「従軍慰安婦」を在地や本国人はどのように説明してきたか (→「従軍慰安婦」を日本側はどのように誤解していたか)
朝鮮人慰安婦
日中戦争から太平洋戦争にかけて、約20万人もの朝鮮女性が「女子挺身隊」の名の下に日本帝国主義によって労務動員され、そのうち5~7万人が「従軍慰安婦」として戦場に送られ肉体を日本兵士に提供させられました。この女性たちの大部分は、日本敗戦後、中国大陸や東南アジアなどの戦場に遺棄されたのです。
前述の吉田清治氏が、1943年5月、軍の命令により朝鮮の済州島で「年齢18歳以上30歳未満。既婚者も可。但し妊婦を除く」などという条件で、「皇軍慰問・朝鮮人女子挺身隊」を強制連行した時の模様を証言しています。
私たちは徴用隊と称していましたが、その徴用隊は体調が私で九人の部下を連れて十人で済州島へ参りました。…戦時中ですから完全武装の歩兵軍曹以下10名が、私たち10名と同行しました。
…割合大きな家の中に20人ばかり女が集まって何かを作業していました。…すぐ私は、軍曹を通じて兵隊と徴用隊の隊員に見じてそこへ突入させました。
…すさまじい悲鳴や絶叫が聞こえて参りました。そしてそれを聞きつけたのか、どこから出てきたのか、半裸体の男性たち、これはみな漁師たちですが、その男性たちが数十人集まってその家に跳び込んできました。兵隊はすぐ銃剣を突きつけました。兵隊は銃剣を突きつけただけではありません。現在とは違いまして、叫んで反抗すれば本気で突くつもりでその男たちの方へ向かっていきました。そして徴用隊員たちは、若い女性を手をねじあげ引きずるようにしてトラックの前に連行しました。泣き叫び、部落中に非常な叫び声と悲鳴があがって、男性たちも大声でわめいていました。兵隊が銃剣で周りを取り囲み、八人の女性をひきずってトラックの近くまで連れてきました。…
そのトラックの幌の中に、みんな押し込むとともに二台のトラックに隊員が乗って、すぐに出発しました。そして十分くらい経ってから、私の横に坐っていた軍曹が私に次のことを言いました。
「徴用の警備は兵隊たちが役得を当てにしています。この先で30分小休止して、隊員たちを遊ばせてやります」。そして軍用トラックは幹線道路から横に入り、道のない草原を通って、長後岩山の裏側の幹線道路から見えない地点にトラックを停めました。トラックから隊員たちが跳び下りて来ると、軍曹の命令で兵隊たちは銃を組んで立て、それが終わると、同時に九人の兵隊たちは八人の女性が乗った幌の中に突進しました。
その間、幌の中から人間の声とは思えないような悲鳴が聞こえて参りました。
つまり、済州からわずかに30分の距離にあたる非常に近い部落、その部落で朝鮮帽子を編んでいた20人ばかりの部落民の中の若い女性八人が私の命令で慰安婦にさせられるために連行され、そして10分後には日本陸軍部隊の兵隊たちによって慰安婦にさせられたのであります。(吉田清治、前掲書)「国家による強姦」
日本敗戦後、慰安婦として連行された朝鮮人女性は言葉も通じず、知人ひとりいない異国の戦場にうち棄てられました。彼女らには「解放」の歓びも無縁のものでした。
現在もインドネシア、フィリピンなど日本がかつて戦場とした国ぐにに、多くの元慰安婦がひっそりと暮らしています。川田文子『赤瓦の家』(筑摩書房)は、沖縄に遺棄されたひとりの朝鮮人女性の苦難の軌跡を丹念に描き出しています。加藤周一編『私の昭和史』(岩波新書)のなかで、酒井興郎という人が日本敗戦後中国大陸で朝鮮人元慰安婦が将校宿舎にどなりこんできた思い出を記しています。そのとき彼女は、
「お前らは戦争に敗けたが、それでも、お前らには帰る国がある。それにくらべ、朝鮮は一等国になったというが、わしらのような女に帰れる国がどこにあるのか!…わしらをこんな体にしたのはいったい誰なんだ! こんな体で祖国へ帰れるかよ!」
といいつつ声をあげて泣いた、とのことです。酒井氏は、
「経済繁栄に酔う日本人は、わずか四十年前のことすら忘れている。まして朝鮮人従軍慰安婦のことなど、誰も初めから関心がない。だが、私は違うと思う」
と述べて、戦争責任を忘れてはならないと説いています。ただし、酒井氏の「…その人生の最後の一瞬を、朝鮮人慰安婦の腹の上で、これが生きている最後の証かと、ひたすらおのが命を燃焼させた多くの人々」などという表現に、私としてはこだわりを感じることも言い添えておきます。
強制連行されてきた朝鮮人女性の「腹の上」で疑問もなく「命を燃焼」させることのできた多くの日本人兵士たちは、その女性たちがかけがいのない自分の妻や姉妹だったらと一瞬でも想像することはなかったのでしょうか。その女性たちは、朝鮮人にとってはまぎれもなく自分たちの妻であり姉妹でした。それは、「国家による強姦」そのものでした。日本人兵士たち(日本民衆)の、植民地民衆を人間以下にみなすこのようなメンタリティと荒廃したモラルこそが、日本という「国家」の責任かくしに役立っていると思うのです。徐京植 1989 『皇民化政策から指紋押捺まで』 15-18頁
※適宜追加 (→「従軍慰安婦」を日本側はどのように誤解していたか)
*ひとつ補足しておくと、民族派在日が主に扇動していたのは強制連行、日本名強制、日本語強制あたりまでで、「従軍慰安婦」にはあまり関与していない。「従軍慰安婦」問題を扇動していたのは主に左派日本人と本国人である。(それゆえここに掲載できる資料は少ない)
在日の資料が少ないのは、1980年代に吉田清治が出てくるまで、慰安婦を歴史問題化することなど、発想として浮かばなかったからだと思う。