わたしが統一教会問題にこだわる理由

統一教会とは、「植民地支配」「従軍慰安婦」などによって涵養された日本人の贖罪意識(後述)につけこんで活動してきた、韓国系のカルト宗教である。

1980-90年代、日本の芸能人も多数巻き込まれた合同結婚式は、当時を知る人で知らない人はいないくらい有名な事件である。

読者のなかには、いくら贖罪意識が利用されるといっても、そんなカルト宗教に入信すること自体どうかしている、そう思う人もいるかもしれない。 実際、私も当時そう思っていたし、現在でもその意味ではそう思っている。

しかしながら、それがどこにどのように利用されたかを知れば、すこし見方もかわるのではないだろうか。

それは入信時に利用されたのではない。

>日本人女性の贖罪意識は、韓国の貧しい農村の嫁不足の解消ために利用された

のである。

つまり、いくら教祖が相手を選ぶカルト宗教だとしても、基本的にそれは幸せな結婚でなければならない。条件が悪い相手では不満がたまり、いずれ体制は瓦解してしまうからである。

しかし、かつて日本が朝鮮人に塗炭の苦しみを強いたのだから私の苦労くらいはなんでもない、そんな罪滅ぼしの気持ちを持つような性格の人に対して、悪条件を受け入れ、維持する方便としてこの贖罪意識が利用されたのである。(↓関連資料)

では、そこで利用された「贖罪意識」とはどのようなものか。何によってそのような意識は涵養されたのか。
それは、戦後教育や戦後メディアによって流布された左派史観(→世界観A)によって涵養されたのである。
つまり「南京大虐殺」など日本軍の「犯罪」がナチスと並べて語られるような時代に、朝鮮半島における「植民地支配」の諸政策についても国家犯罪的なイメージで語られていたため、それを真に受けてしまった人に強い贖罪意識が涵養されたのである。

当時、この虚偽の左派史観に影響を受けていたのは私も例外ではない。ゆえに、こうした統一教会のやり方についても、
>日本はそれだけのことをしたのだから、そこが利用されるのはしかたがない。
そう思わされてしまっていた。なぜなら左派史観によって見せられていた「植民地支配」の景色は、私にとってそう思うに値するほど過酷なものだったからである。

私が抱いていたこうした左派史観は、当時のごく一般的な日本の教育および普通の日本のメディアによって形成されたものであって、そこになんら特別な事情があったわけではない。 そのことは、私と世代も経歴も違う人たちが、似たような歴史観を持っているところからも、この史観が当時としてはそれほど特殊なものでないことがわかるだろう。(→資料編
そうして私たちの世代が、左派史観に洗脳されているところにつけこんできたのがこの統一教会なのである。

もっとも当時、こうした贖罪意識が実際につけこまれたかどうかは、その人が置かれた環境、またとくに性格(内省的かどうか)なども大きな要素になっていたと考えられる。つまりこうした史観を持っていた人間すべてが統一教会の潜在的被害者だったというわけではない。

しかしながら、日本の教育とメディアを通じて、こうした内容の史観がこの規模で定着していたということは、統一教会に悪用されうる「贖罪意識」をもちうる人(そういう性格の人)がどれくらいの規模で存在したかも想像できるのではないだろうか。

1980年代はオウム真理教などカルト宗教が流行していた時期であり、そうした問題宗教に対する注意は一般にも共有されていたし、私個人も、自分のおかれた環境や新興宗教に対する警戒心などからして、このような団体に囚われるような蓋然性はほとんどなかったと思う。
しかしもし、なんらかのきっかけで囚われていたとしたら、その気持を利用されただろうという感覚がある。
(「植民地支配」に贖罪意識を感じて、何かと朝鮮人に対して強く言うことができないような抑圧された感覚を経験をした人であれば、私以外にも、この気持ちがわかる人がいるのではないだろうか)

そのせいか私は、実は、北朝鮮の拉致問題よりもこの統一教会の方を身近に感じるし、許せないと思う気持ちが強い。
私が統一教会問題や旧パラダイム(左派史観)の時代にこだわる理由はここにある。

歴史問題と統一教会の関係性については、櫻井・中西『統一教会』(2010)において次のようにはっきりと明言されている。

日韓の歴史的関係に植民地支配―被支配の関係がなかったならば、韓日祝福は成り立っておらず、7000人もの多くの日本人女性信者が結婚して渡韓することはなかった。(中略) 韓日祝福は韓国社会の社会構造的な歪みの上に日韓の歴史的関係を結び合わせたところに展開された布教戦略であるといえる。(447頁)

しかし私はこの表現には不満がある。「もし植民地支配についての嘘話がなかったならば」とするべきではないだろうか。

戦後、「植民地支配」の実像が歪むこと無く、等身大の歴史観(世界観B)が共有されていたならばこのような事件は起こらなかったのではないか。 統一教会事件は左派史観が引き起こした、最大最悪の事件ではないのか。私にはそう思えてならない。

1980年代は、統一教会だけでなく幸福の科学、オウム真理教などもその勢力を拡大させた時期である。

そうした社会現象については、UFOや心霊現象(宜保愛子)などの神秘主義ブーム、あるいは日本が豊かになったが故の自分探しブームなどの影響を指摘する声が、当時からあったように記憶している。だから統一教会の勢力拡大も歴史認識問題「だけ」が原因というわけではないのだろう。

しかしそれでも被害額などからも歴史認識問題との関連性がみてとれ、証言などからもそれが重大な要素であったことは明らかである。

私には、統一教会問題は軽視されすぎているように思える。しかも70年前100年前の出来事ではない。たった20年数前の、現在も進行中の問題である。

統一教会問題は、日本の戦後教育も絡んだ、より大規模で悪質な、オウムなどのカルト事件とはまた別次元の、重大さでいえば北朝鮮の拉致問題と同格かそれ以上の事件と考えるべきではないだろうか。

そしてこれまで左派史観を喧伝してきた人間の責任が強く追求されるべきではないのか

そんな思いから私はこのホームページを書いている。

(終)