- 「国家への忠誠」は市民国家の論理であって、国民国家(歴史のある国家)の論理ではない。
- 忠誠を誓うべきは国家ではなく日本史である。日本は日本史を「われわれの歴史」と思う人々が住まう国。
- 帰化要件は日本名への改名、日本の歴史文化に帰属意識をもち、外国に同胞意識をもたないこととすべきである。これができない人は、日本人になりたくない人と見なせるので、国籍を与えるべきではない。
- 国家に忠誠を誓わせたはずのアメリカでは社会分断が起きている。「国家への忠誠」は意味がない。
はじめに
日本国籍付与の条件について、次のような主張がよく聞かれる。(とくに右派の方から)
日本国籍を希望する者には、日本国・日本国旗への忠誠を義務づけるべきだ。
しかし日本ような国において、国籍取得の際に「国家への忠誠」を求めるのは的外れである。
なぜなら「国家への忠誠」は、米国のような市民国家の論理であって、国民国家の論理ではないからである。
(本稿では便宜上、市民国家と国民国家を次のような意味で使っている)
(Ⅰ)市民国家とは、国民(市民)が、共通の歴史的文化的基盤をもたないことを特徴とする共同体である。 結合原理は国家理念であり、帰化する際には国家(理念)への忠誠がもとめられる。 市民間の関係は、国家理念を共有し、戦争となればともに銃を取るという、同志的・同盟的な関係である。
(Ⅱ)国民国家とは、B・アンダーソンが述べたように、その国の歴史を「われわれの祖先の歴史」と「想像」することによって結合している共同体である。 国民間の関係は、いわば主観的な血統集団であり、歴史と文化を共有した、「われわれ」という同族意識を統合原理とする心情的・家族的な関係である。(→ 『想像の共同体』―B・アンダーソンの国民原理)
市民国家と国民国家はこのように国民同士の関係性が異なっており、つまり統合原理がまったく異なるのである。
そのため国民国家の国民となるには、市民国家の市民とは違う手続き、すなわち「忠誠」のような意志的な手続きではなく、歴史文化を共有した同族関係に入るための、いわば感情的な手続きが必要になるのである。
国籍付与の条件を「国民」の成立過程から考える
さてしかし、すぐわかるように、この国民国家の国民となるための手続きには一つ難問がある。 それは、同族関係に入るといっても具体的に何をすればよいのかという難問である。
その国の歴史を「われわれの祖先の歴史」と思えといっても、外国出身者にとって容易にできることではない。もちろん口先でそのように宣言することはできるが、それでは市民国家の意志的手続き(忠誠宣言)と何ら変わりなく、国民国家の心情的構成員となれるようなものではない。
では「国民」という感情共同体に入るにはどうすればよいのか――
この難問を解く鍵は、「国民」という共同体の成立過程に見ることができる。
エルネスト・ルナンは『国民とは何か』(1882年)において、国民共同体は、人々が過去を「忘却」することで成立すると述べた。
「過去を忘却」というと国民国家(=歴史のある国家)の原理と矛盾しているようだが、これは次のような意味である。
日本もかつてはさまざまな集団(民族・宗族)に分かれていた。
たとえばヤマトと熊襲の争いは民族間の争いであり、また古代の政争から戦国大名の覇権争いも民族・宗族間の争いといえる。その中には渡来系の血筋の人々も含まれていた。日本もかつてはこのように多数の民族・宗族に分かれて争っていたのである。
ところが今日のわれわれは、自分がその誰の子孫であるかを意識せずに、それらを一体として「われわれの祖先」と見ている。
自分と生物学的なつながりがあるかもどうかもわからない人々を、しかも別々の系統や階層の人々を、あたかも「われわれの祖先」であるかのように、すっかり見なして、日本史の教科書を眺めている。
この、自分の具体的な祖先を「忘却」し、その国の歴史の中に自分の抽象的な祖先をみること、それがルナンが述べた「忘却」による「国民」の形成統合の原理なのである。(→ 『国民とは何か』―E・ルナンの国民概念)
「別々の祖先」+「今日のわれわれ」が、「忘却」によって一体化・同族化すること――ルナンが述べたこの国民の形成・統合の原理は、言われてみれば誰でもなるほどと思うのではないだろうか。
さて、ここまで来れば、日本国における国籍付与の条件がどうあるべきか、およそ見当がつくだろう。
国籍付与の条件は「日本史への忠誠」――日本名と文化放棄
日本人になるために必要なことは「日本国への忠誠」ではない。 日本史への忠誠である。
つまり日本の国民(日本人)となるには、日本史を「われわれ(私)の歴史」と思う状態になることが(最終的に)必要なのである。
そしてそのためにはルナンが言うように祖先の「忘却」が必要となるのである。
だがしかし「忘却」とは非意志的なものである。
そこで「個人の意志」に依存するのではなく「忘却」するような仕組みを制度的に用意する必要がある。
すなわち日本国籍取得のためにはまず (1)日本名を法的に義務づける べきである。*1
さらに、日本史を「われわれの歴史」と思うということは、日本文化を「われわれの文化」と思うことを当然含むので、ゆえに日本国籍を希望する者には、日本人となる意志を実際に示すために、(2)日本の歴史と文化にアイデンティティをもち、海外のそれに帰属意識をもたないことの宣言 を義務づけるべきである。*2
(これは宣言という意志的な形をとっているため、市民国家の「忠誠」と同じようなものではないかと思うかもしれないが、この宣言は「忘却」(非意志的)の軌道に(意志的に)乗るという意味であり、市民国家のそれとは意味と効果が異なる)
もし(1)名前の変更および(2)文化放棄の宣言ができないというのであれば、日本の国民(日本人)となる意志に欠けると考えられ、国籍の付与を中止するに十分な事由となるだろう。
日本人になりたくない人間を、同胞として受け容れる(しかも選挙権を与える)必要はない。これは当然のことだろう。
ところで今日帰化というと、一定の条件を充たした「外国人」に国籍を付与する制度という思い込みがあるが、古代アテネでは長期間居住して「現地人化」している者に限って認めるという制度だった(→*3)。100%外国人が日本の有権者になれてしまう現行制度は、国民主権の原理からしても矛盾があるので、古代アテネにならって、すでに日本人化している人にのみ国籍を認めるべきだろう。
つまり(3)二世以降で、すでに日本人以外に同胞意識をもっていない人に、(1)日本名、(2)文化放棄の宣言という条件を付加して、国籍上も日本人になってもらうという制度の方がより妥当だろう。*3
かつての渡来人は、こうした慎重な手続きを取らずとも、自然と日本名を名乗るようになり、自分の祖先を「忘却」して日本人と同化していった。
それはまず少数であったこと、そして出身国との地理的な隔たりによって意識の切断(忘却)が自然とおきたからである。
しかし今日のように交通やインターネットが発達しているような時代には、外国のアイデンティティを保持しつづけることは容易である。
であれば国籍付与の要件を、現代に対応した厳格な基準に改める必要がある。 *4
すなわち国籍希望者には、日本名の義務づけと外国との同胞意識の切断を明言させる必要があるのである。
(――以下、個人がもつ歴史アイデンティティのことを縦軸(○○軸)と書くことにする)
日本が日本たりえているのは、この国に住む人々が、国家に「忠誠」を誓っているからではない。
日本に住む人々が日本史を「われわれの歴史」、日本文化を「われわれの文化」と認識しているからである。
日本史を「われわれの歴史」、日本文化を「われわれの文化」と認識している人々の素朴な実践が日本を日本たらしめている。
ゆえに日本が存続するためには、この日本史と日本文化への当事者意識を保持し続けなければならない。
(日本史が無関係化すれば、日本文化も無関係化する。無関係なものが実践・継承されていくはずがない)
そのために国籍法を適切に改正して、「忘却」(縦軸同化)をシステム化すべきであるというのが本稿の主張である。
なお適切な改正がなされるまでは、帰化制度の暫定停止などを含めた諸措置も検討されるべきと考える。
国籍付与の厳格化を行わなければ何が起こるか
ところで、もし日本名の義務づけ・国籍付与の厳格化を行わなわないとすると日本はどうなるか。
その場合日本は、歴史的文化的定義を持たない「市民国家」の道へと進んでいかざるを得なくなる。
市民国家になれば、やがて「忘却」の過程を逆行するかのように、国民が日本軸と外国軸集団に分裂し、「身内」と「他人」の境界が、「国民」と「外国人」との間にではなく、市民(日本国籍者)同士の間に生まれることになる。*5
この境界(心理断層線)による多軸化(多民族化)は、短期的には政治的な緊張を生みだすが、長期的には、通婚によるアイデンティティ(縦軸)不全という事態に進展することになる。 それはアメリカ社会で起きている現象の後追いとなる。*6
日本がそのような状態になれば、「日本史にアイデンティティをもつ人間が固まってつくる社会」という状態を維持できなくなり、日本の歴史文化に対する当事者意識を社会的に失って、やがて日本は消滅していくだろう。
市民国家という国家形態がどのような結末を迎えるのか、いまのところまだ明らかになっていないが、筆者は、欧米の移民国家(市民国家)は「国民」(そしてその文化)の解体消滅過程にあると考えている。
(終)
*1) ここでいう日本名とは、日本史にアイデンティティを持てるような名前、日本以外の国にルーツを感じないような名前のことである。(日本名の範囲については拙稿ウィトゲンシュタインのパラドクス――世界の最終根拠の「規則」という概念を参照)。
※アメリカでは、名前が異なるだけでアイデンティティの分断現象が起きている。日本がそのような事態に陥らないようにするためには日本名が重要である。→「エスニック集団は、多くの場合、第二世代において、また第三世代ではもっと完全に見られるように、特殊な言語、習慣、文化が失われた後ですら、アメリカでの新しい経験によって間断なく再生されているのである。ある名前の存在自体だけで、新しい状況における集団の特性を形成するに十分であろう。というのは、名前は実際上、何にでもなりうる個人を、ある特定の過去、国、人種と結びつけるからである」 (『人種のるつぼを超えて』44-45頁)
*2) ここでの「外国文化放棄」の趣旨は、日本史にアイデンティティをもてないような文化を捨てるということであって、食習慣や宗教など、俄に放棄しにくいものでも、日本の歴史文化へのアイデンティティ意識に反しないものであればかまわない。
(正確に言うと、日本の「規則」に従う限りにおいて自由) ――とにかく目的は、日本人になるということは(外国人にではなく)日本人に同胞意識をもつことであるということを国籍取得者に自覚させること、国籍取得後、この趣旨に反する言動をした人間は罰則(→*4)が科せられることを自覚させることである。それでも日本国籍になりたいと希望する人間だけに国籍取得を許可すべきだということである。こうした基準をクリアできない人を同胞として受け入れる必要はないということである。
*3) 古代アテネでは両親がアテネ人の者にだけ市民権を認めていた(→『国民とは何か』―誤解されているE・ルナンの国民概念(2) )。これは要するに現地化している人にのみ帰化(市民権)を認めていたということである。なお本文では、このアテネを念頭に「二世以降」と書いたが、これは「少なくとも二世以降」という意味である。マーカス・ハンセンの法則(「二世が忘れようとするものを、三世は思い出そうとする」―『閉された言語空間』114頁)からすると「三世以降」とするのが妥当かもしれない。最終的に何世を基準とすべきかは慎重に検討すべき問題である。
*4) なお国籍取得後、帰化制度の「趣旨」に反するような言動を故意にとるような人に対しては、国籍の剥奪や選挙権・公務就任権の停止等、厳しい措置を用意しておくべきと考える。帰化一世には参政権・公務就任権を付与しないことなども検討されるべきである。
*5) 米国も「アメリカナイゼーション」を義務づけていた時代には「国民」の形成をめざしていた。 しかしその後、移民の増加と多文化主義によってアメリカナイゼーションを強制できなり、その結果今日では、国民(市民)の間に心理的な断層線が生じてしまっている。
*6) 「個人がますます異なった血統を受け継ぐにつれ、民族的なアイデンティティは主観的な選択の問題になる。かりに前述の家族の四代目がいたとすれば、そのなかの一人はアイルランドの血統を自分のルーツとして選び、全面的かつ積極的にそれと一体化しようとするかもしれない。だが、そうやって選択することは、アイルランドの血をまったく受け継いでいないが、アイルランドの文化、音楽、文学、歴史、言語、伝承に魅せられた人がアイルランド人になろうとすることと、さして変わらないだろう」(ハンチントン『分断されるアメリカ』414頁)
→たとえばA系とB系の子はAB系となり、AB系とCD系の子はABCD系となる。こうした縦軸同化を伴わない通婚が行われると、自分が誰の子孫なのかがだんだんとわからなくなっていく。そうなるとアイルランド系だけでなくアメリカ系であるという意識も希薄になり、『大草原の小さな家』(アメリカ系の歴史)ですら、多くの人々にとって「自分とは無関係の過去」という意識になる。このことを日本に当てはめてみれば、日本史が「無関係の過去」となるということであり、そうなれば日本の文化を受け継ごうとする意志も必然的に失われていくということである。
〔参考文献〕
『分断されるアメリカ』 サミュエル・ハンチントン 2004年 ◆楽天 ◆Amazon
『人種のるつぼを超えて』 グレイザー、モイニハン 1986年 (原著1963年)