つかこうへいの歴史観

つかこうへいは1948年生まれの在日二世であり、日本では知らぬ者がおらぬほど有名な劇作家である。

ここではつかこうへいが「植民地支配」をどのようなものだと認識していたのかを、氏の著作から探ってみたい。

氏の著作を根拠(証拠)にすることで、戦後主流であった左派史観(いわゆる自虐史観)がいったいどのような内容のものであり、そしてそれは筆者の勝手な思い込みではなく、まぎれもなく現実にあったものだということが、当時をよくしらない読者にも説得力をもって示せるのではないかと期待するものである。

参考とする資料は2冊の 『娘に語る祖国』(1990年、1997年)である。それぞれ甲・乙とする。

(甲) 『娘に語る祖国』(1990年/つかの回想話でありノンフィクション)・・・以下甲と表記 →楽天Amazon
(乙) 『娘に語る祖国――「満州駅伝」従軍慰安婦編』(1997年/フィクション)・・・以下乙または『慰安婦編』と表記

以下で説明する各項目には、比較のために(つかの認識)と(事実)を併記しているので、1990年代当時の氏の歴史認識がどれほど「事実」と異なっていたかを比較しながら読んで欲しい。

なお氏の歴史観を理解するにはひとつ注意すべき点があるので、それを以下の囲みに書いておく。

つかこうへいの歴史認識は、氏の作品を国語的に解釈してもみえてこない。

なぜなら氏の記述は、ある事情により歪んで表出されているからである。

氏の作品上の表現は、氏が信じていた左派史観(虚構)と、取材や実体験にもとづく事実(真実)とのあいだで整合性をとった結果であり、そのため氏の歴史観そのものよりも「真実」の側に、整合性を取った分だけ寄っているからである。 ゆえに彼の歴史観そのものを知るには、文面からその「寄り」の成分を削ってとらえる必要がある。

このような事情により、このページでは、氏の歴史観を端的に示すために、あえてその「寄り」が少ない箇所を選んで提示している。選択が恣意的と感じる人、ここで落としている記述も検討したい人は各項目のリンク先などを参照してください。

つかこうへいは在日ではあるが、党派性のあるような人ではない。氏は本当に素朴に以下で示したような誤解をしていたのである。 そしてこの誤解は当時筆者(私)がもっていた歴史観とまったく同じものなのである。

※以下便宜のため、左派史観(自虐史観)を世界観A、正しい歴史観を世界観Bと表記する。(→「植民地支配」をめぐる2つの世界観

「植民地支配」― 日本人と朝鮮人の関係

(事実)日本人と朝鮮人は同胞(同じ皇国臣民)である。

(つか)朝鮮人は同胞ではなく、支配者である日本人に隷属し奴隷扱いされている。(非同胞的関係

戦前、日本は大東亜共栄圏をつくるという構想のため(アジアが心を一つにするということですが、早い話、植民地をつくって奴隷として働かせようとしたのです)、朝鮮や満州(今の中国東北部)を侵略しました。 (甲34頁)

ですから、パパは考えました。 昔、奴隷のように扱われたといって恨むのではなく、奴隷のように扱われるにふさわしい、その程度の国であり、国民であったと考えようと。(甲36頁)

朝鮮と日本の関係

(事実)日本と朝鮮はひとつの国だった。日本と朝鮮は味方であり、力を合わせて戦争もしていた。

(つか)「植民地支配」している日本は敵国である。

村井「鬼塚は日本人じゃない、韓国人だ」
つか「えっ、韓国人で特攻に志願したのかね」(乙154頁)

鬼塚「(前略)祖国を捨てて、いわば敵国のために死のうとしていたのです。これからどうしたらいいんだろう。今さら、韓国には帰れません。父や母に合わせる顔もありません。もう恥ずかしくて恥ずかしくて、どうしようもありませんでした」(乙160頁)

これは乙の登場人物・鬼塚(日本軍上等兵)が、じつは朝鮮人であったということが明らかになる場面(戦後のシーン)である。

前段は、警視庁の村井君に鬼塚の消息を尋ねる場面で、つかが本人役で登場している。 後段はつか(本人役)がその鬼塚の家を訪ねて戦争中のことについて話を聞く場面である。

この場面のポイントは3つある。

(1)後段の鬼塚の台詞に「敵国」という表現があるが、これは比喩表現ではない。 正しい歴史認識(日本人と朝鮮人は同胞=世界観B)を踏まえた上で、それでも「植民地支配」された朝鮮人の恨みを代弁してあえて「敵国」という表現を使ったもの、ではない。
このときのつかは、日本人と朝鮮人が同胞(味方同士)であることを明確には認識しておらず、併合時代の日本は、朝鮮人からみると「敵国」あるいは少なくとも「味方ではない何か」と認識していた(世界観A)。つまりここでは鬼塚に素朴な意味で「敵国」と言わせている。

(2)前段二行目(下線部)には、朝鮮人の特攻志願者がいたことが、作者にとって(ここは本人役なので、すなわちつか本人にとって)「驚き」であったことがあらわれている。
この「驚き」は「奇特」という意味ではない。 自国を「植民地支配」している「敵国」の特攻に志願するなど「意外である」「意味不明である」「正気の沙汰ではない」という意味である。*1

(3)鬼塚が朝鮮人だったことが明らかになるこの場面は、じつは物語の終盤に置かれており(→その場面)、つまり鬼塚は朝鮮人であるという正体を(読者にも)隠して日本兵となっているという設定になっている

さて、正しい歴史(世界観B)を知っている人からみると、この鬼塚の人物設定はかなり奇妙ではないだろうか。

なぜなら、当時の朝鮮人は日本の同胞(味方)だったのであり、それゆえ普通の日本人と同様に、志願兵あるいは召集令状(赤紙)によって兵隊になったのであって、そこに日本人日本兵と同様のエピソード、たとえば徴兵逃れのために醤油を飲んだとか、行軍がきつかったとか、そのような種類の苦労話がありえたとしても、この鬼塚のように、特攻隊に志願することが「驚き」となったり、日本軍に加入したことで「親に合わせる顔がな」くなったりするはずがないからである。 日本名で朝鮮人であることを隠す必要もない。(鬼塚の正体を構成によって読者に隠す「仕掛け」も必要ない)

鬼塚という朝鮮人日本兵について、なぜ1~3のような奇妙な設定になっているかというと、作者が史実だと思い込んでいる世界観Aでは、「敵国」の兵隊になるような(頭のおかしい)朝鮮人は基本的に存在しないと思われており、ゆえに、それを存在させるには特殊な辻褄が必要だったからである。

ゆえにつかは鬼塚を、自己の栄達のために、祖国を裏切り、日本名で朝鮮人という身分(被支配階級)を隠して日本軍(支配階級で敵国)に潜り込んだ朝鮮人――という人物設定(辻褄)にしているのである。だから鬼塚は親にも「合わせる顔」がないのである。(しかも後述するように、この作品(乙)では、鬼塚は慰安所の管理責任者らしき立場に置かれており、同胞である朝鮮人の女を「敵国」の「性奴隷」にしていたことを、戦後になって後悔するという筋書きになっている。なおさら「合わせる顔がない」)

じつは作品(乙)執筆時のつかこうへいは、朝鮮人日本兵について、形式的には(その存在は)知っているが、実質的には(同胞であることを)理解していないのである――こうした朝鮮人の「非同胞性」は世界観A(左派史観)の特徴である。*2

*1) この「意味不明さ」「ありえなさ」をあえて喩えるなら――あくまでもあえての喩えであるが――、構造はかなり異なるが、シベリアに抑留され奴隷扱いされてる日本人がロシア(つまり敵国であり非同胞)を守るために特攻するようなことを想像してもらうと、感覚がすこし掴めるかもしれない。ここではそういう種類の「意味不明さ」のことを述べている。
*2) 因みに筆者が朝鮮人日本兵を形式的に知ったのは、少年期にはだしのゲンの中の一コマを読んだとき、そして1990年代後半の靖国訴訟のときのことである。しかしそのときの筆者は、つかこうへいと同様に、朝鮮人が<同胞>であったことを理解できておらず、朝鮮人が日本兵となっていることが理解できずにいた。(なので筆者は、つかが抱いていた「意味不明さ」が実感としてよくわかる)

「植民地支配」― 統治政策

「強制連行」

(事実)朝鮮人に課されていた徴用のこと。日本人に課されていたものと基本的には同じ性質のものであり、ようするに兵役を代替するものであった。(戦場に行かない人がその代わりとして国内で労働した)

(つか)「強制連行」は奴隷労働(比喩ではない)のことである。(兵役のバーターという性質のものではない∵非同胞)

「国を捨てたんじゃないだろう!!強制連行されたんだろうが」
(中略)
奴隷船みたいなのに乗せられて、連れて行かれたんだ。食いもんももらえず、手は鎖でつながれ、足にはでかい鉄の玉をぶらさげられて……。」(甲88-89頁)

この引用は気心の知れた仕事仲間との会話部分であり、冗談めかして漫画チックな表現を使っている。ゆえに奴隷船に乗せられて鉄球云々というのは、このままをイメージしていたわけではないと思われる。 しかしこうした喩えが出てくること自体に、日本人と朝鮮人の関係が同胞関係ではなく隷属関係であったと誤解している様子が見て取れよう。

もし氏が正しい歴史認識、すなわち日本人と朝鮮人(台湾人)は同じ国民として戦争を遂行していて、「強制連行」が単なる戦時徴用であることを知っていたら、「奴隷船」はなかなか出てこない表現ではないだろうか。

日本語強制・創氏改名(皇民化政策)

(事実)標準語教育、氏制度。朝鮮語や民族名は禁止も廃止もされていない。併合末期五年間程度の政策。

(つか)日本語と日本名を強制した制度。朝鮮語民族名は禁止・廃止されていたイメージ。(併合直後からのイメージ?)

「そんなことありませんよ。母国語を捨てさせられ、強制的に日本語を覚えさせられたんですよ。誰が日本語を使いたいもんですか」(甲96頁) *1

「韓国と日本には、悲しい歴史がある。改名を迫られ、言葉を奪われた憎しみは、決して消えることはないだろう。(後略)」(甲142頁) *2

「母国語を捨てさせられ」「言葉を奪われた憎しみ」は比喩表現ではない。文字通りの意味である。朝鮮語を話すと捕まったかのような教育が、日本でされていたからである。

「創氏改名」についても、民族名が禁止・廃止されたかのように言われていた。

*1) これはつかの仕事仲間である菅野の台詞(つかとの会話)。つかも否定しておらず、事実上、内容として承認している。(→つか4
*2) これはつかが演出した劇の登場人物の台詞。つかが言わせている、ないし、内容として承認している。

「従軍慰安婦」

(事実)売春婦のことである。そこにまつわる問題はさまざまあった(娘の身売り等)。慰安婦に日本人もいた。

(つか)売春婦ではなく、性奴隷(比喩ではない)のことである。慰安婦は朝鮮人のみである。

「私(池田)は慰安婦を抱くなんてとんでもない、いや、そんなのは人間がやることじゃない、と思っていました。娼婦を金で買うならまだしも閉じ込められて慰みものになるためだけの女性を存在させていることがとても許せなかったのです。(乙66頁)

つかこうへいが『慰安婦編』(乙)で描いた「従軍慰安婦」は、日本軍が日常的に朝鮮人女性を拉致誘拐などして、性的搾取していたというものである。(→つかこうへいが描いた従軍慰安婦

「日常的」とは、そうした行為が合法という意味である。(いわゆる「20万人説」→「従軍慰安婦」問題とは何か
引用から明らかなように本作品で描かれている慰安婦は通常の売春婦(娼婦)ではなく無給の「性奴隷」である。

この物語は、作者が、朝鮮人は非同胞的存在(奴隷)だったという世界観Aをもっていたからこそ創作できた話である。もし朝鮮人が「同胞」であると理解していれば、このような話は作れなかったはずだからである。 (→朝鮮半島を「紀伊半島」に置き換えるとわかる「従軍慰安婦」問題のおかしさ
この作品は「植民地」の、同胞ではない、いわば奴隷の女と思っていたからこそ、成立する話なのである。

つかこうへいは作品のための取材を通じて、「従軍慰安婦」は金銭の授受もある売春婦のような存在であること、そこには日本人慰安婦もいたことなどの情報に接していくのだが、しかし慰安婦をA(20万人説)だと思いこんでいるつかは、そのような事態をまったく想定していなかったため、ものすごく驚いてしまうのである。 (→つか2 →長文解説

そしてつかは、そこまで世界観B(真実)に迫ったにもかかわらず、結局はAというドグマからは逃れられないまま、この作品を書いてしまうのである。(→なかなか解けない「世界観A」について

結局つかこうへいは、従軍慰安婦について、形式的には普通の売春婦のような存在であることに気づきながら、実質的にはそれが本当に単なる普通の売春婦であることを)最後まで理解できなかった(慰安婦A=性奴隷という誤解から抜けられなかった)のである。

〔参考文献〕
『娘に語る祖国』 つかこうへい 1990年  ★楽天 ★Amazon
『娘に語る祖国 「満州駅伝」―従軍慰安婦編』 つかこうへい 1997年