらはらしながらTV画面をみていたのである。(もちろんそんな人はでてこない)*3

上の筆者のような「思い込み」がやや極端な事例だったとしても、この「日本語強制」の問題については、鄭大均が著書でわざわざ次のような説明をしているところからも、「誤解」がどれくらい定着していたかが窺い知れるだろう。

日本統治末期である1942年の調査によれば、日本語を解するものは全人口の二割弱。男子三割弱、女子一割強である。(中略)そもそも朝鮮の総人口に占めるエスニック日本人の数は3パーセント程度。(中略)つまり、この時代の朝鮮半島において、家庭内や近隣・職場での会話は、基本的に朝鮮語でなされていたのであり、支配者である日本人は実は、朝鮮人がなにを考えなにを噂していたのかを十分に把握していなかったのである。(『在日・強制連行の神話』52頁)

◆実際はどうであったか

さて、今日では明らかなことだが、実際の「植民地支配」「皇民化政策」では朝鮮語を禁止などしていなかった。
たとえば朝鮮語のレコードが販売されていたし、朝鮮語の電報も打てた。それどころか、総督府は朝鮮語の教科書を作って教えたりもしていた。(→朝鮮語のレコード朝鮮語の電報日本統治時代の教科書 (外部サイト)) *4
筆者はのちに(2004年頃)こうした事実を知ったとき、絶句するほど驚くことになる。(→ネットの普及と歴史認識問題

じつは当時日本語を話せた朝鮮人というのは、朝鮮語が禁止され、日本語が「強制」されてそうなった気の毒な人なのではなく、むしろ立身出世のために努力して身につけたエリートだったのである。(出世のために英語を学ぶ現代日本人と基本的には同じ。もっとも「併合」であり、日本語が公用語になったので、現代日本人とは違い「学ばない」という選択肢はなかったが)*5
併合末期に、半島の学校教育から朝鮮語の授業がなくなったことは事実であるが、それも朝鮮語を弾圧する趣旨などではなく、公用語である日本語がなかなか普及しなかったこと、また国際情勢的にも余裕がなくなってきたこと、そして学校を一歩出れば朝鮮語の世界だったので不要だと判断したことなど、さまざまな事情があったと思われる。
学校で朝鮮語を話すと罰せられたという「民族弾圧」のエピソードについては、要するに、日常会話は朝鮮語であるから、学校の中だけは日本語を話せという趣旨のものだったのだろう。それは今日の朝鮮学校で、日本語が(日本語の授業以外で)禁止されている趣旨と、さほど変わらないのである

ところで(ニ)の人が朝鮮語を話せなくなった理由は何かというと、それは皇民化政策(朝鮮語弾圧)のせいではなく、単に出稼ぎ等で日本にやってきた親が朝鮮語を教えなかったからである。(日系外国人で日本語を話せない人がいるのと同じ
たったこれだけの話が、(イ)(ニ)(ホ)のような嘘話となって教育されていたのが筆者の世代なのである。 (→「朝鮮半島をめぐる歴史問題」とはなにか) (→「植民地支配」をめぐる2つの世界観

最後に、余談的になるが、当時筆者が、朝鮮語が禁止・弾圧されていたかのような誤解をした原因としては、『最後の授業』というフランスのプロパガンダ小説が学校の教科書に採用されていたことも大いに影響したと思う。
『最後の授業』は、プロイセンが侵攻してきて、現地語であるフランス語が奪われたかのような筋書きとなっており、それが筆者の中で皇民化政策(朝鮮語禁止)と重なってしまったためである。
しかし小説の舞台であるアルザス地方は、じつはドイツ語が母語だったのであり、つまりあの小説は、ウェストファリア条約によってフランス領となっていたアルザス地方の公用語であるフランス語(非母語)の授業が、普仏戦争でフランスが敗北したことにより、なくなったという話にすぎなかったのである。

(終)

追記

ところで朝鮮語が弾圧されていたというエピソードについては、最近でも朝鮮語の辞書の編纂が弾圧されたという筋書きの韓国映画(『マルモイ』)が公開されているようである。 しかしここまで本稿を読んできた人は疑問をもつのではないだろうか。総督府は朝鮮語を教えていたはずなのに、なぜ朝鮮語の辞書を弾圧していたという話があるのか?と。

辞書の編纂を弾圧した事例があったことはおそらく【事実】である。しかしそれは独立運動を行っていた人たちのことであって、つまり独立運動家の取り締まりの中で、彼らが関わっていた辞書が(付随的に)取り締まられただけである。にもかかわらずこの話が顛倒して「朝鮮語辞書を編纂しただけで弾圧された」という話にすり替わった、というのが筆者の見立てである。

筆者がそう思う理由は、じつは同じ構造の嘘話が「創氏改名」にもあるからである。すなわち独立運動家が取り締まられたという話が「創氏改名しないだけで逮捕された」という話にすりかわって1960年代から長らく流布されてきたからである。(→梶山季之『族譜』の間違い(嘘)について

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*1) この糾弾のイメージとしては辛淑玉氏が適当である。この動画は皇民化政策ではなくいわゆる「強制連行」(在日の来歴)についての発言であるが、これが単なる「戦時徴用」(あるいは出稼ぎ)のことだとは、とても思えないだろう。また1999年『ここが変だよ日本人』という番組で「創氏改名」について語るリュウ・ヒジュン氏や、2010年の崔洋一監督の「剣幕」もその典型である。 このような「剣幕」で日本人が話を聞かされた場合、「植民地支配」の時代に、あたかも朝鮮人が過酷な民族弾圧をうけていたかのように錯覚しないだろうか? この剣幕と歴史的事実、すなわち皇民化政策が併合末期の5年程度のことで、朝鮮語や民族名が禁止も廃止もされていないなかったという事実は、まったく整合しないが、学校教育やこうした朝鮮人の言い分(剣幕)は整合しているので、そちらの方を真に受けてしまい、結果、「植民地支配」を誤解してしまうという事態が生じていた。
*2) (ニ)の記述について、よく考えてみると、帰国のために朝鮮語が必要だと書いているのだから、本国では朝鮮語が不自由なく話されていることを認識していることがわかる。つまりこれを書いている本人が、「皇民化政策のせいで在日は朝鮮語が話せなくなった」というのが嘘であることに気づいていないのである。
*3) 1988年当時の筆者は、戦後30年以上が経って本国ではだいぶ朝鮮語を取り戻せたのだという解釈でとりあえず辻褄をあわせていたと思う。その後は、何かがどうやら違うようだとは気がついたが、深く追求することなく(整合性が取れないまま)棚上げしていたように思う。
*4) しばしば誤解されることだが、併合当時の朝鮮はまだ「国民国家」ではなかったので、当時の一般民衆に今日のような「朝鮮人」という自意識はなかった。また言葉も一般レベルでは標準化されていなかったので、つまり今日的な意味での朝鮮語というものもなかった
 じつは国民とか民族という自意識が民衆の間に生まれたのは、世界史的にも19世紀になってからのことであり、「日本人」についても明治の近代的歴史教育によってはじめて生まれたものである。なぜなら国民とは、歴史が編纂され、民衆がそれを「われわれの歴史」と意識するようになってはじめて生まれる意識だからである。ゆえに朝鮮半島でも一般民衆に朝鮮人という民族単位が自覚されたのは、日本が併合し、朝鮮半島の歴史を編纂して、それを普通教育で教えてからのことである。 (国民の成立について詳しく知りたい人は、拙稿『想像の共同体』―B・アンダーソンの国民原理、 拙稿『国民とは何か』―誤解されているE・ルナンの国民概念を参照してください)
 よって大日本帝国が、朝鮮という国民国家、つまり今日的な意味での朝鮮民族の国、近代的自我をもつ人々の国を併合し、言葉や文化を奪ったというイメージは、錯覚である。そうではなく、逆に、一般民衆に朝鮮人という自意識を与えたのが日本の普通教育だったのである。
*5) 多くの海外文献が日本語に翻訳されていたので、当時日本語を学ぶことは世界を知ることでもあった。

〔参考文献〕
『在日・強制連行の神話』 鄭大均 2004年