前半(1)で説明したこと
言語ゲームとは、人間の感覚(原言語ゲーム)によって判断の一致(思い込み)が生じていく過程のことをいう。
判断の一致とは、ある事柄について、「それが自然」という感覚的一致が相互におき、表出される判断が事実として一致することをいう。
数学や論理だけでなく、言葉の意味や習俗習慣など、「判断が一致」が生じているところが「正しさ」になっている。
この「正しさ」のことを言語ゲームの用語で「規則」という。(→「規則と実践の逆転」)(→「すべては言語ゲームである」)
人間はこの規則(正しさ)に従って日々の生活を盲目的に営んでいる。
(「盲目的に」とは「無意識的に」、イマドキの言葉で言えば「普通に」である)
人間が「規則」に盲目的に従う理由は、そもそも「規則」は人間にとって自然(自明)なところに生じるものなので、それの再検討の必要性を感じないからである。
さて本稿(2)では、まず実際に我々が日本という世界(言語ゲーム、世界像、規則)をいかに盲目的に営んでいるかを確認するところからはじめる。そして「多様性」がなぜその社会の言語ゲームを毀損し、世界を破壊するのかを考える。
また最終パートでは、世界が言語ゲームによってきまった「規則」である以上、個人基準、自意識基準による権利の主張には限界があること、特に原言語ゲームを逸脱した権利がまかり通る世界は「狂気」であることを示してみたい。
では以下本文――
日本も言語ゲーム(規則)である
我々の社会を眺めてみると、我々の日常生活はすっかり規則(正しさ)の盲目性によって支配されていることがわかる。
たとえば学校では日本史と世界史という授業があり、書店では日本関連書籍(歴史なり昔話なり)と世界の書籍は自然とわけて設置される。つまり我々はこのように無意識に日本の歴史文化と世界のそれとを、分けて考えるという「規則」に従っている。
またテレビではたとえば川柳のバラエティ番組が普通に放送され、時代劇は当然、日本の時代劇である。
日本の文化的行事、たとえば正月に初詣に行くことも、3月3日に雛祭を祝うことも、当たり前のように無意識に実践している。子供に付ける名前は普通に日本名であり、日本語は「われわれの言葉」と思っている。
これらはすべて日本という言語ゲームから生じている盲目的な実践(規則、正しさ)である。それに従っていることをまったく意識しないほどに盲目的である。
(もちろんこの「規則」は実践されない場合もある(たとえば初詣は面倒くさくて行かない等)。しかしそれは「やらない」ということを選択しているのであって、「正月は初詣にいくものだ」という規則それ自体には盲目的に無意識的に従っている。初詣をサボると後ろめたいと感じるのは、そうした「規則」に従っているからなのである)
このようにして日本という言語ゲーム(世界像、規則)を盲目的に(普通に)営んでいるのが、われわれ日本人の社会である。
規則に従うとき、私は選択しない。 私は規則に盲目的に従う。(『探求』§219)
ところで日本人はなぜこのような「規則」に従って、盲目的に普通に実践しているのだろうか。
それは日本人が日本史や日本文化をわれわれの歴史文化であると無意識に思っている、そこに「判断が一致」しているからである。しかし、なぜ日本人は日本史や日本文化を「われわれの歴史・文化」と認識しているのだろうか。
いやそもそも何が日本史で、何が日本文化なのだろうか。
それは、なぜ紫式部は「日本人の祖先」で、なぜ源氏物語は「日本人の古典」なのか? なぜ平清盛は「日本人の祖先」なのに阿弖流為はそうではないのか? というところから考えてみればわかる。
つまり紫式部らは日本人にとって、「われわれの祖先」であると感じられる(実践)からであり、そしてそれゆえに源氏物語等も「われわれの古典」だと感じられる(実践)からである。
そうして人間の自然な感覚で決まった範囲が日本史となり日本文化(規則)となっているのである。(→「規則と実践の逆転」)
もちろん紫式部らに日本人という自意識はなかったはずである。しかし日本人が彼らを「われわれの祖先」であると想像しているために、いわば<遡及的に>日本人となっているのである。もちろんこうした想像は現代人の勝手な思い込みにすぎないが、しかしそうして日本人が自然に日本史を「われわれの歴史」として受け入れているからこそ、(そこから演繹されたものとして)件の「規則(正しさ)」(学校、書店、初詣…)が現れてくるのである。
日本史は明治政府によって恣意的に編纂されたものである。しかしそれを人々が「われわれの歴史」という想像で受け入れられたからこそ、日本人という種族(主観的血統集団)は誕生した。人々に受け入れらるような歴史をうまく編纂できたからこそ、現代の「日本人」は生まれたのである。 (現代アメリカで「われわれの歴史」を書くことが不可能であることと比較せよ)*1
日本史は誰でも書くことができる。 古代エジプト史は、古代エジプト人でなくとも書ける。
しかしそれを自然と「われわれの歴史」とみなし、世界像として受け入れ、そのなかから「われわれの文化」を見出し、それを現代において盲目的に再生(実践)しつづけられるのは、そうした「規則」に従えるのは、「日本人」しかいない。
日本史という世界像は人間の感覚しか根拠はないが、この日本史という世界像を「とにかくeben」受け入れて、その中でさまざまな盲目的な実践を行っているのが日本人である。 (日本史を受け容れることは「合意」ではなく、日本人としての無意識の前提であり出発点=与件である)
私の世界像は、その正しさを私が得心したがゆえに、私のものになったのではなく、また、現にその正しさを得心しているがゆえに、私のものであるわけでもない。それは受け継がれてきた背景であり、真偽の判断もそれを前提としたうえでなされる。(『確実性』§94)
生徒と先生。生徒は、たとえば物の存在や言葉の意味といったことを疑って、絶えず先生の説明を中断する。先生は言う。「もう邪魔するのはやめて、言う通りにしてごらん。今はまだ疑うことにはどんな意味もないのだから」。
また、その生徒が歴史(と歴史的なすべてのこと)の存在を疑い、そもそも百年前に地球が存在したかまで疑うと考えてみよ。この疑いには中身がないように私には思える。だがそれなら、歴史を信じることもまたそうなのではないか。否。それには多くの中身があるのだ。(『確実性』§310-312)
疑うことに中身がないようなことに関しては、信じることにも中身がない。すべてがその中身であって、その中身でないようなものが何もないのだから、中身がないのと同じである。そういうことがらに関して、「信じる」と語ることには中身がない――以前のウィトゲンシュタインなら、おそらくこう主張したに違いない。(しかし)死刑囚の無実や神の存在を「信じる」ことには中身がある。なぜなら、それを信じることと信じないこととは、行為における差異を生みだす有意味な二つの生活だからである。(永井p.196)(→日本史を信じていることが日本人としての実践を生みだす)
ところで繰り返しになるが、言語ゲームの要点は、人間の素朴な感覚(原言語ゲーム的実践)によって、あたかも一定の規則(基準、正しさ)のようなものが成立するというところにある。(→「規則と実践の逆転」)
たとえば「犬」とは、ある特徴的な外形(振る舞い)を示している(と人間が感じた)動物につけられた名称である。このときその対象(犬)の自意識は関係ない。
「日本人」も、ある特徴的な外形を示している人々のことである。つまり上で示したような特徴(学校、書店、初詣…)を選択することなく盲目的に実践している人、そのように見える人につけられた名称である(→cf.紫式部)。この意味で日本人とは、自意識ではなく、いわば他意識なのである。
そして、日本人にみえる者同士が互いに集まって、その「判断の一致」によって盲目的に示している文化が「日本文化」であり、そのような人々が住まう国(そう見える国、そのような外形をもつ国)が「日本国」である。
文化も言語ゲームである
日本人は雛祭や鯉のぼりを「われわれの文化」と盲目的に思いこんでいる。つまり雛祭や鯉のぼりは日本の「規則」である。
だからこそ毎年三月五月に盲目的に営まれる。(家庭で鯉のぼりを飾る機会は減ったが、ニュースでは毎年流れる。普通に)
しかしよく考えてみると、雛祭は平安時代の貴族の文化、鯉のぼりは江戸時代の武家の文化が発祥であるから、時代も社会階層も違う文化を、現代の、しかも一般人が祝うのは本当はおかしいはずである。
つまりそれらは「創られた伝統」ということになる。
しかし雛祭・鯉のぼりは日本人の「われわれの文化」であるという判断が一致することではじめて(演繹されながら)現代に甦ったものだといえる。もしこの(感覚的な)事実としての判断の一致が生じなければ伝統は甦らないし「創られない」。
もちろん文化にも流行廃りがあるから、雛祭なども、いつか廃れることがあるかも知れない。
しかし日本人が日本という言語ゲームを営んでいる限り、日本史を盲目的に見返すという「規則」に従っている限り、そこから何かしら見出して、それを「われわれの文化」として甦らせ、社会的に固定(措定)することができる。 日本は日本人の、この盲目的で半ば無意識の実践(規則)があることによって、常に新陳代謝しながらも、日本という一つの国であり続けることができている。
また伝統と無関係に思える歌謡曲や漫画などのポップカルチャーにも、日本の古典に見られるような古い情緒や価値観が織り込まれていて、それによって日本の情緒をもつ作品となっている。
こうしたことができるのも日本人が、日本の古典や昔話を「われわれの情緒・価値観」として盲目的に(「規則」として)読み、「われわれの情緒・価値観」の内実についての「判断の一致」が起き続けているからである。
(もっともそうして読み込まれて形成されている「日本の価値観」は、もちろん当時の価値観そのままではなく、あくまで現代日本人により演繹されて甦った(創られた)価値観ではあるのだが)
――こうして日本人が「われわれの歴史」「われわれの文化」を盲目的に見返すという「規則」が維持されている限り、すなわち日本という言語ゲーム(判断の一致、規則)を営んでいる限り、日本文化は継承されつづけるし、また盲目的に「創られる」。
外国から文化を「日本化」して取り入れることができるのも、日本人が日本という言語ゲームを生きているからである。
拉麺が「ラーメン」となったのは、拉麺という形式は取り入れるが、食材や味などについては、日本人の判断の一致に沿って作られるからである。だからこそ日本のラーメンになるのである。日本という言語ゲームが行われていなければ、この「変換」は起こらない。 (この「変換」は、外来語が元の意味を離れて日本語化するのと似ている)
西洋音階を取り入れて「日本の歌謡曲」ができるのも、おなじ「日本化」である。
こうした日本のラーメンや歌謡曲は日本人にしか生み出せないものである。なぜならそれらは日本人の判断の一致点を基盤にしてはじめて生まれる(演繹される)ものだからである。
もちろん外国人(個人)も日本のラーメンを学べば、それを作ることはできる。 しかし外国人(社会)は日本のラーメンそれ自体を生みだすことはできない。 外国人社会が生みだすとしたら、その民族の「判断の一致」による、その民族のラーメンでしかない。
ベースボールが「野球」となったのも、日本人の感性(判断の一致)でそれを解釈したからである。
こうして過去から垂直的に、外国から水平的に、文化を取り入れ「われわれの文化」を営んでいるのが現代日本である。 それができるのは、繰り返しになるが、日本人が日本という言語ゲーム(世界像、判断の一致、規則)を生きているからである。
外国から文化を日本化して取り入れ、また過去を甦らせて、新たなものを創造(演繹)できるのは、日本という世界像を生きている人々、「われわれ日本人の価値観」という「判断の一致」に、その内側から実践的に関与(演繹)しつづけられる人々だけである。 日本という言語ゲームを生きていない人々に、その「規則」に従っていない人々に、新たな日本を生み出すことはできない。
もし言語ゲームが行われなくなれば、「規則」が失われれば、日本は日本を生み出せなくなり、辞書や百科事典に載っているだけの、もう動かない(演繹されない)遺跡(死語)となりはてることになる。(→「言語ゲーム(世界像)は生きている」)
日本が存続するためには、日本の維持演繹が可能な状態、すなわち人々が盲目的に日本という言語ゲームを生きているという今の社会状態(規則)を維持しなければならない。
しかし今後もし日本が「多様」になれば、日本を維持発展させてきた言語ゲームは失われていくだろう。 多様な社会においては、日本を日本たらしめてきた盲目的な実践(判断の一致、規則)が維持できなくなっていくからだ。
世界像――根拠なき我々の世界 (再)
日本人と外国人とでは何気ない所作も、それぞれ異なっている。たとえば道の歩き方、掃除の仕方、笑い方等々。この違いは日本人の「判断の一致」の積み重ねによってebenとにかく現在の姿(世界像)に収束することによって生まれている。 この世界像(規則)に客観的な根拠はないが、日本人の感覚的実践という根拠には基づいている。もし日本人がいなくなれば、または日本人同士の判断の一致ができなくなれば、この「収束」が起こらなくなるので、日本という世界像は消滅する。*2
世界像とは正しい実例(見本、規則)の集合体である。日本の「赤」「美しい」「道を歩く」「掃除をする」「笑う」「会釈する」「将棋盤に向かう」「折り紙を折る」「茶を点てる」「死生観」…といったさまざまな言語ゲームの正しい中身(規則)は、辞典にではなく、世界像の中にのみ示されている。そしてその規則全体を与件として受け入れた者だけが、日本人としての正しい実践を体得できる。
外国人観光客に正座を言葉で説明してやらせても、なんとなくサマにならないのは日本の世界像を体得していないからである。日本人が正しく正座できるのは、日本の世界像の中で示されている実例を受け入れ、体得しているからである。実例があり、それを受け入れることではじめて「正座する」をその内実を含めて身につけることができる。
もし何らかの理由で実例(見本、規則)を失えば(抑制されれば)、その世界像を体得する次世代が生まれなくなり、その世界像は現世代かぎりで失われることなる。
(このことは、ある言語を話す社会が失われれば、その言語が失われることと似ている。言語とは、会話をし続けることによって、すなわち「判断の一致=規則=世界像」を示し続けることによって維持される。話す社会を失うということは、その世界像を形成することができなくなるということであり、結果、その言語は失われる)
多様性(選択肢)は「規則」を否定して世界を破壊する
日本という国は、日本史がわれわれの歴史であるという「規則」に盲目的に・非主体的に従っている人々の実践によってこの世界に固定されている。
この日本を世代を超えて保持し、また演繹していくためには、個々人の主体的な意志や努力によってではなく、そこに住む人々が盲目的に(非主体的に)、日本という世界像を営んでいるという今の社会状態(規則)を維持しなければならない。
では日本が多文化共生(多様性)社会になったらどうなるだろうか。
多文化主義の本質は、われわれの規則(正しさ)を否定することにある。 日本史がわれわれの歴史であり、日本文化がわれわれの文化であるという「規則」に、盲目的に従う社会――を否定することにある。
そのためにまず多文化主義者は、日本人という概念を懐疑に曝して、その盲目性を破壊しようとする。たとえば日本史や民族(規則)は幻想に過ぎないといった種類の言説がそうである。 しかし言語ゲームが世界の存在構造を明らかにしたように、そもそもこの世界は(自然科学も含めて)人間の判断の一致(思い込み)によって現前しているのであるから、そうした言説は的外れなのである。そうした種類の言説の目的は、日本という世界の否定なのである。
さらに多文化主義者は、多様性(選択肢)を絶対善とみなし、外国の「判断の一致」由来の多様な実践を平等に認めることを強制する。そして外国由来の「判断の一致」を「それは日本の規則(正しさ)ではない」と指摘することを差別とみなそうとする。
そのため多文化社会においては、日本の「規則」ではない多様な実践(行事、民族衣装、名前、態度、音楽、宗教観…)が外国のものとしてではなく、日本のものとして、政治の舞台、実生活やメディア、学校のカリキュラムの中で実践されるようになり、やがてそれが規則(盲目的な日常)となっていくことになる。
多文化共生社会では、日本人同士の「われわれ」だけでまとまろうとすると「排他的」などと批難されるため、日本人同士の判断の一致を社会的に維持することが困難になっていく。
そうなれば日本の世界像(それは規則の線によって示された絵柄に喩えることができるだろう)は維持できなくなるだろう。
なぜなら人間関係は、自然とそこに判断の一致=線を生んでいくものだからである。
日本人同士の社会における判断の一致(線)は、当然、日本の世界像を描く。 今日までの日本の世界像(線)は、そうして描かれているものである。
しかし多様な人々が社会参加するようになると、その社会で自然と引かれる線は、日本史・日本文化と無関係なものになっていかざるをえない。 それはたとえば「多様な人々」が漫画やドラマに普通に登場するようになったとき、あるいは制作者側が「多様な人々」になったときに、日本の行事、たとえば初詣や雛祭の場面などが、今日そうであるように、盲目的に「規則」として描かれ続けられるだろうか?と想像してみればわかるだろう。*3
そうして多様な人々の社会のなかで行われる言語ゲームは、やがて日本の世界像(規則、線)を描かなくなっていく。 多文化主義とは、そうして日本人同士の線、つまり日本の「規則」を実践的に変更して、日本の世界像を破壊していく政策なのである。
移民が増加したネオ日本では、移民本人はもちろん通婚によっても日本史の無関係化は進行する。
やがてネオ日本では、日本の歴史文化にアイデンティティをもたない人々を含めた水平的な判断の一致(線)だけが社会の「規則」となっていく。
そうして縦軸を失い、場当たり的に変化する不規則な実践だけがネオ日本の世界像となっていくだろう。 (→「規則と実践の逆転」)
「マイノリティ」は自分たちだけの世界像(線、絵柄)に浸ることが可能である。それを「排他的」などと批判されることはない。しかもマイノリティは、出身本国にそのオリジナルの世界像の見本を持ちえ、いつでもそこから純粋な世界像を輸入することができる。
しかし日本人は、日本の社会を失ったとき、もう見本となる世界像(規則)を世界のどこにももたない。
日本の世界像を失えば、もうあらたな日本人を生みだすことはできない。
ネオ日本では、道の歩き方も、正座の仕方も、さまざまな態度も、日本の歴史と無関係な、外国人のような振る舞いが新たな「規則」になっている。 ジェネレーションギャップが世代特有の実践によって生じ、感覚の断絶が起こるように、多様な実践は日本の根源的な部分で過去(原画)との断絶をもたらす。しかもそのことに違和感を覚える人はもはやいなくなっている。
そして、失われた言語を取り戻すことができないように、日本の世界像(規則)は永遠に失われ、これまでの日本は古代日本として切り離されて、図鑑に載っているだけの、もはや動かない遺跡(死語)となることになる。
多文化共生とは、こうして「寛容なマジョリティ」が排他性を失い、世界像(言語ゲーム、規則)を維持できなくなって、マイノリティの実践によって内側から自然に「規則」が変更され、その自覚もないままに破壊されていく思想だといえる。
多文化共生という制度は、中期的には世界像ごとの分断社会へと進む。しかし長期的(t→∞)には、より排他的で、外部に純粋な世界像をもつ文化宗教集団によって、「寛容なマジョリティ」の世界像が一方的に吸収・淘汰されていくか、もしくはなんら歴史的文化的な世界像(縦軸)をもたない「個人」の寄せ集めでしかない、混沌とした失敗国家という結末を迎えるだろう。
リベラル派はしばしば、多文化共生政策で日本文化は豊かになると主張する。
しかし見てきたように多文化共生政策とは、外国の言語ゲームがそのまま持ち込まれる政策であって、ラーメンや歌謡曲がそうであったように、外国文化が日本人の言語ゲームによって「日本化」されて取り込まれる政策ではない。 しかも多文化政策は日本社会に「多様性」「選択肢」を強制し、日本の「規則」を否定して日本の世界像を攪乱していくものである。
それのいったいどこが「日本文化を豊かにする」ことになるのだろうか??
(日本語を話さない人が、いったいどうして日本語を豊かにできるのだろうか?―それと同じ)
世界像の維持に必要なのは排他性である。世界像は、その規則(正しさ)に反する選択肢に不寛容であることによって守られる。コロニーを形成した移民が民族性を維持しやすいのは、排他的な社会を確保でき、規則を維持できるからである。
しかし「多文化共生」するネオ日本では、日本の「規則」を排他的として否定し、非日本的な規則に従う人々を擁護し、日本という世界像の保持に必要な盲目的判断の一致(言語ゲーム)を社会的に失わせる。 そうして「ネオ日本社会」においては、日本人の側がいわば「コロニーを作れない移民」のような立場に置かれることになる。
ネオ日本ではもはや日本史や日本の古典を学ぶことも、初詣に行くことも、様々な日本文化を実践することも、日本語を話すことも、いや自分が日本人であるか否かでさえも、盲目的規則ではなく、単なる選択肢(つまり嗜好)の一つに過ぎなくなっている。
(実際、多文化主義の先進国・アメリカでは、民族性が単なる選択の問題になりつつある→*4)
そうして民族性が個人の選択の問題になれば、盲目的な判断の一致の連鎖は起こらなくなる。文化の維持継承はできなくなり、伝統は「創られ」なくなる。 やがて「日本人」は日本を示さなくなり、日本社会は日本の世界像(規則、線)を失い、日本人は、そして日本は、この世界から消滅していくことになるだろう。
「寛容」とはその世界像以外の線を認める=その世界像の線を諦めるということである。それはその世界像を捨てるに等しい行為である。 21世紀は「寛容」な民族、世界像の保持に無自覚な民族から消滅していく世紀になるだろう。*5
世界は個人主義・民主主義の限界である
それが何であるかについて、それ(対象)の自意識は無関係であり、それに対する判断の一致が規則(正しさ)である――
これが言語ゲームの原理であり、我々の世界認識の原理である。
現に我々はこの認識原理を前提に生活している。
たとえばその動物が「犬」なのは、その外形(示しているもの、振る舞い)から、犬であると人間の判断が一致するからである。 その物体が「赤色」なのは、その外形から赤色であると人間の判断が一致するからである。(このとき対象(犬、その物体)の自意識は無関係である)
同様に、男の外形をもつ人(男に見える人、男に思える人、男であることを示している人、男であると皆の判断が一致するような人)は、何のためらいもなく盲目的に「男」として扱われる。 このとき、その人の自意識を一々確認することはない。 実際われわれは普段そうして性別を見分けている。
では、もし、自意識が女である「男」の人がいたらその扱いはどうすべきだろうか。たとえば「性別は自意識を基準とする」という法律の制定は可能だろうか。それを言語ゲーム論を踏まえながら考えてみる。
こんな平行世界を描いたSF作品を見たことはないだろうか。 人間と地理は地球とまったく一緒だが、これまで見たことも聞いたこともない言葉、文字、道路標識からなる異世界に突然迷いこんで、不気味な思いをするという作品である。 そのような平行世界、我々の「判断の一致」とは別の「判断の一致」で構成されている世界のことを「狂気」(*6)と呼ぼう。
ただ上の平行世界は狂気ではあるが外国のようなものにすぎない。言語や習慣が異なるだけで、まだ人間の世界だからである。
では、人間の原言語ゲーム(感覚の一致)が通用しない世界、前半の例で言えば57や671で繰り上がったり、色に対する感覚がまったく異なったりする人々が住む平行世界はどうだろうか。 自分以外の人々は、それが当然という顔をして生活している世界である。
…それはもはや人間の原理そのものを逸脱した狂気の世界である。もし我々がそんな世界に移住させられたら、気が狂ってしまうだろう。
対象の自意識基準で識別が変化するような世界、外形的判断すなわち原言語ゲーム的判断で男か女か判別できない世界(してはならない世界)は、正真正銘、「人間」を逸脱した狂気の世界である。*7
≪外形的に男だとしか思えなくても、自意識が女だと主張している場合は、女として扱わなければならない≫
もしこのような不条理を法律で義務づけるとしたら、それは文字通り狂気の沙汰ということになるだろう。
人間の世界は言語ゲームによって成立している「規則」である。規則は(繰り返しになるが)人間が正しいと感じるところに自律的に成立していくものであって、それは理屈で変更できるようなものではない。(理屈で変更できないものだからこそ社会的に共有され、世界の基盤となり得ているのである→「言語ゲームは規約主義ではない」)
我々は民主主義社会に生きているため、何でもかんでも議論できめようとするきらいがあるが、我々は民主的な議論に適う領域とそうでない領域をまず峻別すべきであり、「世界像」は民主的議論の限界であることを認識すべきである。
世界像に関わる議論で特によくないのは、世論調査に依拠することである。 世論調査で得られるものは政治的意見であって、それはその人の「規則」(正しいという直観)とは無関係に表明できるものだからである。(つまり嘘をつける)
世論調査で政策を決めても、実際に出現するのは真意の世界像の方になるため、両者に齟齬があれば社会矛盾として現れてしまう。 たとえば多文化共生政策について世論調査が「賛成」だったとしても、現実には「多文化共生」するのではなく、複数の世界像に分断した社会という結果になってしまうのである。(実際アメリカではそうなっている→cf.末尾の「関連資料」)
それと同様に「性別は自意識を基準とする」が世論調査で肯定されても、それが本当に社会に受け入れられるとは限らない。 「男」「女」は人類の根本与件とでも言うべき根源的な世界像なので、むしろ大きな社会的な摩擦を招く可能性が高い。
では、先ほどの、自意識が女である「男」の人はどのように扱われるのが妥当か。
そのような人が女として扱われるのは、その人が女であると「判断が一致」している範囲、たとえば学校や会社の同僚などそのことをよく判っている範囲、および、規約の及ぶ範囲に限られるのが妥当であると筆者は考える。 つまりそういう人が女として扱われることは、一般的な権利としては認められない。 たとえば一般の市民プールで女子更衣室に入る権利などは認められないと考える。(そういう人も女子更衣室を使用できるという規約を掲げていない限り)
味覚や錯視のことを考えれば明らかなように、知覚は理性によって感じ方を制御することはできないものである。虎の自意識が猫だろうと何だろうと怖いという気持ちがは変わらないように、男に見えれば、その自意識が何であろうと、更衣室の女性はそれを本能的に男である(怖い)と感じることを変えることはできない。
「男」「女」とはそうして変更できない人間の本質的な世界像なのだから、とすればこの人間の原理由来の直観がまず社会の原則でなければならない。
自意識が女の人が女として扱われないのは、確かに不条理なことである。 そこになんらかの調整が必要であることは、まったく否定しない。しかし不条理というなら、世界像に反する権利義務の主張も不条理なのである。
「個人」を尊重し、自意識基準を認めるべきだということが、昨今流行の「政治的正しさ」である。 しかし「政治的正しさ」はあくまで政治的に決まった正しさであって、言語ゲーム的に決まった正しさ(規則)ではない。すなわち「世界」ではない。 「政治的正しさ」を調整原理として運用するのはもちろんよいことだが、それを原則に据えようとすることは、人間の世界の否定であり、狂気の沙汰であって、結果、大きな軋轢を生み、社会そのものを壊してしまうだろう。
以上、ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の後期思想である言語ゲームによって人間の世界認識の仕組みを説明してきた。
人間の世界は、個人(主体的合意)ではなく、関係(共同体の判断の一致)に属しているとする言語ゲーム論は、あたりまえと感じる日本人が多いと思われる。 ウィトゲンシュタインがなぜこのあたりまえのことを考察したのかというと、その原因は西洋の特殊な事情にある。
かつて西洋では、世界の基準(正しさ)を「神」が保証していた。 (――数学や論理は当然神の法則。「赤いもの」「メニューの読み方」など、言葉の意味も、いわば神が設定した超自然的な規則、正しさであり、そうした超自然的な(神の)規則に沿って人間は生活している・生活するべきと考えられていた)
しかし啓蒙思想によって神の権威が失墜すると、世界の基準(正しさ)をどこにもとめるのかということが問題となる。
17世紀以降、人間の理性がもてはやされて、世界の基準も人間(個人)に求められるべきだという考え方が主流になっていった。
しかし世界の基準を個人に求めるとなると、各個人がそれぞれの主観的な正しさをもってしまい、客観的な正しさというものが決まらなくなるという矛盾が生じてしまう。言葉も通じなくなる。(――コンピュータで説明したように、言葉の意味を各個人が主体的に構成すると意思疎通できなくなるという矛盾が生じてしまう。数学や論理の正しさすら「客観的」には証明できなくなる)
だが、実際問題として我々は数学や論理を、あたかも客観性があるもののように思って共有しているし、言葉も通じている。これは一体どういうことなのか――この事実を説明しようとしたのが、ウィトゲンシュタインの言語ゲームというわけである。
言語ゲームによって、世界の基準は個人の認識ではなく、関係(共同体の判断の一致、言語ゲーム)によって定まるのであり、そこには「客観性」は存在せず、人類学的客観性しか存在しない。「個人」も、あくまで共同体の世界像(共同体的客観性)を受け入れた存在として出発するものにすぎない(言葉の意味も社会的に決まっていて、個人の主体性が介在する余地はない。だから通じる)―という(非キリスト教圏からすると)あたりまえの事実が説明されたのである。(言語ゲーム一元論)
人間の認識構造を解明しようとする学問を認識論(哲学)という。 認識論の分野においては、「世界」は、神という軛から解かれた啓蒙主義的理性をもつ主体的個人(の認識)から構成される/出発する(べき)という啓蒙主義直後の図式はすでに、理性や「個人」がもてはやされた西洋の特定の時代の、すなわち近世近代西洋の遺物になっているのである。
にもかかわらず、政治思想の分野ではいまだに、社会が主体的な個人の集まりによって構成されるべき(個人を社会の出発点とするべき)であるかのような、旧図式的発想が議論の前提に置かれ、関係(世界像、言語ゲーム)ではなく個人(自意識)が絶対視される傾向がある。
もちろん個人を基準として議論されるべきテーマは多い。実際問題としてはそれがほとんどだろう。
しかし一定の問題に関しては、個人を絶対視にするのはおかしなことではないか??
本稿は、じつはそうした個人的な疑問に端を発したものである。
ゆえに本稿では、前半で言語ゲームを説明しつつ、後半では今日とかく絶対視されがちな多様性(選択の自由)、そして個人・自由・平等・人権・民主主義(議論)などに対して、世界像の尊重という観点から、そこに一定の限界の設定を試みた。
今日、欧米の「多文化共生社会」では、社会が世界像ごとに分断するという事態に陥っている。またさらに「主体的個人」を信奉する人々が、自意識絶対主義の、一方的な権利主張を行うまでになっている。
しかし主体的個人主義は、キリスト教とその失墜を経験した西洋だけの歪な思想にすぎない。
日本は、この特異な思想に惑わされることなく、「関係」を重視し、世界像を基盤とした社会を営み続けるべきである。
われわれ日本人は、西洋近代主義の轍を踏んではならない。
(終)
*1) 明治政府によって編纂された日本史はもちろん恣意的なものである。しかし恣意的に編纂されたにしても、それが原言語ゲーム的に<自然>と感じられただったからこそ、日本人一般に受け入れられたのである。人間は不自然な歴史(規則)を受け入れることはできない。たとえばアメリカではどんなに恣意的に歴史を書こうと、アメリカ人全員が受け入れられる「国民の歴史」を書くことはできない。ゆえに「アメリカ人」という種族は存在しない。
*2) エントロピー(乱雑性)という概念を使うなら、「規則」とは人間の「判断の一致」によってエントロピーが減少した状態のことである。 人間がいなくなれば「エントロピー増大法則」に従って規則は消滅し、世界は乱数的になる。日本の世界像(規則)とは日本人の感覚的実践によって文化的エントロピーが収束したものである。日本人がいなくなれば、文化的エントロピーは増大し、日本という世界像は消滅する。
*3) たとえばクリスマスは初詣などと違い日本の民族性と無関係に存在しているものなので、「多様な日本」になっても商業慣習として存続していく可能性がある。 しかし初詣や雛祭のような民族的行事は、日本史が無関係化すれば「判断の一致」が失われ、実践的に必然的に消滅していかざるをえない。
*4) ハンチントン『分断されるアメリカ』414頁より:「個人がますます異なった血統を受け継ぐにつれ、民族的なアイデンティティは主観的な選択の問題になる。かりに前述の家族の四代目がいたとすれば、そのなかの一人はアイルランドの血統を自分のルーツとして選び、全面的かつ積極的にそれと一体化しようとするかもしれない。だが、そうやって選択することは、アイルランドの血をまったく受け継いでいないが、アイルランドの文化、音楽、文学、歴史、言語、伝承に魅せられた人がアイルランド人になろうとすることと、さして変わらないだろう」 →そしてもしこのとき、そのアイルランド自体がすでに世界像を失って「遺跡」となっていれば、アイルランド人になることはもはや誰にもできない。
*5) 昨今、元号を廃止したり、古文の必修化をやめようという動きがある。しかし日本の古典や昔話が無条件に(つまり盲目的に)読まれる(学ばれる)国は、世界に日本しかない。それをやめることは、日本の社会であることを示している規則(世界像)をひとつひとつやめていく行為である。(→「理由」は本当の理由ではない――社会政策の陥穽)
*6) 「狂気」については、鬼界p.293-6参照。
*7) いうまでもなく男女の識別は原言語ゲーム的実践である。識別できなければ生殖できない。人間が言葉を獲得したあと、その識別に男女という名前がついたにすぎない。赤色を「赤」としか認識しようがないのと同様、男性性を示している存在は「男」としか認識しようがない。
〔参考文献〕
『ウィトゲンシュタインはこう考えた』 鬼界彰夫 2003年 ◆楽天 ◆Amazon
『ウィトゲンシュタイン入門』 永井均 1995年 ◆楽天 ◆Amazon
『ウィトゲンシュタイン全集9』・確実性の問題 黒田亘訳 1975年 ◆楽天 ◆Amazon
『哲学探究』 ウィトゲンシュタイン 丘沢静也訳 2013年 ◆楽天 ◆Amazon
『哲学探究』 ウィトゲンシュタイン 鬼界彰夫訳 2020年 ◆楽天 ◆Amazon
『分断されるアメリカ』 サミュエル・ハンチントン 2004年(単行本版) ※文庫版も出ています ◆楽天 ◆Amazon