『閉された言語空間』

初出:昭和57年、59年、61年 『諸君!』

▼この勧告を受けて開始されたCI&Eの、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の「第一段階」は、昭和21年(1946)初頭から同年6月にかけての時期であったと、前期の文書は記している。しかし、新聞に関していえば、この「プログラム」は、すでにいちはやく昭和20年のうちから開始されていた。

 《一、戦争の真相を叙述した『太平洋戦争史』(約一万五千語)と題する連載企画は、CI&Eが準備し、G-3(参謀第三部)の戦史官の校閲を経たものである。この企画の第一回は1945年12月8日に掲載され、以後ほとんどのあらゆる日刊紙に連載された。この『太平洋戦争史』 は、戦争をはじめた罪とこれまで日本人に知らされていなかった歴史の真相を強調するだけではなく、特に南京とマニラにおける日本軍の残虐行為を強調している。
 二、この連載がはじまる前に、マニラにおける山下裁判、横浜法廷で裁かれているB・C級戦犯容疑者のリストの発表と関連して、戦時中の残虐行為を強調した日本の新聞向けの「インフォメーション・プログラム」が実施された。この「プログラム」は、12月8日一行は『太平洋戦争史』のれんサイト相呼応することとなった(下略)》

 この「プログラム」が、以後正確に戦犯容疑者の逮捕や、戦犯裁判の節目々々に時期を合わせて展開されて行ったという事実は、軽々に看過することができない。(263-4頁)

▼前掲のCI&E文書が自認する通り、占領初期の昭和20年から昭和23年にいたる段階では、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」は、かならずしもCI&Eの期待通りの成果を上げるにはいたっていなかった。しかし、その効果は占領が終了して一世代以上を経過した近年になってから、次第に顕著なものとなりつつあるように思われる
 なぜなら、教科書論争も、昭和57年(1982)夏の中・韓両国に対する鈴木内閣の屈辱的な土下座外交も、『おしん』も、『山河燃ゆ』も、本多勝一記者の〝南京虐殺〟に対する異常な熱中ぶりもそのすべてが、昭和20年 (1945)12月8日を期して各紙に連載を命じられた、『太平洋戦争史』と題するCI&E製の宣伝文書に端を発する空騒ぎだと、いわざるを得ないからである。そして、騒ぎが大きい割には、そのいずれもが不思議に空虚な響きを発するのは、おそらく淵源となっている文書そのものが、一片の宣伝文書にすぎないためにちがいない。
 占領終了後、すでに一世代以上が経過しているというのに、いまだにCI&Eの宣伝文書の言葉を、いつまでもオウム返しに繰り返しつづけているのは、考えようによっては天下の奇観というほかないが、これは一つには戦後日本の歴史記述の大部分が、『太平洋戦争史』で規定されたパラダイムを、依然として墨守しつづけているためであり、さらにそのような歴史記述をテクストとして教育された戦後生まれの世代が、次第に社会の中堅を占めつつあるためである。
 つまり、正確にいえば、彼らは、正統な史料批判にもとづく歴史記述によって教育されるかわりに、知らず知らずのうちに「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の宣伝によって、間接的に洗脳されてしまった世代というほかない。(272頁)

下線太字による強調は筆者による。