『はだしのゲン』にみる朝鮮人強制連行

日本人と朝鮮人は同胞(味方)であり、一緒に太平洋戦争を戦っていた――これが今日の正しい歴史認識である。

しかし1980年代に筆者が受けた教育は、日本は朝鮮半島を「植民地支配」し、朝鮮人を「強制連行」したというものだった。 ゆえに筆者は、日本人にとって朝鮮人とは、いわば欧米の「植民地支配」における奴隷のような存在であると思いこんでいて、同胞(味方)として一緒に戦争をしていたなどとはまったく想像もしていなかった。 (→「植民地支配」をめぐる2つの世界観

(読者のなかには、そんな誤解をしていたのはあなただけだと思う人もいるかもしれないが、そうではない。例えばつかこうへいも同じような誤解をしていたことがわかっている→詳しくは次頁つかこうへいが描いた「強制連行」

日本は朝鮮人を「強制連行」して強制労働させていた ―― かつて筆者をそのように誤解させた要因の一つが、当時、反戦教育漫画として多くの学校の図書室に置かれていた中沢啓治作『はだしのゲン』(1973-1985)である。

以下のページを、1980年代、日本軍とは「南京大虐殺」を起こすような存在であり、朝鮮人は日本に「植民地支配」されている奴隷階級だと思いこんでいる中学生を想像しながら見てほしい。

次の画像は『はだしのゲン』第一巻に出てくる朝鮮人の徴用の場面である。(クリックで拡大)

朝鮮人強制連行

(ア)朝鮮人が銃剣を突きつけられて「強制連行」される場面である。

これを上で説明したような間違った先入観で読むと、あたかも奴隷が強制労働に連れて行かれるような場面にみえないだろうか?(赤と青の色枠の意味は後述

 
もうひとつ例をあげよう。ページ番号(p.72)にも注目してほしい。つまり上の場面(強制連行)の次の見開きにでてくる描写である。

朝鮮人強制労働

(イ)これは朝鮮人が「強制労働」させられている場面である。

台詞を読むと、「強制連行」されてきた朝鮮人と中国人がまるで死ぬまで奴隷労働させられるかのような描写になっている。 これではまるでどちらも日本による「戦争被害者」であるかのように見えないだろうか? このような説明をみたときに、朝鮮人が日本人の同胞であったと思えるだろうか?

 

筆者がこの漫画を読んだのは13歳頃(1980年代前半)だったと思うが、これらの描写から、日本人にとって朝鮮人は奴隷でもでもなく、同胞(味方)であり、(ア)(イ)日本人にも課されていた徴用・労務供出と同じ性質のものと見抜ける可能性はほとんどなかった。(→「強制連行」の正体は、兵役の代わりに課せられた労働義務にすぎない

このように『はだしのゲン』は筆者にとって、朝鮮人=非同胞(奴隷)≠同胞(味方)という誤解を強化した要素の一つだった。

(補足すると、この絵のイメージが強制連行(強制労働)についての錯覚を招いている。朝鮮人が炭鉱労働していたのは事実であるが、それはこの絵のように、奴隷として働かされていたのではなく、国民の義務としての戦時徴用、あるいは単なる出稼ぎ労働者として働いていたのである。朝鮮人は日本人と同じように労働していたのである。絵のイメージに騙されてはいけない

『はだしのゲン』の問題は矛盾する(両立しない)2つの世界観を混ぜて描いているところにある。

すなわち赤枠が朝鮮人=奴隷(非同胞)という世界観(世界観A)、青枠が朝鮮人=同胞という世界観(世界観B)である(→「植民地支配」をめぐる2つの世界観)。つまり「非同胞であり同胞」という絶対矛盾をこの漫画は描いているのである。

それゆえこの漫画を素直に読むと、理解できない場面や誤解する場面がでてくるのである。

実際、世界観A(朝鮮人=植民地支配されている奴隷階層)を信じていて、赤枠のコマの方を基調に読んでいた筆者は、青枠のような描写(*1)が理解できなかった。今思えば本当に間抜けな話なのだが、奴隷扱いであるはずの朝鮮人(親切な朴さん)が、なぜ日本人と対等な感じで会話できているのか、なぜ日本人に親切なのか、わからなかった。(不思議だと思って見ていた)

そして、強制連行され、強制労働させられて虐げられているにもかかわらず、朴さんは日本人であるゲンたちにも優しい、真の人格者であるという方向で話の辻褄を合わせて読んでいた。

しかし、今では明らかなように、朴さんが対等で優しかったのは日本人と朝鮮人が「同胞」だったからであり、後になって朴さんがグレたのも「人格者」ではなかったからである。 (つまり青枠が正しい描写で、赤枠はプロパガンダだったのである)*2

このように正しい歴史観(世界観B)から眺めればすべての辻褄が合うが、当時の筆者にはその発想すらなかった。*3

「植民地支配」「強制連行」という言葉によって、朝鮮人は日本人に隷属させられていたという世界観の中にいた筆者は(→前頁参照)、このようなマンガなども通じて、朝鮮人=奴隷(非同胞)という方向の歴史認識(世界観A)を強化していくことになる。

しかし当時、朝鮮人=奴隷(世界観A)という誤解をしていたのは筆者だけではない。

『蒲田行進曲』などで有名な劇作家・つかこうへいも、同じ誤解をしていた一人なのである。 次にそれを見てみよう。

*1) 文脈が分かりにくいかも知れないが、これは朝鮮人の朴さんが中岡を元気づけようと米を差し入れている場面である。(下のコマに米が食べられると喜んでいるゲンたちの台詞がある)
*2) 図アをよく見ると、朝鮮人が日本の兵隊となっているという意味の台詞がある(世界観B)。今の歴史知識があればその意味を理解できるが、しかし朝鮮人が非同胞(世界観A)であると思いこんでいた当時の筆者にはなぜ朝鮮人が日本の兵隊になっているのか意味がわからなかった(たとえばつかこうへいも朝鮮人日本兵について混乱した理解をしている→「真実」問題)。 この「意味のわからなさ」と、当時の筆者にとっては図イの強制労働場面の方が印象が断然強かったこともあり、結局筆者は、朝鮮人は(兵隊すなわち日本人の同胞ではなく)強制労働の人員(非同胞)として存在していたという方向で解釈していた(世界観A)。 なお縛り首の描写については、当時は脱走か何かに対する懲罰だと解釈していたが、今見るともはや何が何だかかわからない。(苦笑)
*3) なぜなら当時は教科書もメディアも世界観Aだけが喧伝され、筆者もその激しい糾弾的な論調に完全に飲みこまれていたために、日本人と朝鮮人が同胞として(少し極端に言えば)一緒に仲良く協力して戦争していたなどという世界観Bなど、まったく想像もできないような心理状態に置かれていたからである。(いや当時どころか今日ですら教科書や朝日新聞だけを見ていればBを想像することは難しいだろう)
もちろん当時でも世界観Aに対する反論もあった。しかし「右翼妄言」としてまったく相手にされていなかった。それくらいAが圧倒的な時代だったのである。(→当時の空気については1990年代は「自虐史観」が主流(小林よしのりの回想)辛淑玉氏の発言等を参照) そしてこうした歴史観が転換しはじめるのが、1990年代後半~2000年代前半という時代であり、それを象徴する著作が『戦争論』(1998)であり『マンガ嫌韓流』(2005)なのである。

〔参考文献〕
『はだしのゲン』 中沢啓治 1973-1985年