鄭大均『在日・強制連行の神話』で考える1980年代(後編)

前編では「強制連行」がどのように語られてきたのか、その表現の問題を中心に考えた。 本論に入る前に、インターネット普及以前の世界について説明してみる。

在日が「無垢化」した1980年代

前編では、「植民地」や「強制連行」という言葉によって、あたかも朝鮮人を奴隷扱いしていたかのような「誤解」に私が陥っていたことについて説明をしてきた。

今日では、前編で紹介したような「被害者の言説」をまじめに聞く人はもういないだろう。

しかし私は当時、こうした「植民地支配」に関する言説が党派性(イデオロギー)によって強度に歪んでいることにまったく気がついていなかった(*1)。また本項で述べるように、1980年代にはそうした言説に素直に耳を傾けてしまうような空気もあり、そうした事情が相まって、そうした歪んだ言説を素直に聞いてしまう状況に置かれていた。

この「被害者の言説に耳を傾けてしまう空気」を醸成していたもののひとつは「南京大虐殺」など日本の戦争犯罪を糾弾する風潮であるが、本書にはもうひとつ重要な指摘がある。それは在日の「無垢化」という要素である。

*1) 「植民地支配」を語る言説に強度の党派性があることに気づいていなかったという鄭大均の告白を参照。

だがその後、80年代以後の日本に見てとれるのは、むしろ本書の冒頭で紹介したホワイティングやフィールド的なイメージである。「加害者」から「被害者」へというい在日の転換に最も強い影響を与えたのはメディアの動向であり、具体的には80年代以後、日本のマス・メディアが第二次世界大戦中の国家犯罪を語り、在日の被害者性を語る過程で、在日は無垢化されるとともに、「被害者」や「犠牲者」の神話が実現していくのである。 学校教科書や辞典の類に「朝鮮人強制連行」についての記述が登場するのも80年代以後のことである。 在日コリアンに対する「悪者」や「無法者」という言説は、今や書き言葉の世界では周縁的なものとなり、政治的に正しくない言説として封じ込められることになっているのである。 (33-34頁)

80年代に入り、日本のマス・メディアが第二次世界大戦中の日本の国家犯罪を語り、在日コリアンに対する差別の問題を語るようになると、「強制連行」という言葉はにわかに大衆化する。80年代は、日韓の間に教科書問題という外交問題が生じた時期であるとともに、在日コリアンに対する指紋押捺制度がメディアで取り上げられ、またソウル・オリンピックの開催に伴う韓国ブームが引き起こされるというように、コリアへの関心が大衆化した時期であるが、その道案内の役割を担った者の中には左派系の人々が含まれており、「強制連行」という言葉を広めたのは彼らである。(120頁)

鄭大均はここで、それまで加害者として見られていた在日(後述)が、1980年代からのメディアの「戦争責任」の追求とPC(ポリティカル・コレクトネス=政治的正しさ)による在日の問題点隠しが両輪となって、大日本帝国による被害者、犠牲者化していったと指摘している。これは私の感覚とも符合する。私の体験とも絡めてこの頃のことを説明してみたい。当時の空気を知れば、なぜ当時「植民地支配」についてのデタラメな言説が、こんなにも広く受け入れられていったのかが読者にも伝わるかもしれないからである。

ちなみに1980年代というのは冷戦終結の前で、主な出来事としては、1982年第一次教科書問題、1983年大韓航空機撃墜事件、1985年南京大虐殺紀念館開設、1987年大韓航空機撃爆破事件、1988年ソウル五輪などがある。

a.「国家犯罪」追求の空気

1980年代は「南京大虐殺」「創氏改名」などが教科書に載りはじめた時期である。

この時に十代を過ごした私にとっては、それらはすでに「歴史的事実」と化していて、日本史の中の一要素として収まっているものだった。そのため、なんらかのきっかけがなければ、そこにあえて注目し検証しようという気にはならないという状態にあった。

しかも教科書の記述と「被害者」の証言は符合するため、これら「負の歴史」は完全に事実であると思っていた。この時点の私はそれを疑うという動機すらもつことができなかった。

さらにこれら日本が犯してきた戦争時の罪(国家犯罪)を率直に認めて反省するのが進歩的である、立派である、「アジアの国々」の信頼を得ることができ、国益に資するのだという雰囲気もあり、これら「負の歴史」を否定ような言説はほとんど自動的に過去の歴史を直視できない右翼・軍国主義者として異端視・蔑視されてしまうような状況にあった。

こうして、歴史問題に重大な瑕疵があるとは思っていないという状態と、それを疑うことに対する道徳的な歯止めという心理とが相まって、今思えば近代史を自由に考えることが心理的に、あるいは社会的にもむずかしくなっていた。

小林よしのり氏の「自虐史観が浸透しきっていた」という回想は、当時のこのような状況を指したものである。

当時は家永裁判のこともよくメディアに取り上げられており、大日本帝国の犯罪性を子供たちに教えるために教科書に載せようとする進歩的知識人と、それに抵抗する国側という善悪の構図でよく語られていた。

1982年のいわゆる「教科書問題」について、国内からの突き上げが極めて強力だったのは、こうした時流によるものである。

b.無垢化した在日

このように日本側の「国家犯罪」は発掘、強調される一方で、在日側の問題(後述)についてはPCによって極めて謙抑的に扱われた。いわゆる「差別を助長するからよくない」という論理である。こうして漂白された報道にばかり接していた私は無垢化、犠牲者化したあとの在日の姿しか知らなかった。たとえば戦後直後の粗暴な振る舞いのこともこの時の私は知らない。

そしてこのabの複合的結果として、私は、在日(朝鮮人)は、「植民地支配」の時代には奴隷のように搾取抑圧され、戦後もずっと完全な被差別階級・弱者として苦しんでいる人々であるという認識になっていた。ゆえに、戦争のことを知るために被害者・犠牲者である在日 ―― それも今思えばPCによって極めて人選が偏っていたのだが ―― の話を素直に聞こうという姿勢になっていた。

著者が、今の日本に見てとれるのは、コリアンであることを自己表示するや、ある種の権威や権力を得るという状況(158頁)と指摘するように、まさに1990年代の辛淑玉、姜尚中などはその権化であり、この権威を笠に朝まで生テレビなどで加害者意識に囚われ萎縮している日本人に対してお説教をするかのような態度で振る舞うことができたのである。(資料・辛淑玉
さすがに今日2015年の、特にネットの世界ではこの権威も完全に剥落しているが、今日彼らの評判が極めて悪いのもこうした過去があるからである。

さらにつけ加えるなら、当時の私は、メディアの人権主義、すなわち「犯罪を犯す者にも理由がある、そこを慮るべきである」系の論調の影響も受けていたため、在日の中に日本人に狼藉を働く者がいたとしてもそれは極めて稀な事案であり、むしろ「植民地支配」を恨み、現在も「謂れのない差別」に苦しんでいるのだから一定程度そういう人間が出てくることは仕方がないのだ、と在日側の気持ちを汲んだ正当化が私の中でなされていた。たとえば『はだしのゲン』に登場する日本人を追い出して列車の席を占拠する朝鮮人などに対してもそういう解釈だった。

(そのころ私が認識していた在日犯罪としては金嬉老事件が時折報道で回想的に取り上げられる程度であったと思うが、それも原因は日本人の差別であるといった具合に、常に日本側に責任があり在日は犠牲者であるというストーリーで語られていた)

今思えば、原因を常に日本側に見出そうとするこうした心理も在日に対する批判精神の惹起を抑え、「無垢化」を支える一要素となっていた。

このように1980年代から90年代にかけての日本の言論空間は、戦争犯罪の糾弾(a)と人権主義(b)の只中にあり、「日本軍=悪」という先入観の下で「日本の悪事」が、今思えばろくに検証もされぬまま、「被害者」(=善)の言い分がそのまま流布されてしまうという状態にあったのである。

さて、本書には以上(a)(b)2点が在日の被害者化・犠牲者化の要因として挙げられているが、ここで一日本人である私の視点から、これら左派や民族派在日の発言が強い影響力を持ちえた理由について、次の2点を心理的な要素として付け加えたい。

戦争を反省するといっても、戦後25年も経って生まれた我々の世代が当事者意識をもつことはなかなかむずかしいことである。それでも私が妙に「反省」を真に受けてしまった理由は、ひとつは「戦争責任」という言葉を繰り返し聞かされているうちにその気になってしまっていたこと、もうひとつは在日という具体的な存在がそこにいたことが大きかったのではないかと思う。すなわち在日は現代にのこる「植民地支配」の負の遺産であり、その解決は我々自身の課題である・・・尤もこのように文字にしてしまうと大仰になりすぎるのだが、およそのような方向の気分が涵養されていたように思う。

c.「戦争責任」という言葉

この頃の進歩的知識人は、日本の国家犯罪追求の文脈で「戦争責任」という言葉を頻りに口にしていた。なにしろ戦前戦中世代がいくらでも健在の時代であり、その彼らが言うのであるから言葉の重みが今とは違う。

この言葉は、日本が先の大戦で周辺国に与えた災禍の精算をしなければならないということを意味するもので(念のためであるが、このこと自体は正しいと私は今でも考えている)、それは必ずしも我々若者に向けて発せられていたわけではないが、上で説明したような社会の空気も手伝って、戦後生まれの自分たちは関係がないなどという開き直りは許されないような、今思えば社会全体が一種の暗示に掛かっているような状態だった。

そしてこの「戦争責任」という言葉の合間には、日本には在日という人がいて、彼らは「植民地支配」時代に強制的に連れてこられた犠牲者であるという話も入ってくる。

ゆえに私は、たとえば1980年代半ばの指紋押捺騒動時にも、無理矢理連れてこられた在日に押捺を課すのは理不尽であり廃止すべきというメディアの論調に何の疑いもなく同調することになる。その後の1991年の特別永住資格の問題や地方参政権獲得運動についても同様である。 この頃の私は若者特有の思い上がりも手伝って、歴史問題の精算や差別の解消は自分らを含めた戦後の日本人が責任を負うべき課題であるという気分になっていた。

d.在日という不鮮明な存在

在日という存在に直接触れられたかどうかは生活環境に大きく依存するが、私がメディアで取り上げられる在日の言説を素朴に聞いてしまったのは、この在日という存在が身近にいなかったことも大いに関係があると思う。それほど「反日的」ではない在日に接していれば、こうした言説を疑うチャンスもあったかもしれない。

しかしそもそも在日は総数が60万人程度であり、通名使用者もいたことを考えると、大多数の日本人にとっては身近にいない、あるいはいてもわからないことの方が普通の状態である。接触が少ないと幻想が膨らみやすいという心理作用は一般に存在するが(例:アイドル)、そうした要素も犠牲者幻想の強化に一役買ったと思われる。

私が在日という存在についてどれくらい勘違いしていたかというと、少なくとも1990年代に入るまで通名という制度すら知らず、「強制連行」されてきた在日は日本の学校などではなく、(当然)全員朝鮮学校に(創氏改名で強制された日本名ではなく)民族名で(日本語強制政策で失ってしまった*1)朝鮮語を学びに通っているものだと思っていた。ゆえに歴史認識も辛淑玉氏らと当然一緒だと思っていたし、彼女のような意見が在日を代表しているという錯覚をおこしていた。

漂白され無垢化した報道にのみ接していた私は、在日は日本社会から完全に疎外され下層に置かれた存在であると思いこんでいたため、その後、ネット時代に入って初めてロッテのトップが在日だということを知って驚くくらいの状態で、そもそも在日にそんな大企業のトップという社会的成功者がいるなどとは想像だにしていなかった。*2

在日が通名を名のることについては、在日だとわかると差別されるので日本社会では民族名は名乗れないのだという理屈付けがされていたため(今でもたまにそういう言われ方がされると思うが)、在日にそんな思いをさせている日本社会がけしからんという方向に誘導されてしまっていた。

こうして「植民地支配」時代だけでなく、今なお在日が(強制された)日本名を名乗らざるをえない日本社会の状態や、在日が日本語を話す(しか話せない)ということにも「負の歴史」を強く感じていた私には、やや大仰な表現になるが、在日は長らく内心恐懼する存在だった。(→1980年代に私が抱いていた在日のイメージ

ここまでのabcd4つの要素をまとめると、戦争犯罪追求の空気、人権主義の台頭、そしてそれを聞く側の心理的な要因も重なって、とくに私くらいの世代は、常に検証的な態度をとる性格の人間でもなければ、あるいは何らかの理由でプロパガンダだと気付いていた人でなければ、前編で取り上げたような言説を「戦争被害者の証言」として素直に聞くという状態が出来上がっていた。*3

こうして1980年代~90年代は、在日や本国人は完全なる被害者ポジションを手に入れた時期であり、それを疑う言説はPCによって排除、あるいは右翼・差別主義者の妄言としてまともに取り合われず、表舞台からは完全に葬られていた。
その後、戦後の状況や歴史問題の虚構が暴かれ(再発見され)、一般にも共有されていくのが00年代前半のインターネット黎明期になるのである。

(~政治的に正しくない言説として封じ込められることになっているのである) とはいえ、相反するイメージは、しばしば心のなかに共存するものであり、在日コリアンに対する否定的なイメージや印象が周縁的なものになったといっても、そのことは人々の心の中からかつての「無法者」や「悪者」のイメージや印象がきれいに払拭されたことを意味するのではない。一方のイメージが浮上する過程で、姿を消したかに見えるもう一方のイメージは、舞台の陰に身を潜めながら、再び舞台に躍り上がる日を待ち望んでいるのであり、それは実際意外なところでひょっこり顔を出して、私たちを驚かせてくれることもある。イメージの共存のわかりやすい例は、インターネットの世界であろうか。 書き言葉の世界で、コリアンに対する「悪者」の言説が封じ込められるようになったのは事実であるが、それを補うかのように、インターネットの落書き的なサイトには、その反動といえるような情景が見て取れるのは周知のとおりである。(34頁)

*1) この日本語強制政策で朝鮮語が喋れなくなったという私の思い込みは、現在の読者には極端な例に感じるかもしれないが、「剣幕」(→前編)によって完全にミスリードされてしまっていた。在日が朝鮮語を話せない理由について、その激しい「剣幕」を基準に解釈すると、全面禁止政策のせいで話せなくなってしまったという以外の解釈は私にはできなかったからである。まさか単に渡日した親が朝鮮語を教えなかったから(日系外国人と同じ)というつまらない理由だったとは思えない「剣幕」だったからである。 もはや在日の発言だったか進歩的知識人の発言だったかおぼえていないが「なぜ在日が朝鮮語を話せなくなったのか、日本人は考えてみるべき」系の日本人に反省を促すような言説も見聞きした記憶があり、そうしたものも皇民化政策(日本語強制)のせいで朝鮮語が話せなくなったのだと私は解釈してしまっていた。(参考:「日本語強制」がどのようなイメージ(誤解)だったか
*2) このため、通名というものを知る前も知ったあとも、日本社会の中で民族名で生活している人≒中華系だと漠然と思い込んでいた。たとえば王貞治については存在が大きすぎて何人か意識したことすらほとんどないが、強いていえば王という苗字から漠然と中華系日本人だと考えていたと思う。許永中については、名前が中国人風?ということもあってか、おそらく王と同じ様に考えていた(深く考えていなかった)のではないかと思う。(許については大きな事件だったので報道で国籍を聞いたことがあるのかもしれないが、記憶(印象)からは落ちている)
*3) ミスリードをさけるために一応断っておくと、こうした歴史認識を私の世代が全員もっていたわけではない。 1980年代は「最近の若者はアメリカとも戦争をしたことも知らない」という嘆きがあったくらいに戦争が過去のものになりつつあった時代であり、また現在のように興味外の出来事がSNS経由で偶然目に飛び込んでくるようなこともなかった時代である。 つまり自分の興味の範囲に入っていなければ(少々目の端に入っても)ほとんど素通りして過ごすことも可能だった時代であり、つまりこの頃、ある程度はっきりした「歴史認識」を持つには一定程度政治的なものに関心を持っていることは必要であったと思う。またこうしたプロパガンダに騙されなかった人もいるわけであり、人によって歴史問題に対する温度差があるのはこうした差異のためである。

e.在日側の問題 ― 隠蔽された加害者としての側面

ちなみに「無垢化」前の在日とはどういう存在だったのか、戦後の状況の描写を短く拾っておく。(省略)は筆者による。(28-32頁)

○戦後の日本においては、朝鮮人少数民族は、いつも刺激的な勢力であった。数においては大いに減つたものの、朝鮮人は、依然として実に口喧しい、感情的・徒党的集団である。かれらは絶対に戦敗者の日本人に加担しようとせず、かえつて戦勝国民の仲間入りをしようとした。日本の法律は適用され得ないものとし、アメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介さなかった。そのため、国内に非常な混乱をおこした。占領当初の数ヶ月、在日朝鮮人炭鉱労働者の頑強な反抗のために、日本の重要産業たる石炭産業の再建は障害をこうむつた。経済的領域における朝鮮人のいろいろな活動は、日本経済の再興への努力をたびたび阻害した。1948年の神戸における緊急事態宣言は、日本の教育制度改革を朝鮮人が妨害した結果、行われたものである。引き上げについては、占領当局が決定した政策を日本政府の手で実施しようとするのを妨害した。
このような、いろいろな要因および事件のために、日本人・朝鮮人間の伝統的敵対感情は一層深くなつていつた。過去と同様に、戦後においても、在日朝鮮人社会は、日本人から不信と軽侮をうけ、また、日本人の一般的不満感のはけ口とされた。(1975年、エドワード・ワグナー)
○ほとんどすべての朝鮮人の不法行為は、そうした行為を犯罪としてみたとき、普通にもつている意味以上の影響をまきおこした。これは、ある程度は当然、日本の報道機関がそれに必要以上の注意を喚起したことによるものであるが、更にそれ以上の要素は、小さな事件を派手な訴訟事件にする朝鮮人の性癖であつた。朝鮮人を逮捕しようとする際に、違法者とは同じ朝鮮人の血をひいているという以外は、何の関係もない朝鮮人分子がこれに加わつて暴徒と化した例はきわめて多い。そのうえ、政治問題に関して朝鮮人同志の闘争にともなう暴力は、日本人の眼に朝鮮人の無法さをより鮮やかに示さずにはおかなかつた。
たとえ、このような事情で朝鮮人の犯罪性が拡大されることがなかつたとしても、この犯罪性が日本人・朝鮮人の関係に与えた悪い影響は依然として甚大なものがある。朝鮮人の掠奪行為が、大部分、下層民の日常生活にとつてきわめて重要な地域において行われたということもあつた。さらに朝鮮人は、日本に不法入国しようとしたが、ときには伝染病をもちこんだという事情もあつて、この不安をつよめる実例を提供した。朝鮮人は「悪者」だという心理が、時の流れとともに、日本人の心から薄れていくであろうと信ずべき理由は、なにもないのである。(1975年、エドワード・ワグナー同書)
○(前略)彼らは敗戦国にのりこんできた戦勝の異国人と同じように、混乱につけこんで我が物顔に振る舞いはじめた。(後略)(1956年、毎日新聞社『白い手黄色い手』)
○敗戦直後の在日朝鮮人は、敗戦国の無力な警察を嘲笑しつつ、暴力と脱法行為で虚脱状態の日本社会を我がもの顔に横行した。超満員の列車から日本人を引きずりおろして、自分たちが占領するといった光景は、決して珍しいものではなかった。(中略)そうした姿は「朝鮮人=無法者集団」という印象を日本人の胸に強く植えつけた。外国人の指紋押捺制度が1955年に採用されたのも、上記のことと関連があった。朝鮮人による外国人登録証明書の不正受給や偽造変造があまりにも多かったのである。(後略)(1992年、田中明)

本書とは無関係だが、朝鮮問題の専門家である辻本武氏も「無垢化」の問題を指摘している。

在日朝鮮人の犯罪や生活保護に関する以上のような事実は彼らの歴史を語る上で重要な要素の一つなのであるが、これまでの在日関係の本ではこれを書くことが非常に少ない。最近では皆無ではなかろうか(註5)。これに触れないということは、在日は昔からみんな清く正しく生きてきたという誤ったイメージを形成させるものであろう。実際のところの在日の姿を直視すべきである。
辻本武 2005.4.1 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuurokudai

「強制連行」以外の歴史要素

著者はホワイティングやフィールドの作品に含まれる「創氏改名」や「日本語強制」についての誤解も指摘している。著者が本書で直接そう言っているわけではないが、これらも在日が犠牲者化していく材料として利用されたことは言うまでもない。

朝鮮が日本に統治されていた時代に、日本語が国語と呼ばれ、朝鮮語が公的言語から退けられていたのは事実である。しかし、「占領時代の後半に」は「朝鮮人に自国語で話すことさえも許さなかった」という記述はおかしい。日本統治の末期である1942年の調査によれば、日本語を解するものは全人口の二割弱。(中略)つまり、この時代の朝鮮半島において、家庭内や近隣・職場での会話は、基本的に朝鮮語でなされていたのであり、支配者である日本人は実は、朝鮮人がなにを考えなにを噂していたのかを十分に把握していなかったのである。(52頁)

「近年まで、帰化するものには、(植民地期のすべてのコリアンと同じように)日本式姓名への改称が求められていた」というが、いわゆる創氏改名が施行されたのは日本統治末期の40年2月のことであって、植民地期全体の話ではない。また「創氏改名」は単純に日本名の使用を義務付けるものであったというわけでもない(後略)。(56頁)

「強制連行」「創氏改名」「日本語強制」がセットとなって「非道な日帝」「過酷な植民地支配」というメージを創り、それが90年代の「従軍慰安婦」という嘘話が信じられてしまう土壌となっていく。

従軍慰安婦

日本社会が上で説明してきたような空気に覆われている中で迎えるのが1990年代の「従軍慰安婦」問題である。

「従軍慰安婦」とは、「日本軍が(正規活動として)朝鮮人慰安婦を拉致誘拐して売春婦にし、その規模は20万人にも上った」というものである。今思えば完全に荒唐無稽なこの話が、当時の日本社会にかなりの規模で信じられてしまうのであるが、それはつまり、そんな荒唐無稽な嘘話が「あり得る」と思われてしまうくらい旧軍のイメージが失墜し、「強制連行」や「創氏改名」などによって朝鮮人を苦しめた(過酷な植民地支配)という世界観が日本社会にびまんしていたことの証左でもある。 むろんこのことは私だけの印象ではなく、小林よしのり氏が「自虐史観が浸透しきっていた」と回想しているとおりである。

(想像してみてほしいのだが、植民地=奴隷のイメージではなく、朝鮮人の憲兵や裁判官がいたり、学生は日本人とともに甲子園を目指し、大人たちは日本人とともに戦争を戦っていた、というような正しい朝鮮統治のイメージが我々に共有されていたら、はたして「強制連行」や「従軍慰安婦」などという虚構が信じられただろうか)  (→つかこうへい作品にみる「従軍慰安婦」問題の原点

このような経緯があったために、1991年の金学順会見を私はほとんど絶望的な気分で見ていたし、河野談話やアジア女性基金にも(誤解したまま)当然賛成することになる。この頃「従軍慰安婦」を否定する発言についてどのようなものがあったか記憶はないが、仮にメディアの片隅で反論があったとしても「歴史修正主義者の戯言」として耳を素通りしていただろう。この辺はケント・ギルバート氏の日本軍が悪いことをしていたという先入観が働いて聞く耳を持たなかったという心理状態と全く同じである。

ちなみにこのケント・ギルバート氏は2ヶ月ほど日本語を学んだ状態で1971年に初来日し、いったん帰国したのちに再び仕事の都合で東京に赴任し83年頃からTVに出るようになるのだが、彼が日本語を覚えて日本社会を理解していった時期と、私が生まれて小学校を経て中学校に上がりそこそこ世界が見えてきた時期とが同じである。本ブログでも彼の発言をいくつか引用しているが、感覚が私と極めてよく似ているのもこの時期的な一致のためだろう。彼も1980年代の戦争責任追求の空気と無垢化した在日の言説をたっぷり浴びた人なのである。

(余談)過日、朝日新聞の慰安婦記事検証の関連で、1987年の読売新聞にも挺身隊と「従軍慰安婦」を混同した記事が載っていたことが話題になった。しかし、こうした当時の空気を知っている私からすると実はほとんど違和感がない。当時の私は、メディアに党派性があることは一般常識としては知ってはいたが、具体的にどのように違うのかはあまり理解しておらず、それはよく言えば先入観なく等分に、悪く言えば漠然と等分に見ていたと思うが(もっともニュース23やサンデープロジェクトなど今思えばリベラルメディアを視聴している時間が長かったのだが)、その記憶からすると、特にTV報道は全社的に国(軍)による強制連行された従軍慰安婦のイメージで報道していたという印象である。おそらく読売新聞の場合も上記時代の空気や先入観、あるいは過ちを率直に認めることが進歩的であるという一種のエリート意識も手伝って「こういう酷いことがあった」という嘘話に素朴に引っかかったのではないかと推測する。なお産経新聞の場合も同様である。そして各社その後の論調の変化を見れば、素朴に騙されただけなのか、朝鮮人=被害者という結論ありきの構図を強調する手段だったのか、スタンスの違いは瞭然であろう。

その後の展開

1991年金学順会見、1993年河野談話、1995村山談話を経て、この「自虐史観」はピークを迎えるが、その後から日本社会の歴史観が大転換していく。その一里塚たる出来事が、1996年「つくる会」発足、1998年『戦争論』、2005年『マンガ嫌韓流』の発売である。

この時期に私の歴史観(アジア侵略戦争、南京大虐殺、植民地支配)がどのように変化していったのかについての詳しい経緯は割愛するが、いくつもの段階があって、ある時点を境に一気に転換したというわけではない。

朝鮮半島について言えば、1980年代に「植民地支配」についての世界観が自分の中でいったん常識化した以降は、ほぼ省みられることなくそのまま維持されていた。そして2000年代のネット時代に入ってからもしばらく「ハングルは日本が教えた」などという「妄言」にはしばらく耳も貸さなかったが、その後、総督府発行のハングルの教科書や朝鮮語の新聞やレコード、植民地支配下の朝鮮の写真などを実際に写真で見たりするうちに考えがかわっていった。そして民族名のまま将軍になった人がいたこと、朝鮮人(や台湾人)が甲子園にまで出ていたことなども知って、本当に、心底、驚くことになるのである。

こうして、2000年代に入って(正確に言うと2004-05年ごろ)、「植民地支配」「創氏改名」「強制連行」「日本語強制」「従軍慰安婦」などの実態が、思わされてきたものとは全く違うことを知って仰天した私も、この時はどちらかというと怒りよりも呆れたような心地でいた。そして、日韓ワールドカップもあり、所謂ヨン様ブームの頃であり、日韓の間に特段摩擦がなかった時期であり、長年の歴史疲れ、在日疲れもあったため、何も考えたくない、事を荒立てたくないという気分になっていた。そして、在日や本国人や国内左派はこれまでの嘘を恥じて黙ると思っていたし、あるいは転向して本国批判に回るのだろうと思っていた。

またこのころは河野談話の問題点についても、私はそれほど気にしていなかった。話は違ったとしても辛い思いをした人がいたことは事実なので、率直に謝罪の意を表し、誠意を見せるのは悪くないことだ、などと、むしろこの頃は、出して良かったのだとすら思っていた。

ところが、私の中でこうした驚きと呆れと納得が一段落したころ、今度はその河野談話などを根拠とした「20万人性奴隷像」計画の話が海外から聞こえてくるのである。 また国内においては「ことの本質は強制連行ではなく、女性の人権の問題である」などと論点をずらして、これらの活動を一部擁護するような人間まで出てくるのである。

ここに至って私は、朝鮮半島にまつわる歴史問題は、日本の過去の歴史に反省を促し、それによって和解の道を模索するという真摯な想いによるものではなく、政治的利益を得るためのプロパガンダであり、我々に対する明確な害意をもった活動であることに、やっと気がつくのである。 PCのためなら病的なまでに公正を欠く日本の「知的エリート」と、自国の歴史を正当化するためなら他国の人間をも騙しても憚らない、悪意に満ちた「民主国家」が存在するという醜い現実を、やっと正視できるようになったのである。

そして、それらに対するどうしようもない敵意を感じざるを得ないことになる。

在日側は「強制連行」をどう見ていたか

まず、私と同世代の在日は強制連行の問題をどう見ていたのだろうか。 私の周りには在日はいなかったと書いたが、仮にいたとしても(重大すぎて)気軽に聞けるようなものではなかった。そうした物理的心理的な障害が取り払われたのがインターネット(匿名)の世界である。

2004年頃、歴史の嘘について気がつき始めていた私は、何かのきっかけである在日三世が設置しているブログにたどり着いた。私(コメント欄の匿名の参加者)が直接尋ねたわけではないが、話の流れで「強制連行」の話になったことがある。そこでブログの作者が「自分の周りでは聞いたことがない」と答えるのを見て、強制連行虚構説を知りつつ半信半疑であった私も、そこでやっと虚構説を信じる気になったのである。なお、その彼とは、後に在特会の副会長となるA氏その人である。(→資料・新井知真

その後、これは特に探していたわけではないが、見かけた在日発言の中に、「自分たちは違ったが、強制連行されてきた人もいるんだろうと思っていた」とか、「ある日親に、実は強制連行されてきたなんて聞いたことがないと言われて驚いた」などの発言を、いくつも見つけている。

私と同じ世代の在日に「強制連行なんて聞いたことがない」という発言が見られるということは、何を意味しているだろうか。

それは、身内にサンプルがいて、辛淑玉氏ほど極端ではない(であろう)在日の姿に日常的に接していた在日ですら、「強制連行」について、私と同じような「誤解」をしていたということである。

すなわち「『強制連行』は戦時徴用の意味で使っていた」などというような誤魔化しは、もはや通用しないということを意味する。

では他方、上の世代の在日は、「強制連行」という言説についてどう思っていたのか。 鄭大均は朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』〈序〉を引き合いに出して次のように分析している。

60年代半ば、このような文に接した日本人と在日コリアンの読者の間には、かなり明瞭な温度差があったのではないかと思う。つまり、日本人側に見られたのがややきまじめな態度であるとしたら、在日の側に見られたのは、むしろ緊張感に欠けた態度であり、苦笑の声が聞こえてくるような気もする。(149頁)

(この「序」のねらいについて著者は) 要するに、ここに記されているのは、自己の被害者性を際だたせるためのはったりであり、これをいうと、日本人は萎縮し、黙ることを知っているから、こんな文を「序」に置いたのである。これはつまり自己防衛的な言説であり、在日――といっても、この本を読むことができたのは少数のインテリだけであろうが――には多分身に覚えのある話であるから、苦笑の声も聞こえてくるというわけである。(150頁)

著者はこれに続けて次のように批判する。

朴慶植はこの本で在日が日本にやってきたことの不本意性を語っているが、第三章(筆者注:『アボジ』の中身を指す)で見たように、本物の一世たちは、むしろ渡日の自発性を語っているのであり、幼少期に一世に付随して渡日した朴慶植が、そのことを知りながら、あたかも一世であるかのように振る舞い、自分たちが日本にいることをすべて強制連行のせいにすることは他者に対する欺瞞とともに自己に対する欺瞞があり、これは本来なら恥ずべき行為であったはずである。(151-152頁)

結局「強制連行」について、一・五世や二世以降(のインテリ民族派在日)があたかも一世ような立場で(150頁)このような言説を吹聴し、羽仁進などの進歩的知識人(→前編)がそれを「きまじめな態度」で受け取り、上で説明したような進歩的な時流にものって、ろくに検証もせず我々に伝えていた。そしてこのような事態を民族派在日は、「苦笑」しつつ「緊張感に欠けた態度」で否定せずに看過していたというのが1960-70年代だったのだろう。

そして三世(私と同世代)くらいになると、このような言説を半ば本気で信じてしまうようになっていた。 それが1980年代の大まかな状態だったのではないだろうか。

ところで「身に覚えのある」在日は今どうしているのだろうか。

鄭大均は「植民地支配」の虚構が定着していくことについて、2014年7月の産経新聞インタビューで次のように回想する。

拙著『在日・強制連行の神話』はそんな違和感を動機にしたもので、ある程度の影響力を発揮したとは思うが、十分なものではない。今読み直してみると、強制連行論の「おかしさ」には触れても、「こわさ」には十分に触れていないことにも気がつく。韓国に長くいて、強制連行論が教科書に記述され、博物館に陳列され、歴史テーマパーク化し、ドラマ化され、独断的な被害者性の主張が民族的、宗教的な情熱で自己実現していく様を目撃していたはずなのに、そのこわさを十分に伝えてはいないのである。
鄭大均 2014.7.5 http://www.sankei.com/world/news/140705/wor1407050038-n2.html

鄭大均はここで本国でフィクションが事実化していく「こわさ」を語っているが、 それを日本人が信じてしまった「こわさ」についてはどうなのだろうか

奴隷狩りのような強制連行、創氏改名や日本語強制が民族名・朝鮮語禁止、あたかも民族性全否定の強制日本人化政策だったかのように語られ、それによって涵養された贖罪意識つけこんでカルト宗教が活動していた1980-90年代、国内にいた在日諸氏はその騒ぎをどのように見ていたのだろう。こわさは感じなかったのだろうか。

いったんまとめ

「強制連行」を長らく(20年以上?)信じていた者として本書を手にとってみた。 本稿冒頭「はじめに」でも書いたとおり、本書は歴史問題への反論にとどまらず、それがどのような機序で日本社会に浸透し影響を与えたかを丁寧に説明しているもので、当時の日本社会の状態を知る上で極めて重要な本である。

著者・鄭大均は1980年から90年代半ばまでを海外で過ごし、当時の日本の状況について理解し難いはずであるが、氏の分析は当時日本で過ごしていた私からみても違和感がないものであり、的確なものであるといってよい。それにより私の説明も可能になった。本稿が氏の目にとまることはないだろうが、ここで感謝を申し上げたい。

本稿は、1980年代に在日は加害者の立場から被害者の地位を獲得し、加害者意識に囚われた日本側を萎縮させ、発言力を増してきたという本書の内容を受けて、では、それらは日本側からはどう見えていたのか、「植民地支配」についてどのような誤解をしていたのか、それによっていかなる影響が出たのか、1980年代に中等教育を受けた世代の一日本人の視点から説明を試みたものである。

政治の季節であった1960年代70年代に比べると、1980年代、1990年代の話はあまり語られないように思う。日本人側の視点のひとつとして、読者の参考になれば幸いである。

戦後の教育や言論は「強制連行」を「植民地支配」の下で朝鮮人を奴隷のように扱った「日帝による非人道的行為」の代表格のように説明してきた。 それが本当の事実なら、戦後の日本人が歴史の教科書で学び反省するに値する非道な国家犯罪に違いない。私自身も20年以上そう思ってきたことである。しかしその実態は、日本統治下で戦争遂行のために苦しんだ日本人と同様、過酷労働問題に過ぎなかった。

しかし誤解が解ければそれで落着なのだろうか。私はそうは思わない。かつてこうした虚偽の歴史によって涵養された贖罪意識につけ込んでカルト宗教が活動し、今なお7000人もの困窮生活者が韓国にとりのこされている。この責任はいったいどこにあるのだろう。

慰安婦問題が典型であるが、昨今の歴史認識論争はその反論ばかりに重きがおかれ、かつて日本人のかなりの割合がそれを信じ、それによって何が起きていたのかについての議論が疎かにされすぎていると思う。 嘘話に反論することはもちろんとしても、かつて虚偽史観で日本人がどのように苦しめられたかが蔑ろにされては、なぜ日本人が怒っているのか、その半分も伝わらないのではないかと私は危惧する。

ところで、上では批判的に取り上げたPCにも効用がなかったわけではない。
私のように在日に全く偏見がなく、むしろ逆に完全なる加害者意識にとらわれていた人間すら出現した。 もしそのときに在日あるいは本国からの「赦し」があれば歴史問題は収束(和解)に向かっただろう。 私の感覚では、河野談話の頃に日本側の謝罪の機運はピークであったと思う。

しかし、その犠牲者性・無垢性(偽史)を朝鮮側(在日・本国人)自身が信じこみ、逆に積極的に政治利用し始める、その端境期が1980年代だった。その後、本国においてはその偽史が続行し、日本では嘘が露見した、それによって今日さまざまな問題が発生しているのは周知のとおりである。

今日の嫌韓現象、特にいわゆるネット右翼について、私の世代(より上)が多いことに気がついている人もいると思う。それぞれにその人なりの文脈があり一概は言えないが、こうした左派史観中心の時代(旧パラダイム)とその後の経緯を経験していることが大きな要素のひとつになっていることは踏まえておくべきだろう。

最後に、3点ほど項目をつけ加える。

「本質論」への逃避――外村大教授への反論文

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ときおり顔を見せる「真実」

本を読んでいる時に、一瞬変だなと思ったりわからないと思ったことでも、一旦棚上げにして読み進めるという経験をした人は少なくないのではないだろうか。私が信じていた左派史観にも(今思えば)綻びが見えたことがあった。つまりもっている「世界観」との現実との整合性が取れないことがあった。しかしそれを検討せずに棚上げして過ごしてしまった経験がある。2点だけ紹介してみよう。

(1)『はだしのゲン』という漫画を私は小学生と中学生の境目あたりで読んだのだが、その中に親切な朴さんという人物が出てくる。そして「植民地支配」で苦しんでいる彼がなぜ日本人に親切なのか、そもそもなぜ日本人と対等な関係で話ができているのか不思議だなと思った記憶がある。そして、朴さんが対等だったのは日本人と朝鮮人が「支配者と奴隷」ではなく「同胞」だったから、ということに気づいたのは2000年を過ぎてからのことだった。(→『はだしのゲン』にみる朝鮮人強制連行

(2)1990年代後半、韓国人兵士の靖国神社へ合祀問題がもちあがったことがある。そのときに初めて私は朝鮮人兵士の存在を認識するが、どういう存在なのかよく理解できなかった。今では朝鮮人が日本人と共に戦っていたこと、志願兵までいたこと、つまり日本人と同じ「国民」であったことを知っているが、当時は朝鮮人と日本人がそんな関係にあったことなど想像もしていなかった。

このように1と2いずれも「真実」がそこに見えているのだが、「植民地支配」「強制連行」「従軍慰安婦」からなる世界観を前提にするとどれも理解できなかった。

(この「ときおり真実」の問題については→§「真実」問題―つかこうへい作品で考える従軍慰安婦問題の原点

ゾマホン「あれは植民地政策ではない」

かつて「ここがヘンだよ日本人」という人気番組があった。1999年、日本の植民地支配について、ゾマホン氏と韓国人との間でこんなやりとりがあった。(資料:リュウ・ヒジュン

ゾマホン「あれは植民地政策ではない。同化政策ですよ!」
韓国人「同化政策と皇民化政策を勉強してから話せ!」

この回をリアルタイムで見ていた私はゾマホン氏の言ったことの意味がよくわからなかった。「植民地支配」を受けた側の黒人の側から日本擁護とも取れる発言が出たことにまず大変驚き、同時に、ゾマホンの方がよく知らず、ゾマホンの方が間違っているのだろうと思っていた。

しかし今なら彼の言いたかったことがわかる。「植民地政策ではない」という言葉の意味が。

私が植民地の問題で韓国人に正面から反論したのを見たのは実はこれが生涯初のことで、非常に印象深い出来事だった。

(なお動画中に出てくる通名問題については→通名と創氏改名

まとめ・現在

こうして利用されてきた「強制連行」という言葉は、今日、その嘘話についての反省もないまま強制徴用などという言葉に置き換わり、朝鮮人の戦時下の過酷労働問題へと論点ずらしがはじまっている。軍艦島(世界遺産)の forced to work 問題は記憶に新しいだろう。 慰安婦問題が「女性の人権」にシフトしようとしているのもまったく同じねらいである。

私は「女性の人権」にしても「過酷労働問題」にしても、それを問題視すること自体は正しいと思う。特に、これまでの経緯を知らない人がそう思うことは極めてまっとうな感覚だろう。(ただしそれは日韓基本条約で解決済みであるが)

しかしそうした態度では「和解」することはできないだろう。

「和解のために」

今日、嫌韓がここまで大きくなったのは、現在の半島本国の反日政策(天皇侮辱発言、海外慰安婦像等)への拒否反応という側面ももちろんある。しかしある一定の世代、私のように戦後歴史教育の影響を強く受けた世代には、在日や本国人の「嘘」を信じ、騙されてきたことに対する怒りがそのベースにある。この怒りが解消されない限り、在日あるいは本国人と和解することは難しいだろう。

(終)

〔参考文献〕
『在日・強制連行の神話』 鄭大均 2004年