「国民」を考える (このサイトについて)

当サイトは、日本が日本のまま存続していくためにはどうしたらよいかについて考えるサイトです。

そのための論考をトップページに複数載せていますが、しかしそれらはどれも長文かつ独立しているため、 そこにどのような繋がりがあるのかわかりにくいかと思います。 そこでこのページでは、本サイトの主要な論考4本を横断的に紹介して、その全体的な意味を説明してみようと思います。

4論考の主題はすべて「国民」です。(1番目だけ「日本人」)

以下、まず「国民」について4論考のキーワード=「縦軸」「忘却」「想像」「直観」で説明して、国民とは各々の「意志」(たとえば国家への忠誠心)によって結びついているのではないことを説明します。

そして最後に「国民」を維持し、国民国家(日本)を存続させていくための条件について考えます。

(――以下、できるだけゆっくりと意味を考えながら読んでください。結論だけ読みたい方はこちら

(1)さて、国民を考える上で、まず日本人の定義から考えてみます。

日本人の定義は、日本人そのものよりも、日本という国の定義から考えると明確になります。

日本は、いうまでもなく日本文化の国です。もし日本文化がなくなれば、それは日本ではありません。
では日本文化はどのようにして受け継がれているのでしょうか。 それは日本人ひとりひとりの実践によって受け継がれています。 たとえば日本人は子や孫に「鯉のぼり」や「雛祭」を祝います。そうした個人の素朴な実践によって守られているわけです。

ではなぜ日本人はそうした文化行事を行うのでしょうか。
それは鯉のぼりや雛祭を「われわれの文化」と思っているからです。
では鯉のぼりや雛祭はなぜ「われわれの文化」なのでしょうか。
それは「われわれの歴史」(日本史)のなかから出てきたものだからです。

こうして考えてみれば、なぜこの国が「日本」として存在できているのか、その存在原理が何かはもう明らかでしょう。
日本が存在できている原理――それは、この国土の上に住む圧倒的多数の人が、日本史「われわれの歴史」と認識して生活しているからです。雛祭や鯉のぼりを「われわれの文化」と思い、それを世代を超えて実践しつづけられているからです。
(この文化的実践があるからこそ、この国は「日本」という名称で呼ばれ、そこに住む人々が「日本人」と呼ばれる)

以上のことから、日本人とは 日本史に民族的アイデンティティ意識を持つ人 と定義することができます。(日本史ではなく、外国の歴史に自分のルーツを感じる人が増えたらどうなるかを想像してみてください)

日本人について、血統・国籍・生まれ育ちなどから定義する人がいますが、たとえそれらの要素を持っていても、日本史を「われわれの歴史」と思っていなければ文化を世代を超えて実践できません。 日本を継承できないような日本人の定義は誤りです。

日本史にアイデンティティ意識を持つ/持たないを、自分の意志で決めることはできません。 その意味でも、この意識の有無は、日本人と外国人とをわける、本質的かつ決定的な違いであると言うことができます。

以上のようなことを説明しているのが、拙稿「日本人の定義」―われわれはわれわれであり続けることができるかです。

以下、このアイデンティティの基礎となっている歴史への意識のことを「縦軸」と呼ぶことにします。

(2)国民は「国家への忠誠」(意志)によって統合されていると、しばしば言われます。(例:アメリカ合衆国)

しかしエルネスト・ルナンは、『国民とは何か』(1882年)において、国民の統合原理は「忘却」にあると述べました。

忘却が統合原理というのはわかりにくいですが、要するにこういうことです。

たとえば日本において、われわれはもはや誰が渡来系で、あるいは縄文系の子孫なのかを意識しません(忘却しました)。また古代の政争から戦国大名の覇権争いまでの対立を適度に「忘却」して、われわれの祖先たちの兄弟喧嘩のような意識で歴史を眺めています。
現代の日本人が「われわれ日本人」という一つのアイデンティティでまとまっていられるのは、「忘却」によって、もともとはさまざまな「種族」「氏族」であった人々をまとめて「われわれの祖先」という意識で「日本史」を眺めているからというわけです。 (もし今の日本人がそれぞれの子孫という意識=種族性を持ち続けていたら、その対立を抱えたまま内部分裂してしまう)

この、自分の具体的な祖先を「忘却」し、国民の歴史全体にわれわれの抽象的な祖先の営為を見ること、それがルナンの述べている国民統合の原理です。

拙稿『国民とは何か』―E・ルナンの国民概念では、国民とは、アメリカ合衆国的な「個人の意志」によって結合しているのではなく、「忘却」という非意志的な要素によって結合しているということについて説明しています。

(3)ベネディクト・アンダーソンは国民とは「想像の共同体」であると説明しました。

19世紀に入って歴史学が興隆すると、人々は世界を歴史的(時系列的)な目で見るようになりました。

そのときはじめてギリシア人は古代ギリシア人を、フランス人はガリア人を「われわれの祖先」と「想像」するようになったわけです。 この「想像上の祖先―子孫」という、いわば主観的血統集団として結びついたのが「国民」だとアンダーソンは説明します。

これは(2)ルナンとほぼ同じ考え方です。

欧州では過去にさまざまな種族対立や宗教対立がありました。しかしそのリアリティを「忘却」し、自国の土地の上でおきた様々な出来事を「われわれの祖先の営み」と想像するようになったことで「国民」が創出されたというわけです。

「想像」というとなにやらあやふやなイメージをもちますが、じつは想像こそが、大量の人々を結びつける、確固たる現実の結合力をもっています。 なにしろ見ず知らずの人々の間に、ある想像の形式を喚起するだけで、たとえば日本人に日本史を意識させるだけで、1億人もの民族共同体(国民)が生まれてしまうのですから。

国民や民族が「想像」にすぎないとしても、現実問題として、今日の我々はもはやこの想像から逃れることはできません。 それはすでに世界了解、社会了解の前提となっていて、内的にはもちろん、外的にも強力に作用しているからです。

たとえば日中間の領土問題で古文献が持ち出されるのは、それを書いたのがお互いの祖先の行為であると「想像」されるからです。 原爆について難詰されるのがいつもアメリカの白人なのも、それを投下した人々の子孫であると「想像」されるからです。

今日の我々は、このように外国についても、同じ縦軸をもつと「想像」される集団を国民ないし民族とみなす世界に生きています。

以上のような話を書いてるのが拙稿『想像の共同体』―B・アンダーソンの国民原理です。

(4)道徳心理学者ジョナサン・ハイトは、社会秩序は理性(意志)ではなく直観(感情)が基盤になっていると主張しました。

一般に「道徳」というと理性の領分というイメージがありますが、ハイトは道徳を理性によってコントロールできるものとそうでないものの2つに分類するところからはじめます。

たとえば 交通ルールを守る という道徳は、「誰も見ていない」「少しくらい大丈夫」などと適当な理屈を作ることによって、それを破る心理的ハードルを簡単に下げることができます。

一方たとえば 食べ物を粗末にしてはならない という道徳は、たとえ賞味期限が切れていても(理屈)、おにぎりを踏むのはなんとなく抵抗を感じます。(ハードルが下がらない)

そしてハイトは前者を思考道徳、後者を直観道徳と呼び、直観道徳こそが社会の基盤になっていると主張します。なぜなら直観道徳は、理性(意志)によっては制御できないがゆえに「守られやすい」(やぶられにくい)という特徴があるからです。
人間の脳は、社会を維持するために、拘束性の高い直観道徳を進化させたというのがハイトの分析です。

またハイトは、直観道徳を共有する人々同士で、直観的な親近感が生まれるようになっているとも述べています。

さて国民国家にとって、もっとも重要な社会秩序とは何でしょうか。 それは、互いに顔も知らない何千何百万もの人々が、安定的に統合されていることです。 ではその統合意識はどこからくるのでしょうか。 ハイトによれば、神聖基盤という種類の直観から生じるといいます。

神聖基盤とは理屈を超えた何かのことを言い、いわゆる宗教もそうですが、国民の歴史(縦軸)もそれにあたります。
近代的な国民国家は、その国の歴史を教育するところから始まりますが、そうすると、その歴史を「われわれの歴史」として受け入れた人々の間に、同じ名前を名乗り、同じ言葉を話し、同じ行事を祝い、同じ昔話を読む――といった直観秩序が生まれます。 そしてその直観秩序に沿った行動をとる人々の間に、直観的な親近感(同族意識)が生まれて、自然と統合されるようになるというわけです。

(結局これも1~3と同じく縦軸を基準とした国民の定義です)

ではもし国民が「多様化」して、その国の縦軸を受け入れられない人が増えていったら、どうなるでしょうか。 当然、別軸(外国軸)の直観秩序を実践する人が増えていきます。(非日本名を名乗り、非日本文化を実践し…)

ここで、通常の社会であれば、そのような直観秩序に反する行為は社会的な反発を受けるため、そうした実践は抑圧されて、社会の分解を避けることができます。 ところが「リベラル」(多文化主義)とは、社会統合にとって必要な抑圧を、差別的などとして否定する思想です。 それゆえリベラルな社会では、別軸の行為が抑制されず、社会の縦軸が容易に分裂して、やがてそれぞれの縦軸ごとに別々の直観秩序をもった「多軸社会」(多民族社会)へと移行していくことになります。

すなわち「リベラル」とは、国民の多軸化をもたらし、社会の分裂を促進する思想と言うことができます。

さらにリベラルは、マジョリティの文化の維持にとって必要な直観秩序ですら差別的であるなどとして抑圧する思想であるため、それによりマジョリティの文化存続が危機に瀕します。 なぜなら直観秩序を社会的に形成できないと、直観秩序を継承する次世代が育たないからです。 つまりリベラルとは、マジョリティの文化を脅かしていく思想であると言うことができます。

以上のようなことを説明しているのが拙稿リベラルの盲点は道徳資本―J・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』です。

・・・・・

以上、4つのキーワードで「国民」を説明しました。
日本では「国民」や「社会」が自明なものと思われていますが、それらがそれほど自明なものでないことは、昨今の欧米の移民国家でおきている社会混乱をみても明らかでしょう。

欧米移民国家の混乱の原因は、国民の定義を、「縦軸」「忘却」「想像」「直観」にではなく、「個人の意志(理性)」に求めたところにあります。  つまり国家への忠誠(意志)や社会適応(水平同化)を、「同化」(国民)であると政治的に誤魔化してきたところにあります。*

しかし、ここで説明したことからも明らかなように、忠誠や水平同化は本当の「同化」ではありません
本当の同化とは「忘却」による縦軸同化(垂直同化)しかありません。
日本でも今後(筆者は反対ですが)「移民」が増えるかもしれませんが、欧米と同じ轍を踏まないためには、この縦軸同化を意識した政策を採る必要があります。
たとえば日本国籍者に日本名を義務づけることは必須だと考えます。(しかし「リベラル」はおそらくこれに反対します)

「国民」の問題は、「誰に国籍を与えるのか」という主権の問題であり、安全保障の問題です。 日本名を義務づけることは、日本の社会的文化的安全保障のために必然的かつ合理的な政策であると思います。

外国人政策について、「日本文化が好きならばいい」「親日ならばいい」「(帰化は)日本に忠誠を誓っていればいい」等々といった声が、右派の方からもよく聞こえてきます。 しかし嗜好・政治的立ち位置・意志などは、日本を脅かさないか(日本人になれるか)否かとはまったく関係がありません。*

述べてきたように、日本を日本たらしめているのは、日本に住む人々の日本史に対するアイデンティティ意識(縦軸)だけです。

日本の存続は、日本社会において、この「日本軸」をもつ人間の割合が低下していくことによって脅かされます。 「国民」を考える際には、個々人の人格ではなく、縦軸を目印にした方が、より正しく社会の現状が見極められるのではないかと思います。

当サイトではこのように「国民」とは何か、そして何が国民や国家(日本)を危うくするのか等をテーマに拙い論考や資料を載せています。 もし興味がわきましたらトップページの方から他のページをのぞいてみてください。

なお少子化問題についても考えています。あわせて読んでいただけたらうれしいです。(→少子化対策は2.0を念頭において議論すべき―日本の少子化議論の誤り
(終)

*) なぜそれらは状況によって簡単に変わりますし、なにより「遺伝」しないからです。(縦軸意識は不変かつ遺伝する)