水野直樹『創氏改名』の考察(後編)

前編では「創氏改名」の実際の実施過程をについて、氏は朝鮮風が推奨され、名前についても民族名そのままがよいとされるなど、朝鮮総督府は朝鮮人の氏名について日本人風などは求めていなかったということをみてきた。
しかしそれはあくまでも朝鮮総督府側の考えであって、朝鮮人の側は圧力を感じていたのだという反論があるかもしれない。
そこでこの後編では、前編とは視点を入れ替えて、朝鮮人の立場からの「創氏改名」を考えてみたい。

朝鮮人の側は「創氏改名」をどのように受け止めたのか。圧力と感じていたのだろうか。
その際、誰からどのような形で「圧力」がかかり、朝鮮人はそれにどのように「抵抗」したのか。
以下、著者の考えに沿って、創氏改名にまつわる圧力と抵抗とされるものについて考察していこう。

なお前編同様、資料編(本書を論点整理・要約したもの)を適宜参照しながら読んでほしい。
資料編(後編)  資料編(前編) →考察(前編)

※注意※ このページから見る人のために、前半冒頭に書いた注意を再度書いておく。
本稿は、水野『創氏改名』の資料に全面的に依拠しながら、著者の資料解釈は誤っているという方向で書かれている。つまり著者の結論を批判するというスタンスで書かれている。水野『創氏改名』の内容をそのまま説明するものではない。

―― 以下、斜体は引用をあらわす ――

創氏反対への圧力

創氏(改名)に反対する朝鮮人には公権力から圧力がかかったと云われている。ではどのような圧力がかかっていたのだろうか。朝鮮人と取締との関係性について、本書第三章「批判・抵抗と取締」(109-131頁)には著者が次のように述べている箇所がある。
これら四名が警察官の聴取に応じて本音を語ったからといって検挙されることはなかった。しかし、同じ「本音」を公共の場で、あるいは他人に語った場合には、「不穏言論」として検挙されることになる。(→朝鮮人の反応
当局が治安維持法を適用する意図を持って誘導した点を割り引いたとしても、創氏への批判が民族意識、民族独立の思いにつながっていくものであったことは容易に理解できよう。(→検挙された朝鮮人

水野はここで、これらの取り締まりが創氏制度への批判言動によるものであるかのような書き方をしている。
しかし、聴取している警察官に創氏反対を語っても検挙されなかったこと、検挙された朝鮮人の言動、適用法律(→取り締まりに関する法律について)などから判断して、これらの取り締まりは、創氏制度批判そのものではなく、独立運動や不穏言動、流言蜚語(とくに創氏は変姓廃姓であると扇動するもの)などが拡大するのを未然に防ぐ事を目的としていたものと考えられる。
独立運動などをする人は当然民族派であるから、その言動の中に「創氏反対」が含まれてもおかしくはない(→次項「検挙された朝鮮人の気持ち」)。 しかしそれは民族運動に付属していた言動であって逮捕の主因ではない(逮捕主因は独立運動)。

「創氏改名」について、ネット時代以前は「創氏改名しないと逮捕される」といったイメージを抱いていた人も少なくないだろう。 本書でも三橋発言など警察の動向が重要論点のひとつとなっているが、おそらくそれの名残であり、柳大興の逮捕が注目されているのも同様である。
しかし、創氏改名強要派がいくら探しても、警察が一般民衆に創氏圧力をかけてたという痕跡はみつからない。
それもそのはずで、みてきたように、刑事罰(圧力)となるのはあくまでも独立運動(に付随する創氏反対言動)に対してであって、通常の警察活動が一般朝鮮人に対して創氏のプレッシャーとなっていたわけではないからである。

つまり一般生活において創氏への「圧力」があったとすれば、行政末端の「成績の尺度」の問題(→役所での強要)や立場に付随する「率先垂範」(→立場上余儀なくされた人)、あるいは一般市民同士の「同調圧力」のことであって、総督府が公権力(警察など)をつかって朝鮮人を威圧していたのではない
創氏問題を考える際には、この点は明確に区別しておく必要がある。(なお柳が取り調べを受け起訴猶予となった詳細な理由・経緯は本書からはわからない)

検挙された朝鮮人の気持ち

創氏政策に異を唱えて治安維持法等で捕まった人間も、罪状は創氏批判ではなく朝鮮独立の企図したことであった。
彼らの気持ちを勝手に忖度すれば、創氏制度以降、姓ではなく氏とはいえ、二文字氏(金海とか山田とか)を付ける朝鮮人も少なくなく、それが嘆かわしい、朝鮮民族の危機であるという危機感はあっただろう。

李正雨(岸田時和・22歳・無職)はその寂しさを、
「志願兵募集とか旧姓改姓等は吾等韓国を日本民族と飽和〔ママ〕せん溶解せんとする一手段と私は考える。兎に角国なき吾等は世界中でこの上もない悲しい寂しい民族と言える」(129頁)と手紙に表している。
朝鮮民族が日本に同化されていくという危機感から、「旧姓改姓」*1がなければこんなことにはならなかった、であれば創氏制度そのものの廃止を訴よう、そう考えた朝鮮人がいたとしても不思議はない。

問題はそのような反対運動が当時どれくらいの支持を受けていたかであるが、著者は本書の最後で、創氏改名に対する批判と抵抗は朝鮮社会に広く存在していたが、多くは個人のレベルにとどまり、社会的或いは民族的な抵抗の形をとることはなかった(232頁)と総括している。 つまりそうした活動への支持は極めて限定的というのが実情だったようである。

*1) 設定創氏のことを指していると思われるが、李正雨はこのとき改姓を迫られると勘違いをしていたのではないかと筆者には思われる。

民族派らが反対していたのは「創氏改名」のどの部分なのか

歴史にイフはないが、「創氏改名」政策が仮に氏制度のみ(法定創氏のみ設定創氏なし)であったとしたら、どのような反応になったのだろうか。民族派はそれにも反対したのだろうか。収録されているものからいくつかの発言を拾って検討してみる。 なお各発言を解釈する上で、当時新聞記事などで「改姓を迫られる」という誤解が流れていたことは気に留めておく必要がある。

1.「朝鮮風習を保護すべし、氏制度を中止すべし」(総督府宛の投書)
 →文字通り「氏制度」への批判だが、相次ぐ設定創氏に不満を抱いて、それを阻止するために制度自体の中止を求めているとみることも可能で、意味を確定することは困難。
2.「創氏設定は徹底的に朝鮮文化の破壊と民族意識の絶滅を図らんとする日本政府の悪辣極まりなき圧政である」(閔泰崑ら)
 →「創氏設定」が氏制度、設定創氏どちらを指すか確定できない。
3.「創氏することに依り其の姓を分割することは、朝鮮民族の団結を破壊すること」(李種世)
 →「姓を分割」とは、同じ金一族が、金海、金本などに別れてしまうということである。つまり設定創氏批判であると解釈できる。
4.「吾々半島民が先祖より継承し来れる姓を、如何に当局の政策なりといえども容易に創氏出来得るものに非ず」(洪懿植)
 →氏制度自体に反対か、改姓と誤解して反対とみるか、確定はむずかしい。
5.「貴下も他に率先して創氏するが如きことなく寧ろ従前通り李姓を襲用することとせらるべし」(李紀鎔)
 →これは「氏を李にするなら問題ない、ないし、受忍限度内だ」と考えていると解釈できる。
6.「氏制度創設に賛成だが(中略)なぜ金や李のままで忠実な日本国民たり得ないのか」(尹致昊)
 →これも「氏を金や李のままにするなら問題ない、ないし、受忍限度内だ」と考えていると解釈できる。

微妙な発言もあるが、1,2,3を非姓創氏(姓と違う氏を名乗ること)への反対、5,6を姓創氏(姓をそのまま氏とすること)なら許容、と敢えて解釈すると、じつはこれらの発言は整合性を取ることができる。 すなわち「非姓創氏に反対」という発想がみえてくるのである。
この「非姓創氏反対」を念頭に、上記以外の資料を検討してみると、たとえば「河東」と創氏することを決めた一族の門中代表あてに脅迫状が届いた事件(→検挙未満の言動)も、非姓創氏についての反応であるとみることができる。

そして本書収録の資料の中で、氏制度それ自体(つまり夫婦同氏)に不満を示したと明確に言えるものをさがしてみると「女性にとっての創氏改名」にある二人の女性の発言だけなのである。

例>(自動的に夫の氏になることについて)「寂しい事件」(毛允淑)、「寂しくはあります」(張文卿)

このようにして当時の発言を検討してみると創氏改名批判の矛先は、氏制度そのものというよりは、設定創氏による非姓氏設定に向けられていて、氏制度それ自体については、民族派ですらあまり反発はなかったように思われる。

また総督府は氏制度導入の前に中枢院へ諮問もしているが、そこでも氏制度導入が問題視されたという形跡はない(→前編参照)。(ただ設定創氏についてどのような議論があったのかについても本書には載っていない(*1))

もし氏制度導入および設定創氏いずれも民族派や中枢院が問題視していなかったとすれば、「強力な反対があったにもかかわらず日本的な家族制度を強制した」という、戦後歴史教育でされていたストーリー著者の説明(→前編)は成り立たなくなる。

思うに、創氏制度(氏制度・設定創氏)そのものについては、創氏制度実施前には朝鮮人側からの反発はなかったと考えられる。 氏制度によって本貫や姓名が毀損されるわけではないし、設定創氏それ自体は氏設定の選択肢が増えるだけなので問題はないからである。
しかし制度実施後、非姓氏を設定する朝鮮人が想像以上の数にのぼった。それを阻止するために、一部の民族派が制度そのものを潰してしまおうと考えた。 それが上で検討したような朝鮮人の反応としてあらわれているにすぎない。…というのが「創氏改名」に対する朝鮮人の反応の実態だったのではないだろうか。
にもかかわらず、それが戦後、「日本の創氏改名強制に対する朝鮮人の強烈な抵抗」というイメージで流布された。(※一部民族派による、そうした反対運動を支持する声は少なかったことは既に前項で説明した)

「創氏改名」は長らく民族名を日本名で上書きする犯罪政策であったかのように云われてきた。だからこそ朝鮮人が激しく抵抗したというストーリーで語られてきた。
しかし実際の「創氏改名」は「創氏」政策にすぎず、しかも姓をそのまま氏にしてもよく、姓名その他もそのまま存続し、またその使用が禁じられたわけでもなく、氏名と並用されていたりもしていた。(→実施後の氏名使用実態
その程度の政策に対して朝鮮人がわざわざ「民族的な抵抗の形をと」るはずもなく、一部過激な抵抗運動もあったものの、それを支持する声は少なかった。これがおよその全体像なのではないか。

*1) ただし著者は、1924年に中枢院に諮問して以降、氏制度実現に時間がかかったことについて、「中枢院の中にも反対意見があったと考えられる」(32頁)「これに反対する意見が強かったとみられる」(66頁)などの推測を入れつつ、(同本同姓婚が導入されなかったことなど、民事令改正作業は)朝鮮社会の慣習、伝統的な法意識の壁の前で停滞を余儀なくされた(33頁)として、これを「抵抗」だと考えているようである)

創氏反対を唱える世代の偏り

検挙された朝鮮人をみると明らかに20代や学生など、若い世代が多い。設定創氏、あるいは創氏制度自体に反対ならば、もっと多くの戸主世代の反対があっても良さそうであるが、明らかにその下の世代に偏っているように見えるのは何故なのか。

本書の集録がたまたまそうなっただけの可能性もあるが、推測するに、創氏の設定権をもつ戸主であれば非姓氏・姓氏を自由に選べるが、そうでない世代は戸主の決定に従わざるを得ない。非戸主世代が氏の設定に不満がある場合、その不満はまずは戸主(一族内他者)へと向かうが、それが転じて、制度自体への不満としてあらわれても不思議ではない。
創氏に対する反対言動が若い世代に偏っているとすれば、そうした事情もあったのではないだろうか。(教育の普及により民族意識が高まったためという見方もあるようである)

立場上余儀なくされた人

柳大興の例が典型だが、他に教員の場合も同じようなケースがあったと考えられる。もちろん「柳」で設定創氏すればよかったのだが、他人に推奨する以上、二文字氏を率先垂範しなければ示しがつかないと彼は考えた。「巡回講演班」にも同じ様なプレッシャー(批判)があった。
尹致昊の場合は、その日記によると、「子供たちを『ブラックリスト』に載せるようなことはしたくない」として彼は創氏を決断する。この記述が何を意味するのか不明だが、彼には朝鮮独立派と看做される危険性があったからだろうか。 親戚である尹徳栄(子爵・貴族院議員・中枢院副議長)も、創氏には反対の立場であったが、一族の決定に従い創氏する。
しかし同じ中枢院参議である南百祐、崔基燦は「創氏改名」していない

創氏改名が実施された時期に、十三ある道知事職のうち五つを朝鮮人がつとめていたが、うち三名は創氏改名し、孫永穆、兪萬兼の二名はしなかった。その直後の人事異動でその二名の代わりに創氏改名した朝鮮人が新たに任命され、結果、朝鮮人知事五人全員が日本名の知事となった。
この事実について著者は総督府は「内鮮一体の具現」である氏制度の趣旨に反する者が知事の地位に留まることを許さなかったといわねばならない(177頁)と意味づけしている(→朝鮮人知事の抵抗?)。
しかし、知事の交代が創氏届出締切「後」であって創氏推進とは直接は無関係であること、また1943年に金大羽が全羅北道知事になったこと(177頁)、兪萬兼は後に中枢院参議に任命されていること(179頁)からしても、民族名が取り立ててペナルティになっているとも思えない。つまり孫や兪の交代とその後五名全員が日本名知事となったのは単なる偶然であり、それほど意味はないのではないか。

戦後に孫永穆(全羅北道知事)が創氏問題について強い突き上げがあったと述べていることについては、他道と比べてあまりに低調(*1)だったために職務怠慢を疑われただけかもしれないし、これだけではなんともいえないのではないだろうか。なおこの孫永穆は小説『族譜』の元となった話を語った人物である(→梶山『族譜』について)。

*1) 「同年5月末、統計数字で他道は道人口の9割もしているのに、全北は六分、すなわち百分の六という大変不調な成績であったため、上部の攻撃が激しくなりました」(韓国歴史情報統合システム・反民特委調査資料→「朝鮮人知事の抵抗?」参照)

一般社会での強要

学校で「白眼視された」という描写がある。(→学校およびその周辺の話
知識のない頃の私であれば「山田太郎のような完全日本名に創氏改名しなければ、日本に非協力的な者だとして白眼視された」というような意味合いで理解しただろう。
しかし設定創氏八割、改名一割という割合を知っている現在では、どう解釈すればいいのかわからない。氏が姓そのまま(たとえば金)だと白眼視されたのだろうか。金海など二文字氏にしないと白眼視されたのだろうか。山田など日本風にしないと駄目だったのだろうか。(9割は下は朝鮮名のままなのに?)

「名前が日本化しないと学校に入れない」という例についても、氏が決まらないと手続きが進められないという、単に入学手続き上の話にすぎない可能性もあり、これだけではよくわからない。
「強要を続けるなら子供を退学させると反発する親がいる」という話については、「内地人式『氏』制定方(かた)強要し」という文言から判断すると、非姓氏の設定を強要したケースがあったことが窺われるが、しかし報告のされ方をみると、むしろ問題のある事例として(つまり批判的に)扱われているのではないだろうか。

また本箇所を素朴に読むと、本当は学校に通わせたいが創氏強要されるなら退学も辞さないという、親側に相当の覚悟があるように読めるが、かつては日本においても、特に貧しい家では親が労働力である子供を学校に行かせたがらないという時代があり、この場合も創氏拒否は親の口実で、退学されて困るのはむしろ学校の方だった可能性もある。元咸鏡南道知事も、朝鮮人を学校に入れるのに苦労したという回想話(→3.1運動に対する総督府幹部の見解(外部リンク))を披瀝している。(学校のほうが立場が弱い)

水野錬太郎議員による「官辺の強制」の質問についても、むしろ強制はよくないという意思の現れだとも解釈できる。
末端ではいろいろなことがおこるから、(当局の意志に反して)「一部遺憾な事例」がみられたとしてもなんら不思議ではなく、そうした一部の問題事例を以て(当局の意志として創氏改名を)強制していた証拠とみなすのは無理があるだろう。

役所での強要

著者は、総督府法務局が届出率を気にしていたこと、また咸鏡北道警察部長を務めていた倉島至が戦後の回想話で管内巡視の際に創氏改名率を尋ねていたこと(*1)などを根拠として、「氏の届出率」を「皇国臣民化の物差し」であると総督府は見なし、それを重要視していたと説明している。

こうして、氏の届出率は各地域の「皇国臣民」化の程度を測る物差しとなっていく。(86頁)
このように地域ごとの「創氏成績」が発表され、それが皇民化の物差しとされると、届出率の低いところは「不名誉」を挽回するために届出の督励に一層力を入れざるを得ない立場に置かれることになる。 (86頁)

つまり著者のここでの見立ては、総督府が届出率を気にしていたことが末端の役人のプレッシャーとなって、それが強引な創氏強要に繋がった、そして「非国民」などというレッテルを恐れた朝鮮人が泣く泣く創氏し、それが八割にのぼったということである。 それはたとえば、「拒否する者は皇国臣民ではない、非国民だ、という理屈が大きな圧力となって朝鮮人にのしかかった」「行政の末端機関が行ったというより、朝鮮総督府あげての督励であり強制であったといわねばならない」(→自発性の強要・同化と差異化)といった文言などから著者のそうした「考え」が読み取れる。

*1) 倉島は戦後「管内巡視の際、創氏改名率の報告を聞いた際も、よいと褒めもしなければ悪いとしかりもしなかった」(85頁)と回想している。

では著者の見立てどおり、総督府が届出率を気にしていたことが、届出率が八割にものぼるほどの苛烈な強要に繋がったのだろうか。次はこの点について考えてみる。

まず、著者の指摘によると、たしかに総督府は創氏の届出率に関心があったようである。しかし公布した政策の行く末に政府が関心を払うことは別段不思議なことではないから、届出率に関心があること自体に特別な意味があるわけではない。
もしこのとき届出率を気にしていた理由が「皇国臣民化の物差し」なのだとしたら、氏の形式様式(日本人風の氏にしたかどうか)についてもこだわりがあってしかるべきではなかろうか。 なぜなら朝鮮風二文字氏では「内鮮一体」にならないという趣旨のことを著者自身も述べているからである。(→前編「差異化」の奨励、「内鮮一体」との齟齬
しかし本書には氏の形式や様式にまで総督府が注意を払っていたという話は書かれておらず、(日本風氏、朝鮮風氏、姓そのまま氏を含めた)届出率だけが気されていたとしか書かれていない。
なお届出率について、総督府が予想した届出率は二割であり、それも手続き人員確保のための予測にすぎなかったことがわかっている(→実施前の予想創氏率)。 もし創氏させることに実質的な意味があって、八割にまで「強要」しようと思っていなら、もっと高い「予想」を出して人員を確保しておいても不思議ではない。しかしそうした話も本書には書かれていない。

しかしそもそも創氏で皇国臣民化させるといっても、無理やり日本風の氏を設定させたところで、朝鮮人が実質的に(内面から)皇民化するわけではない。とすれば総督府がそんな意味のないことを熱心に「強要」するだろうか。

「全北道の成績は(中略)他道に比べるといささか立遅れの感があるというので、当局では猛烈なラスト・ヘヴィをかけ、8月11日(ママ)までには道民のすべてが創氏届出を済まし、悔を後世に残さぬよう創氏促進の猛運動を起こすこととなった」(大毎6月25日)(86頁)

著者はこうした記事を創氏強要の根拠であるとする文脈で挙げているが、当局としては自動で決まる法定創氏よりも、本人の意思を経由した「届出」を奨励することは何らおかしなことではない。とすればこの記事も単に手続き漏れのないように、ということではないだろうか。「悔を後世に残さぬよう」という文言は締め切りが過ぎると手続きができなくなるという意味にとれば不思議はない。
結局、総督府側が創氏率に注目していたのは、単に創氏制度公布の浸透度を気にしていただけではないだろうか。創氏強要の必要性の無さからいっても、政府が創氏率を気にしていたことが八割という結果に繋がるような圧力になったとは思えない。

では総督府が「強要」していないとすると、なぜ予想二割だった創氏率が八割にものぼったのか、そのモチベーションはいったい何であったのかという疑問が残る。
思うに、可能性のひとつとして、末端の役所が、自分たちの成績を上げるために強引なことをやったのではないかということが考えられる。 つまり届け出率が高ければ優秀と上から評価されるだろうというような空気が、(総督府の思惑と無関係に)末端に生じていた可能性がある。

ところで、ここで本書には書かれていない情報をひとつ追加すると、じつは面長(村長)のほとんどは朝鮮人だった

とするとこんどは、はたして朝鮮人の役人が同胞に対してそんな強引なことするだろうかという疑問がでてくる。
しかし考えてみると「強制連行」(徴用)も「従軍慰安婦」も朝鮮人が同胞に対して行っていたものであった。にもかかわらず、戦後教育ではその情報が落とされて、すべて日本人の「強制」「強要」のせいにされたという経緯・類似性が、朝鮮半島がらみの歴史問題には広くみられる。
そうした「類似性」を考慮すると、この「創氏改名」についても同じ構造があってもおかしくないのではないか。
つまり総督府の圧力が末端に伝わったのではなく、末端の朝鮮人がが自己の都合で勝手に行ったことが、戦後に総督府のせいにされていても不思議はないと思うがどうだろうか。

(――八割という創氏率について補足:創氏改名について、朝鮮人全員が拒絶していたかのようなイメージをもっている人もいまだに少なくないと思う。そういう人は、この八割という数字についても「やむなく創氏した」「強い強要」のあらわれであるかのようなイメージで見てしまうのではないだろうか。
しかしそれは「日本名強制によって姓や民族名が消滅した」という旧来の説にもとづく先入観、すなわち朝鮮人は名前の変更に激しく抵抗したはずだという先入観が残っているからではないだろうか。日本名強制説が消滅した後にも「拒絶した」というイメージだけは頭にのこり、未だにその残影からこの問題を見ているからではないだろうか。
しかしこの八割の中には、「強要」による手続きではなく、素朴に公布に従っただけであるとか、折角の機会なので「氏」というものをつけてみたかったなど自発的に創氏した朝鮮人も多数含まれていると思われる。なぜなら見てきたように、届出しないことによる損(自動的に決まってしまう)はあっても、届け出ること自体はなんの損もなかったからである――)

著者の「拒否すると非国民という理屈が大きな圧力」という表現は、戦時下における思想的窮屈さを語る文脈でよく見かけるものであり、一部で創氏が踏み絵として使われた可能性は否定できない。しかしそれを八割の根拠とするには、まわりがほとんど日本人である内地での届出率が14.3%にとどまった事実とのバランスが悪いように思える。

やはり朝鮮半島においては日本側の強要というよりも、末端の役人の都合や、あるいは朝鮮人同士の同調圧力という側面も多分にあったのではないだろうか(当時の朝鮮は人口の97%が朝鮮人)。 率先垂範・同調圧力なども含め、結果八割にものぼったというのが実態だったのではないか。

氏制度が形式的皇民化運動に利用された(鈴木武雄)という説明は正にそういう状態であって、つまりそうした末端の事情(役人の成績など)、あるいは朝鮮人同士の同調圧力に一般の朝鮮人も付きあわされ、その際に「非国民」などの言い方が使われたということではないだろうか。
とすると、こうした「形式的皇民化運動」の主語は一体誰だというべきなのだろうか。

もしこのことを「植民地支配」で朝鮮人は日本に一方的に隷属させられた完全なる被抑圧者であったという、戦後教育の世界観(世界観A)で考えると、その主語は当然日本人となる。戦後教育を受けた人は、私を含めそう思ってきた人も少なくないのではないか。
しかし実際の朝鮮統治では、統治者側(知事、役人、教師など)にもたくさんの朝鮮人がいて、創氏の広報や手続きには朝鮮人が多数介在していたのである。そうした等身大の朝鮮統治の姿をイメージした上でこの問題を考えなおしてみると、また創氏届出率については総督府は二割と見込んでいたこと、あるいは内地での創氏率が極めて低調だったこと、半島における人口比率なども勘案してみると、その主語が日本人に限ったものではないことが自ずとみえてくるのではないだろうか。

そしてそうした朝鮮人の介在を無視して、戦後、すべてが日本人(総督府)のせいにされているというのが「創氏改名」なのではないか。 しかもこれとよく似た構造が、すなわち朝鮮人の介在が無視されてすべて日本人の仕業にされているという構造が、他の歴史問題(強制連行や従軍慰安婦など)にもみられることを考えると、いろいろ整合性がとれるように思うがどうだろうか。

羅景錫の氏が「羅田」となったことについて:「『日本人風の氏』を受け入れないという姿勢を示した」(150頁)という決め付けがなされているが、それを抵抗と解釈するには、その前提として日本風氏が強要されてなければならない。しかし、そういった経緯は書かれていない。(繰り返しになるが、総督府としては日本風二文字氏(山田など)は推奨していない)

届出率の推移

6月7月8月に届出件数が急増したことを根拠に強力な強要があったとする説もある。
しかし創氏制度の情報(理解)は徐々に伝搬しただろうことや、集計で確定数が出るまでのタイムラグの要素もあるのではないだろうか。 また締め切り直前に「これが創氏設定の最後の機会」とでも煽られれば、直前に届出が増えても不思議ではないような気もする。

結局、事前に総督府が見込んだ予想創氏届出率は二割弱であったにもかかわらず、最終的に朝鮮半島内で届出率が八割にものぼったことについて、本書からは確たる理由はみつからなかった。 なお朝鮮以外の届出率は二割弱だった

ここまで、著者の考える圧力とその抵抗について見てきた。
創氏改名については、反対するだけで極めて強く圧力がかかったというイメージがあるが、逮捕されたのはあくまでも独立運動や流言蜚語・社会不安扇動に絡むものであり、それ以外の圧力については行政末端の「成績の尺度」の問題であったり、あるいは主語不明な「同調圧力」が立場や場所によって掛かっていたというのがおおよそのところだったのではないだろうか。

以下、ここまでに割愛した論点、飛ばした論点についてすこし補足する。

同化と差異化について

著者の名前政策面での評価は、日本風(同化)方向の話のときは「内鮮一体」などに由来する「強要」「自発性の強要」となり、差異化方向の話のときは「差別の温存」「抵抗の結果」という、完全な「いいとこ取り」になっている。それは公平な見方なのだろうか。

ともあれ、たしかに当時の朝鮮社会には、立場や場所によって同化方向、差異化方向という相矛盾する力が斑模様のように存在していたことは事実だろう。
しかしそれははたして、戦後生まれの日本人が「過酷な植民地支配」の証拠として学校の歴史の教科書で学び、民族的な反省を強いられるような種類の問題なのであろうか。 制度の弊害あるいは社会問題など、朝鮮や台湾における「統治の研究」として専門的に扱うならともかくも。

総督府は差異化を推奨した。形式は二文字氏が、様式は朝鮮風が推奨された。 日本風二文字氏(山田など)は朝鮮人の自発的選択だった。それぞれの過程でなんらかの率先垂範や同調圧力などがあった。
同化と差異化について整理すると、およそこのようなことにすぎないだろう。

日本名強要の根拠

長らく「創氏改名」とは「総督府が朝鮮人に日本名強制したもの」という理解がなされてきた。本書では相当に後退しつつも、著者の意識の根底にはまだその考えがあるように見える。
これは実際に本書を読んでみなければ伝わらないかもしれないが、単なる「創氏届出」(義務)が、話の構成によってなんとなく「日本名強要」を連想させたり(例:羅田氏)、全般を通じて「日本風名前への抵抗」というニュアンスで貫かれているために、あたかも日本風名前の強要と強い抵抗があったかのような読了感を得てしまうことからも窺える。

しかし、そもそも総督府が日本風の氏や名前を付けさせようとしていたという根拠はどこから出てきたのだろうか。
「内鮮一体」のために皇民化政策の熱心な推進者であったとされる学務局長塩原時三郎は「日本人風の氏名」をつけることを考えていたが、結局総督に進言したものは創氏制度であった(→内地人風氏名発案)。改名が許可制のまま創氏させるだけでなぜ同化になるのか、その理由については明確にされていない。(この点を勝手に推測すると、塩原は改名まで考えていたが事情により導入しきれなかったということだろうか。区別差別するためにあえて残したという推測の仕方もありうる→改名は促進せず

しかしそもそも学務局長である塩原は創氏政策を直接は担当していないという文献もあり(岡崎茂樹、38頁)、創氏政策と塩原(皇民化政策)との関連性がいまひとつ不明である。著者自身も司法法規改正調査委員会に加わっていなかった塩原が、民事令改正案の内容にどれだけ関与し得たか、疑問の余地もある(38頁)と関連性の薄さを認めている。 日本名推進に特に熱心だった(とされる)塩原の関与がこの程度であったことからしても、総督府が本当に日本風氏(名)を名乗らせようとしていたのかどうか、いまひとつ判然としない。

尹致昊の場合は、尹本人の主観では日本風氏への抵抗になっており、子は改名までしているので、これだけを見れば日本名強要の有力な根拠になりうる。しかし創氏改名していない中枢院参議もいることを考えると、尹致昊の思い込み、あるいは個人的事情の可能性がある。

また著者は、中村一郎や白井正吉の例(割愛したが李基燦の例67頁)を南や塩原が(上下とも)日本風名前をつけさせようとしていた有力な根拠のように考えているようだが、自主的に日本名を選んだときにその結果を歓迎することと、制度によって朝鮮人に日本名を付けさせようとすることは、次元がいくつも異なる話であろう。その手の言論があったことも事実であるが(↓)、それが制度には取り入れられなかったことは、既に説明したとおりである。

思うに、もし仮に総督府が本当に上下とも日本風氏名にすることを望んでいたのであれば、いっそのこと創氏創名にすればよかったはずである。しかし実際に実施されたのは創氏だけであった。必要性(イエの確立)から言っても、実際に導入された制度(創氏のみ)を見ても、総督府が日本風氏(名)を望んでいたとは考えにくい。 台湾での創氏(改姓)が許可制であったことからしても、朝鮮総督府が日本風氏を求めていたとするのはむずかしいのではないか。

各種言論における日本名化の主張

「同化の第一義は鮮人の改名に在り ―― 朝鮮人を日本式の姓名に改めよ」(改姓名を主張)(黒板勝美、東大教授、33頁)、「朝鮮人に内地人式姓を許せ」(改姓を主張)(奥山仙三、学務局嘱託、39頁) のほか、雑誌『日本及日本人』1924年9月15日号で中山啓(思想家)は「朝鮮人の姓名を全部、命令によって日本的な姓名に変更し、全朝鮮人の原籍を一度悉く、日本の内部に移し、朝鮮に寄留せし如く改めて、彼らが朝鮮人であるということの証拠を、全部湮滅(いんめつ)せしむることである」と、これも黒板同様、改姓名の主張である。中山の議論は究極的な同化政策論というべきだが、朝鮮人の慣習、感情を無視した極端な意見であるだけでなく、戸籍まで同一にしようという主張は支配当局に受け入れられるものではなかった(34頁)。

「日本名強制」説について

「総督府が日本風の名前を強要した」という説の根拠になりそうな言論が総督府内外に存在していたことは確認できた。しかし、差異化推奨(改名非推奨)の言論もあり(岩島、松本重彦など)、また結果的に制度としては改名非推奨という体(てい)になっていたにもかかわらず、なぜ戦後「日本名強制」が定説化したのか、私はそこに興味があったのだが、本書からはその明確な根拠を見つけることはできなかった。

2003年、麻生太郎氏が東京大学での講演で創氏改名について「朝鮮の人が名字をくれと言った」と発言し問題になったことがある。当時の朝鮮人が「名字」を望んだかどうかはわからない。しかし少なくとも上下とも日本名(山田太郎など)を名乗った人については、ほとんど彼らが望んだこととみなしてもよいのではないだろうか。創氏という制度趣旨(苗字だけ)からいっても、日本風の必要性のなさからいっても、日本風氏名を名乗れという強要があったとは思えない。

これは推測になるが、自分の意志で日本名に「創氏改名」してしまった人が、戦後に韓国などで「親日派」糾弾の流れができたために、一転「押し付けられた」ということにした、それが「日本名強制」説の発祥の要因のひとつになったのではないだろうか。

梶山季之『族譜』(1961)について

梶山『族譜』は、鎌田澤一郎(南次郎前任総督宇垣一成のブレーン)と駐日韓国公使・金龍周が、全羅北道知事・孫永穆から聞いた話として1950年に『文藝春秋』に語った話をヒントに書かれた小説で、無理やり創氏させられた朝鮮人長老が祖先に顔向けできぬと抗議の自死を遂げたというストーリーとなっており、戦後の創氏改名のイメージに影響を与えた作品のようである。

ところが水野によると、このお話は実際に起きた事件とはかなり様相が異なっている。

『族譜』およびその元となった孫永穆の話では、長老自殺の原因は、学校が子供を進級させぬと脅してむりやり創氏させたことになっているが、「警察などの文書」によると、一族の人間が、長老である薛の意思を無視して創氏を決めたことに対しての抗議自殺となっている(→資料編・梶山季之『族譜』)。
つまり老人の怒りの矛先は、『族譜』の場合は、学校という日本の公的機関による創氏強要であるが、実際の事件は、長老の意に反して一族が勝手に決めた創氏に対してなのである。両者ではまったく問題の性質が異なる。
(これを水野は「若干異なっている」と表現しているが、「若干」ではなく「本質的に」とするべきだ!)

なおこの「間違い」は既に1990年代の金英達ら(*1)の著作で判明しているらしく、本書はそれを踏襲した形となっている。(元書籍は未確認)
この『族譜』は「日本名強制説」のバイブル的存在らしく、かなり有名な作品で、それを題材にした演劇があのジェームス三木の脚本で今でも盛んに上演されているようである。 また韓国に於いても1978年に映画化されており、「創氏改名」の嘘話を長く牽引してきたとすれば非常に問題である。

この梶山『族譜』に描かれた「創氏強要」の様子はかつて私が抱いていた「創氏改名」のイメージに極めて近い。「創氏改名」=日本による非人道的な名前強制政策というイメージである。

しかし上で説明したように、実際の事件における薛長老の不満は、自分の氏がどうなるかではなく、自分以外の一族が「非姓氏」(玉川)を名のることにあった。古風な老人からすると、(改姓でなくとも)氏名が標準表記となる以上、非姓氏を名のる自分以外の一族の姿を見たときに、創氏によって「子孫が途絶える」という「見え方」をすることはありうるし、長老の意見を無視して非姓氏を設定した一族への嘆きが、設定創氏がなければこんなことにならなかったと総督府への恨みに転化することも理解できる。しかし、それもあくまでも一族の選択の問題であって、総督府が押し付けたものではない。

薛氏のような事件は「設定創氏」を導入したがために生じてしまった悲劇であることには違いない。しかし、こうした不可抗力な事態もすべて「日帝による過酷な植民地政策」のせいであるかのように語るのは間違っている。

ここで気がつくのは、この薛長老の場合も、上で検討した民族派の場合も、共通しているのは「自分以外の人間が非姓氏を名のることへの抵抗」であって、自分が創氏を強要されたことに対する抵抗ではないということである。にもかかわらず、後年この関係が混同され、あたかも皆に無理やり創氏が強要され、それに朝鮮人が激しく抵抗したかのように語られるようになった。それが「日本名強要・創氏強要」という嘘話が生まれた要因だろう。

なお資料編では取り上げなかったが、薛氏以外にも自死した人がいる。全羅南道の儒学者柳建永は創氏を「滅姓」と捉え総督府や中枢院へ抗議書を送るなどの活動をしたあとソウルの知人宅で服毒自殺、慶尚北道の儒学者李賢求も創氏に抵抗して断食自死している(本書の記述からはいずれも詳細は不明)。韓国政府は三者に独立運動に功績のあったものに与えられる愛国章などを追叙している。

ところで、結果的に間違いだったとはいえ、総督府の事情に詳しい鎌田がその話を信じたという事実を以って、鎌田もこうした事態を十分想定できていたのであり、「創氏改名」はそれほどに苛烈な強制政策(国家犯罪)だったと彼も認識している証左である―という反論があるかもしれない。たしかに旧パラダイム時代であれば、私もこの部分を鎌田が創氏改名政策の犯罪性を正面から認めたものと解釈しただろう。 しかし、創氏が結果八割で、総督府の届出率予想も二割に過ぎなかったということを知っている現在からすると、彼は、「形式的皇民化運動」の行き過ぎで、中にはそんなケース(不幸な事件)もあったかもしれないという意味で語っているに過ぎないと解釈するのが妥当だと考える。

※追記…『族譜』の記事を書きました→梶山季之『族譜』の間違いについて

*1)金英達氏らが「創氏改名」の研究論文を出したのは1990年代のことであり、実は、1980年代まで創氏改名を専門にあつかった研究論文は、一本もなかった(12頁)そうである。著者も「本書も金の研究によるところが大きい」(13頁)としている。それではそれ以前は、一体「何」によって創氏改名は理解されていたのだろうか。

◇創氏改名「強要」の整理

ここまでの「強要」の議論を整理すると次の二種類に大別できるだろう。

A)自分の創氏が(自分の)思うようにならないケース
  →例:役人の成績の尺度率先垂範、市民間の同調圧力など
  →非自発的強要であり、創氏(改名)にまつわる「強要」といえる
  →社会問題・行政問題の範疇

B)他人の創氏が(自分の)思うようにならないケース
  →例:薛長老、民族派、非戸主など
  →創氏改名に端を発する問題(事件)ではあるが、「名前の強要」(政策)の問題ではない。
  →仮にA型創氏(改名)についてB型にみられるような苛烈な強要や抵抗があれば「創氏改名」は正に犯罪的政策といえる。

そしてなぜか戦後にこのABが混同され、嫌がる朝鮮人にむりやり創氏を強要した非人道的政策だったかのように語られるようになった。その典型例が梶山の『族譜』。

(――こうした一連の経緯を整理してそこから推測できることは、多くの朝鮮人は創氏制度にも設定創氏にも、それほど反発をしていなかったということである。反発が少なかった理由は、創氏制度が大した制度ではなかったからである。
しかしながら民族派の朝鮮人は、創氏とくに設定創氏を安易にと受け入れてしまう一般朝鮮人に対して危機感をつのらせ、それがB的な他者他家攻撃に繋がったというのが実態だったのだろう。ただそうした運動の支持は極めて限定的であったということも上で見てきたとおりである)

「開放」後

ソウルに住むある日本人は、新聞への投稿で、総督府による「軍国主義的弾圧政治」と「同化政策」によって朝鮮人の日本に対する感情が悪化していたと書いた上で、次のように証言している。
創氏改名の如きも既に鮮人一般が日本より離反しつつあった以上、全く効果なく、創氏改名以後諸処に不自然な行為が散見されていた。終戦の翌日、彼らが競って門前の日本名の表札を取り外し、元の朝鮮名の表札を掲げたことに徴しても明かであろう。(読売新聞1945.11.19朝刊)(221頁)

本書の流れで読めばこれを「抑圧からの開放を喜んだ」と解釈するのが普通だろう。かつての私であったら素直にこの誘導に乗っただろうと思う。
しかし今の私からすると、易姓革命の土地では政権交代したときに前政権の協力者と看做されることは危険であるという、一種の生存戦略から出た行動かもしれないとも思える。つまり、たとえ自発的に日本名を名乗っていたとしても、日本敗戦後は、日帝に無理矢理つけさせられたのだということにしないと具合が悪いということである。現在の韓国で、「親日派」として見られることは不利であるというのもそういった政治風土の表れである。
ゆえに創氏改名については――日本人の感覚からは理解しにくいことだが――1945年以後の朝鮮人が「強要された」と主張しているからといって、1945年以前の朝鮮人もそう思っていたとは限らないことに注意が必要である。

その後の問題

抵抗運動ではなかったので資料編では取り上げなかったが、戦死者や労災死者の名簿の問題がある。

それら被害者・犠牲者の名簿は、当時の「本名」である「日本人風の氏名」で記されており、多くの場合、名簿だけでは朝鮮名を知ることができない。本籍地などの記載にもとづいて戸籍と照合することが可能であれば、もとの朝鮮名に戻すことができるが、そうでない場合は、犠牲者の身元を明らかにすることができない。そのため、家族がその行方を知ることができないまま長い年月が経過した事例、遺骨を受け取ることができないでいる多くの事例がある。(227頁)

もちろん気の毒な出来事であるが、これは当時の制度の中で生じた不備の問題であって、創氏改名の「非人道性」(日本名強制)の問題ではない。

(戸籍と照合しないと身元が確認できないのは恐らく日本人も同様であっただろうが、「本名」で見分けがつかないということは家族にも「氏名」が浸透していなかったということなのだろうか。その辺の事情はよくわからない)

――― ここまでで、後編のメインである「朝鮮人側から見た創氏改名」の問題は一通り検討しおえた。 以下、ここまで取り上げなかった論点について3点触れておく。

教科書の記述について

前編で割愛したのでここで簡単に触れておく。2007年の時点での日本の教科書の多くは、「朝鮮では姓名を日本式に改める創氏改名が実施」「日本式姓名を名のる『創氏改名』を強制」(6-7頁)というような表現になっているようである。これを普通の国語感覚で読めば、「日本名(改姓改名)を強制した」と解釈するのが自然だろう。

何故日本の教科書がこのような記述になっているのだろうか。(以下憶測混じりの話である)

周知の通り日本には教科書検定制度というものがある。昭和50年(1975年)から6年間、教科書審査官を務めた所功氏によると、「著しい間違いとか偏りがないかをチェックする制度」だということである。(TV番組の発言から引用)

そうした検定官の視点から説明文をみてみると、日本では「姓名」を単に「名前」(苗字と下の名前)の意味で使うことも考慮すれば、この部分を、「民族名を日本名に変更させた」(普通はこう読んでしまう)ではなく、「名前(姓名表記)を日本式(氏名表記)にすることを強制した」と「正しく」解釈することも不可能ではない。

ゆえに仮に執筆者側から「日本名ではなく、氏名制度を強制したという意味だ」というような抗弁が出た場合に検定側がこれに「著しい間違い、偏りがある」という意見を付けられたかは微妙だった可能性もある。 なぜなら創氏改名が教科書に載り始めた1980年代(6頁)には「第一次教科書問題」(1982)もあって、あの左派全盛の時代の空気の影響は非常に大きかったはずだからである。

(ここでは、そのようなせめぎ合いがあったかもしれないという可能性の話をしているが、あるいはもっと単純に、最初期はともかく「誤解」に基づくイメージが定説化して以降は、そのまま事実としてパスしただけなのかもしれない。「強制連行」なども間違いが定説化して教科書などに載っていたわけで、創氏改名に同じ現象がっても別に不思議ではないのではないか)

以上はもちろん憶測話だが、こうした政治的妥協もあってこのような玉虫色の表現、正確さを欠く記述が続いてきたのではないか。 では、そのような表現を後押しした勢力はどのような勢力なのか、そうした経緯の解明が必要なのではないだろうか。

(河野談話がそうだったように、教科書にもこうした玉虫色の決着があってもおかしくないような気がする。あくまでも憶測であるが)

細川総理発言について

細川発言は教科書の文言と非常によく似ている。この頃すでにこのような表現が標準になっていたのかもしれない。

創氏改名から完全に脱線するが、筆者の印象では、1990年代前半、21世紀まで10年というその頃には、戦争によって生じた澱を総括して新世紀を迎えよう、きちんと謝れば許してもらえるのだ、今にして思えばそんな「楽観的」な気分が広がっていたように思う。そしてそうした空気を反映したものがあの河野談話である。おそらくはこの細川発言も同じような感覚で出たものだろう。

発言者の独りよがりはさておくとしても、両者の共通点は、全体像はいまひとつわからないながらも迷惑をかけたのは事実なので、少々謝りすぎかもしれないが多めに謝っておこう、それが今後の両国のためなるのだという、ごく素朴な思いもあったように思う。しかしそれが逆手に取られ、「日本の善意が裏切られた」(石原信雄)結果になっているのは衆知の通りである。

細川氏の「創氏改名」発言はいまのところ河野談話のような政治利用はされていないが、この細川発言を以って「創氏改名」に関するなんらかの「根拠」とするのは妥当ではないだろう。

通名と創氏改名

在日韓国・朝鮮人の多くが現在も日本的な通称名(通名)を使っているのは、日本社会に根強い差別が残っているからであるが、創氏改名のもたらした傷跡のひとつであることにも目を向けておきたい(ただし、在日韓国・朝鮮人の通称名の全てが創氏改名に由来するものとはいえない)。(230頁)

このように通名(完全日本名)と創氏改名は関係があるかのような語られ方をする場合があり、私もそういうイメージで捉えていた時期がある。 推測になるが、教科書の記述のわかりにくさに加え、このようなことも「創氏改名=日本名強制」という誤解を強化した要素のひとつではないだろうか。

しかし見てきたように、創氏制度(イエの確立)と通名(本来は便宜的なもの)はそもそも目的からして異なるものである。形式で考えても創氏(上の名前のみ)と通名(名前の上下)は異なるし、様式の点でも朝鮮風推奨(創氏改名)と完全日本風(通名)という違いがある。時系列で考えても便宜的な日本名使用すなわち「朝鮮人が名のる日本名」は創氏改名(1940年)以前から長い間存在していた。
このように創氏改名と通名は、趣旨目的、形式、様式、時系列、どの点から見ても無関係なのであり、それらを結びつけて考えるのは間違っている。

もちろん在日の通名が「創氏改名」で設定した氏名に由来するケースもあっただろうが、しかし制度や意味の面では無関係である。
にもかかわらず、なぜ通名と創氏改名を混同するような誤解が生まれたのか。 仮に「創氏改名=日本名強制」という誤解が、この通名との混同に端を発しているのだとすれば、それが意味するところは何であろうか。

――― 以下、若干の整理とまとめ。

強制と強要

従来「創氏改名」は(日本名)「強制」の話であった。しかし本書では「強要」という程度問題に変わってしまっている。
しかしイエ制度の確立という制度趣旨からいって日本風の氏や名前を「強要」する必要性はなく、事実、日本風の氏・名は非推奨だった(岩島課長、松本重彦など)。 つまり「日本名強制」「日本名強要」というのは、実態としても言い方としてもおかしい。

見てきたように「強制」されたのは氏制度(ファミリーネーム制度)であり、その氏制度自体への反発は少なかったと推定されることもすでに検討した。

皇民化政策・同化政策

「創氏改名」「日本語強制」などに代表される「皇民化政策」は、朝鮮人の民族性を否定し、日本への同化を強いる非人道的な政策であったと長らく考えられてきた。 今日、進歩的知識人がしばしばみせる「同化アレルギー」も、この皇民化政策アレルギーに由来するものである。

しかしながら、少なくとも「創氏改名」については、氏制度の導入と朝鮮の姓を両立させる制度であって、名前の面では、同化政策ではなくむしろ朝鮮の民族性に配慮した政策だったと考えるのが妥当ではないだろうか。 (ただし著者はこれを「区別・差別を温存する意図」だと考えている)

おわりに

過日ふと「創氏改名」について一度きちんとした専門書を読んでみようと思いたち、朝日新聞や民団のサイトで紹介されていた本書を手にとってみた。ネット時代に入って以降、「創氏改名」についてもそれなりに知っているような気分になっていたものの、本書で初めて知る事実が多くあり、また曖昧にしたままやり過ごしてきた部分も明確になるなど、「創氏改名」の全体像がより見えてきたように思う。解釈はほぼ正反対となってしまったが、それも著者の提示した資料が公平だからこそ可能だったと言える。

著者と私でここまで結論(印象)が異なったのは、持っている知識の差(既知のものとして省略された根拠など)もあろうが、結局「悪辣な日帝による統治」か「そこそこ穏当な統治か」という世界観自体が異なるからではないだろうか。

私も、かつてもっていた世界観、すなわち「植民地支配」で朝鮮人は日本に隷属させられた完全なる被抑圧者であったという世界観で本書を読めば、著者の説明にもかなりの納得がいく。しかし世界観自体を疑いながら読むと見え方が違ってくる。 そうした見方の「変遷」もあって思うことは、世界観が異なれば資料解釈にある程度の差がでてくるのは仕方がないにしても、本書はその世界観に依拠した決めつけが多すぎるように感じた。

著者は序章において、『マンガ嫌韓流』などを引き合いに出して、昨今、洪思翊や朴春琴など民族名のまま将軍や議員になっている朝鮮人がいることを根拠に インターネットの世界でも、創氏改名の強制性を否定する意見が飛び交っている が、それらは一面的な議論に過ぎないものであることを明らかにしていきたい として、強制性否定論者へ反駁が本書の執筆動機のひとつであると述べている。(8-10頁)

しかしながら、「皇民化政策」の一環で日本名(山田太郎など)が全員に強制された、民族名は消滅したと思っていた私のような人間からすると、問題の焦点は強制「性」などという程度問題にはない。その意味では本書は最初から反駁本の体をなしていないといえる。また本書読了後にも「日本名強制」説は嘘であったという印象に変化はなく、むしろ本書で示されたさまざまな事実によってその任意性を再認識する結果となった。朝鮮風の氏名が推奨されたこと、「姓・本貫・族譜」が残されたことからは、(総督府側から見ればであるが)民族性の否定どころかそれに十分配慮する姿勢すら感じられたのである。

また朝鮮人の側からみても、本書を読む限りにおいてであるが、氏制度、設定創氏についての反発は少なく(→「創氏改名」のどの部分に反対だったのか)、また創氏強要の有無については、自死を含む激しい抵抗はあくまでも民族派による他者の創氏に対する阻止・妨害行動であって、一般朝鮮人の自己の創氏は自由であったことが読み取れるのである(→創氏改名「強要」の整理)。

要するにこの創氏改名(創氏制度)とは、公的な場では判別がしやすいように核家族で同じ帽子(氏)をかぶること(夫婦同氏)に過ぎなかった。そしてその際にはなるべく色違いの帽子の方がわかりやすくてよい(設定創氏)というものでしかなかった。それはなんら民族性を否定するものではなく、ゆえに朝鮮社会においての名前習慣はそのまま維持されたのである(姓名本貫族譜は維持)。

それが好ましい制度であったかは別にして、少なくとも総督府は、創氏を導入することで重大な問題が起きる、しかも予想届出率が二割弱という状態で、後年、民族性全否定政策であったかのように語られるなどとは、想像もしていなかったのではないだろうか。

「創氏改名」は長らく民族名を廃止し日本名によって上書きする「日帝による非人道的行為」の代表格のように理解(主張)されてきた。 創氏改名に反対すると逮捕され、名前を変えさせられたことに悲憤し抗議自殺する人まであらわれたなどと説明されてきた。それはほとんど「恐怖政治」の様相である。

それがもし本当の歴史的事実なら、我々が歴史の教科書で学び、反省するに値する「非道な制度」に違いない。私も1980年代から20年間そう信じてきた。

しかしその実態は「光復」のわずか5年前、朝鮮の姓名文化を尊重しつつ導入された夫婦同氏制度(氏名制度)に過ぎなかった。しかもろくに定着せず、結果、著者自身も、次のように総括せざるを得ない代物だったのである。

しかし1940年から45年までの五年間で(中略)朝鮮社会のあり方が変わったと考えることはできない。期間が短かったために(中略)形の上では新しい氏をもつようになった人びとは、依然として旧来の姓を名乗る世界に生き続けたのである。(226頁)(→氏名使用実態

「創氏改名」は趣旨も十分理解されぬまま導入され、間に合わせやほとんど投げやりのような形で創氏する人も出たりするなど、制度に振り回される当時の人々の姿が見えるようである。しかしながら、一部に不幸なケースがあったとはいえ、戦後に「名前を奪われた」などと被害者性を顕揚し、さまざまな譲歩を引き出す道具となるような類のものではなかったはずである。

そうした戦後の経緯も踏まえて、「日本名強制」という嘘話が如何に広まったのか、その原因を一度きちんと総括する必要があるだろう。

それと同時に、今後「創氏改名」についての主張がどのように変化していくのか、「強制」を「広義の強制」(自発性の強要)化してそのまま続くのか、氏に選択肢を設けたがために生じた一定の問題を「民族的悲劇」として糾弾していくのか、あるいは完全に転換して家族制度を押し付けられ、宗族集団が破壊され、天皇への忠誠が強要された、という方向に変わるのか、私に予測することはできないが、その動向にも注意を払っておく必要がありそうである。

(終)

〔参考文献〕
『創氏改名』 水野直樹 2008年  ◆楽天 ◆Amazon