『国民とは何か』―誤解されているエルネスト・ルナンの国民概念(1)

【本稿概要】
 ※B・アンダーソン『想像の共同体』でルナンの名前を見て、検索してここに来た人はこちらもどうぞ

エルネスト・ルナン『国民とは何か』(1882年)は、フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』と並んで、「国民」を語った古典とされている。 しかしルナンは「日々の国民投票」という短い文言だけで紹介されることも多く(*1)、しかもその際、人種や言語など、生得的な要素によって国民を定義しようとしたフィヒテと対置されることも少なくない。 たとえばWikipediaのルナンの項目でも、次のようにフィヒテと対になった説明がなされている。

フィヒテの「ネイション」概念が、人種・エスニック集団・言語などといった、明確にある集団と他の集団を区分できるような基準に基づくのに対し、ルナンにとっての「ネイション」とは精神的原理であり、人々が過去において行い、今後も行う用意のある犠牲心によって構成された連帯心に求められるとする。とりわけ、この講演の中で示された「国民の存在は…日々の国民投票なのです」という言葉は有名である。 (下線・太字・色字強調は筆者。以下同じ)
(注:「ネイション」とは国民の意)

このようにルナンは、しばしばフィヒテの対概念として参照されるために、国民があたかも種族とは無関係で、精神的原理、すなわち日々の投票で示される人々の連帯心(意志)さえあれば成立するかのような意味に読まれがちなのである。

○フィヒテ(独)…国民は、種族や言語等に基づいて定義される。(非選択的定義)
○ルナン(仏)…国民は、種族や言語等ではなく、個人の意志にもとづいて定義される。(選択的定義)

こうしてフィヒテと対置され、非種族的で個人の意志に重きを置いた「選択的」なルナンの解釈(俗説)は、フランス本国でも例外ではなく(*2)、それゆえたとえば1987年に国民戦線(極右政党)が国籍法改革をもとめたときにも、それに反対する立場から援用され(*3)、また2016年にニコラ・サルコジが「フランス人になったその時から、あなたがたはガリア人が先祖になる」と発言したときにも、それを批判する立場からこのルナン(俗説)の系譜に属する論法が用いられた。

フランスは植民地を多く持っていたのでフランス国民の中には民族的にもローマ人であったりゲルマンであったりアラブ人など多種多様な民族がいるし人種がいる。それを何故フランス人になった時からガリア人が先祖にならなければならないのか?  23日、セネガルのダカーで開催されたフランス人の集会を前にマニュエル・バルツ仏首相は、我々がフランス人であるのは、歴史的な先祖にガリア人がいるからではないと、サルコジの誤れる共和国の認識を批判した。バルツ首相は我々がフランス人であるのはその先祖によってでも宗教によってでも、皮膚の色によってでもないと話した。 2016.9.27 http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=201609271403542

なぜこのような「選択的」な解釈が流布しているのだろうか。それは次のような理由が考えられる。

『国民とは何か』は、全20ページ程度の文章の中で、まず全体の八割をつかって「国民とは何でないか」が語られ、次いで「国民とは何であるか」が短く語られるという構成になっている。 (※原典は講演録)

(Ⅰ)まず「国民とは何でないか」について、ルナンは、国民とは、種族、言語、宗教など(*4)で決まるのではないと主張する。 なぜなら、われわれフランス人は、「ケルト系、イベリア系、ゲルマン系」などを祖先にもち、それらの混血により生じたものであって、ゆえにフランス人を生物学的な「種族」から定義することはできないからである。 そして、スイスのように複数言語を持つ人々の合意によって成立した国もあり、国民を「言語」で定義することもできない。
また今日においては国家宗教はもはや存在せず、「カトリック、プロテスタント、ユダヤ教」どんな宗教を信仰しようとそれは個人的な問題にすぎない。

と、ルナンはまず主張する。

(Ⅱ)そして最終部分において、「国民とは何であるか」が件の有名な文言とともに示される。

国民とは、したがって、人々が過去においてなし、今後もなおなす用意のある犠牲の感情によって構成された大いなる連帯心なのです。それは過去を前提はします。だがそれは、一つの確かな事実によって現在のうちに要約されるものです。それは明確に表明された共同生活を続行しようとする合意であり、欲望です。個人の存在が生命の絶えざる肯定であると同じく、国民の存在は(この隠喩をお許し下さい)日々の人民投票〔un plébiscite de tous les jours〕なのです。

この(Ⅰ)と(Ⅱ)とあわせて、国民とは、種族宗教母語等とは無関係であり、もちろん過去を前提とはするものの、個人主義的な選択意志(合意)によって構成される人々である、と読むことで冒頭に紹介したような解釈になるのである。 「日々の人民投票」という有名な文言は、星条旗に忠誠を誓うアメリカ合衆国的な国民概念のように、種族や過去の経緯ではなく、日々国家へ帰属する意志(合意)さえあれば誰でも国民になることができる、というような意味にとるのである。

さて、前置きが長くなったが、以上のようなルナンの解釈は間違いである
なぜなら(Ⅰ)と(Ⅱ)の真意は、次のように整理することができるからである。

(Ⅰ)国民の統合原理

じつはここまでの説明には、『国民とは何か』の原典にはあるにもかかわらず、まったく落とされている要素がある。 それは、ルナンは過去を忘却していなければならないということを繰り返し述べているということである。

ところで国民の本質とは、すべての個人が多くの事柄を共有し、また全員が多くのことを忘れていることです。フランス市民は誰一人、自分がブルグント人、アラン人、タイファル人、ヴィシコート人のいずれの後裔だか知りません。いかなるフランス市民も、聖バルテルミの虐殺、十三世紀の南仏で起きた虐殺を忘れていなければなりません

忘却歴史的誤謬と言ってもいいでしょう。それこそが一つの国民の創造の本質的因子なのです。だからこそ、歴史学の進歩は往々にして国民性にとって危険です。歴史的探求は、あらゆる政治構成体、もっとも有益な結果をもたらした政治構成体の起源にさえ生起した暴力的な出来事を再び明るみに出してしまうからです。

ルナンの「忘却」の趣旨は、過去の種族や宗教対立のことが、ほとんど完了形で忘却されているからこそ国民は分断しないのだということ、そして、過去に対する適度な忘却は、過去の人物や出来事を国民共通の抽象的な祖先のものと化し、全体がフランス史と認識されるようになって(歴史的誤謬)、国民はまとまって存在できるというところにある。*5

…抽象的でわかりにくいが、要するに日本でいえばこういうことである。

我々はもはや誰が縄文系か渡来系かも意識しないし、また古代の政争から戦国大名の覇権争いまでのことを適度に「忘却」して、それらを(しかも自分と血縁があるかどうかもわからないのに)「我々の祖先の歴史」という意識で日本史を眺めている。 だから、われわれは「日本人」という一つのアイデンティティでまとまることができている、という意味なのである。 (もし今の日本人がそれぞれの子孫という意識=種族性を持ち続けていたら、その対立を抱えたまま内部分裂してしまう)

この、自らの具体的な祖先を「忘却」し、国民の歴史全体に自らの抽象的な祖先を見ること、それがルナンがここで述べている国民統合の原理なのである。 (すなわち国民とは「忘却」によって統合された謂わば主観的血統集団

ゆえに(Ⅰ)「種族ではない」の趣旨は、「忘却されているので種族はもはや関係ない」(それを思い出してはいけない)であって、「合意さえあれば種族は関係ない」ではないのである(*6)。 (後者の意味に読み替えてしまったのが上の合衆国的誤解)

このようにルナンの国民論は、意志ではなく、むしろ「忘却」という非意志的な要素にその統合の原理を負っている。(→*7)

(Ⅱ)国民の存続原理

国民の統合が「忘却」という消極的な原理であるのに対して、その存続については「意志」という積極的な原理が語られる。

国民とは魂であり、精神的原理です。実は一体である二つのものが、この魂を、この精神的原理を構成しています。一方は過去にあり、他方は現在にあります。一方は豊かな記憶の遺産であり、他方は現在の同意、ともに生活しようという願望、共有物として受け取った遺産を運用し続ける意志です。(つづく)

適当な忘却と要約によって、人々の間に「想像」された国民的記憶。
その記憶のなかから、ともに苦しんだ記憶を糧とし、豊かで栄光的な記憶は財産として受け継ぐ、その意志をもつ者、それが国民(フランス人)なのだ、とルナンは言ったのである。*8

(承前)人間というものは、皆さん、一朝一夕に出来上がるものではありません。国民も個人と同様、努力、犠牲、献身、からなる長い過去の結果です。祖先崇拝はあらゆる崇拝のうちでもっとも正当なものです。祖先は私たちの現在の姿に作りました。偉人たちや栄光(真正の栄光です)からなる英雄的過去、これこそその上に国民の観念を据えるべき社会的資本です。過去においては共通の栄光を、現在においては共通の意志を持つこと。ともに偉大なことをなし、さらに偉大なことをなそうと欲すること。これこそ民族となるための本質的な要件です。人は自ら同意した犠牲、耐え忍んだ苦痛に比例して愛するものです。自分が建て、譲り渡した家を愛するものです。スパルタの歌謡「われらは汝らの過去の姿なり、われらは汝らの今日の姿たらん」は、その単純さにおいて、およそすべての祖国の簡潔な讃歌なのです。

過去においては共有すべき栄光と悔悟の遺産、未来に向けては実現すべき同一のプログラム。ともに苦しみ、喜び、望んだこと、これこそ、共通の税関や戦略的観念に合致した境界線以上に価値あるものです。これこそ、種族と言語の多様性にもかかわらず、人々が理解することです。いま私は、「ともに苦しみ」と申しました。そうです、共通の苦悩は歓喜以上に人々を結びつけます。国民的追憶に関しては、哀悼は勝利以上に価値のあるものです。というのも、哀悼は義務を課し、共通の努力を命ずるのですから。(→このあとに「日々の人民投票」の段落がつづく)

ルナンが『国民とは何か』で提示したこの国民概念は、要するに今日の日本人がごく普通にイメージする国民と同じものである。すなわち、祖先の歴史や文化を継承し発展させていこうという、それは意志というよりは、ごく自然な感情をもつ人々のことである。(→*9)

さて、この「忘却」と「意志」(感情)が国民の要件とされるならば、ルナンのいう国民概念には、今日影響力をもっている「選択的な」定義とは異なり、それを構成する人々には事実上一定の種族的な制限がかかってこざるをえない。

*1) 実を言えばこの『国民とは何か』は、近年まで、フランスにおいてさえ、名のみ高く、実際には読まれることの少ないテクストだった。(中略)ノワリエルによれば、デュルケーム、モースから労働者階級の社会学的調査や集団的記憶の研究で知られるモーリス・アルブヴァックスまで、この時代の共和派の知識人はほとんど例外なく、ルナンの教説を驚くほど深く内面化していた。だが、まことに逆説的なことに、「国民」の創設の契機を「忘却」に求めたこのテクストそのものが、両大戦期から第三共和政の崩壊へと向かう時代に徐々に忘れ去られていく。そして1945年以降は「国民とは日々の人民投票である」という一節だけが、高校の教科書に引用されているためかろうじて人口に膾炙してきたのであった。ところが、1980年代、外国人排斥を掲げる極右が無視できない勢力に成長し、いわゆる移民問題が社会の関心を集め、旧来の「同化」(assimilation)とは区別されるべき移民の「統合」(integration)のあり方が盛んに議論されるようになった。そのなかで、この問題に一つの回答を示唆する文献として「国民とは何か」は、いわば、「(再)発見」されたのである。(鵜飼哲「国民人間主義のリミット」~『国民とは何か』273-274頁要旨)
*2) 「国民についてのルナンの観念は、実際、特に現代の民主主義的個人主義と合致した、「選択的」な国民概念と見なされている。たとえば、ルイ・デュモンなどはそう確信している。彼はその考えのもとにルナンをヘルダーとフィヒテに対置し、またいまだに伝統的な「ホーリズム〔全体論〕」が深く染み込んだ、種族的な〔ethnique〕国民概念の推進者であるとしてヘルダーとフィヒテを描き出している」/(種族よる国民定義がドイツ的なものだとすれば)「その反対に普遍主義を希求する選択的理論は厳密にフランス的であることになるだろう。だからこそ、ルイ・デュモンのように無邪気に、先に提示した区別に執着する場合には、フランス的な観点がドイツ的な観点より優れていることを平然と結論づけることは容易いことである」(Roman「二つの国民概念」~『国民とは何か』11頁、12頁」) → 要するに第二次大戦後、ドイツ=人種差別的、フランス=非差別的という図式のために、ルナンの国民定義は「選択的」なものとして再解釈されるようになったということ。
*3) 1987年の国籍法改革とは、外国人の両親から生まれた子供がフランス国籍を取得する場合には、裁判官の前で宣誓することを求めたもので、この法案はフランス国民の間に大きな議論を巻き起こした。改革に反対する立場の側がルナンの定義を動員し、宣誓の強要の代わりに意志の表明を提案するなどしたが、結局、88年から93年にわたる社会党政権はこの提案を実施しなかった。(Roman「二つの国民概念」~『国民とは何か』8頁、脚注311頁)
*4) 「など」…ルナンは種族、言語、宗教そして利害の共通性、地理という5つの要素をあげて、国民とはそれらできまるものではないと主張している。▼利害…「利害の共通性は、明らかに、人々を結びつける絆です。しかし、それだけで国民を形成することができるでしょうか。私はそうは思いません。利害が共通なら通商条約を結べばよいのです。国民には感情の側面があります。それはまったく同時に、魂にして身体なのです。関税同盟(Zollverein)は祖国ではありません」 ▼地理…「国民とは一つの精神的原理であり、歴史の深い複雑さの結果です。それは精神的な家族であって、土地の形状によって決定された集団などではありません」(『国民とは何か』59頁、60頁)
*5) ルナンの言う「忘却」とは、過去の細かい経緯を忘れてしまうことであり、「歴史的誤謬」とは、過去の出来事があたかも国民(われわれ)の祖先の行為であるかのように感じられる、一種の錯覚のことである。たとえばイギリス建国の父とされている「ウィリアム征服王」もノルマン・コンクエストでフランスからやって来た人物であったことが適度に忘却されている。そして過去にこの土地の上でおきたさまざまな出来事が、あたかも今日の国民につながる祖先たちの行為とみなされている。厳密に考えればこうした接続はおかしなことかもしれないが、しかしこの忘却と錯覚こそが、国民統合の原理となっているということ。
*6) 宗教についても、過去の宗派対立のリアリティが忘却されていればもはや問題にならない。なお(Ⅰ)で統一言語(仏語)が要求されていないのは、アルザス・ロレーヌ地方(独語圏)の奪還を念頭に置いたルナンの政治的な思惑が考えられる →(2)の註*1参照
*7) 「国民をその積極的〔実定的〕な次元において、内的正当性の原理として考えねばならない場合には、ルナンは過去に、またさらには過去の忘却に依拠することになる。沈黙のうちに封印された内戦〔市民戦争〕の覚醒を回避する巨大な集団記憶喪失〔健忘症〕によって初めて、国民は全体として維持される。(中略)これまで人々が時折ルナンの定義の中に読み取ろうとしてきた意志の明晰性への努力であるどころか、国民の参加は、彼にとって、大部分の場合は、当然のこととして非意志的なものに属する。(中略)国民が基礎を置くのは、国民を強固に結合する忘却なのである」(Roman「二つの国民概念」~『国民とは何か』31頁)
*8) ルナン本人がフランスのはじまりをどこにおいていたかは不明だが、カペー朝以降の詩や著作に種族間の差異はあらわれなくなったなどと言っているので(『国民とは何か』46頁)、聴衆側はそのあたりをイメージしながら聞いていたと思われる。
*9) ここででてくる「意志」の原語はvolontéである。volontéはルソーの一般意志(volonté générale)のところでも登場する単語で、英語のwillに相当し、「内発的欲求に沿った自然な意志」(つまりほとんど「感情」と同じ)というようなニュアンスが含まれている。volontéのニュアンスについては『社会契約論』に関する拙稿の中で考察しています。→反・社会契約論(2): ルソー「一般意志」概念の考察

〔参考文献〕
『国民とは何か』 エルネスト・ルナン、Joël Roman、鵜飼哲ほか 1997年 ◆楽天 ◆Amazon