日本はかつて朝鮮半島を侵略し、創氏改名で名前を奪い、日本語を強制して言葉を奪い、在日を日本に強制連行するなどの過酷な植民地政策を行って、朝鮮人を搾取し苦しめた。
今の人にはもはやピンと来ないことかもしれないが、1980年代という時期に十代を過ごした私は、このことをずっと歴史的事実だと思っていた。「植民地」という言葉がもつイメージ、「知識人」や一部在日がそれを糾弾するときの「剣幕」から逆算・連想して、朝鮮人をほとんど奴隷のように扱っていたと思っていた。だからこのことは歴史、特に先の戦争のことを考えるときにはいつも心に重くのしかかっているものだった ―――
子供の頃の私は、「今の若いもんは戦争を知らない」という「知識人」たちの言葉に反発したのか、割と政治的なことに興味があったからなのか、学校に於いてもマスメディアに於いても、それが戦後の日本人としての責務であるかのように戦争の話を聞いていた方であったと思う。小学校では『ガラスのうさぎ』(映画)を見せられたり、空襲を経験した人の話も聞かされたりもしたし、70年代80年代はTVにおいても今よりももっと頻繁に戦争のことが取り上げられ、「戦争責任」という言葉を耳にする機会も多かった。自分の親も一応は戦前の生まれで、大したものではなかったが寝物語に戦時中の話も聞いたし、そういうことも相まって比較的戦争が身近に感じられていたからかもしれない。
そんな戦争の話の中には、一般の国民が軍国主義でいかに苦しめられたかという話も多かったが、子供ながらに一番辛かったのはやはり対外的なこと、すなわちアジアへの侵略、「731部隊」や「南京大虐殺」、そして「過酷な植民地支配」のことだった。これらの「歴史的事実」によって中学生の頃には自分の中に「非道な大日本帝国」という世界観が完全に出来上がっていた。
民族的葛藤というと国内においては在日の文脈で語られることがほとんどだが、日本の「戦争犯罪」とナチスドイツがしばしば比肩されて語られるような教育やメディアの論調をうけて育った十代の私は、確実にそれを抱えていた。そして1990年代に入るとここに「従軍慰安婦問題」が加わることになる。
1980年代という時代は間違いなく楽しい時代であったし、自分にしても普段からそんな深刻なことばかり考えて過ごしていたわけでは当然ない。
その頃すでに終戦から三十年以上が経過し、高度経済成長を経て豊かにもなり、戦前戦中世代から「いまの子はアメリカと戦争したことも知らない」と嘆きと諦めがないまぜになったような言葉がでるくらいに戦争の記憶も過去のものになりつつあったこの頃、わたしと同世代の多くは、戦争のことはもう過去のことであるし、自分には直接関係ないことと思って距離をとっていたかもしれない。
ただ自分の場合は、生来の性格的なものなのか、身のまわりで起きた在日との些細ないざこざが影響したのか、「戦争責任」という言葉を受け止めすぎていたのか、近代の歴史のことを考えるときはいつも罪人のような気分になっていた。今思えば、80年代の空気自体に、それが冷戦のせいなのかわからないが、今とはまた違った独特の重苦しさがあって、そんなことも微妙に心理に影響したかもしれない。
このような心理状態にあった私は、特に朝鮮半島(もちろん在日を含む)に対して後ろめたさを抱いていて、様々な場面で少々理不尽なことがあっても、それを我慢することであの戦争での罪が帳消しになるような、その罪から逃れられるような、今思えばつまらない自己満足なのだが、そんな気分でいたと思う。またこの頃はまだ向こうにも一定の配慮の雰囲気があり、「謝罪そして赦し」という呼吸が日本と半島の間には存在していて、それでうまく行っていたという側面もあったように思う。
…そして2000年代。これまで信じこまされてきた「過酷な植民地支配」の話が相当に違うということを知った時には、怒りというよりも、どういう事なのか俄には飲み込めない、信じられない、呆気にとられたような感じであった。ただそれでも、その影響がたかだか私の内心の問題(自己満足)にとどまる些細な個人的経緯はどうでもよかった。しかし同時に思ったのは、そういう気持ちを持っている人に対してその「歴史的経緯」をより重大な意味で利用してきた連中のことだった。
「731部隊」や「南京大虐殺」は気がついてみれば笑い話にもなるが、朝鮮半島がらみの歴史捏造は、それによって国内で起きたことを考えると、私は笑うことができない。
特に許せないと思うのは、昨今繰り返されている歴史論争で、かつてはあれほど過酷であったはずの朝鮮植民地支配が、「広義の強制」などの新たな概念の発明によって、徐々にマイルドな、つまりは等身大の姿の方向に軌道修正されてきていることだ。
私は「広義の強制」や「女性の人権」などという論点ずらしに付き合うことなく、かつて誰がどのような嘘をつき、日本人を騙して、それによりどういうことが起きたのか、それを確かめたいと思っている。