『アボジ聞かせてあの日のことを』(2)

『アボジ聞かせてあの日のことを』(1988)から抜粋 (文末の括弧内は渡日年を表す)

【A】 渡日当時、本国内で見聞きしたこと

16才の時に日本に渡ってきた。弟が汽車に乗る時見送りにきたことが記憶に残っている。本国の生活は苦しく、日本でお金を儲けるつもりできた。('42)

貧乏人やから、けんかばっかり、暮らしていけないからこっちへ来た。1人の仕事をもらっても、ぬかやかぼちゃや大根の葉を入れた物しか食べられなかった。弟にやる分もなく、自分の分もない、こんなみじめな暮らししかできなかったから日本へ来た。('24)

日本人校長の息子をなぐり、学校を退学になり、行く所がないので日本で勉強しようとか思っていた。('24)

満14歳の時、1人で渡日してきた。当時は日本統治下であり、貧困農村の中で生活していたが、大同製鉄株式会社の工員募集を見てそれに募集した。満6歳で当時尋常小学校と呼ばれていた今の小学校に入学する。学校では日本人の先生により、日本語による学習を受ける。家に帰ると、それほど日本語を理解できない老人たちが韓国語を使用していた程度だったと記憶している。学校内ではほとんど日本語を使用した。自然に日本に対する憧れた強くなる。山村の貧困家庭から脱出したい意識と日本に対するあこがれから行員募集に自ら募集することにし、1人で渡日する決意をする。〈略〉('44)

非常に不景気であった。学校で週2回2時間ぐらい朝鮮語の学習があった。(朝鮮語読本使用)学校長は日本人、他の教師は同胞、全南昇州郡別良面の駐在所にいた鹿児島県出身の巡査部長に、下関までいっしょに連れてきてもらった。〈略〉('34)

田舎に日本人の人達が入ってきた。田を耕すようになり、私の心の中では色々と感情があったが、その日本人たちも人の良い人達が多くそれ程大きな問題はなかった。田の一部を売り、田舎の家族の生活にあて日本へ出発した。('32)

近所に住んでいた日本人(佐賀の人)はやさしくしてくれた。日本人の方が強いということもなく仲良かった。日本に来るときも、泣きながら餞別までくれた。〈略〉('39)

【E】 徴兵、徴用以外の理由の渡日、その体験談

日本において兄が古物商を行っていたので、自分も日本に行ってみたいと思い、兄の仕事の手伝いをすることになった。('39)

メリヤス工場で働いていた(略)仕事にはミシン掛けと下ばりとがあった。下ばりを3年すればミシン掛けに上がれる。ミシン掛けは請け負いで仕事をした分だけ金になる。日本人従業員は全員ミシン掛け。韓国人は多くが下ばり。私も下ばりだったが、ミシン掛けに上がった。('36)

日本の生活は楽だと聞いていたので、日本にやってきた。船に乗ることが非常に好きだったので、日本にいる韓国人の友人から大阪造船会社に入らないかと誘われたので喜んで行った。上海シンガポール、東南アジアの港を回った。('37)

日本人の人夫出しの親方みたいな人が田舎に来て、日本の炭鉱で働けばいい金になると誘われて来た。約束の給料の半分位しか貰えなかったし、宿舎のまわりは塀をめぐらして外出禁止で、もし無断外出が見つかれば半殺しにされた。('36)

夫が徴用でとられて、7、8年してから日本に来た。家で子供を見た。言葉が通じなくて何もできなかった。家でミシンの内職をした。初めて来て1ヶ月ぐらいして八百屋にイワシを買いに行って「いくらですか」という言葉がわからず「これは何だ」と言った。('44)

当時、日本に来て洋服製造販売の職業に従事しましたが、同じ服を販売するにしても、日本人の販売したものを買うお客が多く、販売自体、とても苦労が多かった。その時、韓国人への差別感をとても強く感じ、くやしい思いをした。('31)

主人(未亡人の日本人)にとてもよくしてもらった。娘のように(食べ物、着る物、洗濯)面倒を見てくれた。夜は自分の布団に入れて抱いて寝てくれたこともあった。('29)

お坊さんと暮らしていたら、警官に国のために働けと言われたので、署長の所へ行ったら「お前は警官になれ」と言われて警官となった。だが坊主が警官になったのではかっこが悪いので、署長に頼んで職を替えてもらった。そうしたら、今度は消防署員となっていた。消防署で終戦まで働いたが、解放とともに官庁へは朝鮮人は就職できないということを理由に職を解かれてしまった。('27)

私より先に渡日していた兄の紹介で、紡績工場で生地、糸の運搬の仕事についた。そこで、生まれて初めて大勢の日本人女性たちの働く姿を見て日本人はこんなに働くのかとびっくりした。私はそれまで田舎で百姓しかしたことがなかったので工場で何十倍、何百の女工さん達が働く姿にはとにかくびっくりした。私の仕事は工場で使う糸や出来上がった生地の運搬でした。糸などを積んで運ぶ車、手押し車のことをここでは「ネコ」といって会社の人に「ネコをもってこい」といわれても分からない。言葉の不自由を感じました。もちろんこの仕事は重労働でした。('35)