水野直樹『創氏改名』の考察(前編)

本稿の記述はきわめて長いものになっています。
検索等でここに来た方は、まずはこちらのまとめ記事の方をおすすめします。本稿から要点を抜き出して再編集したものです。

重要な補足(2019.5.30) 以下の説明の中で、『緑旗』は総督府の機関誌ではないにもかかわらず、その論調が総督府の意図そのものであるかのような書き方になっている箇所がありました。「松本重彦」→「民事課長岩島」などに修正しました。※総督府が朝鮮風氏名を推奨していたという論旨に変更はありません。 (資料)→差異化の奨励改名は促進せず

はじめに

創氏改名は長い間、朝鮮人を皇民化(日本人化)するために姓名(民族名)を廃して日本名を強制した制度だと思われてきた。

しかしインターネットの登場以降、創氏は届出制で、改名も許可制であったことが知られはじめている。

だがそれでもまだ日本人の多くが、朝鮮人は日本人風の氏や名前を余儀なくされたと思っているのではないだろうか。

しかし 水野直樹 『創氏改名』 は、朝鮮学校なども支援する左派系の学者(Wikipedia)によって書かれたものでありながら、朝鮮人の氏や名前については日本風ではなく、むしろ朝鮮風が推奨されていたという、これまでの常識とは正反対の導入から始まる。*1

筆者自身まずここに興味を惹かれて読みはじめたのだが、他にも興味深い資料や証言が多数掲載されており、そこで自分なりに気付いたこともあったため、以下、縷縷考察することとなった。

本稿は、前編と後編の二部構成になっていて、それぞれに資料編と考察編がある。

  【資料編】 本書に収録された資料の紹介とそれに対する水野氏の見解のまとめ。つまり本書の要約。
  【考察編】 資料編に対する筆者(私)の考察。

また本文には、姓名・氏名・日本式・日本風・夫婦同姓・夫婦同氏など紛らわしい用語が登場する。資料編(前編)の「◇基礎知識」で整理してあるので確認しておいてほしい。

資料編(前編) 資料編(後編) →考察(後編)

さて、本文はかなり長くなるので、見通しをよくするために本稿の方向性を先に述べておく。

じつは本稿は、水野直樹 『創氏改名』 で提示されている資料に全面的に依拠しつつ、著者とは異なる結論を導いている。 つまり同じ資料を見ながら異なる結論を導いている。

まず筆者が本書の資料から得た結論は、「総督府はまったく日本人風の名前など求めていなかった」というものである。 この結論の根拠はきわめてシンプルで、

(1)制度趣旨(氏を創設してイエを確立する)からして氏を日本風にする必要性がない
(2)下の名前の改名は許可制で、実際九割が民族名のままだった状態で氏だけ日本風を要求する意味がない

必要性も意味もないことを求めるわけがないのであり、すなわち総督府は「氏」「名」いずれも日本風など求めていなかったことは明らか、というわけである。(改名に裁判所の許可が必要ということは、そもそも改名など最初から求めていないということ)

なおこの結論は、総督府の役人(民事課長岩島)や、緑旗連盟が設けた氏相談所の顧問(松本重彦)が朝鮮風の氏を推奨し、『緑旗』編集人である森田芳夫も、下の名前は親からつけてもらった民族名を大切にしろと述べている事実とも符合している。(→差異化の奨励)(→改名は促進せず

一方、左派系の学者である著者は、当然ながら、「名前を強制強要された」という方向で論旨を展開している。 (冒頭の青字(=朝鮮風推奨)と矛盾するように思われるかもしれないが、ここの論旨は複雑なので本文に譲る)

このように本稿は、著者の提示した資料に全面的に依拠しながら、著者とはほぼ正反対の結論を導いている。いずれが妥当であるかは以下本文を読んでいただいた上で読者が判断してほしい。

「創氏改名」は「強制連行」「日本語強制」とともに、日本の「植民地支配」における非人道的な政策であったかのように説明されてきた。それに反対すると逮捕され、名前を変えさせられたことに悲憤し抗議自殺する人まであらわれたなどと云われてきた。 もしそれが本当の事実なら日本統治下の朝鮮半島はほとんど「恐怖政治」と変わらない。

しかし「創氏改名」は云われるほど非道な制度だったのだろうか?戦後の日本人が教科書などで学び反省し贖罪意識を喚起されるに値するものだったのだろうか?本稿はその疑問に答えられていると思うので、かなりの長文にはなっているが、興味がわけば読んでいただければ幸いである。

*1)14-15頁「差異化の側面」およびそれ以降の論調をあわせて解釈した。

序論

―― 以下、斜体は引用をあらわす ――

日本統治時代に朝鮮で施行された「創氏改名」は、これまで長らく朝鮮人の民族名を強制的に日本名に変え(改姓改名)させて日本人への同化を強要した「皇民化政策」の端的な表れととらえられてきた。 本書でも、一般には、「朝鮮人の名前を日本風に変えさせる」政策として理解されている(後略)(i頁)と、そのような認識が一般的であったことを認めている。

しかし創氏改名政策の実際の実施過程を見てみると、姓及び本貫は戸籍にそのまま維持され、下の名前の改名には消極的であり(153頁)、私的家系図である族譜にも影響を及ぼしてはいない(24頁,183頁)。

つまり「創氏改名」は、姓・名・本貫そして族譜という朝鮮民族の名前習慣を変更するようなものではなく、あくまでもそれらとは別に「氏」を創設(追加)するものにすぎなかった。しかも新たに創設する「氏」については朝鮮風が薦められたりもしていた。(146頁)

こうしてみると、創氏改名は、従来言われていたような朝鮮人の姓名(民族名)を変えさせようとしたり、日本風の名前を強要するような政策ではないように思える。

それでは「創氏改名」とは一体いかなる意味をもつ政策だったのか。

著者は、(1)従来の名前政策的側面に加え(2)家族政策的側面という2つ目の視点を導入し、また(3)異姓養子を許可したという事実に着目しながら、次のように分析する。

(1)の視点からは、創氏改名により朝鮮人に「氏」「名」を設定する機会を設けたが、その際には日本人と紛らわしくならないように氏は朝鮮風を推奨し、改名も許可制にするなど、朝鮮総督府の名前政策はむしろ「区別・差別にもとづく支配秩序を維持・強化するためのもの」(30頁)であった。

(2)(3)の視点からは、朝鮮総督府の家族政策は、朝鮮伝統の「姓」とは別に「氏」を導入し、さらに異姓養子を許可することなどにより「家族制度を日本化」(31頁)して、「イエ」を社会の基本単位にすることで「宗族集団の団結を弱め」(53頁)、「天皇の名による植民地支配体制」(31頁)の安定化を図った。

つまり「創氏改名」とは、朝鮮人に日本名を強制した制度ではなく、姓とは異なる「氏」を創設し、さらにその種類を多様化することで朝鮮の宗族集団の結束力を削いで天皇への忠誠を誓わせることを目的とし、またそのさい「氏」には朝鮮風を推奨することで日本人と朝鮮人の区別・差別を維持しようとした。そのために大きな強制力が働いた……というのが本書の大筋である。

このように「創氏改名」の手段・目的が従来の「日本名の強制」(日本人化の強制)から「家族制度の強制」(天皇への忠誠)へと転換していることが本書の最大の特色であるが、創氏率が最終的に八割にまでのぼったことなどについては従来の「名前を強制した」という角度からの批判も試みており、これら政策の「強要」に対して朝鮮人の側から様々な抵抗があった、という組み立てになっている。

――と、大胆要約してはみたものの、実は本書の論旨はかなり複雑である。そこで本書を私なりに整理し、次のような構成で「創氏改名」の説明を試みようと思う。

すなわち、この「前編」では主に総督府側の視点から創氏改名とは如何なる制度だったのかを検討し、「後編」では「圧力」の実態や「抵抗運動」など、朝鮮人側から見た創氏改名について考えていくことにする。

創氏導入のねらい

序論でも触れたとおり、一般に「創氏改名」と呼ばれる政策の実際は、名前を変更する制度(いわば改姓改名)ではなく、「姓」とは別に「氏」を追加する「創氏」制度だった。

「改名」は創氏とは別の制度であり、しかもほとんどなされていなかった(改名率は1割弱程度=後述)。

(つまり事実上「改名」は無関係であって、歴史用語としては「創氏改名」ではなく「創氏制度」が使われるべきと考える)

ではこのように「創氏改名」の実態が「創氏制度」であったとすると、これまで「創氏改名」の意図とされてきたもの、すなわち「朝鮮人に日本名を強制することで皇民化しようとした」という理屈についても、当然見直しが迫られることになる。

どのように見直されたか。

著者の考えを整理するとおよそ次のようになる。

家族制度の近代化の一環として朝鮮人に「氏」を設定すること(夫婦同氏制度)が1920年代から検討され始めた。 日中戦争開始後、同化主義政策の推進に熱心な塩原らが日本人風の苗字を「氏」として付けることを発案した(38-39頁)。 しかしそれでは日本人と朝鮮人との区別が苗字ではつかなくなるという批判も出た(144頁)。
そこで、形式については、氏の種類を増やすために日本人風の二文字氏(53頁)が、その様式については、日本人との差別区別を維持するために、姓や本貫などを活かした、いわゆる朝鮮風二文字氏(金海、金田など)が推奨された。別々の氏を名乗らせることにより「イエ」が確立され、宗族集団の団結力も弱められると考えた ――――
というものである。

要するに、多様な氏を名乗らせることによって、宗族集団の団結を削ぐのが目的だったというのが著者の(新たな)見立てである。

一方、筆者が本書資料から得た理解は次のようなものである。
家族制度の近代化及び「イエ」を確立するため、氏制度および設定創氏が発案された。氏の形式は一定の禁則事項があったこと以外は自由だった。様式についても自由だったが、民族性も考慮して朝鮮にちなんだ氏、すなわち朝鮮風二文字氏(金海など)が推奨された(松本重彦民事課長岩島など)。その際、日本人風二文字氏(山田など)は推奨されておらず、つまり日本風を設定したのは基本的にはそれを欲した朝鮮人が設定した。
「創氏改名」は(名前による)同化政策ではなかった。それは改名が許可制であり、事実、九割が民族名(下の名前)をそのまま維持したことからも明らかである ―――― というものである。

いきなり結論めいたことを書かれても納得されないと思うが、以下項目を読み進めると、このように極めてシンプルで平凡な制度に見えてくるのではないかと思う。

ところでこの両者は実質的に何が異なるのか。
著者の説明には「日本人」「日本風」など「日本」が強調されている雰囲気があるが、筆者の説明にはそれがない。
しかし実はどちらも同じものである。なぜなら本書の内容を私なりに解釈してパラフレーズしたものが後者だからである。
この点、詳しくは後述するが、本書は全般的に、話のニュアンスによって「日本名を強要した」という印象を読み手に与えるという傾向があり、その例示も兼ねて両者を並べてみた。

なお、この創氏制度で「イエを確立する」ことによってどのような効果を期待したかについては、著者と筆者では明確な違いがあり、それは「真のねらい」(後述)で検討することにする。

創氏の強要について

「創氏改名」の議論においては、「総督府による強要」が常に最大のテーマであると言ってよい。 よって本稿でも、まず強要の問題について考える。 前項のような意図をもって導入された「創氏制度」は、一体なにを朝鮮人に強要したのだろうか。

創氏の届出が、当初低調な出足から八割にまで上ったこと(→届け出率推移)をとりあげてこれを「強要」の証拠だとする見方がある。 創氏政策は、法定創氏を含めれば全員に適用されるわけであるから、その意味においては100%強制である。その中で敢えてこの八割という数字に注目するのであれば、その焦点は「法定創氏させずに設定創氏を強要したのではないか」という疑念にあるはずである。

では設定創氏で強要したものとは何か。それは、「届け出なければ『李』などの姓そのままの氏に設定されるが、敢えて届け出という形を取り、自発的だという外形にして日本風の二文字の氏を強要した」ということに他ならない。これは著者の言う「自発性の強要」(230頁)であるが、このような強要が本当にありえたかを以下で検討してみよう。

【1】まず、日本人風二文字氏(山田とか)の設定創氏が強要された可能性はあるだろうか。

目的が日本人完全同化であろうと区別差別にあろうと、上下とも日本風にするか上下とも朝鮮風にするのが合目的的である。改名率が一割、つまり下の名前の九割が朝鮮風という状態で上だけ日本人風二文字氏(山田とか)を強要したとは考えにくい(意味が無い)。
ゆえに日本人風二文字氏の創氏強要は論理的にはありえない。

ただし、創氏する場合に姓そのままではなく二文字の氏を推奨することは十分ありえただろう。姓そのままでは同じ苗字(氏)が多くなってしまい、「イエ」を確立するという総督府の意図と合致しないからである。よって創氏の際、本貫や姓を活かした朝鮮風の二文字氏(金海など)を薦めたことは十分考えられる。(事実、緑旗連盟の氏相談顧問松本重彦民事課長岩島などは朝鮮風二文字氏をすすめている→差異化の奨励

では実際当時どのような創氏がなされていたか。
京城日報1941年8月12日の記事によると、地元で調査した7770戸のうちの創氏をした7541戸(96.2%)を調べた結果「内地人風氏」が37%、なんらかの「朝鮮風氏」が43%、その他不明が20%となっている。(152頁)
設定創氏せず姓をそのまま法定創氏したものも「朝鮮風」であるので「朝鮮風氏」の割合はもう少し高くなるはずであるが、いずれにせよ、日本風氏、朝鮮風氏、どちらかが強要されたということを端的に示すような数字ではない。

【2】では(日本風朝鮮風に限らず)「二文字氏での設定創氏を強要した」ということはありうるだろうか。つまり法定創氏にしたり、李を李のまま設定創氏することは難しかったのだろうか。

本書によると朝鮮総督府は、氏制度について1920年代から導入を検討していた。しかし設定創氏については、その審議過程やそれを伝える報道から考えると、かなり直前になって導入が決まったものと考えられる。というのは1937年10月の審議会案の時点ではまだ「姓を以て家の称号」とするのが妥当と書かれていて、氏を新たに設定する案が現れるのは1939年になってからのことだからである。(→氏制度導入の審議過程
この不用意な導入のされ方からすると、総督府は設定創氏をさほど重要視していなかった(軽く考えていた)ようにもみえる。

また、実施前に総督府が見込んだ創氏届出率は二割弱であったこと、条文上は届出を「義務」としつつも罰則はなかったことからも、当局側は基本的には法定創氏でもかまわないと考えていたと推定できる。 おそらく、もともとの発想としては、「戸主の姓をそのまま氏とするが、それが不本意であるなら届け出よ」というものにすぎなかったのだろう。

そうした設定創氏の導入過程やその意図を踏まえて考えると、二文字氏についても、氏のバリエーションを増やすという意味で推奨はされただろうが、行政の末端でおきた問題(後述)は別にして、総督府の意思としてそれを強要したとは考えにくい。
(ただし当時の法務局の解説パンフレットにも「氏は家を表す称号であるから、他の家と区別出来る氏を定むべきで、一門中数百家全部が同じ氏を設定するのは賛成できません」(要旨、146頁)という程度の誘導はあった)

総督府が、自動的に決まる法定創氏よりも自分で決める「届け出」を一応「奨励」することは何ら不思議でなく、理由は一口には言えないが結果的にこれが八割にのぼった。そして、届け出る以上、姓(一文字)そのままよりは二文字が奨励され、その結果として二文字氏が増加したに過ぎないのではないかと考える。(→創氏設定についてどのような圧力があったかの考察は後編で)

ちなみに先の京城日報の調査によると設定創氏した者のうち姓そのままを氏にしたのは5%で、この数字と、全体の法定創氏率が二割であることから単純推計すると、全体の約24%が姓をそのまま氏としたことになる。 (計算式…0.2 + 0.8 x 0.05 = 0.24)

【3】では最近の論点、このような氏制度導入は朝鮮の習俗破壊なのかどうか。

まず「氏制度(ファミリーネーム)」導入について。これは法定創氏を含めれば100%強制であり、しかも儒教文化である夫婦別姓から夫婦同氏へという大きな制度変更であるから、もしも文化的な支障があるなら相当に強力な反発があってもよさそうある。

しかし1920年代の最初期から検討されていたこの氏制度は、中枢院に諮ってパスしているし(32頁)、雑誌『三千里』のアンケートから言っても「氏制度は習俗破壊である」というような観点からの指摘は出ていない。(→実施後の朝鮮人意識調査

この諮問の際に、総督府が圧力をかけて日本に都合の良い結論や発言を参議から引き出したのではないか、という反論があるかもしれないが、それも考えにくい。 というのは、なぜ中枢院に諮っているかといえば、慣習を無視した制度を導入して反乱などを起こされては困るからである。当時朝鮮に居住していた日本人は70万人程度(137頁)であって人口比にすると3%にすぎず、統治には当然朝鮮人の協力が必須だったからである。内地からも第二の万歳騒ぎ(3.1独立運動)のようなことが起きないように気をつけろとの危惧も出ている(100頁)。つまり圧力をかけて都合の良い諮問結果を出す意味が無い
(このように総督府は、朝鮮人の意見を聞いたりするなど十分に気を使って―もちろんそれは朝鮮人のためというよりまず安定統治のためであるが―実施している。つまり氏導入にしても、設定創氏「八割」の話にしても、我慢の限度を超えた、慣習を著しく損なうような強要などできるわけがない)

次に「設定創氏」について。設定創氏導入の経緯については、本書からははっきりした理由はわからない。しかし氏設定の選択肢が増えること自体は問題ないはずである。ただ、選択肢を増やしたことがかえって問題を引き起こしたことも事実で、これは後編で検討する。 そこに強要があったどうかについては既に【1】【2】で検討した。

著者は、設定創氏導入のねらいを、異なる氏を付けさせることによって団結力を削ぎ宗族集団を解体することにある(53頁)と考えている。しかし、名門一族の場合は門中で氏を統一するケース(→尹致昊の話@後編)もあり、また金活蘭の例を見てもわかるように、一族とは違う氏を設定する場合も、完全に戸主(或いは一族)の自由であった。(→女性にとっての創氏改名

結局、総督府に習俗破壊や宗族解体という「陰謀」があったかどうかはともかく、これらの提案がおおよそ穏当に受け入れられたことは間違いないのではないか。なお、抵抗運動には創氏制度に反対する旨の発言があるが、これも「後編」で検討する。

創氏制度は、その妥当性について、中枢院など朝鮮人有識者に十分諮った上で導入された。イエを確立するために、朝鮮風二文字氏(金海など)が推奨されたこと、他家とは異なる氏の設定が推奨されたこと、また一定の禁則事項があったこと以外は、基本的に朝鮮人の自由であった。まことに平凡ながら、総督府の意図としては、これ以上でも以下でもなかったと考える。

以上、理詰めにて、総督府側から見た「創氏強要」のパターンとその蓋然性を検討した。

もちろん、これはあくまでも理屈上の話であり、あらゆる場面で一切の「強要」が存在しなかったということを意味するものではない。人間が介在する以上、当事者の思想など、何らかの理由で、実態として、それぞれの現場で、「日本風氏(名)の強要」があった可能性は十分ある。ただしそれらは総督府の政策としてそうしたわけではないということである。

以下すべての議論はこの留保を当然の前提としてすすめる。

改名について

一割にとどまる。改名は許可制であり、総督府はむしろ消極的であった。(→改名は有料)(→改名率)(→改名は促進せず
内地人式の氏を定めた場合に必ずしも名を変更するの必要はなく、寧ろ個人の個性を現す意味合いからはなるべく従来の名を使用したほうが適当。(岩島民事課長)

なお民間でも改名非推奨の言論があった。
次は名は如何にすべき。それはもとの名の字のままにしてそれを国語の訓で読むのが最も正しいのであります。(松本)
「両親が自分のことを考え、自分の将来が良くなるようにと考えて、つけてくれた名の方がどれだけ尊いことであろう」(森田)
「出来るだけ旧名は存置して国語で読むようにしたい」(他の解説書・名称不明)
(154-155頁)

改名は日本風への改名が多かったが、朝鮮風への改名もあった。
注目すべきは、「朝鮮名」(朝鮮人風の名)としか考えられない名前に改名している事例がかなり見られることである。(163頁)

日本風の名前から朝鮮風への改名もあったというのは驚きである。 *1

この時点で「創氏改名で日本名を強制」「同化を強要」という従来の通説が完全に破綻していることがわかる。 氏は朝鮮風が勧められ、名前も民族名そのままが推奨されていたし、民族名への改名も可能であった。(つまり改名は日本名にするための制度ではなかった
こうした事実に鑑みると、むしろ「日本名強制」という俗説がどこから生じたのか不思議なくらいである。(※日本名強制説の出所については後編で検討している→日本名強要の根拠

*1) 本書を読み直してみたところ、例として挙がっているのは、「日本風から朝鮮風へ」ではなく「朝鮮風から朝鮮風」のようなので削除した。「日本風から朝鮮風」があったかどうかは本書からは不明。(2019.5.30追記)

「差異化」の奨励、「内鮮一体」との齟齬

ここまでは、朝鮮人の氏については朝鮮風が奨励され、改名は勧められなかったりするなど、差異化方向のベクトルの方を中心に取り上げた。

しかし本稿冒頭でも触れたように著者は日本名強要論者であり、すなわち同化方向のベクトルも存在すると考えている。著者の考える同化ベクトルの大元が「皇民化政策」「内鮮一体」という政策方針であり、塩原学務局長らの発言にそれがあらわれているというのが著者の考えである(→内地人風氏名発案とその奨励
このように本書には「差異化」(日本人と区別するために朝鮮風推奨)と「同化」(内鮮一体のため日本名推奨)という一見矛盾した方針が随所に登場する。 それが同時に現れているのが次の箇所である。

(前略)日本にある苗字をそのまま氏として使うのを控えるよう呼びかけがなされた。 あまりにそれを奨励すると「内鮮一体」の趣旨に反すると非難を受けかねないので、それほど積極的に宣伝していないが、法務局が作成した『朝鮮に氏制度を施行したる理由』では、「新聞、ラジオ、パンフレット、講演、精神総動員〔連盟〕を通じ内地人式の氏即ち二字制の氏を設け得るものにして、日本既存の氏を踏用せしむる趣旨にあらざること〔中略〕の周知徹底を図」っていると書いている。(145頁)

この引用部分では、総督府の本音は「内鮮一体」実現のために苗字(氏)を日本風化することの方にあり、名前の「差異化」は本意ではないかのような書き方になっている。その葛藤は、「あまりにそれを奨励すると『内鮮一体』の趣旨に反すると非難を受けかねないので、それほど積極的に宣伝していないが」という部分からあきらかだろう。

さて、読者はここで少し混乱するのではあるまいか。総督府の名前政策の目的は「差異化」による差別区別の維持であったはずである(→序論)。実際に差異化の誘導があったことも資料で示したとおりである(松本岩島など→差異化の奨励)。 にもかかわらず著者はここでは「内鮮一体」のためには日本人風の氏が望ましいという同化方向の方針が総督府の本音であるかのような書き方をしている。
差異化の方針であったはずがここではなぜか同化が主方針になっている。 これはいったいどう理解すればいいのだろうか。

名前の同化と差異化、この2つの方針は確かに正反対のベクトルであり、両立は不可能なように思える。しかし著者は、そもそも日本側には「三つの立場」が併存しているので、その時の話者の立ち位置や、その時々の場面・事情によっては、どちらの色合いの方が濃く表れてもおかしくない、という論理で整合性をとっているらしく、ゆえに引用部のような記述が出てくるのだと思われる。

私は、一般論としては、指導部側からの方針の表出にさまざまな理由による不統一性が見られてもなんら不思議ではないと思うし、そのような説明も可能だと考える。 しかしながら、もうおわかりのように、改名を求めていないという時点で「総督府の基本方針は、名前の日本風化にあった」という前提が完全におかしい。上の名前だけ日本風化したところで「一体」にはならないからである(しかも日本名から朝鮮名への変更すらも許していた。それは「反・内鮮一体」行為のはずではないか)※削除の理由は改名についての*1参照

このように本書には、「内鮮一体」(日本名圧力)と「差異化」(朝鮮風推奨)という相矛盾した要求が随所(悪く言えば恣意的)に現れる。それは、著者の中では整合性がとれていても、一般の読み手には矛盾・齟齬にしか見えず、結果、全体として、総督府が創氏改名(の名前政策的側面)でいったい何を「強要」していたと著者は主張したいのか、非常にわかりづらくなっている。
(この同化と差異化の方針矛盾は、他にも、たとえば、朝鮮的氏を付けたことを日本風名前への抵抗だという意味付けしている箇所などにも表れる(→「朝鮮的」な氏による抵抗)。このように本書は全体として、朝鮮人は日本風の名前を拒否していた、すなわち日本名は圧力によるものだという「ニュアンス」で貫かれている。総督府は日本風など推奨していないにもかかわらずである→参考:日本名強要の根拠

思うに、「内鮮一体」は「日本名圧力」とはほとんど関係がない。総督府も日本風の名前を求めていたわけではなく、ゆえに名前は上下とも日本風ではなく朝鮮風が推奨されていたのである(松本重彦岩島など)。先ほどの引用部分も、(著者はなにやら細々と解説をつけているが要するに)日本風にしなくてよいという、何の変哲もない注意喚起にすぎない。
そもそも「内鮮一体」「同化の強要」というなら、名前より何よりまず言葉(日本語)が普及していなくてはならないが、しかし併合後30年以上経った1940年代の調査でも、日本語を解するものは全人口の二割にも満たなかった。彼の地では依然として朝鮮語が事実上の標準語だったのである。この日本語の不徹底さもその「内鮮一体」のゆるさを示しているのではないだろうか。 (むしろ「内鮮一体」が声高に言われた理由が、この「不徹底さ」の方にあるのではないだろうか、日本語に限らず)

戦後、皇民化のために日本名を強制したと説明されてきた「創氏改名」は、ある時期から形式・様式ともに「朝鮮風」の氏名が少なくないことがわかってきた(一般に知れ渡った)ため、今日の日本においてはもはや「日本名強制説」は通用しなくなっている。
そこで本書の場合、天皇への忠誠を「真のねらい」(後述)とすることによって、「強制」の軸を「名前の強制」から「家族制度・氏制度の強制」へと移そうとしているのである。
もしここで「日本名強制による同化」を完全に放棄して、「氏制度強制による天皇への忠誠」へと転換していれば、「改名率一割」「氏・名は差異化推奨」であっても、「氏制度で内鮮一体」(天皇への忠誠)という線で矛盾なくすっきり説明がつくはずである。
にもかかわらず著者は、先の引用部分などのように、中途半端に「総督府は内鮮一体のために日本名化を推進していた」という立場に拘り、齟齬を残している。それは何故なのか。

著者の考えを推量すると、原始的な日本名強制説はほとんど諦めつつも、朝鮮人の日本風氏名が「自発性の強要」から生じたとするためにはなんらか「圧力」が必要になるが、著者はその「圧力」の根拠を依然、(同調圧力など(→後編参照)ではなく)総督府の意思としての「内鮮一体」や「皇民化政策」に置いているのである。
この「圧力」の根拠が崩れると、日本風氏名が「自発性の強要」によるものではなく、「完全自発的」に近づいてしまい、それでは朝鮮人の被害者性を強調できなくなってしまう。ゆえに著者は、総督府は「内鮮一体」のために朝鮮人に日本風の名前を付けさせたいと考えていた、という立場に固執しているのではないだろうか。
しかしその結果として、本書全体が矛盾や齟齬の印象で覆われてしまっているのである。

「真のねらい」

創氏制度(イエ制度)の「真のねらい」として著者は、宗族集団の力を弱めることで天皇への忠誠心を植え付けることにあったとしている。
しかし、姓や族譜はそのまま残したまま氏を多様化するだけで、なぜ祖先中心主義から天皇への忠誠に「気持ち」が切り替わるのか、根拠が薄弱のように思える。祖先崇拝と天皇崇拝が同時に成り立たない理由も不明である。(逆に、氏制度をとっている今日の日本人が皆天皇への忠誠を示しているとも思えない)

台湾との比較においても、朝鮮の創氏と台湾の改姓は、宗族集団の弱体化を図り、家長が統率するイエを天皇の下に再編成することによって、植民地に天皇制国家の社会的基盤を築こうとした点では同じであるとしている(202頁)が、その台湾での改姓の割合はわずか2%にとどまったことについて、日本政府がそれを問題視したというような話は書かれていない。(改姓しなければ明示的に姓が残り、宗族集団が解体できないはずである)

伊藤博文を暗殺した安重根(1879-1910)は当然「創氏改名」していないが、彼は明治天皇の崇拝者だったそうである。もちろん、制度が大衆心理に及ぼす影響と、個人が(たまたま)抱いた思想信条の話は区別しなければならないが、さりとて創氏して別々の氏を名乗ることがはたして天皇崇拝にどれほどの影響を与えるものだろうか。 (日本の)別姓時代の感覚を持たない私にはその差を知覚できないだけかもしれないが、やはりあまり腑に落ちない論理である。

なにより私が訝しく思うのは、この「真のねらい」が戦後50年も経ってから出てきた(*1)ということである。そこにそこはかとない「見繕ってきた感」を覚えるのは自分だけだろうか。つまり「日本名強制」神話が崩れたために、今度は、天皇に忠誠を誓わせるために多様な氏が強要され、一族が解体されようとしたのだという「神話」に乗り換えようとしているのではないか、そんな疑念さえ浮かんでしまう。

『半島の子ら』(1942)には教師の言葉として次のような台詞が出てくる。「内地では家というものが大変重んじられて(中略)、兵隊さんは、何時でも自分の氏の誉れを懸けて、天皇陛下のお為に働いている(後略)」(159頁)のだと。
そして著者はこれを、氏、家、兵隊、天皇を結びつけて説明する嶺先生の言葉は、創氏の本質を露骨に、見事なまでに表している(160頁)と激賞している。
私もこの著者の見方に *同意* する。つまり、氏制度によって、「多様な氏が強要され、祖先から天皇への忠誠を要求された」のではなく、「イエに責任を持たせ、兵隊として勤しむための、動機・責任の明確化を図った」に過ぎないのであって、そこに「真のねらい」などと題するほど大袈裟な意図は存在しない。

それを「天皇への忠誠を植え付けるため、宗族集団を解体し祖先主義を希釈するものだった」などと意味づけを変更すれば、「創氏改名」が再び非人道性(今度は名前の変更ではなく日帝による文化破壊)を帯びて、それがまた政治利用されるであろうことは容易に想像できる。
そうして、この転換で日本の加害性を維持することが、じつは本当の「真のねらい」なのではないか。そう訝るのは穿ち過ぎであろうか。

南総督らの「血族中心主義から脱却」などの大袈裟な言葉も、単に、朝鮮人に氏制度導入を納得させるために近代主義的な説明として述べられたものにすぎず、宗族集団弱体化や文化破壊をとくに目的としたものではなかったのではないか。
思うに、氏制度(設定創氏)はイエを明確にするために付け加えた「別名制度」に過ぎず、朝鮮社会とパブリック社会を二層化することによって実現しようとしたものである。 だからこそ本貫・姓は戸籍に残ったし、族譜も廃止しなかったし、氏は朝鮮風が推奨されたし、名門一族などが同じ氏で創氏してもそれが咎め立てされることもなかったのである。

日本統治下の朝鮮において、当時日本国民であった朝鮮人に日本人と同程度の「天皇への忠誠」が要求されたことは、別に不思議でも、不道徳でも、戦後50年も経ってから「真のねらい」としてやっと発見されるほど巧妙に隠された陰謀でもないはずである。にもかかわらず、そこに敢えて、設定創氏導入は宗族集団を弱体化するためだったなどと意味づけすることは「穿ち過ぎ」の議論なのではないかと感じる。

*1) 50年も経ってから発見された…1980年代まで創氏改名を専門にあつかった研究は論文一本もなかったこと(12頁)、創氏改名を家族制度と結びつけて考えるのは「近年の研究成果」(7頁)だということから推定してこのように表現した。

女性の氏について

ところで「強制」という意味で一番問題になるものがあるとすればそれは「妻の氏」のはずである。何故なら既婚女性にとっては氏が自動的に夫のものに決まるからである。しかし巷間言われている創氏改名批判の中心がそこにあるような気配はない。(すくなくとも私は一度も聞いたことがない)
朴一大阪市立大教授の言葉を借りると、そもそも朝鮮の夫婦別姓は儒教由来の「女を男の家に入れない」という思想であり、子供も嫁の姓を継がないし、族譜においても「誰々の嫁」と名前すら記載されない存在であった。(あるTV番組から発言要旨)

緑旗連盟日本文化研究所から当時発行された『氏創設の真精神とその手続』は、「家の称号である氏を付ければ女性の地位が向上する」「女性は子どもを産むものとしか考えられていなかったのが、妻として母として『社会生活の一単位としての家庭を持つ単位』に進むことになる」などと説明している。
著者はこれに対し家への、夫への従属が強まることを無視し、創氏を合理化・正当化する議論といわねばならない(188頁) と意味づけて批判しているが……
あとは「資料編」にて取り上げた諸発言を参考にしてもらうなどして、これ以上は立ち入らない。

なおWebで見つけたもので元記事を直接確認したものではないが、女性の名前については以下のような風習だったようである。
女性はどうだったかというと、高麗時代以降の戸籍には、女性の名が記されていない。戸主の妻である女性は、名でなく、女性の父親の姓が記されていた。決して女性に名がなかったわけではないのだが、結婚したら名で呼ばれなくなる。「○○さんのお母さん」「○○からやってきたお嫁さん」というような呼ばれ方になった。これは、現代の韓国でも同様の現象があるようだ。 (2011.6.3読売新聞web版の水野直樹氏の発言より) 引用元

「本名」について

本書では、創氏改名の文脈ではあまり見かけたことのない「本名」という言葉が使われている。

これまで見かけなかった理由はおそらく日本名強制説が標準であったため、敢えて断るまでもなく日本名が「本名」だったからであろう。しかし本書では、「本名」が姓名から氏名に替えられたのだとし、それによって「本貫と姓」が隠されたのだという意味付けをして、創氏制度を批判している。
例えば、朝鮮戸籍令の条文上「姓名」となっている箇所が「氏名」に変わったこと、戸籍の「姓」が「姓及本貫」欄に移ったことなどを以って「法律上・戸籍上の本名が「姓名」から「氏名」に替わ」り、「戸籍上、姓は残ったが本名ではなくなったのである」(47頁)と批判している。

さらに、総督府は改姓を迫られるのではないかと心配する朝鮮人に創氏しても姓はなくならないと説得したが、その際に「(姓名が)本名でなくなるということは説明されなかった」(48頁)と、その意図は巧妙に隠されたという描写になっている。
しかし、「本名」というと一般には「戸籍に記した名前」のことであり、一連の名前政策の文脈で敢えて本名の範囲を言うのであれば、従来の「本貫・姓・名」に「氏」も加えたものが「本名」なのではないだろうか。そして「本名」のうちの「氏名」を手続き上(法律や名簿など)の標準表記としたにすぎないのであるが、しかし本書では、法律の条文などの標準形が氏名になったことや戸籍欄の変化を以って「(姓名は)本名でなくなった」と批判しているのである。
(なお姓が本貫の欄に移ったことについては、本貫+姓で家系を表すという朝鮮の習俗に鑑みれば、自然な措置だと思う)

さて本書冒頭には「本書で扱うのは、主に戸籍上に登録される姓名(法律上の名前=本名)の問題である」(24頁)という記述があり、一読した際には気に留めなかった括弧内の文言をわざわざ追加した意図が見えてくる。
つまり「日本名の強制」神話が崩れて以降、今度は「法律上の名前=本名」という限定を追加することにより敢えて「姓名は本名ではなくなった」という言い方にして、「創氏改名により名前を奪われた」という従来の強制説の「風味」を維持したいのだろう。
しかし朝鮮総督府の名前政策は、朝鮮の姓名文化を温存しながら、日本の習慣や法律(氏名文化を標準とする/日本側の条文は全て「氏名」表記であろうからそれをそのまま適用できる)とを接続する制度にすぎなかった。
故に、改姓名(黒板33頁など)や改姓(奥山39頁)は採用されなかったし(→日本名強要の根拠)、氏は姓そのままを登録してもよかったし、改名は推奨しなかったし、戸籍にも族譜にも本貫と姓は当然残ったのである。そして当時の人々がそれを殊更問題視しなかったということも中枢院の諮問をパスした事実などから明らかではないだろうか。

ここまでのまとめ

ここまでで自分は以上のような反論を持った。一旦まとめてみる。

総督府は1920年代から家族制度の整理・近代化のため、中枢院などに諮りつつ、「創氏」を検討していた。これはかつて日本でも氏が法制化されたのと同じ趣旨である。(日本で家の称号として氏が法制化されたのは、1898年、明治民法親続編制定(52頁)による)

創氏制度は当初法定創氏(姓をそのまま氏とする)のみが検討されており、設定創氏は直前(1937年10月以降)になって導入が決まった。(36-44頁)

朝鮮総督府は最初から朝鮮人に日本人風の「氏」「名」などは求めておらず、李さんは「李」のままで登録されればよかった。だからこそ総督府は創氏の届け出を当初二割弱などと低く見込み、残りは自動的に法定創氏で決まればそれでよいと考えていた。 日本国内(内地)における創氏届出率がわずか14.3%に留まった事実からしても、政府の意志として届出の強要があったとは思えない。

1912年に公布・施行された朝鮮民事令は、日本民法の物権・債権等に関する規定を朝鮮人に適用するとしながら、親族・相続についての規定は「慣習に依る」(30頁)として当初はこれを適用しなかった。しかしその後時代が下るにつれて、身分相続に関する法令についても整理近代化するため、日本民法を参考に、中枢院などにも諮りつつ、氏制度や異姓養子の容認、同本同姓婚が検討され、その結果、前二者が導入されることとなった。(30-31頁など)

創氏改名政策とは結局、このような整理近代化の一環として、明治期の日本と同様、ファミリーネームとして「氏」を導入(追加)したというものに過ぎなかった。 設定創氏の形式、様式については基本的には朝鮮人の自由だった。 まことに平凡ながらこれが総督府側から見た「創氏改名」の全体像である。

結局創氏改名は名前による同化政策ではなかった。 家族政策的側面についても、族譜や本貫・姓を残して氏を導入(追加)した事実からして、整理近代化といってもなんら本質的変化がともなったものではなく、むしろ本貫姓名文化に配慮し温存した政策という評価が妥当である。

(この場を借りて、著者水野氏がしている事実誤認を3つ指摘しておきたい)

1つ目は、本書冒頭にある次の文言である: 「創氏改名は朝鮮人の名前を日本のものに変えるという点で、同化政策、皇民化政策の端的な表れととらえられてきた。しかし同化の側面だけで創氏改名の全体を理解することはできないと考える。家族制度の面では日本的な『イエ』制度の導入を図った同化政策であったが、他方で名前の面では日本人と朝鮮人との『差異』を残すベクトルも働いていたと考えることができるからである」。(14頁)

しかし、一般的な創氏改名のイメージは「朝鮮人に日本の名前(山田太郎など)を強制することによる皇民化政策」ではないだろうか。一般には姓名と氏名の違いも、創氏の意味も認知されておらず(ゆえにそこに日本という概念はうまれない)、「日本名を強制された」という理解のはずである。「~ととらえられてきた」とこれまでの経緯を意味する書き方をするなら「風」とすべきである。

「式」は後段部分と文脈を合わせた表現(おそらくうっかりミス)なのだろうが、議論の出発点を勝手に変更されては困る。 創氏改名を家族制度(夫婦同氏、日本)と結びつけて考えるのは「近年の研究成果」(7頁)、つまり新しい議論であると著者自身も認めているし(→資料編「日韓の教科書の記述」)、「序論」でも取り上げたように、一般には、「朝鮮人の名前を日本風に変えさせる」政策として理解されている(i頁)という認識が一般的であることを認めている。

2つ目は、これも本書冒頭にて、創氏制度の導入は一般には「日中戦争後」と説明される(12頁)とあるが、その割には導入の時期についての認識は一般には薄いと思われる。つまりそのような説明は一般的でない。併合直後から朝鮮人に日本名(皇民化)を強制し「名前を奪った」と漠然と誤解している人も少なくないと思われる(私もそうだった)。これも大事な点なので指摘しておく。(→創氏改名の時期の認識について

3つ目は、2003年、麻生太郎氏が東京大学での講演で創氏改名について「朝鮮の人が名字をくれと言った」と発言し問題になったことについて、著者は「これは麻生氏個人の認識というより、創氏改名に対してかなり多くの日本人がもっている見方を表したものといえる」(243頁)としているが根拠がよくわからない。2003年当時、朝鮮人が望んだかのような認識はまったく一般的ではないし、私自身も2003年の時点ではまだ旧来の「日本名強制」のイメージであった。仮に麻生発言の内容や洪思翊などの存在が一般的認識であったなら、『マンガ嫌韓流』(2005)など出る幕もなかっただろう。

ここまでの感想

「日本名の強制」(改姓改名)だと思ってきた創氏改名が、ネット時代に入り、実は全く違う制度だということがわかってからも私は、多数の日本人に囲まれた朝鮮人が、皇民化政策(同化)の雰囲気に押されて日本風の創氏(山田など)を余儀なくされた、というようなイメージで捉えていた。そしてそれが八割という数字に現れているのではないかと思っていた。

しかし本書を読んで、朝鮮における日本人の人口はわずか3%程度に過ぎないということ、また日本人の方が多いはずの内地で、朝鮮内の本家と連絡が取りにくいなどの様々な理由があったにせよ創氏届出率が14.3%に留まったことを知ると、八割という高い創氏率が何なぜ朝鮮内で生じたのかよくわからなくなってくる。(→予想創氏率

総督府は、法定創氏があるのに、何故わざわざ設定創氏率に拘った(?)のか。総督が内地に対して朝鮮統治がうまく行っていることを示したかったからだと見る向きもある(101頁)が、それも本書だけで判断することは難しい。

1948年前後に大蔵省管理局がまとめた調査には以下のような記述があり、「朝鮮人の要望」があったかどうかは不明だが、一部で成績の尺度とされたこともあり、そこにいわゆる「広義の強制」が生じていたことは間違いなさそうである。しかしここで言う「強制的なものと」した主体は誰なのか、「七割以上」の内どれくらいが「強制的」だったのか、強制された創氏とはどのような形式・様式だったのか、「多くの反感」とはどれくらいなのかは、やはり不明なままである。

創氏改名について、「氏制度の施行は半島統治上一時代を画する重大な制度であり、朝鮮人の要望に応えると共に、内鮮一体の具現化に資せんとしたのである。然しながら飽くまで自発的なるべき創氏が地方官庁により、自己の成績の尺度と考えられ、形式的皇民化運動に利用せられ、強制的なものとなり、創氏戸数七割以上という成績にも拘らず、多くの反感を買った」(4頁)(この部分の執筆者は鈴木武雄・元京城帝国大学教授)

朝鮮総督府の名前政策については様々な問題もあったかもしれないが、当時朝鮮人に日本風氏を許すべきではないという「保守的」な反対論(古谷栄一など)もあった中、日本の名字を名乗ることを許す方向で最終決断をした南次郎総督(44頁)は、今風に言えば「リベラル」な考え方だったと言うことも可能ではないだろうか。 設定創氏を導入した(つまり選択肢を増やした)ことが良かったのか悪かったのかはわからないが、少なくとも当時の南総督は、今のような恨まれ方をするとは思っていなかったのではないだろうか。もしそうであるとしたら少し気の毒な感じもする。

在朝日本人の一部が創氏に反対していたことは、南次郎が「半島在住者にして創氏の精神が理解できず紊りに人心を惑わすが如きものがあれば、半島から退去してもらわなくてはならない」(大阪毎日新聞朝鮮版1940.6.23)と語っていることからもうかがえる。(139頁)

そもそも論になるが、日本名という別名は「創氏改名」以前からよく使われていたのであり、そこに設定創氏(ある意味、正式な別名)を追加したところで、それがあとから大問題になるなどと当時の総督府ははたして予測できたであろうか。 民族名を廃して日本名を強制したのであれば、それはまちがいなく非人道的な「過酷な植民地支配」であり、問題となるのも理解できる。かつての私はそう思っていた。しかし今の私にはこの「創氏改名」が非人道的政策であったかのように語られている理由がよくわからない。

以上、本書だけを読んでのあくまでも個人的な印象になるが、設定創氏は、これまで見てきたように総督府の想定が二割弱だったことや、強要の必要性の小ささからして、かなりの部分が「自発的」に行われたのではないかという感触を持った。
欧米がそう(夫婦同氏)であるし、当時先進国であった日本について「氏を導入して近代化したのだ」とでも説明されれば、当時の朝鮮の人がなんとなく「そうかな?」と誘導されてしまったとしても不思議ではないし、家にひとつひとつ名前が付いていることを当時の人が何となく「近代的」「新しい」というイメージを持ったかもしれない。

また現在の韓国ですら、種類の多い日本人の苗字をちょっと羨ましいと思う人もいるらしく、であれば創氏改名=日本名強制、民族解体などというイデオロギー解釈が存在しない当時朝鮮の人々が自発的に設定し――もっともその「自発的」とは「喜んで」という意味では必ずしもなく「制度趣旨もよくわからぬまま」などの当惑も含むが――そのうちの何割かが「山田」などであってもなんら不思議ではないのではないか、そう思えたからである。

〔参考文献〕
『創氏改名』 水野直樹 2008年  ◆楽天 ◆Amazon