つかこうへい作『娘に語る祖国・従軍慰安婦編』で振り返る「従軍慰安婦」問題の原点(後編)

前編で示したように、つかこうへいが本作品で描いた「従軍慰安婦」は、日本軍が性処理のために朝鮮人の村から女を攫ってきては戦場を連れ回していた、しかもそういうことが日常的に行われていた、つまりそうした活動は事件(犯罪)扱いではなく合法ないし実質的に合法だった、というものである。*1

作者が描いたこうした従軍慰安婦のイメージをここでは便宜的に従軍慰安婦Aと呼ぶことにしよう。(→従軍慰安婦Aの定義

現在の感覚からするとこのような従軍慰安婦Aは荒唐無稽すぎて、これが当時の日本社会で一定規模で信じられてしまったとは、にわかには信じられないかもしれない。 (たとえば「南京大虐殺」であれば、対象が敵国であるからまだ理解可能である。だが、味方である朝鮮に対してこうした行為が行われたという感覚は、正しい歴史認識を持っている現在の人からすると理解不可能だろう)

では、なぜ当時の私やつかこうへいは従軍慰安婦Aという荒唐無稽な話を信じてしまったのか。 それは、「植民地支配」のイメージが荒唐無稽に歪んでいたからである。つまり朝鮮人は日本人と同じ国民ではなく、「植民地支配」によって一方的に隷属させられている存在であったと勘違いしていたからこそAが信じられてしまったのである。(→「植民地支配」をめぐる2つの世界観

この後編では、こうした推測を裏付けるために、つかこうへいの歴史観、つまりつかこうへいが従軍慰安婦Aを信じてしまうような「植民地支配」だと思っていたのかどうか、その検証からはじめる。 またそれに付随して、慰安婦をはじめとする左派史観が信じられてしまった1980年代1990年代の日本社会の状態についても説明することにする。
では以下、本文。

*1) 産経新聞が本作品について「つかは慰安婦の実像を見抜いていた」という解釈をしているが、それは勘違いであり、本作品に描かれた慰安婦はかつて左派が主張していた従軍慰安婦そのものであることは前編で指摘ずみであるので、適宜参照してほしい。

つかこうへいの歴史観

前編ではつかこうへいが描いた従軍慰安婦がAであったことを示した。
繰り返しになるが、このような荒唐無稽な慰安婦を信じてしまう条件とはなんだろうか。

正しい歴史観(B的世界観)――すなわち警察官、役人、教師、裁判官、知事、議員、軍人、皇族にまで朝鮮人がいて、日本人と一緒に生活していた、朝鮮語の新聞やレコードも出ていた、高校野球で甲子園にも出た等々――日本人と朝鮮人は、もちろん完全平等とはいえないものの、基本的に「同じ国民」として扱われていたという「等身大の日本統治」の姿の下では、従軍慰安婦Aが信じられたりするはずがない。

従軍慰安婦がAとして信じられるためには「植民地支配」において朝鮮人が日本人に対し一方的に隷属させられている(一種の奴隷階層)という世界観Aでなければならないのである。

では実際つかこうへいの「植民地支配」観はどうだったのか。日本人と朝鮮人の関係をどのようなものだと捉えていたのか。ABのどちらの世界観だったのか。それを『慰安婦編』の7年前に出された『娘に語る祖国』(1990)から探ってみよう。 (→つか4

菅野君(作者の実際の仕事仲間)とのかけあいなど、冗談めかして発言している箇所もあるので適当に割り引く必要があるが、「つか4」全体からつかこうへいの性格や歴史観について、およそ次のようなイメージがみてとれると思う。

○歴史や歴史問題にそれほど執着がない
○当時ごく一般的だった歴史認識(誤解)をもっている (創氏改名等)
○日本と朝鮮が戦争した、または戦争をしかけたと思っている
○「植民地支配」という言葉から奴隷を連想している
(→つかこうへいの歴史観(まとめ)

資料「つか4」から伝わると思うが、つかこうへいは政治問題や歴史問題についてはそれほど強いこだわりはなかった人のようで、歴史認識も私たち日本人と同じように戦後教育やメディアや周りの人から見聞きしたもので歴史観を作っていた人のようである。

そのせいか『娘に語る祖国』に書かれている日韓併合の経緯や「植民地支配」のイメージは、私から見ても違和感はほとんどないものである。 たとえば彼は「植民地支配」という言葉から奴隷を連想しているが、それについては私も同じであったし、また創氏改名や日本語強制についても、当時流布していたごく標準的な誤解がみてとれる。日韓の間に戦争に近いものもあったような気がしていたし、私は朝鮮半島は日本によって軍事占領中のようなイメージだった。

このように私とつかこうへいの歴史認識はよく似ているが、もちろん異なる部分もある。

つかこうへいの場合は自身が在日ということもあり、在日と接触がないがゆえに誤解が拡大した私の場合と比べると「植民地支配」のイメージ修正のチャンスは多かったはずである。かつてスタンダードであった「在日は強制連行の子孫」説に一抹の疑問を感じているのもそのせいだろう。 (→つか4の3)

また引用では割愛したが、韓国で上演された芝居のシーンに、日本兵の手先となって同胞をいたぶっていた朝鮮人、家族を捨てて日本の兵隊についていった女、というような一定の人間関係についての描写も見られる。

つまりつかこうへいの「植民地支配」観は、左派史観を基調にしつつも、私に比べるとややマイルドであり、歪んだ形ではあるが通常の人間的な関係も一部で存在したというイメージも持っていたようである。 ただしこの一定の人間関係については、支配者側に媚びる一部の例外(レッテルとして用いられるいわゆる親日派)とみなして全体像と切り離して考えることもできるので、大枠では、「植民地支配」下での朝鮮人は一方的に支配される対象であり、そうした世界観の中で従軍慰安婦Aをイメージしてしたとみてよいだろう。

実はこのつかの歴史観の分析については、思いのほか分量が多くなってしまったので、ここでは大幅に短縮せざるをえなかった。そこで別途補足編にてより詳細に検討することにする。それによると、やはり作者は朝鮮人を日本人と同じ「国民」ではなく、被占領地域の完全被抑圧者、すなわち自由にされてしまう存在だと捉えており、それが従軍慰安婦Aにつながっていることが見てとれる。(→補足編

次に、ここでいったんつかの作品を離れて、彼がこの荒唐無稽な従軍慰安婦Aを描くに至った1980-90年代とはどのような時代だったのか、こうしたものが一定規模で信じられた日本の社会状況はどういう状態だったのか、少し長くなるが説明してみたい。

1980年代~90年代という時代の空気

1980年代というのはまだ米ソ冷戦の時期である。この時代のさまざまな事柄をきちんと説明するのは私には難しすぎるので、私でも記憶しているくらいの主な出来事だけざっと列挙するにとどめるが、日本周辺での主な出来事としては、1983年大韓航空機撃墜事件、1985年南京大虐殺紀念館開設、1987年大韓航空機撃爆破事件、1988年ソウル五輪、1989年天安門事件、1990年金丸訪朝などがあった。

また国内政治状況としては自民党といえば金銭政治(ロッキード・リクルート)のイメージで、1990年参院選ではそうした自民党への嫌悪と「マドンナブーム」によって社会党が大勝する。経済的には1980年代前半はじつは不況で、バブル景気が崩壊するのが1990年である。

歴史認識関連では、1982年に第一次教科書問題がおきる。これがいわゆる「近隣諸国条項」ができたるきっかけとなった事件で、当時私は近隣諸国条項についてはもちろん知らなかったが、侵略を進出に書き換えたという問題はメディアをかなりにぎわせた記憶がある。

1980年代は家永裁判のこともよくメディアに取り上げられており、大日本帝国の犯罪性を子供たちに教えるために教科書に載せようとする進歩的知識人と、それに抵抗する国側という善悪の構図でとにかくよく語られていた。 「南京大虐殺」や「創氏改名」などが載り始めたのも1980年代前半のことである。

このような時代のことを小林よしのり氏は振り返って次のように語っている。

1970年代くらいになると、本田勝一の『中国の旅』などの影響で、日本人がどれだけ残酷なことをしたかという「加害者史観」が出てきた。(中略)世間はそうした加害者史観をすぐに丸ごと信じてしまった。
(中略)
わしが1990年代に『戦争論』を描いたころは、「自虐史観」「加害者史観」が世の主流だった。加害者史観が徹底的にエスカレートしていって、慰安婦問題なども出てくる。慰安婦を強制連行したという吉田清治の話は、まったくフィクションなのに、歴史の教科書に載りそうだというので、それはおかしいと、わしも「新しい歴史教科書をつくる会」の創設メンバーに参加した。
当時は、すでに自虐史観が浸透し切っていたから、若い人は戦争に行った自分の祖父たちに、「中国で虐殺してきたんだ」「なんて悪い人なんだ」と軽蔑感が芽生え、尊敬しない。祖父たちも、自分がどんな目で見られるかわからないから戦争の話ができない。世代が完全に分断されていた。
小林よしのり 2015.8.15 http://diamond.jp/articles/-/76641

この小林氏の分析は私の感覚ともよく符合する。1980年代は、とにかく歴史認識問題について、日本の悪事を率直に認め反省することが道徳的にも優れたこと、進歩的なこと、そうしてこそアジア諸国の信頼も得られるのだという機運があり、変な話だが、こういうものを積極的に認めることがいいことであるような、そんな空気があったように思う。 いわゆる進歩的知識人がもてはやされたのもそうした時流によるものである。

逆に、こうした論調に異を唱える側の人間は、日本の罪を率直に認められない右翼・軍国主義者として完全に見下され、ろくに話も聞いてもらえないような時代だった。 歴史問題について言いたい放題の現在しか知らない若い読者にはなかなか想像しにくいかもしれないが、社会の空気が今とはまったくの正反対だった。

この時期に十代を過ごした私は、たとえば憲法9条についてはどちらかというと改憲派であり(これも当時の基準でいうと「軍国主義者」)、自民党=金権政治=悪人という決め付けにも、そんな単純な話でもあるまいと眉に唾をつけてみていた方である。要は逆張りして得意になっていただけなのかもしれないが、しかしこと歴史認識にいたっては完全に当時主流だった進歩的知識人の側に立って見ていた。

そして本書『慰安婦編』が刊行された1990年代半ばもまだまだこうした左派の論調が主流であり、江藤隆美総務庁長官(当時)が「日本は植民地支配でいいこともした」発言(1995)をしたときにも、辞任して当然というような空気が支配的になるような有様で、今日のように総理大臣が国会答弁で「従軍慰安婦」を否定しても問題にならないどころか世論から支持されてしまうような時代とは根本的に雰囲気がことなっていたのである。

1980年代~90年代のメディアとその論調の変遷

この頃のメディアはどのような状態だったかについても述べておきたい。

当時十代から二十代だった私は、一般論としてメディアに党派性があることは知っていたが、具体的にどのように違うかまではよく理解していなかった。つまりよく言えば先入観なく、悪く言えば漠然と各社報道を眺めていたということになる。その私の印象からすると従軍慰安婦についての報道は各社横並びであったと思う。

ここでいったん視点を現代に移すが、2014年8月に朝日新聞が慰安婦報道の一部を取り消して謝罪記事を掲載したことは読者の記憶にも新しいだろう。その際、とくに左派陣営の方から、読売や産経もかつての朝日同様に吉田清治の線で従軍慰安婦問題を報道していたことが指摘された。*1

そして朝日新聞に擁護的な人々から「犯人は朝日だけではない」「産経・読売も虚偽報道していた」という揶揄の声が上がるが、しかし私はこのときある意味ほっとしていた。なぜなら、各社横並びであったという私の記憶は間違っていなかったと思ったからである。

*1)「徹底検証!読売『慰安婦』報道」(外部サイト) 平成3年(1991年)12月産経新聞による従軍慰安婦報道(外部サイト)

読売産経ですらAの線で記事を出していたことに驚く人もいるかもしれないが、なんのことはない、これは左派史観が左右を問わずかなりの規模と深度で日本社会に定着していたことの証左なのである。 そして前項でも説明したような「日本の悪事」を直視すべきだという空気や、正義感や一種のエリート意識も手伝って吉田のような話に飛びついたのではないだろうか。 それも当時の感覚としてはよくわかるというか、あまり違和感のないことである。

当初この慰安婦報道は、(南京や731のように)日本軍の新たな犯罪行為が発見された!というようなセンセーショナルな雰囲気からはじまる。そして「軍関与示す資料」報道や挺身隊との混同もあって20万人へとイメージが拡大していく。 現在の整理された頭で考えればいろいろおかしいのだが、当時は日本軍は悪という思い込みもあって、地滑り的にいってしまった。

(今思えば、戦後40年も経ってそんな大規模な新事実が出てくるところからしておかしいのだが、上で説明したように私個人も完全に進歩的知識人側に立って物事を見ていたので、こうしたものに検証的な態度をとることすらできていなかった) (私はこの報道がされた時にはじめて挺身隊という言葉を知り、それを従軍慰安婦の婉曲表現だと思っていた)

1980-90年代にこうした「誤報」が続発し、それが受容されてしまった根本原因は左派史観のびまんにあることは間違いない。 つまり左派史観によって「植民地支配」における日本の行為が国家犯罪として語られ(強制連行、創氏改名等々)、それによって「植民地支配」のイメージが従軍慰安婦Aを現実的だと思ってしまう次元にまで歪んでいたために、そうした「誤報」が頻発しまたそれを社会が受容する素地がうまれていたのである。

さて、かつては左右を問わずこのような報道をしていた各社だが、その後は論調が分かれていく。

その分水嶺となるのが1990年代半ばからはじまる歴史観のパラダイムシフトである。(→2つの世界観

このパラダイムシフトの結果、従軍慰安婦について各種言論はどのように論調を変えたかというと、「従軍慰安婦は嘘である」という立場(現右派)と、「強制連行は問題ではない。女性の人権こそが問題の本質だ」という立場(現左派)へそれぞれ軸を移していく。

お気づきのように、これはいま読者が現在目の当たりにしている左右対立の構造そのものである

このパラダイムシフトとは、要は、「植民地支配」の下で行われた政策(強制連行、創氏改名、日本語強制そして従軍慰安婦)が国家犯罪ではなく、単なる社会問題や行政・労働問題にすぎなかったということが明らかになる過程である。

パラダイムシフトを経て各種論調は、慰安婦問題に限らず、朝鮮半島絡みの歴史認識の全体が変化をしていく。すなわち(国家犯罪であるかのように云われているがそれは)嘘である組と、本質はそこではない組ににわかれていくのである。 たとえば「強制連行」でいうと、「在日が強制連行されてきたというのはである」と「戦時徴用における朝鮮人の過酷労働が本質である」といった具合である。先日世界遺産登録された軍艦島などは皆の記憶にもあたらしいだろう。

読者はどちらの言い分に理があると思われるだろうか。左派史観を信じていた私はむろん「嘘である」組である。

左派の主張する、女性の人権や過酷労働こそ問題の核心だとするいわゆる「本質論」は、これまで左派がどのように主張してきたかを無視して、それ単独で評価するならば、正しい。しかし旧パラダイム時代にその嘘を利用していたという経緯を踏まえれば、それが論点ずらし以外の何物でもないことは明らかである。

ここで植村隆氏について一言ふれておくと、彼や朝日新聞「だけ」が目の敵になっていることには違和感を覚える。 かつて左派史観を積極的に喧伝し「植民地支配」の実像をゆがめ、それが「従軍慰安婦」へとつながっていったことは間違いない。では、そもそもその左派史観を喧伝し、利用してきたのは一体誰なのか。朝日新聞や植村氏にばかり矛先が向いているのは、そこを誤魔化していることになるのではないか。

すこし脱線してしまったが、元にもどすと、教育、メディア、すべてがこの調子であって、つかこうへいがこの作品を出したころは、左派史観が「正統な歴史観」として定着していたという話をした。

読者の中には、そうはいっても正しい話は転がっていただろうし、歴史問題についてなぜこうした嘘話が長い間スタンダードでありつづけたのか不思議に思う人もいるかもしれない。次からの3項目でその話をまとめてしよう。

「真実」はそこに見えていても

前編では、B的要素は見えているのにA的な慰安婦イメージからなかなか抜けられないという心理の説明をした。(→前編:なかなか解けない「世界観」

正しい話(真実)が見えていても評価から落としてしまう。そうした心理をここでは便宜的に「真実」問題と呼ぶことにしよう。この「真実」問題は慰安婦だけにとどまらない。私個人の体験でも次のようなものがある。

たとえば「植民地支配」によって朝鮮人を奴隷扱いしていたように誤解していた私は、『はだしのゲン』に出てくる朴さんがなぜ(苦しめられている)日本人に対して親切なのか、また支配者である日本人と対等な感じで話ができているのかわからなかった。*1

1990年代後半に朝鮮人兵士の靖国合祀問題が大きく取り上げられたことがあった。 『はだしのゲン』にも朝鮮人が銃剣を突きつけられて徴兵されるシーンが出てくるが、12-3歳で読んだせいか、よくわからないまま棚上げしている内に印象から脱落してしまっていたらしく、このときにはじめて日本軍の朝鮮人兵士という存在を明確に認識することになる。しかしこの時点では、なぜ朝鮮人が恨んでいるはずの日本の兵士になっているのか、それがどういう存在なのか理解ができなかった。*2

他にも、皇民化政策によって朝鮮語が話せなるくらい強力に「日本語が強制された」(朝鮮語が禁止された)と思っていたので、ソウル五輪(1988)のときに私は朝鮮語が不自由な韓国人が出てくるのではないかと思って内心ハラハラしていた。(もちろんそんな人は出てこない)*3

このように今思えば正しい話(真実)はそこに見えていて、しかもどことなく不整合性も感じているのだが、歴史観自体を見直す(AB転換)という発想にはならない。

それは、旧パラダイムの住人(私)にとっては世界観Aが前提(ドグマ)と化していて、B要素がA世界の中でどのように収まっていたのかという方向でしか思考できなかったからである。そして整合性が取りきれないとその部分を棚上げする。それがこのころの私の状態だった。*4

本作『慰安婦編』もこの「真実」問題の構造がそのままあらわれた作品であり、Fパートは作者が思い込んでいた部分、Iパートは「真実」問題として棚上げしてしまった部分にあたる。

私も作者も「真実」に接しながら世界観を見直すという発想をもてなかった。同じ傾向が日本社会の広い範囲に及んでいた。それが嘘話がスタンダードであり続けた要因の一つである。

(なお、つかこうへいの場合は作品として仕上げる必要があったので、かなり無理をしてFパートに「真実」を組み込んでいる。そしてその矛盾が「どうかしてた」「なにかが狂っていた」などの台詞にあらわれてくるのだが、これは補足編でとりあげよう)

*1) 炭鉱で強制労働させられているかのような描写を思い出してほしい。今思えば戦時徴用の労務供出にすぎないのだが、私は奴隷労働のイメージで見ていた。
*2) この靖国問題がもちあがった時は、無理やり兵士にされられたという方向の話がよくされていて、今思えば単なる徴兵(B)のことなのだが、自分の中では強制徴兵されて捨て石にでもされたような辻褄(A)にしていたような気がする。とにかく理解できなかった。
*3) 「日本語強制」政策がどのように誤解されていたか
*4)私は「強制連行」されてきた在日が帰国せず日本にいるという事実(=真実)に疑問を持ったことも当然ある。しかし日本語強制(朝鮮語廃止)政策によって朝鮮語が喋れなくなっているので戻れない、あるいは日本に生活の基盤ができて今更戻れないなどと勝手に在日側の事情を忖度して納得してしまっていた(→在日という不透明な存在)。 これもB(在日が日本にいること)がA(強制連行)という世界観にあうような辻褄を探すという方向にしか思考できていない一例である。つかこうへいが本作品でやっていることも基本的にこれと同じである。
しかし、そうして辻褄の合う解釈を自分なりに探しはするものの、もともとの「言い分」や世界観(A)自体が矛盾しているので、こちらで作り上げた辻褄も当然矛盾せざるを得ない。たとえば、皇民化政策で本国人も日本語がはなせるのだから、在日も帰国しても困らないはずではないかというような矛盾の指摘はもっともである。しかしそれに気づいていたら(指摘されていたら)また別の辻褄(忖度)を探そうとしていただろう。 上に挙げた例はそうした適当な辻褄すら見つけられず棚上げしてしまったものである。
矛盾に気づくためには、整理された知識の柱と一定の冷静さがあってこそ可能であって、ここでしているように、とにかく「真実」も含めて「理解しよう」という方向性のマインドセットしかもたない当時の私やつかこうへいは、矛盾を検証するような段階には達していなかったということが読者に伝わればありがたい。

なぜ調べなかったのか

読者の中にはこうした「真実」に接し、しかもそこに一定の違和感が覚えていながらなぜ調べなかったのかと不思議に思う人もいるかもしれない。

まずまったくもって現代と感覚が違うのは、今でこそ中国朝鮮関係の歴史はまず疑ってかかるということが常識となっているが、少なくともこの頃の私にはそういうが感覚がほとんどなかったということである。

私の世代は「南京大虐殺」「創氏改名」などが教科書に載りはじめた時期(1980年代)がちょうど十代にあたり、それらはすでに日本史の中の一要素として収まっているものだった。 教科書に載っていて、TVにでてくる戦争経験者や「被害者」の話とも符合する。報道の空気も上で見たように一方的な状態である。

こうした状況の中にいた私にとって、日本が非人道的なことをしていたというのはすでに「調べるまでもなく明らかなこと」になっていて、「真実」に接したときに感じた一定の違和感についても、いずれ知識が増えればわかるだろうなどと深く考えず棚上げしてしまったからである。

なぜ棚上げしたのかといえば、「一定の違和感」などというものは歴史問題にかぎらずさまざまな事象の中に出てくるものであり、そしてそのほとんどはこちらの知識不足が解消するに連れて埋まっていくものだからである。 さまざまな違和感の中から敢えて「近代史のその部分の違和感」に注目して疑問をもつというのは少なくとも私には簡単なことではなかった。

もし、ここでやっているように、違和感をまとめて並べて検証していればそのおかしな共通性に気がついたかもしれないが、そもそもこうした違和感は歴史問題以外も含めた日常の中に不連続にでてくるわけである。

さらに、戦争世代がいくらでも存命である中で嘘話がまかり通るとも考えていないし、日本の近代史がもたらした悲劇を真剣に訴えている人々が嘘を言っているわけがないという思い込みもあった。

つまりこの時点の私には、それを調べる動機からしてほとんど発生していなかった。

この頃の私は、こうした歴史問題の文脈で語られる数々の言説がプロパガンダで歪みきっているなどとは想像もしていなかった。しかしそれは私だけのことではなく、鄭大均もその著書『在日の耐えられない軽さ』(2006)の中で、1980年代以前、コリア論が極めて強い党派性を帯びていることに気がついていなかったとし、それに気がついたのも「ずっと後になってからのことである」と書いている。

彼は留学のために1980年に離日しているので、1980年代以前とは1980年以前を指している可能性もあるが、いずれにしても鄭大均のような人物が少なくとも1980年の時点で気づかなかったことに、1980年代を十代として過ごした私が気がつかなかったとしてもなんら不思議ではないだろう。

しかもこのとき、今から見ると「いかにも」としか思えないこうした歪んだ言説を、「被害者」の証言として素直に聞いてしまうという社会的状況まで整っていたのである。 (→在日が無垢化した1980年代

天動説の時代にたとえれば、地動説の可能性に気がつくのは一定の知識と洞察力にある人に限られていただろう。しかも天動説が単なる自然科学の話であれば見直すことにそれほど抵抗感はないが、そこに宗教的な道徳観(キリスト教的世界観)が入ると地動説を認めたくないという心理も生じる。

このころは左派史観が一種の道徳(キリスト教的天動説)と化していて、これら証言が嘘である(地動説が正しい)と考えたり発言したりするには、心理的にもきわめて高いハードルがつくられていた。

「調べる」とはまず教科書を呼んだりメディアなどに出てくる戦争経験者の話を聞くことであったこの頃の私は、書籍などをよく探せばまったく別のことが書いてあるという「可能性」にすら気づいていなかった。

またもし仮に疑問を持って調べたはじめたとしても、アマゾンレビューで「あたり」をつけられる現代とは違い、左派系の本があふれる本屋や図書館の中から適当な書籍を探り当てる蓋然性と、さらにそれを信じたかどうかまで考えると、それほど簡単なハードルではなかったと思う。

もっともこれは想像で言っているので、実際にやってみれば意外と簡単だったのかもしれないが、それも今となっては検証するのはむずかしい。ただし「調べた」つかこうへいがAから抜け出られなかったことはすでに見てきたとおりである。

(では逆に、染まらなかった人がいるのはなぜかという疑問もありうるだろう。それはその人に聞いてほしいが、たとえば一定の信頼関係のある人間から適当なタイミングで違う話を聞かされるなどしていれば私でも十分可能性はあったとは思う)

なぜまかりとおったのか

では戦争世代がたくさん存命の中、このようなデタラメがなぜまかり通ったのか。

私もこれはネット時代に入ってはじめて知ったことだが、そもそも朝鮮半島にいた日本人は人口比3%の70万人にすぎなかったのである。とするとその中で全体の事情に通じていた人間となるとさらに限られてくるわけで、つまりいかに戦前戦中世代とはいえ、朝鮮半島の状況について正確な情報を持っている人間は極めて少なくなる。

そして、通常では考えにくいことであっても、皆無と言い切ることは不可能(悪魔の証明)であり、なかにはそういうケース(事件)もあったかもしれないと留保が働けば、「被害者」の「証言」に対して根拠を示して明確に反論することはむずかしい。前編のH氏などは正にそのケースであろう。

また仮に反論があったとしても(実際反論もあったのだろうが)、知識人も戦争経験者も在日も本国人もそろって同じような左派史観を語る中で、それと反対の史観、しかもそれは日本側に都合のよい史観が、どれだけ説得力を持ちえるか想像してみてほしい。罪を認めたくないから言い訳をしている、そう思われるのが関の山であり、実際当時は嘲笑の対象だった。 地動説(従軍慰安婦は嘘だ)を主張する奴には異端だ(右翼だ)というレッテルが貼られ、話を聞いてもらえないのと同じである。

こうして、いい加減な「証言」と、それに対する明確な反論がない状況があわさって、私は「被害者」の極端な言い分が全体像だという勘違いをしてしまっていた。

いったんまとめ

この後編ではつか作品と直接関係のない話が多くなったが、つかこうへいの歴史観のさわりと当時の時代状況、および、歴史認識にまつわる嘘話が長い間なぜ標準であり続けたのか、その心理構造を説明した。

そして前後編を通じては、つかこうへい作品を題材に次のことを説明してきたつもりである。

1. つかこうへいが描いた従軍慰安婦はA(→定義)であったこと
2. 荒唐無稽な慰安婦Aを信じられてしまう下地としての「左派史観」
3. B的要素が目に入ってもA的世界観から抜けられない心理
4. こうした嘘が信じられてしまった当時の社会状況

今日、単に「かつて日本社会には自虐史観が蔓延っていた」と言われても、それが実際にどのような状態であり、どのような範囲や規模で存在・分布していたのか、若い読者にはなかなかイメージしにくいのではないだろうか。

しかしここでそのわかりやすい一例が示せたのではないかと思う。

すなわち、つかこうへいのように思惑を排して物事を率直に見つめられるような人、しかも自身が在日でかつ有名人でもあって、日本人・在日・本国人いろいろ話が聞けるような立場にいる人ですら従軍慰安婦Aという荒唐無稽な話を信じてしまっていたということ。 彼の「植民地支配」観が、従軍慰安婦Aを信じてしまうほどに歪んでいたということ(→補足編も参照)。

そしてこうした認識をなかなか覆せないくらいに教育、報道、〝被害者〟の証言によって、左派史観が当時の日本社会にがっちり絡みついていたということ。

本作品と各種証言(→ここの「資料」リンク)によって、こうした当時の歴史認識と社会の空気のイメージを示せたのではないかと思う。

しかもそうした誤解は遠い昔の話ではなく、ほんの十数年前、21世紀に入ってもなお、慰安婦を含めた「植民地支配」についての一般の認識はまだ左派史観の強い影響下にあった。 だからこそ、そうした一般人の認識を変えることを企図して 『マンガ嫌韓流』(2005) は世に出たのである。

前編でも触れたとおりこの『慰安婦編』は、Iパートや構成によって、全体的にはB的な雰囲気で話が展開する。しかしそれは作者が情報を持っていたからであって、本書を読んでいない私を含めた一般人は、つか1の冒頭のイメージ(A)で従軍慰安婦の問題を捉えていた人も少なくなかったと推測する。

そして、お気づきのかたもいるだろうが、この従軍慰安婦Aは現在の韓国における従軍慰安婦の話と同じものである。それが、かつて日本の国内で、しかもそれなりの規模で信じられてしまっていたということを若い読者は想像できるだろうか。

本稿の表題は「~で振り返る『従軍慰安婦』問題の原点」としている。 ここで私が読者に提示したい「原点」とは何か。

今日の従軍慰安婦問題はもっぱら、海外慰安婦像などの反日プロパガンダ問題(=右派の問題意識)、あるいは事件としての従軍慰安婦(白馬事件等)や女性の人権としての側面(=左派の問題意識)にばかり関心が向いている。

もちろんそれぞれ大事なことであるという認識は私も共有する。

しかしながら、そもそも従軍慰安婦問題とは、そうしたものの以前に、かつての日本社会で従軍慰安婦Aが信じられてしまったこと自体にあるはずではないだろうか。 つまり、左派史観によって、日本軍が20万人規模で朝鮮人女性を拉致して性のはけ口として連れ回していたという従軍慰安婦Aが信じられてしまうほどに「植民地支配」の像が歪んでいた。そしてその虚像によって涵養された「贖罪意識」が悪用されたことにあるはずである。

その悪用の総括なくして和解はあり得ない。

かつて「強制連行」「創氏改名」「日本語強制」そしてこの「従軍慰安婦」は大日本帝国による非人道的な国家犯罪だと説明されてきた。それは私のような戦後世代が歴史の教科書で学び反省するに相応しいものだった。そして本国人や在日から責められてもしかたがないものだった。だからこそ私自身はそのことで民族的葛藤すら感じていたし、カルト宗教はその気持ちを利用できたのである。

在日の指紋押捺の廃止や特別永住資格が確定した(1991)ことなどもこうした贖罪意識と無関係ではない。

戦後おこなわれた数多の経済技術援助も同根であろう。

ところがこうした歴史観も、1990年代半ばから始まる歴史観のパラダイムシフトによって、その「贖罪意識」の源が国家犯罪ではなく、単なる行政問題、労働問題、社会問題あるいは事件(白馬事件など)にすぎなかったことが露呈する。 それによって、戦後、我々が問われ続けた歴史認識問題とは一体何だったのかという怒りへと転化することは、極めて自然な成り行きではないだろうか。

今日、この韓国・在日問題は、残念ながら多様な文脈で語られるようになってしまっている。中にはただ韓国の言動をからかうだけの、ほとんど娯楽のようなものも見られる。しかしパラダイムシフトがおきた頃の「ネット右翼」には、こうした歴史問題で嘘をついてきた進歩的知識人や民族派在日、メディアに対する真摯な怒りがあったのである。

今日の半ばエンタメ化した嫌韓から脱却し、あるいはヘイトスピーチ問題へも矮小化せずに、過去に遡って総括して嘘をついてきた人達にケジメをつけさせるという「原点」に回帰すべき時期がきているのではないだろうか。それが私の問題意識であり、読者にも知ってもらいたい「原点」である。

和解のために

『帝国の慰安婦』などの著作がある朴裕河氏は2014年のインタビューで次のように答えている。

国会決議も、すぐには難しいと思います。まず1990年代のやり直し。そして世界の日本批判決議への批判的応答。さらにこれまでの「戦後日本」を支えてきた認識の作り直し。この3つの意味があります。1990年代は日本人の中にも一般的に謝罪の気持ちがあった。それを国民の代表である国会がもう一回、代表して行うことの必要性です。そしてアメリカや韓国など、各地で出ている日本批判の決議に応答して、言うべきことは言う。「帝国日本」を経た共同体の一つの落ち着く場所として、望みたいところです。
朴裕河 2014.12 http://www.huffingtonpost.jp/2014/12/30/park-yuha-interview_n_6395822.html

朴氏は従軍慰安婦問題について比較的公平なものの見方をされる方である。そのため彼女は韓国国内で激しい糾弾の対象となっており、そこに敢然と立ち向かう姿には敬意と同情の念を禁じ得ない。

しかしながらこの太字部分、すなわち1990年代の気持ちを思い出して再度謝罪しろという言葉については受け入れることはできない。 「1990年代は日本人の中にも一般的に謝罪の気持ちがあった」のは従軍慰安婦をAだと思っていたからであり、「植民地支配」を誤解していたからである。少なくとも私はそうだ。朴裕河氏の提案は、我々にもう一度旧パラダイムの世界観に戻って謝罪しろと言っているに等しい。

旧パラダイム(世界観A)がどのような問題を引き起こしていたかを考えれば、それは無理な提案だといわざるを得ない。 本稿や本ブログ全体の趣旨を理解していただいた方であれば、少なくともこうしか解決があり得ないということをご理解いただけるのではないかと思う。

日韓の相互理解や和解のために文化交流などを挙げている人がいるが、処方箋として完全に的外れである。もはや日本側からの行動は意味がなく、在日民族組織や本国が、長年日本社会を騙し誹謗中傷し、嘘を政治利用してきたことに対して公式謝罪することが唯一の方法だと思うのだがどうだろうか。

〔参考文献〕
『娘に語る祖国 「満州駅伝」―従軍慰安婦編』 つかこうへい 1997年