鄭大均

鄭大均(1948-)。在日コリアン二世。およそ1980年~1995年を韓国で過ごす(*1)。東京都管理職国籍条項訴訟で注目された鄭香均は妹。

1980年代以前、日本人や在日が書いたエスニック論を読むと、必ず右のような不可解な記述に遭遇して、煙に巻かれたような気分にさせられたものである。コリア論や在日論がすこぶる政治化した分野であり、党派的な立場から自由な論者など、数えるほどしかいなかったということに気づいたのは、ずっと後になってからのことである。北朝鮮の朝鮮労働党が当時の日本社会党と党友関係にあり、朝鮮労働党に操作された朝鮮総連が部落解放同盟や日教組や総評や中立労連や国鉄労組や自由法曹団や日本婦人団体連合会と友好団体の関係にあり、日本の政界や学会やメディアに重要な影響力を発揮していたことに気づいたのも、ずっと後になってからのことである。コリア論や在日論は、長い間平壌の意向をガイドラインとして形成されていたのであり、在日とは北朝鮮につながる「在外公民」として規定されていたのである。
(2006『在日の耐えられない軽さ』91-92頁より引用)

(太字強調は筆者)

この引用は、鈴木二郎などの論考に代表されるような在日のエスニシティの問題(内容割愛)について、鄭大均がずっと違和感を感じていたと回想する文脈に置かれたものである。

当時鄭大均が感じていた違和感とは、鄭ら在日二世が関心を寄せていたのが「自分は何者であるか」という自己アイデンティティの問題であったのにたいし、(鈴木のような)在日論者の関心は「日本国とは何者であるのか」という日本のナショナル・アイデンティティの問題であり、彼らは「加害者国家日本」を糾弾する脈絡で必要な限りでは在日に関心を示したが、それは彼らの一義的な関心ではなかった(93頁)というように、在日論における目的意識のズレにあったと説明している。

当時、こうした在日論の党派性が、歴史認識問題とも当然地続きのものであったことを考えれば、歴史問題関連の発言にも、この在日論と根源を同じくした党派性(偏向)があったはずであり、そのことにも気づいていなかったということも事実上ここで鄭は述べていることになる。

(そして鄭のような知識人が気づいていない党派性を、1970年生の筆者が気づかないのはなんら不思議なことではないだろう)

*1) 『在日韓国人の終焉』p.6などを参考にした。また鄭氏は70年代から度々アメリカに留学している(『在日の耐えられない軽さ』参照)。