鄭大均『在日・強制連行の神話』で考える1980年代(前編)

(後日追記)

読み返してみて、はっきりと説明できていない前提があることに気づいたのでそれを追記しておく。

じつは当時の筆者は、「植民地支配」「強制連行」という説明から連想して、朝鮮人は日本人の同胞ではなく、奴隷のような存在だと思い込んでいた。(→「強制連行」問題とはなにか) (→「植民地支配」をめぐる2つの世界観

「強制連行」という言葉によって、日本の「植民地支配」によって奴隷扱いされている朝鮮人が、日本に連行されてきて強制労働させられていたと思いこんでいた。(たとえばこのような描写によって→『はだしのゲン』にみる朝鮮人強制連行

しかし実際の「植民地支配」は、朝鮮人は奴隷ではなく日本人の同胞だったのであり、ゆえに戦時中は日本兵に志願した朝鮮人もたくさんいたし、いわゆる「強制連行」も戦時徴用のことにすぎなかったのである。

本稿はこのように筆者が「植民地支配」の実情についてよくわかっていない時代、左派史観(いわゆる自虐史観)を信じ切っていた時代のことを回想しながら説明するものであるということを念頭に読んで欲しい。

(追記ここまで)

はじめに

本書を取り上げるのは、何もいまさら「在日の強制連行説はやっぱり嘘でした」と言いたいがためではない。

じつは本書、鄭大均『在日・強制連行の神話』(2004)は、タイトルのせいで誤解をまねきやすいが、「強制連行」の神話性(虚構性)を証明するところに力点がある本ではない。

本書は、「強制連行」の虚構性について一応の説明はされているものの、基本的には既に明らかなものとされており、その証明ではなくむしろ、そうした虚構がどこから生まれ、どのように日本社会に浸透し、そしていかなる影響を与えているのかについてのメカニズム分析の方に力点が置かれた本なのである。

そして私がここで本書を取り上げるのは、本書の内容と「私の言いたいこと」がほぼ一致しているからである。
私が本稿で問題提起したいのは、戦前戦中におきたできごとの真偽問題ではなく、本書が説明しているように、戦後の日本社会において「植民地支配」「強制連行」などがどのように誤解され、その誤解がどのように利用されたかという、戦後の日本社会におきた事実の問題(以下〔問題〕と略す)だからである。(→「朝鮮半島をめぐる歴史問題」とはなにか

私が本稿で説明したいことは次の二点である。

ひとつは、「強制連行」という言葉が定着した1980年代に中等教育を受けた私のような人間が、「強制連行」をどのようにイメージしたかということ。そして「強制連行」が「創氏改名」「日本語強制」などと相まって「植民地支配」の全体像を如何に歪め、それがいわゆる「従軍慰安婦」問題にまで繋がっていくという、私を含めた戦後日本社会の「歴史認識」の変遷について説明を試みる。 そしてそうして生じた虚構の「植民地支配」が政治利用されたことで、さまざま〔問題〕が起きたことを提示する。

二つ目は、この〔問題〕を踏まえると、外村大・東大准教授に代表されるような擁護論、すなわち、「強制連行」はウソであったが朝鮮人が過酷な労働を強いられていたのは事実なのでそこを直視すべきというような擁護論が無意味(筋違い)であることについて説明する。
――以上が本稿の目的である。以下本文。

※以下、本文中に現れる斜体は引用を表す下線強調は特に断りがない限りすべて筆者(私)による。
※鄭大均は「在日コリアン」という用語を使っているが、本稿では簡単のために引用部を除き「在日」と表記する。

在日の強制連行問題とは

「強制連行」問題とは、第一義的には、「在日は『強制連行』されてきた者およびその子孫である」という虚構が、現実の政治に利用されてきた問題のことである。民族派の在日や日本人左派によって「強制連行」が、在日が日本に滞在していることについての正当性の獲得、および「植民地支配」の犠牲者に対する配慮要求として政治利用されてきたということである。

在日の正しい来歴について簡単に整理しておくと、1945年の終戦の時点で日本国内に居留していた朝鮮人は約200万人であり、そのほとんどは自由意志による渡日、あるいは募集や斡旋などの仕事の都合によるものであった。そのなかで強制性のある「戦時徴用」で来た者は「ごく少数」とされ、それもほとんどが戦後に引き上げ、245人が残留したにすぎないとされている。その後、1959年の時点で日本国内に在留していた在日朝鮮人は61万人となり、その内訳は、戦前戦中に「徴用」以外の理由で来た者、戦後に来た者、そして徴用残留者の245人であった。(本書38頁掲載の朝日新聞の記事を元に当方で若干説明を加えた)

つまり在日は「犯罪者を除き、自由意志によって在留」していたのだが、いつしかこの60万余人がすべて「強制連行」されてきた人々であるかのような俗説が信じられていき、それが指紋押捺廃止や特別永住資格(1991)、そして参政権の問題など、世論に影響を与えてきたのである。 …【1】「強制連行」の政治利用問題

しかし、強制問題にはもうひとつの側面がある。そして本稿で強調したい〔問題〕とはこちらの方である。

もともと「強制連行」は、「創氏改名」「日本語強制」とともに、日本の「植民地支配」がいかに過酷で非人道的であったかを糾弾するために在日や日本人左翼人士の口から発せられてきた言葉であった。

その際、それらが犯罪的なイメージで語られたために、戦後教育を受けた我々の「植民地支配」についての世界観を極度にゆがめてしまった。 その結果、そのゆがんだ植民地支配観は、1990年代にになるといわゆる「従軍慰安婦」という、荒唐無稽な嘘話が信じられてしまうことにつながっていくのである。

逆から言えば、この荒唐無稽な「従軍慰安婦」を「ありうる」と思ってしまうくらいに「植民地支配」のイメージが歪んでいたということである。

こうして、この「強制連行」から「従軍慰安婦」という一連の「嘘」によって歪められた「植民地支配」のイメージは、在日や朝鮮民族の被害者性を顕揚し、日本人に贖罪意識を植えつけることになる。そしてそのことは権利獲得運動などに政治利用されただけでなく、1980年代以降、その贖罪意識にカルト宗教までがつけこんでくるという事態まで招くのである。 …【2】「強制連行」と歴史歪曲問題

本稿では、主に【2】の側面について、その経緯を説明していく。 そしてそれこそが「朝鮮半島絡みの歴史問題」という問題の本質であるということが読者に伝わればありがたい。

この「強制連行」の定着のメカニズムとその影響について、およそ次のような順序で説明をしていくことにする。

  (1)在日側が「強制連行」をどのように語ってきたか
  (2)日本側がそれをどう理解(誤解)したか
  (3)「誤解」を生んだ時代背景       ▼ここから後編
  (4)「誤解」の影響
  (5)左派の問題点
  (6)その他

では、まず「強制連行」「植民地支配」について、今日どのように理解(誤解)されているか、その「現状」と「特徴」について、そしてまた総督府の実際の労務政策がどのようなものであったかというとこから整理確認しよう。

現状

「強制連行」論は、今日(2004年現在)では、学校教科書からNHKにいたるまで広範に受容されている政治的に正しい言説であり、朴(慶植)の本はそのバイブル的な位置にある。(136頁) ノンフィクションライターの野村進は、この「強制連行」が信じられている状況について次のように述べている。

強制連行された朝鮮人のほとんどは、戦後まもなく日本政府の計画送還で帰国していること。在日一世の大半は、戦前から日本に住み続けているか、戦後、密航で来たかのどちからであるということ。これらは研究者のあいだではすでに定説となっているのだが、日本人一般には正反対の言説が「事実」であるかのように漠然と信じこまれてきた。(後略)(1996年 野村進『コリアン世界の旅』236-237頁)(39頁)

特徴

この問題には「当事者性を離れるほど真実性を増す」という特徴があり、著者は次のように解説している。

(前略)ホワイティングやフィールドの場合は、明らかに、在日コリアンが強制連行による被害者であるとかその子孫であることを、より無垢に語っているからである。関連してつけ加えておけば、在日が強制連行の被害者であるという言説は、在日コリアンによってよりは日本人によって、日本人よりは欧米人や韓国人によって明瞭に語られるという傾向がある。在日が強制連行による被害者であるということは、当事者性から離れるほど真実性を増すということである。(28頁)

労務政策の種類とその期間

○募集:1939年9月―42年1月  ○官斡旋:42年2月―44年8月  ○国民徴用令:44年9月以降

「強制連行」で問題になるとすれば、常識的には最後の国民徴用令の時期だけのはずであるが、「強制連行」は話者それぞれの勝手なイメージで語られる。人によっては、併合期全体(1910-1945)の渡日すべてに当てはめて使う者もいる。(59頁)

 
次に、「強制連行」という言葉がどのように生まれ、それを在日側がどのようにを語ってきたか。

「強制連行」の誕生

実は「朝鮮人強制連行」という言葉は昔から使われていたわけではなく、1960年代以前に使われた例はほとんどない。ただしそれを彷彿とさせる記述がみつかる。(111-116頁)

「労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中にトラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や炭鉱へ送り込み、」(『朝鮮新話』1950年)
「人狩りの同様の形で強制徴用されて日本に連行されるのである」(玉城素1961年)
「例えば市場とか村落とかをトラックを以て急襲して手あたり次第に捕まえては頭数を揃えるとか、徴用逃亡者の為に山狩りをするとか等々の奴隷狩りを彷彿させる方法がとられた」(朴在一1957年)
「徴用などで愛する祖国を離れて日本に引きずられてきた犠牲者であります」(『コリア評論』1959年)
「在日朝鮮同胞は、その大部分が過去日本軍国主義者によって強制的に日本に連れていかれ、多年の間耐えがたい民族的蔑視と虐待を受けてきた人たちである」(『労働新聞』1959年)

こうして見てくると、「朝鮮人強制連行」という言葉はいつ現れてもおかしくないという印象を受ける。(116頁)

しかし「朝鮮人強制連行」という言葉は、60年代初期のこの時点では、左派のサークルの一部の人にのみ知られるジャーゴン(専門用語・特殊用語)の域を出るものではなかった(119頁)。

1965年には朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』が刊行されるが、その影響についても刊行から二十年ほどの間は限定的なものであったといえる。 だが、80年代に入り、日本のマス・メディアが第二次世界大戦中の日本の犯罪を語り、在日コリアンに対する差別の問題を語るようになると、「強制連行」という言葉はにわかに大衆化する(120頁)。

この朴慶植(1922-1998)という人物は、幼少期(七歳のとき)に一世に付随して渡日した、いわゆる「一・五世」(150頁)にあたり、本国の様子や渡日の経緯を詳しく知らない、日本で教育を受けた、基本的に日本語を母語とする世代である。

本書だけでは朴慶植本の全容を知ることはできないためその内容に立ち入ることはしないが、強制連行と全く無関係な残虐写真による印象操作(147頁)や、統計上数字の恣意的引用(140-141頁)、資料添付の形ではあるが上記『朝鮮新話』のエピソードが取り上げられていることなど(125,127,130頁)によって、全体として朝鮮人の被害者性が実態以上に強調され、読者に「強制連行」に対する誤ったイメージを植え付けていく本のようである。

在野の研究者である金英達(『金英達著作集II』2003年)は、この本で使われている「強制連行」という言葉について次のように指摘する。

朴慶植は、それまで言われていた朝鮮人の労務動員について、世論にアピールするために「朝鮮人強制連行」なる言葉を使ったにすぎず、それはアカデミズムに受容された歴史用語ではない。しかし、この朴慶植氏の問題提起は、衝撃的に世論及び研究者の意識を喚起し、それ以来、「強制連行」という言葉は独り歩きを始め、あたかも特定の時期における特定の事象を指す歴史上の専門用語であるかのように受け止められている。 (121頁)

この頃の朴慶植の活動意図については先述の外村大氏の論考(本稿の後編で詳しく扱う)でも説明されている。 外村によると朴はこの本で「『進歩的』歴史学者も含めた日本人に対して植民地問題を具体的に見据え過去の歴史についての反省を確立することを求め」ることを目的としていたらしい。

事実、この本を読んだ日本の進歩的学者、たとえば羽仁進は「ひどく教えられた」とか「ひっくり返るほど驚いた」 という。その後、彼は朝鮮総連系の新聞に書評を寄せ、過去朝鮮にどんなに恐ろしいことをしたのか、日本人はそのことに無自覚であると批判し「すべての日本人の必読の書である」と激賞している(『朝鮮時報』1965.6.19)。(153頁)

また歴史学者の山田昭次も朴の本の影響力について、70年代以後の社会運動に与えた影響の範囲は広かったと評している。(155-156頁)

著者鄭大均は朴の本について次のように総括している。

こうして見ると、『朝鮮人強制連行の記録』が日本人や日本社会に及ぼした影響が、小さなものではなかったことがお分かり頂けると思う。この本には、少数ではあれ、あるタイプの日本人を揺り動かす力があったのであり、彼らの地道な実践活動は、やがて「加害者国家日本」という集団アイデンティティを人々の心に植え付ける原動力になっていくのである。(156-157頁)

著者によれば朴の本はあるタイプの日本人の心に集団的な罪悪感を植え付けるのに成功し(153頁)、それが1980年代に人権主義に基調を置く「カタカナ左翼」の口に載って「強制連行」という言葉が大衆語化していった(155頁)と分析している。 1980年代に十代だった私はまさにこの流れの中にいたことになるが、著者のこの分析はその私の感覚ともよく符合するものである

こうしてみると、金英達や外村が指摘した朴慶植の思惑は、ほとんどそのとおりに事が運んだといえるのではないだろうか。

さて、このようにして「強制連行」という言葉が大衆化した1980年代、正にその時期に民団(韓国系の民族組織)から出た本があるので次にそれを見てみよう。

語りたかった「強制連行」像

1988年に民団系の青年会が出した『アボジ聞かせてあの日のことを』という本がある。(以下『アボジ』と略す)

この本は1983年10月25日から翌1月15日にかけて在日一世に聞き取りをしてあつめた証言集で、男女1106人の証言が収録されている。渡航時12歳未満の者は除外しているので、渡航の状況を理解できている「ほぼ本物の一世たちといってよい」(65頁)と著者は収録されている証言者のことを評価している。

この本の「渡日の背景」という章の冒頭には、次のような編集者の言葉が掲げられている。(65頁)
一読して明らかなように、太字部分は上で引用した『朝鮮新話』などの描写にきわめてよく似ている。

1937年に始まる日中戦争により、日本は戦争の泥沼に陥ります。そして1941年には太平洋戦争の開戦など満州事変以来、日本は人的資源供給地として韓国から多くの労働力と兵力を狩り出したのです。これが所謂〝強制連行〟と呼ばれる国民徴用令を引き起こし、終戦まで絶え間なく続いたのです。その方法も、農民たちが昼どきで一息をついている時にトラックで農村に乗り入れ、銃剣を突きつけ、有無を云わせず無理矢理に連れて行くのです。(後略)

この「渡日の背景」という章に収録されている証言は「徴兵」「徴用」「徴兵徴用以外」の3種類に大別されている。その中で上の文がいう「強制連行」に最も該当すると言えるのは、「徴用」の様子について答えた64人(全体の6%弱)の証言になるが、その一部は次のようなものである。

設問は (イ)「徴用された人で契約書をかわさなかった人、その理由」 (ロ)「徴用された人の体験談」 の2つ。括弧内は渡日年。(66-69頁)

イ) 3年という口約束を信じた('40)/勉強させてやるという口約束('41)/面(村)と日本政府が取り交わしたらしい。2年という話を信じたが嘘だった('42)/面(村)と日本政府が取り交わしたらしい。2年という話だった('42)/警察で紹介された('39)。
ロ) 炭鉱労働で自由もなく危険な仕事をさせられ多数が死んだ('40)/炭鉱労働で死ぬたくなるほど苦しかったが逃げたら殺されただろう('42)/一日35銭で働き風呂にも入れなかった('36)/食べ物のひどく休みもなくよく鈍器で殴られた('41)/船で食料を運んだ('33)。

(イロ各5つずつ選ばれているがこの選択は著者による。なお証言内容は当方で大幅に要約した)

著者は『アボジ』の中からこれら64人の証言をとりあげて次のように分析する。(本書に掲載されているのはイロの10証言のみ。以下は未掲載分を含んだ分析)

たしかに故郷から異教の作業場に突然投入され、過酷な労働を強いられたことが窺える証言はある。しかし、「強制連行」という言葉は、その駆り集めの方法の暴力性や強制性を示唆するものであるが、右の証言にそのような状況を見出すのは困難である。「トラックで農村に乗り入れ、銃剣を突きつけ、有無を云わせず無理矢理に連れて行く」と編集者は記すが、証言でそのような具体的な「連行」の状況が語られている例がほとんどないのである。(中略) 戦時動員の時代とは無関係の33年や36年の例が含まれていたりするのも、「強制連行」論の説得力を減少させる要因となる。(69-70頁)

つまり、過酷な労働はあったにしても、時期的にも、態様的にも、「強制連行」という言葉のイメージ(太字)に値するような証言は『アボジ』には収録されていないということである。これはどういうことなのだろうか。

ここで編集者の言葉の全文を見てみると、前半はトラック云々とあたかも「奴隷狩り」のような表現(太字部分)になっているのだが、後半ではずいぶんとトーンダウンし、「自分の意志に関係なくして日本に渡らざるを得なかった」のような比較的穏当な表現に落ち着いている。この「渡らざるを得なかった」という非自発性を演出する表現も、この手の言説によくある言い回しなのであるが、さておき、これらの証言に沿った前書きを置くならトラック云々という太字部分はいらないはずである。 にもかかわらず、太字のような部分を章の冒頭においている。なぜだろうか。

要するにこの章冒頭の言葉は、「強制連行」を語る際に、事実とは無関係に用いられる常套句なのである。すなわちそれが在日側が主張したい「強制連行」の姿であり、いわば定義であると言ってもよいだろう。

さて、この『アボジ』には他にどのような証言が収録されているのか、暫時それは後回しにして、いったんここで視点を転じ、このような「強制連行」は日本側にどう伝わったかを見てみることにする。 説明の都合上どうしても私個人の体験がベースになるが、そこにどれくらいの普遍性があるかは読者の判断に委ねる。

日本側から見た「強制連行」

今日では「強制連行」の実態は日本人にも同様に課されていた戦時徴用にすぎないことがわかっている。 実際、本稿で引用している文章にも「徴用」の文字が存在しているものが多数ある。 しかし、それにもかかわらず私の記憶や印象から徴用のイメージは抜け落ち、奴隷狩りのようなイメージでとらえてしまっていた。それはなぜなのか。振り返ってみるといくつかの理由が思い当たる。

以下、教科書やメディアで言われていることを手掛かりに歴史を捉えようとしていた、1980年代の子供を頭に描いて読んでほしい。 「南京大虐殺」「731部隊」を信じていたり、あるいはよくナチスドイツが引き合いに出されていたこともあって、「大日本帝国」「日本軍」の基礎イメージが現在とはまったく異なる(極めて悪い)ことにも留意してほしい。

A.「植民地」という言葉がもつイメージの問題

まずこの「植民地」という言葉が私に欧米がアフリカにやっていたような植民地支配を連想させ、つまり朝鮮人は日本人とは階層としてまったく別次元の存在だという勘違いをおこしていた。つまり同じ「国民」であるという感覚がなかった。

今でこそ、警察官、役人、教師、裁判官、知事、議員、軍人、皇族にまで朝鮮人がいた、日本人と一緒に生活していた、戦争を共に戦っていた、朝鮮語の新聞やレコードも出ていた、高校野球で甲子園にも出た等々の知識があるものの、1980年代の自分には全くそんなイメージはなく、奴隷階級という言葉ではっきり認識していたわけではないものの、なんとなくそういう存在だと思っていた。つまり絶対的支配者と被支配者という関係である。

このように、朝鮮統治の実態(日本人と朝鮮人の関係性)について、その大前提から誤解していた。

B. 描写の問題

強制連行について日本人側にはどのような説明が目に触れたか。

(1) 主語省略による誤解

次の文章は、強制連行の証拠としてしばしば引用される『朝鮮新話』(1950年)に出てくる一文である。

もつともひどいのは労務の徴用である。(中略)納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に達しない。そこで郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中にトラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や炭鉱へ送り込み、その責を果たすといふ乱暴なことをした。但総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである。(『朝鮮新話』320頁、下線は本書による)

これは、日本統治時代の朝鮮に16年間在住し、宇垣総督(在任期間:1927,1931-36)の政策顧問等を務めた鎌田澤一郎が、七代目総督南次郎(1936-42)の失政を記した部分である。*1*2

著者によると、このくだりは「強制連行」論者によく引用される箇所であるが、下線部が引用されることはまずなく、件の朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』からも落ちている。(112頁)

比較的新しい物だが、これが日本の教科書になると次のような記述になる。

平成九年(1997)発行の教育出版の中学教科書には金大植が強制連行された模様を次のように述べている。「寝ているところを、警察官と役場の職員に徴用礼状をつきつけられ、手錠をかけらたまま連行された」とある。
(中略)
同じ平成九年の大阪書籍の中学校教科書では、強制連行の様子として、「町を歩いている者や、田んぼで仕事をしている者など手あたり次第、役に立ちそうな人は片っ端から、そのままトラックに乗せて船まで送り、日本に連れてきた。徴用と言うが、人さらいですよ」(後略) (杉本幹夫『「植民地朝鮮」の研究』(2002)101-102頁)(45頁)

杉本はこの2件について次のような論評を加えている。

(1件目について) この事例は朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』から引用されたと思われる。これによると連行されたのは1943年2月である。徴用令が施行されたのは44年であるから、徴用令状が出される筈がない。更にその前段に七回拒否し、逃げ回っていたと書いてある。もし連行された期日に思い違いがあり、本当に徴用されたのなら、徴用拒否は一年以下の懲役である。手錠をかけられて連行されても仕方がない。また同時に七回も拒否できた事が分かり、強制連行のイメージがすっかり変わってくる。

(2件目について) これは明らかに犯罪である。これと同じ様な話を慰安婦問題で吉田清治が書き、大きな波紋を投げかけたが、後に吉田自信が創作であったことを告白している。(45-46頁)

これら教科書の文言、そして杉本解説を読んでどう思われるだろうか。 今日の知識が整理された頭ではなく、「南京大虐殺」などの左派史観が席巻していた時代に、流布している歴史観に重大な瑕疵があるということを想像もしていない、与えられている情報から「植民地支配」や在日という存在を手探りで理解しようとしていた、批判精神のない子供の頭で素直に読んでもらいたい。

どちらの話にも「徴用」という言葉は入っているものの、描写されている内容は徴用の場面ではない。前者は逮捕であり後者は犯罪である。 このような「強制連行」の描写の中に「徴用」という言葉が紛れていて印象に残らないし、あるいは徴用という言葉に気付いても、(日本人とは違って)朝鮮人の徴用とはこういうものだったという誤解をしてしまう。

私自身は、日本人の戦時徴用について、単語として知っていたかはともかくそういう労務提供があったことは知っていたし、戦時中は子供でも戦闘機の部品を作っていた(勤労奉仕)ことは知っていたので、およそのイメージは持っていた。しかしここで描かれている光景は、日本人の徴用・勤労奉仕とはまったくかけ離れた姿であり、限られた知識で両者を結びつけて、同じものだと見抜くことはほとんど不可能である。

元になった『朝鮮新話』にしても、今日の知識のある頭で読めば「徴用」や「労務係」という言葉に目が行くが、当時の私の頭で読めば日本人の「徴用」とはまったく別次元の「奴隷狩り」「非合法」「人権蹂躙」のような描写の方しか目に入らない。 さらにそこから主語(下線部)を省略してしまうと、統治者であった日本人が直接「奴隷狩り」をやっていたかのように誤解してしまう。

もっとも駆りだされた朝鮮人側の主観では、官吏が朝鮮人であろうと日本人であろうと総督府の役人であることに変わりはないから、「日帝によって強引に攫われた」と思っても不思議はないし、一世の時代にはその説明(主語)は常識として省略することも可能だったのかもしれない。

しかし世代が代わるに連れてその「常識」が落ちてしまい、結果、日本人が奴隷狩りをやっていたようなイメージで伝わってしまうことになったのである。

*1) たまたま見つけたものだが、有田芳生氏も下線の文章に主語抜きで言及(2014.7)している。 有田氏が引用元として挙げた『朝鮮は起ち上がる』(1933)という本にはざっとみたところ引用箇所は、それに似た記述を含めてないようである。しかしいずれにしても有田氏は年号(33)を添えて言及しているので、時期の錯誤はないはずである。とすれば彼が示した1933年は徴用令の10年以上前であり、つまり有田氏も強制連行の問題について正確に把握しておらず、イメージ優先で発言していることが窺える。
*2) この部分に朝鮮人をあらわす主語があったとしても、「上司の鼻息を窺ふ」という文言を根拠にして、日本人上司の強引な催促に部下の朝鮮人官吏(主語)が応じざるを得なかったのだという反論があるかもしれない。
たしかに「植民地支配」について朝鮮人が日本人に完全隷属させられていたという旧パラダイムの頭でこの部分を読めば、そうした解釈になるかもしれない。しかし等身大の朝鮮統治のイメージを取り戻してみると、朝鮮人は基本的にはおなじ「国民」として扱われ、そうした隷属を強いられた存在ではないし、また朝鮮総督府や日本政府も朝鮮半島統治にはかなり気を使っていることもわかっている。なぜなら無理なことをして反乱などを起こされては困るからである。(たとえば→水野『創氏改名』
つまり、このケースに限っていえば「鼻息」が強要に繋がったかもしないが、朝鮮人官吏の意に反するような「強要」が朝鮮半島各地で横行していたとは考えにくい。 こうしたものが多発していたとすれば、それは日本の強要というよりももともと日本に協力的な朝鮮人官吏や、あるいは自己の成績のために自分の担当地区の朝鮮人に無理を働いたということも少なくなかったのではないか。彼の国では儒教的上下関係は絶対的なものらしく、そうした文化的特性も考慮すれば、そうしたことは十分考えられる。

(2) 不均衡な描写による誤解

徴用の場面では主語(朝鮮人官吏)が隠されることで日本人のせいとなる一方、過酷労働の場面においては逆に日本人が隠されることで犠牲者は朝鮮人ばかりであるかのような錯覚が生じた。

だが、エスニック日本人の男たちは戦場に送られていたのであり、朝鮮人の労務動員とはそれを代替するものであった。兵士として戦場に送られることに比べて、炭鉱や建設現場に送り込まれ、重労働を強いられることが、より「不条理」であるとか「不幸」であると、私たちはいうことができるのだろうか。日本人の場合だって、1938年に成立した国家総動員法により、15歳から45歳までの男子と16歳から25歳までの女子は徴用の対象となったのであり、それは強制的なものであった。(中略)応じない場合には、兵役法違反や国家総動員法違反として処罰され、「非国民」として社会的制裁を受けたのである。(62頁)

しかし著者も指摘するように、「植民地支配」の全体像を理解すれば、この労務供出がある意味バーターになっているというごく当たり前の構造に過ぎないのだが、当時の私はこの単純な事実に、悲しいほど気づいていなかった。(同じ国民であるという認識がなかったことは先に書いた)

朝鮮人の扱いも日本人(或いは台湾人)との比較で語られるべきものであるが、見てきたように、日本人は朝鮮人と同じ次元ではまったく姿を現さないため、そこで得られるイメージは支配者である日本人が一方的に朝鮮人を虐げているというものになる。

今になって気づくことは、この頃の私の目に触れた「植民地支配」の説明の特徴としては、とにかく日本人と朝鮮人が一緒に何かをしているという描写が皆無だったことである。だから一緒に戦争を戦っていたというイメージもなかったし、朝鮮人も(比較的恵まれた一部の層だったかもしれないが)一緒に甲子園に出ていたというイメージもまったくなかった。結果、やはり日本人とは別次元の存在という誤解になってしまっていた。

(3) 動機の隠蔽による誤解

「強制連行」を語る際に「日本に憧れて」とか「一旗揚げるため」といった渡日の自発性はや任意性はきれいに無視(136頁)されると著者は指摘するが、私もこうした渡日理由にまつわる話は聞いた記憶がない。 たとえば資料でも自発性や任意性を示唆する描写は「募集」などの単語にわずかに残るだけで、それさえもすべて「強制連行」として処理されてしまっている。

こうした動機隠蔽の結果、日本にいる在日は全員「強制連行」による非自発的滞在者だと誤解することになる。 在日の中にロッテなどの社会的成功者がいることもこの頃の私はまったく知らない。

C.「剣幕」による錯誤

民族派在日(だけでなく進歩的知識人)が歴史問題を語る際に見せる「剣幕」によっても、特別に酷いことが行われたかのような錯誤に陥った。 「強制連行」が日本人にも課されていた戦時徴用と同次元のことだとはとても思えなくなっていた。

なおこの「剣幕」による誤解は強制連行だけでなく、「創氏改名」や「日本語強制」など他の要素でもおきた。

「剣幕」を基準に解釈したために、あたかも併合期全体にわたって民族名や朝鮮語が禁止・廃止されたかのような誤解に陥ってしまっていた。(実際は末期5年程度の話で、禁止も廃止もされていない *1)

*1)「創氏改名」については、民族名を日本名に変えることを拒否すると逮捕され、それに抵抗して自殺する朝鮮人まであらわれたなどとも云われていて、私は日本統治下をほとんど恐怖政治であったかのように誤解していた。しかし実際は創氏は届出制で自由にきめられたし、姓も戸籍に残ったし、使用が禁止されたわけでもなかった。(→拙稿水野直樹『創氏改名』の考察
「日本語強制」について私は、併合直後から朝鮮語が全面的に禁止されたと思い込んでいて、在日が朝鮮語を話せなくなってしまったのもそのせいだと思っていた。ソウル五輪のときは朝鮮語が不自由な人(世代)が出てくるのではないかと内心ハラハラしていた。(もちろんそんな人は出てこない)

D. 本項をまとめると

こうして植民地という言葉、強制連行という用語、それについての描写、在日や進歩的知識人がそれを語るときの剣幕、これらをすべて「南京大虐殺なども引き起こす非道な侵略国家・大日本帝国」という世界観の下で総合して解釈することで、筆者の頭の中では「植民地支配」や在日について、次のような像が結ばれていた。

○朝鮮人とは日本の「植民地支配」によって奴隷のような状態で非人道的に使役されていた人々
○在日はそうした日本の非人道的な政策によって日本に強制的に連れてこられた人々

今の若い読者には信じられないことかもしれないが、戦後教育を真に受けた私は「植民地支配」や在日という存在について、このような誤解をしていた。

1980年代当時、こうした描写剣幕による誤解は、「創氏改名」など他の歴史要素にもあって、そうした「誤解」が総合されたことで、あたかも朝鮮人を一方的に隷属させ虐げていたかのような「非人道的な植民地支配」という像が、「戦後教育」を受けた日本人の中に結ばれていた。そしてその虚像は、1990年代に「従軍慰安婦」という荒唐無稽な話が信じられてしまうことにも繋がっていくのである。 (→「慰安婦問題」とは何か) (→呉智英も誤解していた「植民地支配」「従軍慰安婦」

さまざまな「強制連行」の根拠

ここまでは「徴用令」を根拠とした言説を取り上げた。 しかし在日らが語る「強制連行」の根拠は徴用令だけではない。以下に在日の発言を5つ載せてみた。 それをみると金賛汀(ノンフィクション作家)は「強制連行」を「募集」によるものとしているが、他の人は時期や理由を特定していない。

結局、「強制連行」という結論が先にあって、その根拠としてテキトウに徴用令や募集という言葉に繋げているに過ぎず、要はそれを語る側の主観としても、(募集という口実の)「強制連行」であり、(徴用という名の)「強制連行」なのである。

著者が「強制連行」という言葉の使われ方について、ある者は日本統治下の朝鮮人の渡日すべてに当てはめて使い、ある者は「徴用」、ある者は「官斡旋」、またある者は「徴用令」を根拠とするなど、「強制連行」という言葉にはこのように多様な用法がある(59頁)と指摘しているが、その根本原因がまさにここにある。

【資料】在日発言にみる「強制連行」の時期や根拠(20-25頁)

▼1945年8月15日、日本が敗戦したとき、日本には240万人の朝鮮人が住んでいました。当時、在日朝鮮人の95-6%までが、朝鮮半島南部の出身でしたが、その多くは戦時労働力として、各地の炭鉱や土建関係、軍需工場、港湾荷役などの作業場に釘づけにされていました。とくに強制連行されてきた炭鉱労働者などは、「生地獄」といわれた「タコ部屋」にとじこめられ、賃金もごまかされてタダ働き同然でした。(後略)
尹健次 『もっと知ろう朝鮮』2001年 ~鄭大均『在日・強制連行の神話』20頁(後略は筆者)

▼(前略)1939年10月から朝鮮人労働者の「募集」が開始された。朝鮮人労働者の強制連行の始まりである。
その後の侵略戦争の拡大で、日本の労働力不足はさらに深刻になり、その補充のために朝鮮での強制連行は年を追うごとに激しくなり、(略)その総数は百数十万人に達したと推定されている。
日本の敗戦後、多くの在日朝鮮人は朝鮮に帰国した。しかし、冷戦開始に伴う朝鮮半島での政治的、社会的混乱に不安を感じた人々、さらに長年にわたって日本に生活し、その生活起案は朝鮮半島で失われていた人々はが日本に残留した。その人々の総数は、約60万人と推定されている。 今、在日朝鮮人と呼ばれている人々は、この日本の降伏時にも帰国せず、日本に残留した人々とその子孫である。
金賛汀(ノンフィクション作家) 『在日という感動』1994年 ~同22頁(前略は筆者)

▼在日コリアンは日本の朝鮮に対する植民地支配の結果、日本に強制的に移住させられた者とその子孫であり、その意思に反して日本に定住せざるを得なかった人々である。
これは、在日コリアンが自ら関与しないものに支配され、服従させられていることを意味し、在日コリアンが、日本において制度的には奴隷状態にあることを意味する。いわば、在日コリアンは、イギリスから独立する前のアメリカ市民、公民権を獲得する前のアフリカ系アメリカ人と同じ被支配状態にあると言っても過言ではない。
高英毅(弁護士) 『「在日」から「在地球」へ 』2000年 ~同23頁

▼日本の近代史は「犯罪の歴史」である。朝鮮半島の土地と資源の収奪、民族差別賃金での酷使、民族運動に対する残忍な弾圧、日本語強要・神社参拝強要・「創氏改名」などの皇民化政策、軍人・軍属・「慰安婦」としての侵略戦争への動員、工場、鉱山、炭鉱などへの強制連行と強制労働、等々、どれ一つとして犯罪でないものはない。こうした犯罪がなければ、在日朝鮮人という存在自体もなかった。70万人在日朝鮮人が、これらの犯罪の生き証人である。
徐京植 『分断を生きる』1997年 ~同24頁

▼北が日本人女性を拉致したというのはウソだと思う。工作員教育係なら在日同胞を使えばすむからだ。もし、仮に北が日本人を拉致したとしても、それを日本人は批判できるのだろうか。戦時中、日本は膨大な数の朝鮮人を国家の名のもとに拉致した歴史的事実がある。いまなぜ日本に多くの朝鮮人がいるのかを、考えてみてほしい。自国の歴史を忘れた発言が多すぎる。
辛淑玉 1988.2.26号『朝日ジャーナル』 ~同25頁

  よくみると「募集」や「賃金」さらに「移住」など、「強制連行」にそぐわない単語が含まれているものがある。

伝わったもの

このように民族派在日はその人間の勝手なイメージで「強制連行」を語ってきた。それには正しい部分もあり、間違っている部分もあり、今思えば非常にいい加減に語っていて、おそらく言ってる本人たちもよくわかってないのだが、聞き手である日本人は尚更わからない。

こうして「強制連行ではない在日」の姿は知らないままに、いい加減かつ極端な説明ばかりを断片的に聞かされ、印象深い部分のみが残って、イメージが最大公約数的なところに収斂し濃縮されていく。

その結果、在日が強制連行の被害者であるという言説は、在日コリアンによってよりは日本人によって、日本人よりは欧米人や韓国人によって明瞭に語られるという傾向(28頁)が生まれたのである。 (「当事者性を離れるほど真実性を増す」)

以上、「強制連行」に関してなされたどのような言説があり、そしてそれがどのようなメカニズムで誤解されていったかを検討した。

この推論は私個人の体験に基づくものではあるが、じつはこうした誤解、すなわち様々な渡日の背景が伝わらず、インパクトのある「強制連行」像だけが日本人や在日の間に広まっていたという事実は、上で紹介した外村氏も同Web記事で認めているものである。 つまりこうしたメカニズムと誤解があったことは、ほとんど間違いのない事実といってよいだろう。

傍線を引きながら読んだ本を再読したときに、ピント外れのところに線が引いてあったり、重要なところに引いていなかったりした経験をした人は少なくないだろう。

当時、左派の造った世界観の中にいた私は、印象深いところにばかり線を引かされ、結果、時期や渡日の経緯に関する情報が抜け落ち、「植民地」「強制連行」という言葉のイメージとともに、あたかも植民地期全体にわたって、朝鮮人全員が奴隷扱いされていたかのような像を結んでしまっていた。

現在の整理された頭でこれらの証言に適当に線を引き直せば、「実像」に近い解釈も可能である。しかし、当時の私にそんな知識があるはずもなく、またこうした情報を批判的に吟味しようとも思わなかった。

そしてこれと同じような「誤解」の構造は「創氏改名」や「日本語強制」にもあって、私は「創氏改名」は民族名廃止政策、「日本語強制」も朝鮮語廃止政策だと思っていたし、こうした「皇民化政策」が併合直後から行われていたと誤解していた。 併合後30年もこうした「非道な政策」がとられていなかったなどとは思いもしなくなっていた。

言い換えれば、民族派在日あるいは本国人が見せるような「剣幕」からは、あたかも併合期全般にわたって民族名や朝鮮語が禁止され、それを失ってしまったかのようなイメージしか浮かばなくなっていた。たかだか併合末期五年のことで、禁じられてもいなかった事実とはまったく平仄のあわない「剣幕」だったからである。*1

こうして朴慶植以来の「強制連行」や「創氏改名」「日本語強制」は、大日本帝国の犯罪性、「植民地支配」の非人道性を示すものとして我々に説明されてきた。それがいかに苛烈であったかはそれを語るときの在日や進歩的知識人の「剣幕」に明確にあらわれていた。そして、左派史観が正統とされていた時代の空気の中、そういったものを聞いて育った私のような世代の人間が「犯罪的な植民地支配」をイメージしたのもごく自然な結果といえるだろう。

*1) 時期についての誤解は多い→たとえば創氏改名の時期について

なぜまかり通ったのか

1980年代といえばまだまだ戦前戦中生まれが多く健在であり、なぜこのような嘘話が広まったのか不思議に思う人もいるのではないだろうか。私自身も「強制連行」や「創氏改名」など歴史問題について、戦中を知っている人もたくさんいるなかで実態とまったく異なる話が流布するはずがないという思い込みの中にいた。(というか、想定もしなかった)

しかし今になって思えば、当時朝鮮に滞在していた日本人は70万人程度に過ぎず、しかもその中で全体を把握している者は僅かであり、口をそろえて「強制連行された」「日本名を強制された」と言われれば、中にはそういうこともあったのかもしれないという留保が働き、否定のしようがなかったということもあっただろう。(あるいは逆に、馬鹿馬鹿しくて反論の必要はないと思っていた人もいたかもしれない)

またこれはメディアの問題として後編でまとめて扱うが、1980年代の人権主義の台頭やPC(政治的に正しい報道)によって在日や本国人が被害者性を獲得し、歴史問題に対する批判的言論が封じ込められ、日本人からは「嘘である」ということはおいそれと言えないような雰囲気になっていった時流とも関係がある。

メディアでAばかりが取り上げられると、自分たちのところはB(例:朝鮮人と仲良くやっていたが)であったが、全体的にはA(そうではなかった)が大勢であったという具合に自己の体験の方を非主流だと思ってしまい、強く主張できなくなるという心理も生まれる。

またいわゆるWGIPも無関係ではないのだろう。 (参考→江藤淳『閉された言語空間』

つまり当時こうした虚構がまかり通ったのは、さまざまな要因が複合的に組み合わさっての結果だと思われるが、正確な理由は今の私にはわからない。

しかしいずれにせよ、冒頭で取り上げた1954年の朝日新聞の記事が戦後の在日の滞在は自由意志だと指摘していたにもかかわらず、どういうわけか蚊帳の外に追いやられ、「強制連行」は教科書や広辞苑に載ってしまうまでに至るのである。

『アボジ』に収録されたその他の証言

上で後回しにしたものである。「強制連行ではない在日」の姿とはどういうものだったのか。

  【A】渡日当時、本国内で見聞きしたこと(179)  【B】徴兵経験者、その体験(??)
  【C】徴用経験者、契約書を取り交わさなかった人、その理由(20)  【D】徴用経験者、その体験談(44)
  【E】徴兵、徴用以外の理由の渡日、その体験談(182)
 (本書は男女1106人の証言を集めたもので、括弧内はその項目に含まれる証言数である)

先に CとD(イとロ) について短くとりあげたが、ここではAとEについていくつか紹介してみる

この『アボジ』には「望んだ渡日」の話も収録されており、公平な編纂であったといえる。しかし我々に伝わったのはなぜか「強制連行」の姿ばかりであった。

これらの証言を当時読んでいたら、「植民地支配」や「強制連行」のイメージは相当に違ったものになっていただろう。私が信じこまされてきた「植民地支配」の姿とは一体何だったのか。

台湾との比較

ここで台湾について少し触れておこう。読者のなかには、同じく日本の植民地であった台湾がなぜこの歴史問題の文脈でほとんど話に出てこないのか不思議に思う人もいるのではないだろうか。

日本統治下の台湾においても(今思えば)朝鮮同様、戦時徴用、創氏改名があったはずである。また戦後においても、芸能人や野球選手が多く日本で活躍するなど、芸能面では強い結びつきがあったにもかかわらず、半島本国や在日の存在感と比べると、その政治的存在感や犠牲者性・被害者性のイメージはきわめて小さいものだった。 メディアの論調も「日本軍国主義の被害者」としては中国と朝鮮半島のみがとりあげられ、なぜか台湾はずっと蚊帳の外におかれていた。 この台湾が政治的あるいは歴史問題的にクローズアップされるようになっていったのは、2000年以降のことである。

「あなたのおっしゃるアジアってどこの国のことかしら」というネットの一部で有名な言葉があるが、この言葉は、靖国批判などの文脈で左派の決まり文句「アジアが日本に対して怒っている」に対抗するものとして、00年代半ば、あるTV番組内で櫻井よしこ氏が発したものである。このときに左派の「アジア」ひとくくりの言い様に楔を打つ形で浮上したのが台湾だった。特定アジア(特亜=中国・朝鮮半島)という言葉が出現したのもこの頃のことである。

(余談)当時の私の心理をもうすこし丁寧に説明すれば、私は台湾も朝鮮同様「植民地支配」されたことは知っていたので、台湾と朝鮮との温度差に少し不思議も感じていた。しかしその温度差については、朝鮮とはなにか事情が違ったのだろうなどと勝手に合点してしまったこと、また台湾について掘り下げると朝鮮半島同様ひどい話が出てくるかもしれないからあまり考えたくないという消極的な心理もあいまって、深く考えないで過ごしてしまっていた。なお台湾人といえば朝生の最初期からでていた金美齢氏が有名であるが(現在は日本国籍)、私は彼女が台湾人であることは認識していたと思うが、その時は彼女の政治的立ち位置をよく理解していなかった。今思えば日本に擁護的なことを言っていたのだろうが、残念ながらほとんど記憶がない。おそらく日本に対して否定的な言説の方を強く記憶するような心理状態にあったからだと思う。日本語を自在に操る彼女が外国人であるということの不思議さと同時に、その流暢さには、在日同様、やや罪悪感も感じていたと思う(→後編:在日という不透明な存在)。

前半まとめ

「強制連行」について、在日がどう語ってきたか、それを日本側がどのように受け取ってきたかを検討した。

私は創氏改名については印刷(おそらく教科書)で見た記憶があるのだが、「強制連行」についてはいつどのような経緯で知ったかについて、はっきりした記憶はない。『はだしのゲン』という漫画の一巻には強制的に連れてこられたとか、炭鉱で強制労働させられているかのような描写のコマがあり、そういうところからも知識が入ったのかもしれない。 口頭で、それが学校教育かメディアかはわからないが、たとえば戦争を考える文脈のどこかで在日という存在について説明されたことがあったような気もする。 「日本には在日という人たちが住んでいて…」など。

どこまでが学校教育で、どこからがメディアからの情報だったのか、その境界はもうわからない。 今思い返してみると、学校教育というよりはメディアの影響が大きかったのではないかと思う。

「強制連行」「創氏改名」等、大日本帝国が朝鮮人に対していかに非人道的な行為をしてきたのか、教科書などで書かれていることが、上で挙げたような「剣幕」によってイメージが増幅されてメディアから流れてくる。そしてそれが、「南京大虐殺」などを信じている状態の頭で解釈される。私が十代を過ごした1980年代とはこのような時代だった。

今でこそ中国朝鮮がらみの歴史問題はまず疑いの目で見ることが常識となっているが、当時の私にとってそれらはすでに日本史の中の一要素として埋もれていたために敢えて注目することはなかったし、そこに悪意のプロパガンダが混じっているとは思ってもいなかった。

教育、メディア、在日発言、当時はどこをみても同じ「強制連行」像が当然の事実のように語られる中、なにかのきっかけで強い疑問を抱かない限りそれを敢えて検証しようという考えすら浮かばなかった。

読者の中には、こうした言説を信じた人間の迂闊さを笑う向きもあるかもしれない。しかし著者鄭大均も別書にて、1980年代以前、エスニック論・コリア論に強度の党派性があったことに気づいていなかった告白しているのである。

1980年代以前、日本人や在日が書いたエスニック論を読むと、必ず右のような不可解な記述に遭遇して、煙に巻かれたような気分にさせられたものである。コリア論や在日論がすこぶる政治化した分野であり、党派的な立場から自由な論者など、数えるほどしかいなかったということに気づいたのは、ずっと後になってからのことである。北朝鮮の朝鮮労働党が当時の日本社会党と党友関係にあり、朝鮮労働党に操作された朝鮮総連が部落解放同盟や日教組や総評や中立労連や国鉄労組や自由法曹団や日本婦人団体連合会と友好団体の関係にあり、日本の政界や学会やメディアに重要な影響力を発揮していたことに気づいたのも、ずっと後になってからのことである。

彼は1980年に韓国滞在のため離日するので「1980年代以前」とは1980年以前を意味すると思われるが、いずれにしても鄭大均のような人物が少なくとも1980年の時点で気づいていない問題に、1980年代に10代であった一般人の私が気づかなくても別段の不思議はないだろう。

それにしても、今から見れば「いかにも」な言説をなぜ無垢に信じたのか、これだけではわかりにくいかもしれない。それを理解するには当時の時代性、日本社会の空気についての説明が必要となる。

〔参考文献〕
『在日・強制連行の神話』 鄭大均 2004年