日立就職差別訴訟にみる「歴史的経緯」

日立就職差別訴訟(1974)の判決文から抜粋。 「歴史的経緯」がいかに政治利用されてきたか。

(一) 在日朝鮮人の形成
 六〇万人を越える在日朝鮮人形成の要因は、一言にして言えば近代日本の朝鮮に対する植民地支配の結果である。
(中略)
日本政府は一九三九年「国民総動員計画」を樹立し、その一翼として、日本の重要産業部門に朝鮮人労働者を動員、移入することを決定し、まさに「野犬狩り」に等しい方法で朝鮮人の日本への強制連行がなされたのである。
(中略)
「内鮮一体」等のスローガンの下に朝鮮人からその名前を、言語を、文化を、民族性をも奪い、戦争期に行なわれた「皇民化政策」は、朝鮮人に対して、差別を前提にして日本国家の中で自己の位置づけを精神的にまで強要した。
(後略)

(二) 在日朝鮮人にとつての氏名
(中略)
 日韓併合後、朝鮮が日本の大陸兵站基地の様相を呈し、朝鮮人を「皇国臣民」として動員することが目論まれ始めると、朝鮮人を法的義務においてのみ日本政府の統治下におく「内地融和」政策が開始された。これは国籍を一方的に日本籍にするのみならず、その姓名をも日本式に改めることを強要し(「創氏改名政策」)、さらにはその精神をも「皇国臣民」化しようとするものであつた。
(後略)

(四) 在日朝鮮人にとつての教育
(中略)
戦前の「皇民化」教育の歴史の中で、朝鮮人は日韓併合以来「同化」教育によつて「日本帝国臣民」として生きるべく強要され続け(後略)

日立訴訟判決(横浜地裁) 1974.6.9 http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/798/019798_hanrei.pdf

「野犬狩り」「強制連行」などが「在日朝鮮人の形成」の経緯として挙げられており、「在日は強制連行の被害者」などの「歴史的経緯」が1974年の時点で既に司法の場で政治利用されていることが、この判決文にあらわれている。

今日ではもちろんこのような話はデタラメであることが知られているが、戦後わずか30年でこのようなデタラメが裁判記録にも登場し、そして南京大虐殺とともに、これが日本が起こした戦争犯罪なのだと教え込まれていくのが筆者(1970年生)の世代なのである。 (→「植民地支配」をめぐる2つの世界観

ところで「差別事件」とされるこの日立訴訟には、じつは次のような重要な背景がある。

日立闘争のなかで、何が困難であったかと問われれば、民族団体、なかんずく総聯が、われわれの運動を、同胞を日本社会に同化させる「ネオ同化主義」の運動だとして「非難」したことであった。
(中略)
「日立に勤めてどうする気か。裁判をやって同化するなど正気の沙汰ではない」。この意見は、総聯を始めとする、ほとんどの一世たちの声であった。
(中略)
筆者にいわせるなら、日本企業への就職の門戸開放に、さらに社会保障の適用に、最も強く反対したのが、1970年代前半における民族団体内部の一世たちだったのである。当事者が同化だといって反対しているのに、日本社会が進んで制度的差別を撤廃するはずはない
(日立訴訟世話人・佐藤勝巳氏の回想) ~ 鄭大均『在日韓国人の終焉』40頁

つまり戦後の朝鮮人は、日本企業に就職したり、日本社会に参画していくことを同化主義、すなわち朝鮮民族への裏切り行為だと認識していたのである。

自己都合で渡日したはずが「強制連行」となり、自己都合で日本名を名乗っていたはずが「日本名強制」となり、自己都合で同化を拒否していたはずが「日本社会の差別が原因」となった。

朝鮮半島をめぐる歴史問題は、このように自己都合による選択を、あとから日本に責任転嫁するという共通の特徴があることに注意が必要である。