つかこうへいが描いた「従軍慰安婦」〔慰安婦問題〕

『娘に語る祖国 「満州駅伝」―従軍慰安婦編』(1997年)は劇作家つかこうへいが書いた朝鮮人慰安婦の物語である。

この作品(以下『慰安婦編』とよぶ)は、日韓の歴史問題を考える上できわめて重要である。
なぜなら本作品には、つかこうへいが1997年当時どのように歴史を「誤解」していたかがそのまま描かれており、つまり当時の日本社会にどのような誤解が定着していたかを一流の劇作家の筆力によって保存した歴史的資料と言えるからである。

しかしこのような貴重な資料であるにも拘わらず、右派も左派も本作品を誤読している人が多い。例えば次のような誤読がその典型である。(――この読み方はいずれも正しくない。半分は正しいが半分は間違っている)

右派:「つかこうへいは従軍慰安婦の嘘を見抜いていた」 ∵冒頭に作者が誤解していたと告白している(→つか1後半
左派:「従軍慰安婦を真実だと思っていた」 ∵鬼塚の台詞などから(→つか3の(3)

そこで以下、これのどこが誤読なのかを含め、当時、慰安婦についてつかこうへいとおなじ誤解(後述)をしていた筆者(私)がその経験を活かして、この作品の正しい読み方を説明してみたいと思う。

ところで本書の文面からも伝わると思うが、念のため注意しておくと、つかこうへいは党派性のあるような人ではない。つかは一般の日本人(私)と同じようにごく素朴に以下のように誤解していたのである。(つまり朝鮮側のプロパガンダとしてこの作品を発表したのではない)

――そのことを踏まえてもらった上で、ではまず作品の全体構造から説明していこう。

『慰安婦編』は、作者が戦争経験者に取材をしている実話部分(インタビューパート)と、創作部分(フィクションパート)の2つの場面からなり、それらが交互に現れるという構成になっている。 ここではそれぞれ Iパート、Fパート と呼ぶことにする。

本書で重要なのはIパートよりもFパートである。なぜなら作者の「従軍慰安婦」についての最終的な理解があらわれているのがFパートだからである。

そして結論からいうと、Fパートは、日本軍が朝鮮人女性を20万人規模で拉致誘拐などして性的搾取(*1)していたという、いわゆる朝日新聞的(*2)な「従軍慰安婦」の設定で書かれている。 つまり日本軍が日常的すなわち合法的に「植民地」の女性を捕まえてきて性的搾取していた(=国家犯罪)という世界観で描かれている。 (日常的・合法的とは、そうした行為が犯罪とみなされない、自然視される社会状態だったという意味である)

本稿をはじめて読む人は、この「従軍慰安婦」がどのような存在なのか、ここで立ち止まってよくよく反芻してみてください。
この「従軍慰安婦」は金銭の授受を伴わない正真正銘の「性奴隷」です。

以下、この「従軍慰安婦」を「20万人説」と呼ぶことにしよう。(※20万人説については必ず前頁を一読ください
Fパートが「20万人説」で描かれていると判断できる理由について、ポイントを箇条書きにすると次のようになる。

【A】
○軍が誘拐などして女を集めている(*3)。しかもそれが犯罪として取り締まられている様子がない。(つまり合法)
○慰安婦が脱走すると捕まえるのは軍人 (つまり管理は日本軍)
○こうした「従軍慰安婦」を大日本帝国の全体の行為だととれる発言がある (鬼塚の発言/後述)
○登場するのは朝鮮人慰安婦のみ
金品の授受はない (「札」のやりとりがあるのみ)
 (→本文で確認したい人はつか3で抜粋引用してあります)

作者が慰安婦についてこのような理解(誤解)をいつごろ得たかについては、1990年刊行の『娘に語る祖国』を書いた頃から慰安婦の物語をいつか書きたいと思っていたという回想が挿話されているところからもわかる。(54頁)

つかこうへいは1980年代から90年代にかけて、すなわち左派史観が全盛だった時期に、マスメディア等で「従軍慰安婦」を知り、そこから得たイメージがこの「20万人説」だったのである。(→つか1前半)

つかが20万人説を信じていたことは、『慰安婦編』の取材のやり方からも見て取れる。
彼は「従軍慰安婦」が「事件」ではなく日本軍全体の行為だと思いこんでいたからこそ、取材する慰安所の管理者や利用者について特別な選定は行っていない。(事件と認識していたら、事件周辺にいた人を選んで取材するはず。それをしていない)

そしてまた20万人説を信じていたからこそ、次のような、事前イメージとは異なる想定外の事実【B】に接してとまどったという作者の告白が本書冒頭やIパートに出てくるのである。

【B】
(1)日本人慰安婦がいて驚いた。
・日本人の慰安婦もいたんですか
・また、慰安婦に日本人がいるという話にパパは内心驚いていました。(→つか2

(2)慰安婦と日本軍人の恋愛、金銭の授受があったことに驚いた。
・パパは立ち止まり腕組みをして眉間に皺を寄せながら、渋い顔をしていました。
「どうしたの、パパ」 「実はね、パパはいろんな人に取材をしたんだけど、従軍慰安婦の人たちは必ずしも悲惨じゃなかったんだ」 「えっ、悲惨じゃなかった?」 「そうなんだよ」 「兵隊と従軍慰安婦が恋に落ちたという話もあるんだよ」 「ほんとに?」 「ああ」 「そんな、全然違うじゃない」 おまえはほんとに信じられないというふうな感じでした。 「だから困っているんだよ、パパは……」
パパはいろんな兵隊さんと話して、いくつかの、今まで持っていた知識とはまったく違うことを知りました
一つ目は… (以下、慰安婦は犯されてるだけの奴隷だと思っていたが違った、金をもらっていると聞いて驚いた、慰安婦と軍人が人間的な付き合いがあることを知って驚いた等々の話が続く→つか1後半

なぜここで作者が【B】という取材結果にとまどったのかわかるだろうか。それは世界観が矛盾しているからである。

このときの作者は、日本軍が多くの女性を捕まえてきて性奴隷にしていた(そしてそれが合法)という世界観を信じこんでいる(→【A】)。

そのような「従軍慰安婦」は、「植民地」の朝鮮人の女性に限られる。なぜなら日本人が同胞である日本人女性をつかまえて「性奴隷」にするはずがないからである。 (→朝鮮半島を「紀伊半島」に置き換えるとわかる「従軍慰安婦」問題のおかしさ

そしてそのようにして連れてこられた「犠牲者」である朝鮮人慰安婦と日本兵との間に金銭の授受があったり、恋愛関係があったりするはずがない。

じつは本作品執筆時のつかこうへいは、朝鮮人は「植民地支配」されている奴隷階層(非同胞)であり、いわば「奴隷の女」だからこそそんな非道いことができた――という世界観のなかにいたのである。(→つかこうへいの歴史観

――この「20万人説」の世界観を、以下、世界観Aと呼ぶことにしよう。

しかし史実は世界観Bであるから、すなわち朝鮮人は日本人の同胞であり、慰安婦は単なる遊女であるから、取材をすれば当然、日本人の慰安婦もでてくるし(→【B】1)、朝鮮人慰安婦と日本兵の普通の恋愛関係(→【B】2)もでてくる。

こうして作者が信じている世界観Aと実際の取材結果【B】との矛盾にとまどった作者は、整合性をどのようにつけたらいいのか考え込んでしまう、という場面からこの作品ははじまるのである。(→つか1後半)

さて、ところが、不思議なことに、つかこうへいは従軍慰安婦は【B】すなわち単なる遊女にすぎないという「真実」にここまで近づいておきながら、Fパートの舞台として用意したのは「20万人説」に沿った設定【A】なのである。なぜか。

ここが本書の重要なところであり、その理由については後述するが、まずはとりあえず本書の世界観はAの線で書かれているということを抑えてほしい。 (※ABの中身について詳しくは→「植民地支配」をめぐる2つの世界観

ところで、ここで余談的に【B】日本人慰安婦について指摘しておきたいことがある。

読者の中に、左派が、「女性の人権」を強調しながら、日本人慰安婦を蚊帳の外に置いているという事実に不思議を感じている人はいないだろうか。 そしてそれに対して、左派の理屈、たとえば、日本が外国人に対してやったことについてまず謝るべきだ。日本人慰安婦も大事だがそれは別途の問題だ、などという一見もっともな後付の理屈で誤魔化されている人はいないだろうか。

しかし日本人慰安婦が扱われなかった本当の理由は、慰安婦問題の発端がこの「20万人説」だったからである。 上でも述べたように、20万人説が念頭にあれば日本人慰安婦という発想はでてこない。日本軍が日本人女性を捕まえて「従軍慰安婦」にするはずがないからである。

つかこうへいも、そのようにう思いこんでいたからこそ、日本人慰安婦がいると聞いて驚いているのである。だから日本人慰安婦は「慰安婦問題」の蚊帳の外(埒外)だったのである。

元責任者「はい。慰安所の女達は、台湾人の業者が集めてくれるから、ということだったんですが、その業者は、どこから見つけてきたんだか、日本人の芸者を十人ほど連れてきました。」
作者「芸者を」 (また、慰安婦に日本人がいるという話にパパは内心驚いていました)(→つか2参照)

女性の人権と言いながら日本人は含まれない――この不整合こそ、今日の左派がいう「女性の人権」が、世界観Aという嘘から軌道修正するため出してきた後付の理屈であることのなによりの証拠なのである。
(当初の「従軍慰安婦」問題とはあくまでも朝鮮人女性の拉致誘拐・性的搾取(≠売春)という日本の「国家犯罪のことだったのであり、「女性の人権」問題などではなかったのである)

話をもどすと、つかこうへいはIパートで「従軍慰安婦」の真実に気づいているような書き方をしつつ、整合性に悩みながらも、肝心のFパートでは「20万人説」(世界観A)で描いているということを説明した。

本作品のFパートは、世界観Aから予期されるような 過酷な運命に翻弄される慰安婦 的な話(→つか1前半)は、控えめにしか出てこず、全体的にはかなりマイルドな雰囲気でストーリーが展開する。 そこには恋愛要素も入り、ゆえに一見すると世界観B的な話に錯覚しなくもない。

しかし話をよくよく吟味してみると、物語の設定として用意された舞台はやはり世界観Aなのである。(→【A】)

『慰安婦編』はこのようにABがねじれながら登場するために、本作品を世界観Bの話と誤認した産経新聞「みぬいていた」【B】と誤読し、左派は「つかこうへいも従軍慰安婦を真実だと思っていた」【A】という正反対の主張が出てくるのである。

この場合はどちらかというと左派の読解の方が正しいのだが、しかし単純にAだという理解も誤りである。なぜなら作者は「誤解していた」とIパートで告白しているからである。

ではなぜ本作品には矛盾したABが同居しているのか、なぜ同居できているのか、そしてABはどのような関係にあるのか。

『慰安婦編』には作者がはっきりと自覚できていない前提が2つある。それは(1)慰安婦拉致誘拐が合法である世界観Aと、非合法である世界観Bは両立できないということ。そして(2)作者は世界観Aを歴史的事実だと思い込んでいるということである。

とくに(2)の世界観A(20万人説/朝鮮人=非同胞=一種の奴隷階層)がドグマとなっているところが決定的である。

(注:本稿では便宜上、ABという二つの世界観に整理して説明しているが、当時のつかこうへいには世界観Aしか頭にはない。 日本人と朝鮮人が同胞としてそこそこ仲良く、協力しながら一緒に戦争をしていたという世界観B自体が、つかこうへいにとっては発想の範囲外なのである。Aだと思いこんでいる、Aがドグマになっているとはそういう意味である)

そうして作者の頭の中ではAがドグマとなっているために、【B】のような事実も、どのように考えたら世界観Aの中で整合性が取れるのかという方向でしか思考できない。このときのつかこうへいは、世界観をABと転換する発想、つまり朝鮮人は同胞で、慰安婦には朝鮮人日本人の両方がいて、どちらもまったく同じレベルの、単なる遊女にすぎない、という発想自体を完全に欠いていたのである。(→なかなか解けない「世界観A」

ゆえに彼は、「20万人説」の世界観Aを基調としながら、取材等で知り得た世界観Bの中の要素(外形)を無理やりそこに押し込むことでなんとかFパートを成立させようとしているのである。

たとえば慰安婦と兵隊の恋愛話(要素B)について、反戦平和主義者従軍慰安婦制度に批判的という設定の兵隊A(池田)を、慰安婦の恋愛相手としてわざわざ用意しているところなどがその一例である(→つか3の(1))。 誘拐されて閉じ込められている慰安婦A(世界観A)との間に恋愛話(外形B)を押し込むためには、普通のイノセントな兵隊Bでは合わない。そこで、そうした一定の思想性をもつ人物(兵隊A)を用意することによって話を成立させているのである。*4

このABのねじれ構造がより顕著にあらわれるのは、慰安婦の集め方が誘拐(非合法)を匂わす描写になっている箇所である。 鬼塚の台詞からもわかるように、「従軍慰安婦」は大日本帝国が認めていた制度であるから、朝鮮人慰安婦の拉致誘拐は犯罪ではない(合法である)。ゆえに作中にはそれを取締っている気配すら出てこないのである(世界観A)。にもかかわらず慰安婦を連れてくる場面は公然とではなく、人の目がないところで誘拐するかのような描写になっているのである(要素B)。

鬼塚「(前略)嫌がる女を無理矢理連行し、抵抗したら傷つけ殺し、病気持ちにさせておきながら変な情けをかけた日には、大日本帝国は根底から揺らぐ。この戦争が終わったあと、〝あれは狂っていたんだ、だからあのことは仕方なかった〟そう言い切らねばならんのだ。(後略)」【A】

スンジャは、昭和3年10月4日、朝鮮・慶洞の生まれで、十五歳の時、友達と遊んでいたら、日本人とその手下らしき朝鮮人が近づいて来て、朝鮮人の方が『君のお父さんから娘を連れてくるように言われた』と話しかけてきたので、父の知り合いかと思ってついていったら、『下宿屋』と書かれたところに連れていかれ、その部屋に鍵をかけて入れられ初めて騙されたと分かったといいます。【B】

つまりこうした描写は、作者は自覚していないが、慰安婦の拉致誘拐が非合法であるという世界観Bの要素(外形)だけをもってきて、拉致誘拐が合法である世界観Aの中に置いているのである。 (※削除理由は→*6)

上の鬼塚の台詞からもわかるように、「従軍慰安婦」は大日本帝国が認めている制度なので、朝鮮人を「従軍慰安婦」にすることは犯罪ではない(合法である)。その証拠に作中にはそれを取締っている気配すら出てこない。(世界観A

本作執筆中の作者は、「つか1」で述べている内容からもわかるように、従軍慰安婦というものにどことなく違和感を覚えつつも、頭の中では基本線はずっと世界観Aのままなのである。作中にはB外形をもつ場面がときおり登場するが(cf.→*6)、書いている作者自身、それが意味するところをわかっていない。 (世界観Aの中に外形Bを置いているという構造に作者本人が気づいていない)

こうして、ABという矛盾した世界観の統合を試みているということに作者自身が気づかないまま書いているというのが本作品の大きな特徴なのである。*5

よって冒頭でも述べた通り、本作品をBと誤認した右派も、単純にAだと主張する左派も、理解が不完全である。この作品は、作者が世界観をAB転換できないまま、A的世界観の中にB的要素(外形)を織り込んだ苦心の作、という評価がもっとも適当なのである。*6

「従軍慰安婦」の論調が圧倒的だった1997年の時点でこのような作品――「従軍慰安婦」の世界観を、要素Bという歪んだ形ではあるが、一部覆すような作品――を発表できたのは、つかこうへいが在日であることを差し引いても、かなり勇気の要ることであったと思う。それができたのは彼が事実に素朴に真摯に向きあえる、正直な人だったからだろう。

しかしそんなつかこうへいのような人、予断を排して事実を虚心坦懐に見つめられる人、しかも身内に在日や本国人がいて、その実情をよく知っている人、さらに有名人で様々なB的情報(Iパート)に接することができたような立場にいる人でさえ、最終的にA的な「従軍慰安婦」の世界観から抜けられなかったという事実が示唆しているものは重要である。

すなわち当時の日本社会では、それくらい世界観Aがドグマ化していたということなのである。いくら取材をしても従軍慰安婦Aの世界観から発想の転換ができないほどに、世界観Bが発想の範囲外になってしまうほどに、ドグマAが強固に日本社会とつか本人に絡みついていたということなのである。*7

この作品が意義深いのは、単に有名劇作家が従軍慰安婦Aの物語を書いていたという事実にとどまらず、当時ドグマと化していたAが、いかに圧倒的で逃れがれがたいものであったかということが、一流の劇作家の筆力によって保存された歴史的資料だからなのである。

※本稿はかなり駆け足で解説した。字数をかけた説明を読みたい方は下の(関連拙稿・長文)をごらんください。

(了)

*1) 本作品に描かれている「従軍慰安婦」は(本文でも説明したように)金品を対価にした性供出=売春ではなく、正真正銘の「性奴隷」であることに注意してほしい。 ところで今日、左派勢力が「借金をカタに性産業に従事させることも性奴隷である(そうみなせる)」という論法を用いることがある。私はそれはその通りだと思うが、しかしそうした女性が存在するのは当時の(いや現代にすらある)一般的な社会問題であって、(取り締まり等が不十分などの点があったにせよ)日本の統治や日本軍の行いに直接の原因があったわけではない(故意犯ではない)。 この「みなし性奴隷」論法の問題は、「性奴隷であることには変わりない」という言い方をすることによって、慰安婦問題の経緯についてよく知らない人たちに、あたかも最初から「みなし性奴隷」を問題にしてきたかのように思わせるというところにある。すなわち、もともとは社会問題にすぎない売春婦の問題を、従軍慰安婦という正真正銘の性奴隷(=国家犯罪、故意犯)という荒唐無稽な嘘にして喧伝し、日本人に贖罪意識を抱かせ、それを政治利用してきたという事実から目を逸らさせるところに問題があるのである。(→「朝鮮半島をめぐる歴史問題」とはなにか
*2) ここで「朝日新聞的」という表現を使う理由は、1992年に朝日新聞が「軍関与の資料」という記事を出した頃から、なぜか「女子挺身隊」と混同されていき、あたかも20万人規模の「従軍慰安婦」が存在したかのような印象へと地滑り的に発展したためである。なお公平に言うと、「従軍慰安婦」という虚構が生まれたのは必ずしも朝日新聞だけのせいではないのだが、では今日なぜ朝日が主犯であるかのように言われているかというと、この問題の発端とされる植村隆氏が朝日新聞の記者だったという基礎的事情もあるのだが、産経読売などがその後軌道修正したのに対し、最後まで撤回しなかった代表格が朝日新聞だったからである。こうした慰安婦問題が生じた当時の様子については拙稿慰安婦問題がどのように始まったかでも説明しているので適宜参照してほしい。
*3) 当時メディア等で流れていた「従軍慰安婦」は、軍が直接拉致誘拐して女を集めるというものだったが、本作品では間接的な関与になっている。すなわち集めるのは軍ではなく女衒で、しかもそこに朝鮮人の介在が描かれるという形になっている。(これは作者が取材を通じて新たに知った事実Bを世界観Aの中に織り込んだものと考えられる)
*4) もし慰安婦Bであれば、時代劇で遊女を身請けする場面にでてくるような、普通の恋愛感情をもつ兵隊Bを出しておけばよいはずである。しかし拉致され閉じ込められているている慰安婦A(スンジャにとって日本軍は「敵国」の軍隊→つかの世界観)が心を開くような展開にするためには、単に恋愛感情をもつ兵隊Bではなく、「従軍慰安婦」という非人道的な制度に反対の反戦平和主義者(つまり反・日本軍)という設定の兵隊A(池田)が必要だったのである。
*5) このような辻褄合わせに走ってしまう心理は「真実」問題で説明している。
*6) 戦時中においても反戦平和主義者がいたことは知られており(要素B)、また女衒に朝鮮人がいたことは取材の過程で知り得ているはずである(要素B)。 しかし作者はそうした要素Bを作品Bとしてではなく、世界観A(ドグマ)にあうように整形して(→兵隊Aや慰安婦誘拐シーン)作品Aとして仕上げている。 このスンジャの誘拐場面について、本文(削除済み)では、朝鮮人女性拉致・誘拐の非合法性があらわれている場面(世界観Aの中の要素B)と解釈して、世界観ABのねじれの説明としました。しかしよく考えるとこの場面は、単に、「公然と強制連行」するよりも誘拐する方が効率的であるという意味の描写にすぎないと解釈することもできます(世界観Aの要素A=拉致誘拐は合法という世界観の中の一コマ)。そう考えると、この箇所は非合法性の現れ(要素B)とは必ずしも言えない。よってABのねじれの例としては不適当でした、ゆえに削除しました。もっとも、ABねじれが現われる場面は他にもあります。たとえば感想編で触れた駅伝の場面もそのひとつです。駅伝の場面は、拉致誘拐の加害者と被害者(世界観A)ではありえないはずの外形=和気藹々の駅伝大会(要素B)が、無理やりに辻褄をあわせながら「嘘のように」登場します。ねじれの例としてはこちらの方が適切だったかもしれません。―― 本作品は注意深く読むと、このようにねじれた描写がいくつも登場します。なお時代が下るにつれて世界観Aは徐々に後退し、世界観Bの色合いが濃くなっていきますが、それはつかこうへいが直接に体験している戦後の世界(B)へと接続されていくからです。
*7) 抜けられない心理構造についてはなかなか解けない「世界観A」などで説明しています。

〔参考文献〕
『娘に語る祖国 「満州駅伝」―従軍慰安婦編』 つかこうへい 1997年  ◆Amazon