創氏改名・民団による説明A

創氏改名はながらく日本名を強制する政策だと誤解されてきた。

ここでは民団が創氏改名をどのように説明してきたのか、それを記事で検証してみたい。

彼らの説明は正しいものだったのだろうか。 それとも創氏改名の「誤解」を助長してきたのは彼ら自身だったのだろうか。

※以下の抜粋には、民団直接の見解だけでなく、記事内に登場する人物の発言も含まれています。気になる人はリンク先で確認を。
※2018年5月現在、創氏改名に関するこれらの記事は、民団のサイトから消えているようです(一時的な現象?)。リンク切れしているものについては魚拓や画像によって復旧させてあります。 (※2020.12URLは異なりますが記事が復活しつつあるようです(?))

【1】 麻生議員は去る5月31日東京大学における講演で、日本が韓国を武力で植民地化した時代に、韓国人の姓を日本式の「氏」に強制的に改めさせた「創氏改名」について、「当時、朝鮮の人たちが名字をくれと言ったのが始まりだ」と発言した。さらに、「ハングルは日本人が教えた」とも述べた。韓日間の不幸な歴史事実を曲げて伝えるこの時代逆行的な妄言に対し、私たち在日韓国人は強い憤りと失望を禁じえない。1939年に当時の朝鮮総督府が「創氏改名令」を発布し、翌年施行したのは否定できない歴史的事実である。
2003.6.2 http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=0&newsid=1393 リンク切れ魚拓

【2】 いわゆる「創氏改名」は日本の皇民化政策の一環として施行されたことは、韓国人なら誰でも知っている事実だ。史実を正確に把握し、歴史に整合する事実を発言してこそ両国のために なる。両国の親善友好に有害な発言だ。多いに反省してもらいたい。
(中略)
 麻生議員の発言に関して 「言語を奪い、民族的な尊厳を奪い、自民族を否定させる歴史観を植え付け、その結果同化を形づけたものが『創氏改名』であることは、紛れもない事実」として抗議し、議員辞職と韓国はじめ在日韓国人への謝罪を求めた。
(中略)
  創氏改名は、韓半島が日本の植民地化にあった1939年、朝鮮総督府が朝鮮民事令改正で公布、翌年2月に施行した「皇民化政策」の一環として行われた。先祖から伝わる朝鮮式の姓から日本式の名前に改めさせた日帝支配の中でも悪名高い政策。姓に誇りを持つ人たちは自殺して抗議する人たちも少なくなかったと言う。
(中略)また、「ハングルは日本人が教えた」などと述べ、植民地統治がハングル普及に貢献したなどと発言した。
2003.6.4 http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=0&newsid=1412 リンク切れ魚拓

【3】 本名消された通信簿 幼い心に創氏改名強要 ―――
掲載の写真は友人の李茂炯氏が「こんなものがあるが役にたつだろうか」と提供してくれた。東京市立稲田尋常高等小学校「昭和十五年度」、第三学年一組李茂炯の、個人成績表で、一見なんの変哲もないただの通信簿である。
 しかし「李茂炯」という朝鮮名が2本の線で消され、その右側に「武田茂」とあるのをみると日帝支配下の創氏改名の史資料になってくる。(中略)

私の体験で補強すると、1940年、東京・渋谷区立臨川小学校の3年の2学期が始まる当日だったと思うが、担任の光成先生が私を教壇に立たせ、級友に「姜(きょう)は今日(きょう)から神農にかわったと「神農徳相」と板書した。
  親族会の意向か、姜氏は神農と創氏する者が多かったが、どうせなら神農一郎とかに変えてくれたらよかったのに名はそのままにしたので、以後私は珍無類とも いうべきこの姓名のおかげで名前負けするとか、出身はいずこなりやなど答えに窮する質問をたびたびうけることになる。

 西宮在住の徐元洙氏も同じ体験があるようである。60年前の戸籍謄本「氏ヲ達川ト届出 昭和十五年七月拾弐日受附 昭和拾六年壱月拾五日許可ニ因リ其ノ名元洙ヲ元一ト改名」。この文書を当時通っていた西宮市立商業学校に持参して担任の先生が教室で、全員に向かって「創氏改名」をこう披露したのを覚えている。

 「徐元洙(じょげんしゅ)は天皇陛下の一視同仁のおぼしめしで今日から達川元一なったんやで」(「改名記録、わが履歴書」『朝日新聞』2001年3月22日付)。なぜか姓は届出、名は許可という区分があったためである。在日同胞の多くが通名を名乗ることになった歴史的背景の一つである。
2005.06.29 http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=0&newsid=5103 リンク切れ魚拓) →通信簿について

【4】 続いて歴史学者の立場から京都大学の水野直樹教授が「日本の植民地支配の本質は、創氏改名などで同化させながら同時に差別するものであった」と告発。
2005.7.6 http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=0&newsid=5127 リンク切れ画像

【5】 麻生氏は自民党政調会長であった03年5月、「創氏改名」は「朝鮮人が『名字をくれ』と望んだのが始まり」と発言し、物議をかもしたことがある。
今さらおさらいするまでもなく、「創氏改名」の主眼は家族制度の日本化にあった。朝鮮人の祖先を一つにする同姓同本の一族意識は、時に「国家意識」に優先するものであり、国なき時代にあっては結束軸としていっそうの重みを持った。朝鮮総督府が当時唱えた「天皇中心の家庭建設」とは、「万世一系」は天皇家だけでなければならないという一点に尽きる。朝鮮人の祖先を天皇に置き換え、血統を混交させることで同姓同本の一族意識をみじん切りにし、朝鮮人を「天皇の赤子」として「細分割統治」しようとしたものだ。
2005.12.7 http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=0&newsid=5980 リンク切れ魚拓) 

【6】 脚本を手がける「族譜」は、「創氏改名」を推し進める京畿道道庁の役人、谷六郎と改名を拒み続ける水原郡の大地主・ 薛鎮永の葛藤を描く硬い内容。03年5月に自民党の麻生太郎代議士が、「朝鮮人が(日本名を)望んだ」と暴言を吐いたことがあると水を向けると、「圧力をかけて創氏改名を押し付けた側には、朝鮮人が日本の名前を名乗るのは嬉しいことだろうという不遜な態度に加えて、 日本人化させることで、戦争に駆り出す目的があった」と看破する。
2006.9.13 ジェームス三木 http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=0&newsid=7013 リンク切れ魚拓

【7】 金大中大統領が国会で演説した時、「自分の国の苗字があるのに、無理やり外国の苗字を使わされた国民の心の傷がわかるか」と創氏改名のことを指摘しながら(後略)
2006.12.6 加藤紘一 http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=0&newsid=7441 リンク切れ (画像

【8】 日本側は創氏改名を強制ではなかったと強調したいのだろうが、「内鮮一体」のスローガンのもと、現実には8割が「自発的に」応じざるを得ない状況をつくりだした。作家の梶山季之が『族譜』で告発したように、応じない場合は、子どもが学校でいじめられるなどの不利益をこうむり、それを苦にした一族の長が死をもって先祖に詫びる事態も一方で起きた。
2008.5.14 http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=0&newsid=9680 リンク切れ魚拓

【9】 1940年に大分県知事名で出した尋常小学校本科正教員免許状は本名「朴慶植」の上に赤い筆で2本の線を引き、その隣に「慶尚北道 青木慶雄」と書き記してある。
極めつけは1944年に日本大学高等師範部地理歴史科を卒業して取得した歴史と地理の中学校教諭2級普通免許状だ。表には創氏改名後の「青木慶雄」の名前。 裏面に「日本帝国臣民にあらざる者に対しては私立学校においてのみ有効とす」としてある。在日韓人歴史資料館では、「これは皇民化政策の下、日本人への同化を強要しながらも依然として民族差別政策をとっていた一端をあらわす」と、注釈を加えている。
  朴慶植氏と親しかった姜館長は、「日本の創氏改名の真の目的は差別を残すことだった。本名を禁じられた屈辱と怒りが朴さんの歴史学研究の出発点となった。麻生太郎氏(当時、自民党政調会長)の『創氏改名は朝鮮の人が名字をくれと言ったのが始まり』という言説がいかに嘘っぽいことか」と述べた。
2011.5.11 http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=0&newsid=14402 リンク切れ (画像

【10】 今年第3回のテーマは「映画で語る同化政策と創氏改名」。上映作品は植民地支配の末期、「内鮮一体」の美名の下、朝鮮総督府が実施した創氏改名に対して韓国の姓名を守ろうと立ち向かった一族の誇りと挫折を描いた映画「族譜」(梶山季之原作・林権澤監督、78年)と、解放前の国策映画「望楼の決死隊」(今井正監督、43年)。
 創氏改名は個人の帰属意識を日本の伝統的なイエ(家、戸籍上の戸)に向かわせ、天皇を頂点とする日本国家への忠誠心に結びつけていくのが目的。40年2月から6月までの間、戦争への動員と並行して行われた。だが、イエ(家)制度より宗族集団のつながりを重視する韓国では十分受けいれられなかった。このため組織的な強要が進められた。制度に対する批判は取り締まりの対象とされ一切許されなかった
映画は「創氏」拒否を貫き、投身自殺した薛鎮永の実話をもとにした。シンポジウム席上、歴史研究者で京都大学教員の水野直樹さんは、「映画は現在の歴史解釈からすれば一部、事実と異なるものもみられる。だが、創氏改名をめぐる真実の一端を語りかけていることも否定できない」と述べた。
2011.6.22 http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=0&newsid=14542 リンク切れ (画像

【11】 朝鮮半島が日本の植民地統治開放から70年近くたった今日に至っても、歴史認識や補償問題の認識の違いによって、韓日両国の間では様々な問題を抱えた状態となっています。このような問題は、政治家などの公人の発言に関わらず、植民地統治を正当化しようとする団体や、インターネット上では誹謗中傷する書込が後を絶ちません。
 今回、水野直樹先生にご講演していただく「創氏改名」は、1939年に大日本帝国朝鮮総督府が、朝鮮人への皇民化政策の一環として朝鮮民事令を改正し、固有の性(ママ)を奪い日本式の名前「氏」に変えさせた制度です。  この「創氏改名」に対しても、「強制的に民族名を取り上げられた」と言う意見に反対して、「朝鮮人が望んだもの」と主張する意見はネット上などでも盛んに主張されています。
 これらの認識の違いや、当時の日本政府は植民地統治した朝鮮半島への狙いは何のためだったのかを水野先生に朝鮮総督府の資料や新聞記事を参考にご講演していただきます。(2018.5追加)
2013.2.13 http://www.mindan.org/www/upload_article/50eb784f6df5f.pdf (画像

【コメント】

一例目、「韓国人の姓を日本式の『氏』に強制的に改めさせた」という表現は、姓が氏に書き換えられた、姓が氏で上書きされたor廃止された、というような印象を読み手に与える。「姓」に加えてファミリーネーム「氏」が追加され、「姓名」でなく「氏名」が使われるようになった、と読むことは難しい。民族名をそのままを氏名とした人がいたことへの言及もない。

二例目は、複数の発言者をまたいだ引用である。「皇民化政策」「同化」「先祖から伝わる朝鮮式の姓から日本式の名前に改めさせた」などの文言からは、民族名から日本名に無理矢理改めさせられたかのような印象を受ける。なお「朝鮮式の姓から日本式の名前に改め」が、(名前の上下ではなく)上の名前についての制度であることを述べている点は正しいが、姓を改める制度ではないので、これもやはり不正確な説明である。

三例目も「本名消された通信簿 - 幼い心に創氏改名強要」「2本の線」などから民族名が抹殺され日本名で上書きされたというような印象を受ける。(二番目は改名していないケースを載せているが)
この記事の中で目を引くのは最後の「なぜか~」となっている部分である。この「なぜか」は姜が日本名強制説を喧伝してきたことを示唆するものである。日本名を強制する(名前の上下とも変更させる)制度のはずなのに、姓(正しくは氏)は届出制で改名が許可制とわかれていることに、姜が不思議を感じているからこその「なぜか」だからである。(なお通名については→通名と創氏改名

四例目は、創氏改名の研究者・水野直樹京大教授が登場する民団ではおそらく最初の記事である。この記事では「同化させながら差別」と水野自身の説を短く述べているが、これだけではその意味を把握することはできない。

五例目は、最近の研究における「創氏改名」の「ねらい」(とされているもの)を正しく記述している。「家族制度の日本化」すなわち創氏制度によって多様な氏を創設させ、それによって宗族集団の結束を弱め、天皇中心の社会集団とするということである。 しかし記事には「氏」制度への言及がないため、従来の創氏改名の知識(日本名強制説)を前提に読むと、(姓や民族名を廃止し日本名を強制することによって)家族制度を日本化し…と読むことも出来てしまう。 「今さらおさらいするまでもなく」は何を念頭に置いているかは不明。
「同姓同本の一族意識をみじん切りにし」という語気(剣幕)からは、まるで創氏改名で姓がなくなったかのような憤りが感じられる。こうした説明を聞いた人が、創氏改名について、氏は姓そのままでもよく、姓名は戸籍にのこり、族譜もそのまま存続したと解釈することは不可能だろう。

六例目は脚本家・ジェームス三木氏の発言であるが、従来の創氏改名のイメージで語っているように見える。 (この演劇の原作梶山『族譜』には、じつは肝心な部分にフィクションが含まれている)

七例目は、金大中の発言を加藤紘一が引用したもの。「無理やり外国の苗字」という説明を「氏制度の強制」という意味にとれば正しいが、おそらくそういう意味ではなく、日本風の苗字を強制されたという意味の発言だろう。ただしこれがどれくらい正確な引用かは不明(加藤の解釈が入っている可能性がある)。 なお創氏について総督府は日本風ではなく朝鮮風の苗字(氏)を推奨していたことがわかっている。(→総督府は朝鮮風の「氏名」を推奨していた

八例目は水野直樹『創氏改名』(2008)の書評である。「8割が『自発的に』応じざるを得ない」と書かれており、ここで創氏改名の説明に初めて(?)「割合」の話が入る。ただしここでは創氏と改名を区別しておらず、割合の差(創氏8割、改名1割)にも言及がない。 また梶山『族譜』を引き合いに従来の創氏改名のイメージ、すなわち当局によって改名が強制されたというイメージで語られている。 (水野が『創氏改名』で『族譜』は事実ではないと書いているにもかかわらず→梶山季之『族譜』の間違いについて

九例目、「同化を強要しながらも」「創氏改名の真の目的は差別を残すことだった」と書かれているが、これだけでは意味がよくわからない。水野説をなんとなく自説に織り込んでいるだけのようにも見える。要は、せっかく日本名を名乗ったのに公立学校の教員資格が得られないことを差別だと憤っているようだが、「本名を禁じられた」というのはよくわからない。民族名(姓名をそのまま氏名にすること)は別に禁じられていないし、日本名にしようと日本人でなければ公立の教師にはなれないのはなんら不条理なことではない。創氏改名問題が名前ではなく、教職資格の話に変わっているところがそもそもおかしい。
「青木慶雄」という例と「本名を禁じられた」という表現からは、従来の日本名強制説に先祖返りしているように見える。「日本人への同化の強要」と言っているが、創氏改名は氏(上の名前)についての制度であり、日本名(上下とも日本風)にしろという政策ではない。実際当時改名率は一割であり、つまり下はほとんど民族名のままだったのであり、「日本名による同化」などあり得ない。 結局こうした説明は、在日側がこれまで日本名強制説(上下改名説)を吹聴してきたという証拠を自ら証明する結果になっている。

十例目では水野氏によって『族譜』の問題点が語られる。「現在の歴史解釈からすれば一部、事実と異なる」という言い方は、「以前は事実であるかのように語られていた」ということを意味していると考えてよいだろう。 ただしどこが「事実と異なる」のかはこの記事からはわからない。

十一例目、創氏改名が、名前の上下ではなく、名字に関する制度であるということを正しく説明している。しかし「奪い」「強制的に民族名を取り上げられた」という部分は相変わらずで、全体としては間違った印象を読み手に与えていると思われる。本貫・姓は戸籍に残り、姓を氏にすることもできたのであり、「民族名を取り上げられた」は明らかに誤り。

【総評】これらの説明には、創氏の割合が示されていたり、(名前の上下ではなく)姓と名を区別して説明している箇所も見られるなど、創氏改名について正しい記述も散見される。 しかし全体の印象としては、日本名強制説(名前の上下を山田太郎などに全員改名させられた)のころの説明とあまり変わっていない。

これらの説明は、朝鮮人の犠牲者性を強調するため、民族名を強制的に取り上げられたというニュアンスで貫かれており、日本人を「誤解」させ、引け目を感じさせて政治的利益を得ようとする意図で書かれたものばかりだと言わざるをえないだろう。

★創氏改名とは…1940年に実施された創氏制度のこと。姓・名・本貫に加えてファミリーネームの「氏」を追加する制度。氏は朝鮮風が推奨された。下の名前はそのまま維持することが推奨された。なお引用に出てくる「創氏率8割」は朝鮮半島での割合であって、内地の朝鮮人の創氏率はじつは2割弱であったこともわかっている。詳しくは下の関連拙稿など参照。