はじめに
本稿では、在日韓国朝鮮人の特別永住資格(1991年)についての説明を行う。
筆者がこの資格について説明する必要を感じたのは、鄭栄桓、荻上チキ氏らによるミスリーディングな鼎談記事(外部サイト)をみつけたからである。
この鼎談は、特別永住資格が成立した1991年当時の社会状況を踏まえずに説明をしているところに問題がある。
というのは1991年当時は、「在日は『強制連行』の被害者である」という歴史認識がかなりの範囲で定着しており、その誤解のもとに特別永住資格は認められていくからである。
では、当時どれくらいの範囲で「強制連行」の嘘が定着していたのか。 それはどのように特別永住資格に影響したのか。 そしてそうして認められた特別永住資格に正当性はあるのか。
その説明を試みるのが本稿である。
特別永住資格とは
今日、在日韓国朝鮮人という人々が日本に住んでいる。 彼らは特別永住という資格によって滞日している。 この資格は、もともと1965年の日韓基本条約により在日二世まで認められた協定永住という資格があり、それが1991年の再協定によって三世以降にも永住資格が拡張されたという経緯をもつ。
1965年の協定についてもう少し細かくいうと、1945年8月15日以前から日本に滞在していた朝鮮人、およびその子供で1971年1月16以前に届出た者を「一世」(協定一世)と定義し、その「一世」の子供(協定二世)までに永住資格を与えるというものである。
協定一世の範囲がやや広くとられすぎのような気もするがそこはさておき、要するにこの1965年の協定の趣旨は、戦前及び戦後の混乱期に日本に滞在していた朝鮮人とその子供(二世)に対して、帰国の猶予としての居住資格を与えたものである。
筆者は、戦後の混乱期という時代背景を考慮して、二世までの滞日資格を与えた日本政府の「配慮」は、何らおかしいものではないと考えるが、さて、ところで、ここまでの説明を読んだ読者は、この在日の永住資格が1991年に三世以降にまで拡張されたことについては、どのように感じるだろうか。 当然だと思うだろうか。それとも不思議だと思うだろうか。 なにしろ韓国朝鮮人にだけは、子々孫々この資格が受け継がれるという、他の外国人にはみられない特徴をこの「永住資格」はもっているからである。いったい彼らが「特別扱い」される根拠はどこにあるのだろうか。
特別永住資格について今日なされる説明とは
在日朝鮮人特別扱いされることについて、民族派在日や日本の進歩的知識人は、「歴史的経緯」によって認められたのだという説明をすることが多い。
たとえば鄭栄桓は、2015年に荻上チキらとの鼎談において次のような説明をしている。
まず彼は「特別永住資格」の歴史的経緯について問われた文脈において、在日韓国朝鮮人の来歴から説明をはじめる。
私は日本の朝鮮植民地支配の結果、日本に渡り暮らすことになった朝鮮民族全体を指す言葉として「在日朝鮮人」という言葉を使っています。
(中略)
渡日した朝鮮人たちは、はじめは男性中心だったのですが、1920年代から30年代にかけて家族を呼び寄せることで人数が増え社会が形成されていきます。そこに日中戦争後の強制連行、総動員体制があり、更に日本の朝鮮人の数が増えることになりました。1945年の段階で200万人を超える朝鮮人が日本にいたといわれています。
(中略)
そして、日本が戦争に敗北すると150万前後の人たちが朝鮮半島に帰っていきました。当時の調査を見ると、残りの人たちも多くが帰国を希望していました。しかし、日本での在留が長くなっていますから、向こうに生活基盤も無い人もいます。持ち出せる財産にも制限がありました。このためすぐには帰れず、日本で暮らす人も出てきます。 (→鼎談全文・外部サイト)
これに続けて、「帝国臣民」であったはずの朝鮮人が1952年に一方的に日本国籍を喪失させられた際、日本政府は自国の利益のために朝鮮人の法的身分を意図的に確定せず、暫定措置として「在留の資格」という中途半端な身分に置いた。 それが1965年の日韓条約によって正式に二世までの永住資格になった。そして1991年には三世以降に拡張された…このように「歴史的経緯」について述べることによって、鄭栄桓らは特別永住資格の正当性を説明しようとしている。(→鼎談全文参照)
つまり特別永住資格は、「植民地支配に起因する、他の外国人と違った存在」に対して許可されたものであるから、「代々永住許可が継承されていく」など、(日本の植民地支配とは無関係の)一般外国人と違った扱いであっても道理に適っている・・・およそこのような論理でこの資格を正当化しているのである。
鄭栄桓らのこうした説明は、つかわれている用語や数字等に疑問があるものの、歴史の流れをおおむね正しく踏まえており、これを素直に読んだ人は、なるほどこうした「歴史的経緯」を踏まえれば在日の永住資格は、それなりに理のある権利だと思うかもしれない。
筆者自身もこの説明だけを読めばそう思わないでもない。
しかしこの説明にはひとつ大きな誤魔化しが潜んでいる。それは何か。
「強制連行」の2つの意味について
詳しい説明に入る前に、ひとつ用語整理をしておきたい。
じつは歴史問題の文脈で使われる「強制連行」という言葉には、2種類の意味がある。
A>植民地支配で隷属させられていた朝鮮人が、拉致同然で日本に強制的に連行されてきて、強制労働等で苦しんだ人々及びその子孫
B>戦前に朝鮮から日本に移ってきた人々または戦中の徴用で来日して戦後も残った人々及びその子孫
むろんBの方が史実であるが、簡単に説明するとBの「徴用」とは、徴兵されなかった者に対し、その代わりとして課せられていた労働義務のことである。当時同胞であった朝鮮人にも日本人同様に徴用の義務が課せられ、日本の炭鉱などで労働に従事していたのである。
そしてもし、このBという「正しい歴史的経緯」を踏まえつつ、上の鄭栄桓らの説明を素直に読んだ人は、1991年に延長された特別永住資格にも、元同胞であり生活基盤が日本にある等の歴史的経緯に鑑みれば他の外国人とは異なる扱いをすることにも一定の正当性があると思ってしまっても不思議ではないと思われる。(もっとも、それでも特別扱いするのはおかしいと当時の朝日新聞は(至極まともな)批判をしているのであるが、この点についてはまた後で考察しよう)
ところが、1991年当時「強制連行」は、じつはAの意味で使われていたのである。 つまり、あたかも「植民地支配」によって隷属させていた朝鮮人(非同胞)を連行してきて、日本で強制労働させたかのようにいわれていたのである。(たとえば→はだしのゲンにみる「強制連行」)
じつは1991年の特別永住資格というのは、こうした時流の中で、戦時徴用Bではなく、強制労働Aの犠牲者である在日への配慮要求として認められていったのである。
にもかかわらず冒頭の鄭栄桓らの説明は「強制連行」をBの意味で使っており、つまりあたかも「強制連行」がずっと正しくBの意味で使われ、そのなかで「特別永住資格」認められたのだから、それは正当な権利だと論法で話を展開しているのである。(当時の政治的状況をよく知らない人なら、こうした鄭の説明に誘導されてしまうだろう)
要するに鄭栄桓らは、1991年当時「強制連行」はAの意味で使われていたということ、Aという虚構を在日への配慮要求すなわち「特別永住資格の三世以降への拡大」に政治利用したという事実を誤魔化しているのである。
さて以下、1991年にこの強制連行Aという誤解が特別永住資格(の拡大)へと繋がっていくという説明をする前に、ひとつ指紋押捺制度の廃止について説明しておきたい。 というのは指紋押捺は、特別永住資格の問題に先駆けて、1980年代の中盤から注目されはじめたトピックであり、つまり特別永住資格の拡大は、この指紋押捺廃止の世論形成の延長線上にあるからである。
強制連行Aがどのように指紋押捺廃止、そして特別永住資格の拡大に影響していったかを知るために、1980年代の日本社会の世論状況から説明しよう。
1980年代に注目された在日の人権問題=指紋押捺制度と「強制連行」
さきほど述べたように「強制連行」の政治利用については、特別永住資格よりも指紋押捺問題の方が先になる。 指紋押捺制度とは在日外国人に課された指紋登録義務のことで、在日はその対象となっていた時代があるのである。(なお2000年に在日韓国朝鮮人以外の外国人の押捺も全面廃止)
なぜ当時この指紋押捺が問題になったかというと、まず1980年代というのは人権意識が高まった時代で、指紋押捺のようなものが人権トピックとして注目を集めがちになっていたからである。
筆者が小学生だった1970年代の後半~80年代前半に行われていた社会科系の授業というのは、1960年代前後に集中した公害病(水俣病や四日市喘息など)の話が盛んに扱われていた。 このように1980年代というのは、人々の関心が「経済成長」から、他の問題に目を移っていった時代にあたり、いわゆる「人権意識」の向上もそうした時流によるものという印象がある。ちなみに男女雇用機会均等法の成立も1985年である。
こうした時流との関係もあってか、1980年代の半ばに在日韓国朝鮮人の人権問題が俎上にのぼってくる。 そしてこのときに差別問題(*1)とともに議論の中心となったのがこの指紋押捺問題なのである。
この指紋押捺の問題は当時かなりメディアでも取り上げられていたので、当時を知る人なら覚えている人も多いだろう。 この問題が当時どれくらい注目されていたかというと、タレントで弁護士のケント・ギルバートは1989年に出した自著の中でわざわざ次のように述べているし、つかこうへいも1990年『娘に語る祖国』にて指紋押捺について触れているところがある(→つか4の9)。 このように指紋押捺問題は当時の結構なホットトピックだったのである。
だけど指紋押捺の本当の問題は、僕たちみたいな外国人とは別の、はっきり言えば僕とは直接関係ないところにあるんですね。それは韓国人のことです。(中略)ヒューマニテリアン(人道主義者)が「人権侵害だ」と文句をいうのと、韓国人が怒っているのとは内容が違います。
いま日本に韓国人が大勢いるのは、日本と韓国の過去の不幸なつながりの結果ですね。僕らは自由意志で来ているけれど、何代も何代も日本にいる韓国人は、最初から来たくて来たんじゃないし、帰ろうと思っても、そう簡単に帰れません。そういう人たちと僕みたいのと、いっしょの外国人扱いしているのは、ちょっとおかしいんじゃないかと思うんですね。
ケント・ギルバート『ボクが見た日本国憲法』(1989)
ここでギルバート氏が、在日韓国人の指紋押捺を廃止すべき理由として「人権侵害」よりも「強制連行」(を意味する経緯)を強調していることに注意してほしい。*2
彼は当時従軍慰安婦20万人説を信じていたと告白していることからしても(→ケント氏ブログから抜粋)、この「強制連行」はAの意味で認識している可能性が高い。つまりAの被害者である在日に配慮するべきだと彼はここで述べているのである。
ところで当時この強制連行Aという虚構はギルバート氏や筆者以外にどれくらい浸透していたのか。
それを直接示すことは難しいが、さまざまな証言を拾ってみると、在日朝鮮人が、強制連行B(戦時徴用)ではなく、あたかもアフリカ系アメリカ人のように連れてこられた(強制連行A)かのような誤解が、かなりの規模で定着していたことがわかる。 (→この証言については「強制連行」がどれくらい信じられていたか参照。 戦時徴用であれば役目を終えたら当然帰国するはずであるが、そのような基本前提が置かれているような証言はみあたらない。つまり在日は一方的に片道切符で連れてこられて、そのまま残った人々であるかのような説明の仕方になっている)
このように1980年代というのは、在日の来歴が強制連行Aのイメージで語られ、一部の詳しい人を除くと、かなり広い範囲に常識として定着していた。 そして高まった人権意識とこの「歴史的経緯」とがあいまって、指紋押捺や、ここでは省略したが外国人登録証携帯について、一般外国人とは違った扱いをするのが当然であるという論調がメディアの大勢を占めていたのである。*3
*1) この頃は在日の就職差別問題(74年日立訴訟)のほか、金嬉老に対する差別問題もメディアに流れていた。在日への差別が金嬉老のような犯罪者をうんだという論調が支配的だった。そのため筆者は、世界観Aの誤解(→2つの世界観)とあいまって、朝鮮人は、戦前戦中戦後、ずっと日本人に隷属させられ虐げられているという誤解をしてしまっていた。(→在日が無垢化した1980年代)
*2)
なおこのケント氏書籍の引用はネット上で拾った画像から文字おこししたもので全体の文脈を確認したものではない。もし問題があれば訂正します。
*3) 1980年代の空気については、「1980年代~90年代という時代の空気」でも説明している。
ではこの指紋押捺と「強制連行」の話をふまえて、ようやく本題の特別永住の話に入ろう。
特別永住資格と「強制連行」
つかこうへい『娘に語る祖国』(1990)には特別永住と「強制連行」とを結びつけて語る場面がある。*1
「二代目だけということは、その二代目の子どもたちはどうなるんですか」
「もし、みな子を韓国人にした場合、永住権はないということだ」
「つまり、日本に帰化するか、祖国に帰るか、どっちかにしろって言ってるんですか」
「そうなるな」
「ひどいなあ、それは」
「でも、国の政策としては正しいと思うよ。だって、イギリスとかドイツとか、労働力が足りなくなって、アラブやトルコから人を入れて、それがどんどん増えていき、権利だなんだと言い出したために、いまその処理に困ってるだろうが」
「でも、在日韓国人の場合は、違うでしょう。日本は昔、あれだけひどいことをしたんだから」
「オレは、そういうとこに甘ったれては生きてこなかったんだ」
現在、日本政府は、協定三世の永住権を保証すると明言していて、俗にいう「91年問題」で間もなく永住権は確定することになっています。(→つか4の9)
これだけでは意味を確定しにくいかもしれないが、本の全体をみれば(→つか4)「あれだけひどいこと」が在日が滞日している理由=「強制連行」のことが(も)念頭に置かれていることがわかるかと思う。
この特別永住資格問題は、上でもすこし触れたが、指紋押捺問題に少し遅れる形で話題にのぼったと記憶している。*2
そして侃々諤々と議論された指紋押捺問題に比べると、あっさりと認められた印象がある。
なぜあっさりと認められたかというと、前項でも書いたように、指紋押捺問題があったために、「強制連行」されてきた在日に配慮するのは当然であるという空気が、特別永住の話がでてくる前に、すでに醸成されていたからである。
そのため、話が特別永住の段になると、議論するまでもなくみとめるべきという空気になっていたという印象である。(もちろんこの空気には、在日の定住性からいまさら追い出すこともできないという現状追認的な発想も含まれていたようであるが)
指紋と特永の二者の論調の温度差については、『娘に語る祖国』の表現にもあらわれている(→つか4の9)。
指紋押捺については「いま騒がれてい」ると表現されているのに対して、永住資格の方は確定することに「なっています」という表現がされているところに、これらの問題に対する世間の温度差が垣間見えるかと思う。*3
当時この特別永住の問題がほとんど素通りしたのには、「認めて当然」という空気が醸成されていたことのほかにもうひとつ理由があって、それは1990年代に近づくにつれて、今度は従軍慰安婦の問題が注目されるようになり、世間の関心はそちらの方に移っていくからである。(なにしろ1991年は、あの金学順会見があった年である)
こうして永住資格の三世以降への拡張は、当時の歴史認識や「当然」の空気によって、指紋押捺廃止とともに、1991年の日韓法的地位協定で認められていくのである。*4
*1) つかこうへいも強制連行をAの線で誤解していたことは、つかこうへいの歴史観でも検証している。
*2) 平成2年4月17日の国会答弁には、在日三世の永住資格問題が新聞で大きく取り上げられたという発言がある。注目された時期というものがある程度イメージできるかと思う。(→別紙イ)
*3) 「騒がれている」(→つか4の9)「なっている」はいずれも1987年の訪韓時のエピソード中の挿話の中に登場する表現である。表現の時制だけをみると、特別永住のほうが指紋押捺より先に認められているようにも読めるがそうではない。
『娘に語る祖国』は執筆時点(1990年)と過去(娘の生まれた頃や彼が訪韓した87年ごろなど)を視点移動しながら「娘に語る」風の体裁で文章が書かれているため、「騒がれている」「なっている」がどの時期を念頭にした表現なのかを判断するのはなかなか難しいのであるが、ただ「なっている」の方はその前段で平成二年(1990年)朝日新聞の記事が引用されているため、1990年のイメージで書かれていることは間違いなく、一方「騒がれている」の方は話の流れからは少し前、つまり1980年代中盤をイメージしたものであると考えられる。
またこうした描写時期の問題は置いても、「騒がれている」「なっている」という表現の差は、1985-90年ごろのこれらの問題に対する世論の温度差、つまり特別永住についてはあまり騒ぎにならなかったという作者の感触がそのままあらわれた表現だと筆者は思う。なぜなら40代のつかこうへい氏にとっては数年程度の時間差は僅かなものであり、執筆時から過去数年をまとめて振り返っての論調の感触差をそのまま表しているように思えるからである。
*4) 現在の特別永住資格(1991年)は、冒頭にも述べたとおり1965年の日韓基本条約(講和条約)がその発端である。しかし筆者は当時、この講和条約の存在自体を知らなかった。たまたま世代的に、こうした経緯が説明がされないエアポケットの時代にあたったのかもしれないが、今思えば、朝鮮半島(や台湾)に対する戦後処理がどうなっていたとか、在日がどのような資格で滞日しているかも知らなかったし、深く考えたこともなかった。なんとなく「強制連行」でつらてこられたのに戦後無責任に放り出されたままの気の毒な人々というイメージで捉えていた。ゆえに当時の筆者は80年代に高まった人権意識と、歴史観Aにもとづく在日に対する負い目が重なって、指紋押捺廃止はもちろん特別永住資格は当然だという意識になっていた。 特別永住資格についてもうすこし正確に言うと、1991年の時点ではその是非について、問題をはっきりと認識し、積極的に肯定していたわけではなかった(よくわかっているわけではないから)。が、滞在資格が問題になっているという話はなんとなく聞いていて、当然認めるべきだというスタンスにぼんやり立っていたような感じであったと思う。(指紋押捺の方はかなり話題になっていたので、はっきりと認識し、積極的に肯定していた)
国会の議論
国会議事録もすこしだけ確認しておこう。長くなるので別紙アで紹介しておく。
議事録の文面だけでは、発言者本人がAとBどちらを念頭に置いているのかは確定することはむずかしい。横手氏のものはAのように筆者には見えるが、三浦中野両氏の発言については今の歴史知識をもって読むとABどちらを念頭に置いた話なのかはなんともいえない。
ただし当時の筆者はこうした発言をすべてAの線で聞くよりほかなかったのである。なにしろ慰安婦もAの線で理解していたような状態である。(A的慰安婦が件の「従軍慰安婦」である。従軍慰安婦については→拙稿「慰安婦問題」とはなにか参照)
当時の筆者にとっては、世界観B、すなわち日本人と朝鮮人がそこそこ仲良くやっていたなどという「植民地支配」は想定もしていないものだったからである。(世界観B→2つの世界観)
(逆に当時からB的史観を持っていた人は、こうした議論もすべてBの方向で聞いていただろう。当時の人間同士ですら、「強制連行」についての議論をどのように理解していたのか、それぞれが持っていた知識によって理解が異なっている)
特別永住に正当性はあるか
ここまで、当時の日本社会が、在日の特別永住資格(1991年版)をどのような理由で容認したのかを説明してきた。
ところでケント氏やつかこうへい氏、国会の議論のなかで、特別永住資格がみとめらるべき理由について、冒頭の鼎談のような「正しい」説明、すなわち「生活基盤が日本にあるから」「戦後財産を持ち出せなかったから」というような、〈明確に〉世界観Bにもとづいた説明があっただろうか。 …ない。なぜ無いのか。
もちろん当時はAが絶対的主流であり、世界観Bが完全に蚊帳の外に置かれていたため、その観点からの説明がそもそもほとんど存在しない、という基礎的な事情もある。
しかし、B的な説明がない本当の理由は、Bでは説得力に欠けるからだろう。
どういうことかというと、なにしろ在日というのは、終戦後は日本と関係が切れた単なる外国人なのであって、そういう在日が、子々孫々外国人という身分のまま日本の在留資格を継承するという、他の外国人には見られない特別な資格を得るということを説明するには、B的世界観+「生活基盤」「持ち出し制限」という程度の「歴史的経緯」では説得力に欠ける。
実際、特別永住についてB的説明が説得力を持たないことは当時の新聞記事にも現れている。
たとえば朝日新聞は昭和34年(1959年)、外務省の発表を引用する形で「現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって在留した者」と書き(→徴用残留者は245人)、そして1965年には在日の永住資格に対する違和感を記事にしている。
率直なところ、この韓国側の主張は、余りにも重大なものを含んでいる。子孫の代まで永住を保証され、しかもそのように広範囲な内国民待遇を確保することになると、将来この狭い国土の中に、異様な、そして解決困難な少数民族問題をかかえ込むことになりはしまいか。出入国管理上の、一般外国人の取扱に比してあまりにも〝特権的〟な法的地位を享受することが、果たして在日韓国人のためになると、一概に決め込むことが出来るのかどうか。民族感情というものの微妙さ複雑さはいまさら言うまでもなく、その意味で将来に禍根を残さないよう、法理上のスジを通しておくことがとくに肝要だといいたい。
(中略) だが、例えば韓国併合といった歴史も、これから二十年、三十年の先を考えた場合、それは大多数の日本人にとって、遠い過去の一事実以上のものではなくなるだろう。独立国家の国民である韓国人が、なにゆえ日本国内で特別扱いされるのか、その説明にそれこそ苦労しなければならない時代が来るのではないだろうか。(→1965.3.31朝日新聞)
書かれた当時はもちろんB的世界観(史実)が主流であるから、当然こうした疑問がでてくるわけである。 自己都合で滞在している外国人を、関係が切れたあとも特別残留を認める義理はないからである。
そこで、日本政府の「配慮」によって暫時の帰国猶予を得た在日は、1965年以降、〔世界観B+持ち出し制限云々〕では賄い切れない滞日の「正当性」を補強するために、「強制連行」という虚構(歴史観A)を作り上げた――正確にいうと、1965年に「強制連行」を発明した朴慶植の最初の目的は日本の「植民地支配」を糾弾することだけだったのだが、その虚構がまんまと定着したので、それに乗って特別永住資格(1991年)など、さまざまな政治的権利要求に利用してきた――のである。*1
この虚構の影響が、ギルバート氏やつかこうへい氏の発言や、国会の議論のなかにあらわれているのである。 だからギルバート氏らはB的な説明ではなくA的な説明を、指紋押捺廃止や特別永住資格を認めるべき正当性の根拠として主張しているのである。
そして2000年代に入り、歴史観のパラダイムシフト(A→B)を迎えて「強制連行」が虚構であったこと露見すると、こんどは虚構Aを政治利用したことはなかったかのように、世界観Bを持ち出して「歴史的経緯」を説明しだした。 すなわち、あたかも1991年の条約が、世界観Bをベースに特別永住を認めたものであるかのような(読者をそう錯覚させるような)説明をはじめ、そして、だから特別永住資格には正当性があるのだと主張するようになった。
その端的な例が冒頭の鄭栄桓、荻上チキ氏らの説明というわけである。
はたして、そのようなことが許されることなのだろうか?
とはいえ現在、こうした特別永住資格に正当性があるか、それを廃止すべきか否かと問われれば、正当とはいえないまでも定着の程度なども考えて現状追認が妥当であると筆者は思う。いまさらすぐ廃止しろという気は毛頭ない。 しかしそれでも筆者がなぜこの問題にこだわるかというと、「強制連行」「歴史的経緯」そして世界観Aは、特永資格や指紋押捺廃止だけに影響したわけではないからである。
世界観Aが影響したものはなにか。それは次項「鼎談の検証」の中で提示しよう。 なおあらかじめ断っておくが、彼らの説明する「歴史的経緯」は概ね正しい。正しいのは当たり前である。なぜならBにもとづいているからである。
*1) 社会学者宮台真司は次のように語っている→在日も「強制連行」の嘘に乗った。なぜなら弱者利権があるから。
鼎談の検証
冒頭に挙げた鄭栄桓らの鼎談は 在日韓国・朝鮮人の戦後史――「特別永住資格」の歴史的経緯とは という表題がつけられている。 しかし特別永住資格の「歴史的経緯」が世界観Bの視点のみで説明されているところに致命的な欠陥があるということをここまで説明してきた。
1991年の特別永住資格について語る際には、世界観Aが主流だったこと、Aによって日本の世論を騙してきたということ、そうした時代背景を抜きには語れないはずである。なぜなら日本は民主主義国家であり、世論が政策に与える影響は大きいのだから。
ただその話については既にしたので、本項では、鼎談に含まれる問題点についてさらに2点を追加しておく。
非自発性の演出
鼎談の中で鄭栄桓がのべている在日が日本に残った理由は、完全にB的な説明である。
まず鄭栄桓は「歴史的経緯」を語るといいながら、徴用で渡日した朝鮮人のうち戦後も残ったのはわずか245人であったということ、つまり在日の正体は、その245人をのぞけば徴用以外での来日=戦前戦中の出稼ぎ及び戦後の入国(密航を含む)であり、すなわちほとんどの在日が自由意志で滞日していたという事実を曖昧にしている。(→徴用残留者は245人)
さらに鄭栄桓は、ここに財産を持ち出せず残らざるを得なかった等の「非自発性」をまぶすことによって、在日の滞在原因の責任が日本にあるかのように錯覚させて「正当性」を主張しようとしている。
しかし財産の持ち出しを制限したのは日本政府ではなく、じつはGHQである。*1
鄭栄桓らが主張する「不当性」
この他、鄭栄桓は植民地支配について、日本人と同じと言いながら、朝鮮人は日本人とは同権ではなかったではないか、だから不当だったと訴える。
鄭 ただ「植民地期には日本国民とみなされていた」という理解についても、いくつかの註釈が必要です。植民地時代は日本人と朝鮮人は同じに扱われていた、つまり同権だったが、52年以降外国人になって権利がなくなってしまった、という誤解があるからです。実際には「同権」などでは全くありませんでした。
確かに日本は植民地統治に際して「一視同仁」を謳い、戦時期には「内鮮一体」を叫びましたが、これはあくまで同じ「天皇の臣民」であるということを意味するに過ぎません。「内地」つまり日本と、朝鮮や台湾など植民地の「臣民」の「権利」には明確な格差がありました。そもそも帝国憲法自体、植民地には施行されていません。
戦後の出入国管理との関連でみると、例えば戦前でも朝鮮から日本に朝鮮人が来るのは、同じ「臣民」であっても全く自由ではありませんでした。朝鮮から日本への渡航については厳格な管理制度を朝鮮総督府の警察が敷いていました。(中略)また、日本の内地にいる朝鮮人が強制送還の対象にもなります。昭和恐慌の時期には労働力需給の関係で朝鮮人を集団的に強制送還させる、という話すら出てきます。
同じ「帝国臣民」であるということは、内地と植民地の「臣民」間に法の下の平等が保障されることを意味するわけではないのです。しかも強制送還は警察が完全に恣意的な行政権力の発動としてやっているわけです。(中略)
このような大日本帝国のもとで作られた在留権を好き勝手できる状況を、戦後の日本国憲法体制の下でも続ける。その役割を外国人登録令は果たしたのです。なので私は同じ「臣民」だったのに、「外国人」になって無権利状態になった、という言い方には植民地支配についての無理解があると思いますし、何より戦前-戦後の連続を見落としてしまう問題があると思います。
こうした説明に対して荻上も「連綿と繋がっているんですね。日本人も、朝鮮人も『臣民』と同じように言っていたけれど、実際は違った扱いをされていた」と相づちを打っている。
鄭栄桓はここでも読者をミスリードしているので、それを指摘しておこう。
鄭栄桓は「日本人と朝鮮人は同じに扱われていたという誤解がある」と書いているが、ここがまず事実誤認である。説明してきたように、歴史認識が世界観Aの中にいた人(筆者)は、日本人と朝鮮人が同じ扱いだったとはまったく思っていなかったのである。その証拠に、もし「同じ扱い」という認識が広く共有されていたなら、従軍慰安婦Aなどという嘘話があそこまで信じられたりはしなかっただろう。(→「慰安婦問題」とはなにか)
(鼎談には植民地支配下の朝鮮人の参政権の話も出てくるが、当時の筆者は、朝鮮人の国会議員(朴春琴)や軍人(洪思翊)が(しかも民族名のまま)いたなどということもまったく知らなかったし、想像もしていない→呉智英も誤解していた「植民地支配」)
世界観Aにおいては、そもそも日本人と朝鮮人は、何十段も異なる別次元の扱いだったのであり、そう思い込んでいた人間からみれば、世界観Bにおける不平等性、鄭栄桓らが訴えている不平等性は、誤差にしかみえない。 ゆえに歴史観の転換を経験した人間(筆者など)に言わせれば「ほとんど平等だった」という感想になるのである。筆者らのこうした感想を以て「同権だったという誤解があるが」と評するのはまず事実誤認である。
そして結局、彼らがここで訴えている「同権と言いながら同権ではなかった」という不満は、「内鮮一体」(*2)など日本人と同じだと言いながら実際は日本人より一段下の扱いをされていたという程度の不満なのである。
鄭栄桓はこうした文脈の中で、戦後の在日の国外退去を、植民地時代の〈不平等〉な「強制送還」とイメージを結びつけることによって、その「不当性」を説いている。しかし「植民地支配」時代に労働力の配置や配分について日本政府が差配し、朝鮮人の日本への渡航の自由を制限し「強制送還」することがそれほど〈不平等〉なことだろうか。そして1945年の「解放」後、外国人に帰国を求めることはそれほど不当だろうか。それは単なる国家の主権行使にすぎないのではないだろうか。*3
「植民地支配」の時代、朝鮮人が一段下の地位に置かれていたことは事実であるが、しかしそうした一定の区別があったこと自体はまったく不思議ではないし、そうした事情と「光復」後に、めでたく単なる外国人となれた朝鮮人に日本が帰国を求めたことが不当にあたるとはまったく思えない。(実際、朝日新聞ですら当時はこの措置を肯定していたことはすでに述べた)
前後するが、平等感の物差しについていえば、たとえば日本人の戦死者は230万人、朝鮮人のそれは2万人であったが、ではこれは逆の意味で〈不平等〉ではないのか。実際鄭大均は朝鮮人が重労働を強いられていたのは事実であるという文脈の中で、朝鮮人が主張する被害者性的特権意識について次のように批判している。
だが、エスニック日本人の男たちは戦場に送られていたのであり、朝鮮人の労務動員とはそれを代替するものであった。兵士として戦場に送られることに比べて、炭鉱や建設現場に送り込まれ、重労働を強いられることが、より「不条理」であるとか「不幸」であると、私たちはいうことができるのだろうか。日本人の場合だって、1938年に成立した国家総動員法により、15歳から45歳までの男子と16歳から25歳までの女子は徴用の対象となったのであり、それは強制的なものであった。(中略)応じない場合には、兵役法違反や国家総動員法違反として処罰され、「非国民」として社会的制裁を受けたのである。(『在日・強制連行の神話』62頁)
こうした日本人も大量の犠牲者を出したあの困難な時代の総括として、鄭栄桓の説明は一方的でバランス感覚を欠いてはいないだろうか。
では結局、本鼎談のどこが問題なのか
やや話が広がりすぎた感があるがまとめると、1991年の特別永住は強制連行Aが主流だった時代に締結されたものであり、それをB的経緯だけで説明するのは「重大なごまかし」であることをまず説明した。
そして鼎談にある問題点について追加で2点ほど指摘した。
ただ読者の中には、本稿の説明を読んでも、AだろうとBだろうと元は植民地支配に起因するものなのだから、そこに少々の嘘があっても大差ないではないか、1991年まで実態として日本社会に定着していた在日に永住資格を与えるくらい構わないではないかと思う人もいるかもしれない。
じつは筆者もその意見に同感である。 もしこの「嘘」の影響が永住資格などの獲得などにとどまっていたならば。
しかしながら、民族派在日と半島本国およびそれに同調する進歩的知識人によって鼓吹されてきた「強制連行」という嘘は、「創氏改名」「日本語強制」の嘘と組み合わさって、従軍慰安婦Aを信じるまでに植民地支配の姿を歪めてしまったのである。(→つかこうへいが描いた従軍慰安婦)
その結果、こうした「嘘」によって涵養された贖罪意識は、永住資格などの政治的権利獲得に利用されただけでなく、カルト宗教がつけこんでくるという事態まで招いたのである。(→わたしが統一教会問題にこだわる理由)
にもかかわらず、鄭栄桓らはこうした「戦後の経緯」について何の説明もなく、いきなり世界観Bを持ち出して滔々と講釈されているのである。 鄭栄桓らは自分たちが引き起こしてきたこうした問題についてどのように考えているのだろうか?
「朝鮮半島絡みの歴史認識問題」という問題を語る際には、戦後どのような歴史観が定着していたのか、そしてそれがどのように政治利用されたのか、という戦後の事実を踏まえることが必須である。
それをしていない言論はニセモノであり、なんらかの誤魔化しが含まれていると考えて見るべきである。
本鼎談もこの「戦後の事実」を踏まえておらず、世界観Aが政治利用されてきた事実をなかったことにしようとする鄭栄桓らの説明こそ、歴史修正主義的言説と言わざるをえない。
*1) 徐京植『皇民化政策から指紋押捺まで』47頁など参照
*2)「内鮮一体」という言葉は、旧パラダイムにおいては、創氏改名など、朝鮮人に日本人化を強制する(民族性を剥奪する)標語として用いられたというものとされており、その苛烈さは、名前を変えさせられて自殺する人も出たという説明(A)がされていた。しかし実際は団結を呼びかけた標語にすぎない(B)のであり、鄭の説明もそれに近い。こうした齟齬も「内鮮一体」という用語のAB構造にある。
*3) 鼎談記事を読むと鄭栄桓らはこの日本国籍の喪失を、あたかも在日にとって不本意であったかのようなニュアンスで書いているが、辻本武氏のブログによると当時の朝鮮人はむしろ外国人としての地位を求めた(外部サイト)とある。
おわりに
本稿では、特別永住資格と「強制連行」の関係について説明してきた。
なお本稿は(タイトルに「賜物」という表現を使っているが)両者の因果関係を「証明」したものではない。
というのは筆者はこのような社会事象の間の因果関係を証明する方法を知らないからである。
つまり本稿は、あくまでもどのような時流のなかで特別永住資格が認められたのか、それを資料を提示しながら説明したものにすぎない。
しかし筆者は両者には強い因果関係があると思っている。
最後にひとつ有名な動画を紹介しておこう。
これはおそらく1990年代前半の朝生である。読者は、なぜ当時このような発言が許されていたと思うだろうか。そして客席の反応はどうみえるだろうか。*1
在日や朝鮮半島に対して言いたい放題となった今日の状態しか知らない人は信じられないかもしれないが、歴史認識を持ち出されて黙らされるというこの空気が、この当時の常態だったのである。それが可能だったのも、世界観Aが標準の歴史認識だったからである。
そして1980年代~90年代のこうした歴史認識の中で、それを真面目に受け止めてしまった人ほど、さまざまな譲歩を迫られたり、カルト宗教に弱みをつけ込まれたりしていったのである。
そしてこうした戦後の経緯をすべて無視して、在特会などの登場を奇貨として、ヘイトスピーチなどの問題などに矮小化しているのが最近の左派言論なのはご存知のとおりである。
当時の日本社会がどのような状態だったのか、特別永住資格が認められた時代とはどういう時代だったのか、そして今日その嘘の責任がまったく総括されずに(A→Bと前提を変更して)論点ずらしされているということ。*2
今日の状態しか知らない人に、朝鮮半島絡みの歴史問題の経緯および朝鮮半島絡みの歴史プロパガンダがどのような性質をもってきたものなのか、本稿がすこしでも参考になればと思う。
*1) →「在日が無垢化した1980年代」
*2) 従軍慰安婦問題が今日「女性の人権」の話にすりかわっているのも典型的なA→B型の論点ずらしである。
(終)