私と歴史問題(1)

はじめに

日韓の近代史にまつわる問題について、朝鮮人側の視点は新聞記事や映画や小説のテーマとしてよく扱われる。朝鮮人がどれだけ「植民地支配」や戦後日本での「差別」に苦しんだかという類の作品を誰でも一度は見聞きしたことがあるだろう。

しかしこの歴史問題について日本人側からの視点がとりあげられることはほとんどない。 とくに戦後の日本人が日韓の歴史をどのように認識し(誤解し)、それに対してどのように感じて過ごしていたのかについて描かれることは、ほとんどない。 その理由はおそらく単にビジネスとして成立しないからであろうが、この「日本人側からの視点」がほとんど扱われないがために、この問題の原点、すなわち日本と朝鮮半島の間にある歴史問題の本質がどこにあるのかという点が有耶無耶になってしまっているのである。(→「朝鮮半島をめぐる歴史問題」とはなにか

そこで本稿では、左派史観(→世界観A)が席巻していた時代に、とくに1980年代から1990年代に、この歴史問題が日本社会にどのように影響を与え、その下でどのようなことがおきていたのかを筆者の経験を元に語ってみたいと思う。
そうすることで2000年以降に「歴史問題」に興味を持ったような人にも、「日韓歴史問題の歴史的経緯」がどのようなものであり、日本側が何に怒っているのか、その怒りのポイントが伝わるのではないかと期待するものである。 (ちなみにいわゆる「在日特権」などではない)

では以下本文。  ※閲覧上の注意

私と歴史問題(1)

私(1970年生)が歴史問題をはじめて意識したのは10歳(1980年)の頃であったと思う。

それはある日の通学途中に突然おこった。

私とほぼ同じ年端の集団が、一列横隊で足を踏み鳴らし、なにやら激しい言葉を浴びせながら近づいてきた。そして私をぐるりと取り囲み、小突いたり暴言を吐いてきた。

私は最初、彼らが何者であるのか、そして彼らが何を言っているのかもわからなかった。

しかしそういうことが度々繰り返されるうちに、彼らが「強制連行」されてきた朝鮮人の子孫であり、彼らが発している言葉が朝鮮語で、そして彼らが私に投げつけている「チョッパリ」という言葉は、日本人に対する蔑称なのだということをなんとなく理解していった。(→「強制連行」問題とはなにか

私を取り囲んだ子たちが通っていた朝鮮学校には、小学校だけでなく上級の学校も併設されており、そこの女学生たちは民族衣装風の制服で登校していた。通学中にその女学生の姿が見えると、まわりに粗暴な男子学生がいるのではないかと思って小さくなっていたりもしたが、なによりも恐ろしかったのは、彼らの目や表情には日本人に対する憎悪と侮蔑がありありとあって、その雰囲気が異様だったことである。

小学生の頃の私は、登校時間を変えたり、道を変えたりしながら、彼らとなるべく接触しないようにしていた。しかし中学生になると、私の身体が大きくなったせいなのか、通学の経路が変わったせいなのか、理由はよくおぼえていないが、彼らとの接触も減り、そうした経験はほとんどなくなっていった。

しかしあの日の「事件」以来、私はずっと朝鮮半島や歴史問題というものに強いこだわりを持つようになっていた。*1

なぜならそれは、戦後25年も経って生まれた私に、戦争という過去と現在とをつなげる出来事、すなわち 日本の戦争による「負の遺産」である人々が今この日本にいるのだという現実をつきつける出来事だったからである。

私が十代だった1980年代は「戦争責任」という言葉が頻繁に使われていた時代だった。(そういえば最近はほとんど聞かない)

もっとも戦争「責任」といったところで、戦後生まれの日本人には直接の責任はないのだから、当時の若者が当事者意識を持つことはない…と今の人は思うかもしれない。

しかし1980年代というのは、この「戦争責任」が「歴史を学べ」という言葉となって若い世代に向けられており、戦争と平和について学ぶことが戦後日本人の責務であるかのように言われていた時代だった。 ゆえに自分たちには関係ないなどと開き直れるような空気ではまったくなかったのである。

とはいえすでに終戦から三十年以上が経過し、高度経済成長を経て豊かにもなり、戦前戦中世代から「いまの子はアメリカと戦争したことも知らない」と嘆きと諦めがないまぜになったような言葉がでるくらいに戦争の記憶も過去のものになりつつあったこの頃、私と同世代の多くは、内心は、戦争のことはもう過去のことであるし、自分には直接関係ないと距離をとっていた人も少なくなかったと思う。 なにしろファミコンや週刊少年ジャンプの世代である。 戦争や歴史問題にほとんど関心を持たずに過ごした人もいたし、たとえ関心をもったとしても、そうして既に過去のものとして心の隅に追いやった人もおそらく少数ではなかった。 そして今思えば、そちらの方がむしろ健全な反応であったとすら言えるかもしれない。

しかし環境的に、また性格的に、日本の過去とたまたま向き合ってしまった私には、日本がかつて起こした「事実」から逃れることはできなかった。

当時の私は、今日のように「進歩的知識人」という種族を認識していたわけではない。日本人の中に、日本のことをあえて悪く言う人間がいるとは想像もしていなかった。ゆえにメディアその他で言われていることは、すべて真実だと思っていた。

1980年代というのは「日本の悪事」が暴かれることがむしろもてはやされるような「進歩的」な空気があって、「南京大虐殺」や「731部隊」などの日本の国家犯罪はそのような空気の中で語られていた。

メディアでしばしば言及されていた家永裁判(教科書裁判)は、日本軍の悪事を暴き平和教育に活かそうとする真っ当な知識人側と、「戦争犯罪」を正当化し、また隠蔽しようとする日本政府側という構図で見せられていた。

この頃は無論まだ戦争世代がいくらでも存命中の時代であるから、教科書の記述を含め、まったくのデタラメ嘘が流布されているなどとは、このときの私には想像もできないことだった。ゆえに、こうした言説や構図に少しも疑いを持たずに聞いていたのである。*2

歴史番組などでは東条英機はたいていヒトラー、ムッソリーニと並んで語られ、もちろんそれは三国同盟の並びなのであるが、ようするにそれが意味するところは日本=ファシスト=犯罪国家という意味だった。
そうして私はいつしか自然と日本の行為とホロコーストとを重ねて見てしまうようになっていた。

この時代は、なぜか「植民地支配」のことが「南京大虐殺」「731部隊」と同列にされ、あたかも「戦争犯罪」であったかのようなニュアンスで語られていた。 今思えば、同胞であった朝鮮人と、敵方であった中国人(南京や731)のことを並べて語るのはおかしいはずなのだが、当時の私にはそんな知識はなかった。

「植民地支配」という言葉は、欧米列強が行っていたそれ(奴隷など)しかイメージできないものだったので、実際私は、教科書やメディアからで聞く話からしても、「植民地支配」され「強制連行」された朝鮮人が日本人の同胞であり、戦争も一緒にしていた味方(身内)だったなどとはまったく思っていなかった。

そうして私は、南京大虐殺や731と同じように朝鮮人は日本の「植民地支配」という「戦争犯罪」によって苦しんだ人々(非同胞)であるという誤解に陥っていた。*3

朝鮮人は、長年名前を奪われ、朝鮮語が禁止されてきた人々であり、また在日とは日本が「強制連行」してきた朝鮮人(の子孫)である…という歴史観(→世界観A)を史実として信じるようになっていた。

そしてあたかもドイツ人がホロコーストを学ぶことが義務であるように、「南京大虐殺」「植民地支配」を学ぶことが戦後日本人の責務であるというような気持ちになっていたのである。

国家犯罪として語られた「植民地支配」、そしてその中で「強制連行」されてきた「在日」という存在。

この「過去の歴史」と現在の「事件」があいまって、戦争という過去が、いまの自分にも直接突きつけられているような、戦後のわれわれも当事者同然であるような、そんな気に私はさせられていた。

この「歴史認識」をまともにうけとってしまっていた私は、日本人として、「民族的葛藤」すら感じていた。

そして1990年代になると、この「葛藤」に、さらに「従軍慰安婦」の問題が加わることになる。

*1) もっとも「強いこだわり」といっても積極的に自分で何かを調べたりしたわけではない。報道や歴史の授業で注目をしていたという程度でしかなかった。それで十分だと思っていたからである。報道や教科書を疑うという発想はなかった。
*2) もちろんそうした言説に対する反論もあったが、しかしそうした反論は「右翼妄言」であって嘲笑の対象だった。
*3) 日本と朝鮮の関係が、日本と中国のような「敵同士」であったかのような錯覚は、一般にもあったと思う。たとえばつかこうへいも朝鮮にとって日本は「敵国」であるという誤解をしていた(→つかこうへいの歴史観)。