「多数者の専制」を回避する方法――ルソー『社会契約論』§1.5
- 人間が対等となった市民社会の時代においては、他者に対して命令する権威はconventionにしかない。
- なぜならconventionは自ら自発的に従うものであるため、命令される側の自由を侵害しないからである。
- 多数決は形式的には少数者が多数者に従うものであるが、実質的には相互にconventionに従うものである
- 「多数者の専制」はこのconventionの軽視、相互性の軽視によって起こる。
はじめに
トクヴィル(1805-59)が提起した「多数者の専制」問題とは、民主社会においては次のような矛盾が避けられないのではないかという問題である。すなわち、多数決のような集団意志決定方式を採用すると必ず、少数者は多数者の意志に従属せざるを得なくなるが、それは自由主義、民主主義と矛盾するのではないかという問題である。
しかしこの「多数者の専制」の問題は、筆者の読解によれば、ルソー(1712-1778)が『社会契約論』§1.5において既に提起しており、ルソーはそこで人々の「自由」を侵害しないような集団的意志決定方式の条件を考えることで、この問題を回避しようとしているのである。
その条件とは何か、それを説明するのが本稿であるが、その説明に入る前に、ありふれた例をいくつか挙げながら、集団的意志の決定というものが、実際にどのようになされているかを見てみよう。
多数決の正当な成立には、じつは心理的な要件がある
多数決とは少数者が多数者の命令に従うという、集団意志の決定方式である。まずこのことについて考えてみよう。
学級委員を決める選挙で、あなたが応援している候補が一票差で落選という結果になったとする。そのときあなたはどう思うだろか。おそらく「しかたがない」(結果=多数者の命令を受け入れよう)という気持ちになるのではないだろうか。
しかし仮に隣のクラスの生徒が一人この投票に参加し、対立候補に入れた結果、一票差であなたが応援している候補が落選したとしたら、このときあなたは、先ほどと同じように「しかたがない」という気持ちになるだろうか?(ならないだろう)
裁判という制度も本質的には多数決であると言ってよい。なぜなら、少数者である一人の被告人が、多数者(国民が多数決で決めた法律および裁判官の多数決)の命令(判決)に従う制度だからである。ところでかつて米国の裁判において黒人の被告人が、黒人の陪審員を希望するということがあったが(O・J・シンプソン事件)、彼はなぜ黒人の陪審員を希望したのだろうか。
さて、この二例によってわかることは、多数決において、少数者が結果を自発的に受け入れるためには、仲間意識(一体性)という要素が欠かせないということである。なぜなら人間というものは、たとえ同じこと(当選者や裁判の判決)が強制されるにしても、仲間の判断には従えるが、仲間と感じられない人(部外者)の判断には従う気にならないという心理特性をもっているからである。
ルソーはconventionが集団意志決定には不可欠であることに気づいていた
ルソーは『社会契約論』§1.5で多数決が孕む問題、つまり少数派が多数決の決定に従わねばならない義務(の根拠)はいったいどこからくるのか?と問うている。
§1.5 つねに最初のconventionにさかのぼらねばならないこと
グロチウスによれば、民衆は王に自らを与えることができるという。ということはつまり、民衆は王に捧げる前に、まず民衆として存在しているということだ。(中略) したがって民衆が王を選ぶ行為を考察する前に、まず民衆が一つの民衆となる行為を考察することが重要である。なぜなら、この行為は他の行為に先立って必然的に行われるものであり、社会の真の基盤を形成するからである。もし事前のconventionができていなかったとすれば、選挙が全員一致でないかぎり、少数者は多数者の選択に従わなければならぬなどという義務[obligation]は、一体どこから出てくるのだろう? 支配者をほしいと思う100人の決定が、そう思わない10人の決定より優先されるという権利[droit]は、いったいどこからでてくるのだ? 多数決[pluralité des suffrages]という法則[loi]自体がconventionによってうちたてられたものであり、また少なくとも一度だけは、全員一致があったことを前提としているのである。(『社会契約論』§1.5改訳)
まず、ここでいう「王」とは比喩であり、我々に命令するもの、すなわち法律を制定する代議士、あるいは制定された法律のことを指している。要するに、ルソーはこの部分で、多数決により選ばれる代議士および代議士の多数決により制定される法律に、少数派が従わなければならないという義務はいったいどこからくるのかと問うているのである。
そしてその義務はconventionに由来するとルソーは言おうとしているのであるが、以下、このconventionという言葉の意味合いを理解してもらうために、いったん多数決とはまた別の、集団的意志決定のルールについて考えてみよう。
籤(くじ)や先占も集団意志の決定方式であり、その効力はconventionに由来する
(以下が本稿の核心なので、読者は注意深く読まなければならない)
たとえばわれわれは賞品の獲得を「籤」で決めることがある。しかしよく考えてほしいのだが、なぜ籤の当選者が賞品の所有権を獲得できるのか、じつはそこには本当の根拠(→*1)は存在しない。つまり籤引きというのは皆がなんとなく納得しているルールにすぎないのであるが、にもかかわらずわれわれは皆――落選者を含めて――当たり籤を引いた人が賞品の所有権を得ることを「正当だ」思い込んでいる。
またたとえば先占という行為によっても所有権者が決まるが、これもなぜ先占者の所有物となるのか本当の根拠(→*1)はなく、籤と同じく皆の「思い込み」によって成立している。
このように所有権に関する集団的意志決定のルールである籤・先占はいずれも、その当事者全員が、当選者・先占者が所有権を獲得するのは当然であると思い込んでいることによって成立しているものなのである。社会の全員が<そう考えるのが普通である>と無意識的かつ自発的に思い込んでいる心理状態のことをルソーはconventionと表現する。(→ルソーのconventionをこのように解釈する根拠については「関連拙稿」参照)
(conventionには①慣習、②合意という意味があるが、そこにはいずれも<自然と違和感なくそれを受け容れ続ける>という心理が背景にある。convention(慣習)とはconvention(合意)によって生まれ、また維持されるものであるということを思えば、自発的で継続的な受容心理がconventionにはあることが納得できよう。これがこの単語に込められている中心的な意味である)*2
そして、ここが最重要なところであるが、人間はconventitonが成立しているとき、conventionに従うことに、敗者を含めた全員が正当だという感覚をもつ。なぜならconventionは人間の発想に沿って生じるものであるため、人間はそれに従うことに疑問をもつことはないからである。(実際、籤や先占によって所有権が決まることに疑問をもっている人はいるだろうか?皆無だろう。では、なぜ皆無なのだろうか?それが人間の自然な発想だからである)
こうして「籤」「先占」はどちらも、人間の歴史の長い営みの中で自然と立ち上がってきた、人間の発想によって下支えされている、社会集団における勝利を確定するための慣習的ルール(convention)なのであり、そして籤・先占がconventionであるからこそ勝利者は「それは自分のものである」という権利[droit]の感覚を、また敗者の側は「それは勝者のものである。勝者の権利を認めねばならない」という義務[obligation]の感覚を、どちらも自発的に半永久的に感じるのである。
(例) 空き地で拾った(先占した)ビー玉について、のび太は自分のものであるという感覚をもつし、またジャイアンも「それはのび太のものである」という感覚をもつ。両者ともこの感覚から半永久的に逃れることはできない。たとえジャイアンがのび太からビー玉を取り上げることができたとしても、ジャイアンは「のび太の所有権を侵害した」という感覚、のび太は「同侵害された」という感覚から半永久的に逃れることはできない。
※読み進める前に、ここにいう「権利」「義務」「感覚」「自発的に半永久的に感じる」が意味しているところのものを必ず正確に捉えておかねばならない!! 註*1*2も読んでおくこと。
多数決は集団意志決定の一方式であり、その効力はconventionに由来する
さて、conventionというものが、このように人間の自発性にもとづいて権利義務関係を半永久的に確定している慣習的ルールのことであるという理解を踏まえると、引用にある「多数決という法則自体がconventionによってうちたてられたものであり」という箇所の意味も理解できるだろう。
(Ⅰ)つまり、一定の場合おいて、籤や先占などによって勝者を決めるというルールに人間が自明性を感じているのと同様に、ある場合においては、多数者の決定に従うという発想を人間はもっていて(たとえば動物にはこの発想はない)、それが自明のルールとしてconventionとなりえているからこそ、われわれ人間は多数決という決定方式の結果に「自発的に従う気」になるのである。
(Ⅱ)ただし、単に多数決という形式をとりさえすれば常にその結果に自発的に従うわけではない。冒頭の二例でも述べたように、仲間意識(参加者の一体性・適格性)が違和感なく成立(convention②)している多数決については、人間は「従う気」になるが、そうでない多数決には「従う気」にならないからである。*3
つまり参加者の一体性・適格性について全員が疑問を持っていないことを以てはじめて「従う気になる多数決」となるのであって、それこそがconventionalな、半永久的な効果をもつ多数決なのである。(つまりこの条件が満たされていない多数決は、そもそも本来的な意味での多数決ではない!)
引用にある「民衆が一つの民衆」であることが「社会の真の基盤を形成する」という部分は、民主主義社会における多数決――とくに選挙や法律を制定するための多数決――の結果に人々が自発的に従うには国民の一体性(同胞意識が成立していること)が必要だということをルソーはここで言おうとしているのである。*4
Ⅰ「決定方式の適当性」Ⅱ「有権者の一体性・適格性」について、当事者全員が自発的に納得(convention②)している状態が少なくとも一回成立(Ⅲ)しているときに、その決定方式による結果について、当事者は自発的に権利義務を感じるようになる。この場合、敗者も自由を侵害されているとは感じない。だからこそ、その効果は半永久的に続くのである。
引用の「少なくとも一度だけは、全員一致があったことを前提(とする)」(*5)という部分は、それが、その決定方式の結果に皆が自発的に従うための(権利義務が半永久的に確定するための)不可欠な要件の一つだという意味である。
さて、集団意志の決定が正当に成立するためには、じつはもう一つ条件(Ⅳ)があるのだが、それはあとで説明することにして、conventionとは異なり、権利義務関係を半永久的には確定しないものについて説明しよう。それが「戦争の勝利」である。
「戦争の勝利」は権利義務を生み出さない
かつて人間に権利義務を生じさせるものは、戦争などの実力であるという考え方があった。
グロチウスやその他の人々は、ドレイ権[droit d'esclavage]などと称するものの、いま一つ別の起源を戦争から引き出す。彼らによると、勝った者は負けた者を殺す権利[droit]を持っているのだから、負けた者は、自由を代償として自分の生命を買い戻すことができる。つまり、これはどちらの側にも得[profit]になるのだから、いよいよもって正当なconventionだというのである。(§1.4)
しかし単なる実力による勝利の効果(=敗者を奴隷にしてよい)は、永遠には続かない。勝者が強壮であるうちは敗者も従うかもしれないが、権勢が衰えていけば、敗者は、勝者の命令に従い続けようとは思わなくなるからである。 (※戦争の勝利の場合と、上で説明したconventionの場合とで、権利義務関係の心理的永続性がまったく異なることに注意せよ)
「実力」のように時間がたてば簡単に変化してしまうようなものは人間の普遍的な権利義務の根拠にはならないとルソーは考える。
ところで、力がなくなればほろんでしまうような権利とは、いったいどんなものだろう? もし力のために服従せねばならなぬのなら、義務のために服従する必要はない。またもし、ひとがもはや服従を強制されなくなれば、もはや服従の義務はなくなる。そこで、この権利という言葉が力に附加するものは何ひとつない、ということがわかる。この言葉は、ここではまったく何も意味もないのだ。(中略)そこで、力は権利を生みださないこと、また、ひとは正当な権力にしか従う義務[obligé]がないこと、をみとめよう。だから、いつもわたしの最初の問題にもどることになるのだ。(§1.3)
いかなる人間もその仲間にたいして自然的な権威をもつものではなく、また、力[force]はいかなる権利[droit]をも生みだすものではない以上、人間のあいだの正当[légitime]な全ての権威[autorité]の基礎としては、conventionsだけがのこることになる。(§1.4)
ところで、社会秩序[l'order social]は他のすべての権利の基礎となる神聖な権利[droit sacre]である。しかしながら、この権利[droit]は自然から由来するものではない。それはだからconventionsに基づくものである。これらのconventionsがどんなものであるかを知ることが問題なのだ。(§1.1)
民主政において実力の変化とは、議会の多数派と少数派の勢力変化に相当するが、条件Ⅰ~Ⅲ(また次のⅣ)でconventionを満たしていない国会の議決は、形式的には民主政治の結果(命令)のように見えるものの、実質的には、一時的に多数派となった人々の単なる実力行使にすぎない。したがって少数派も義務感を抱くことはなく、後に勢力変化が起これば、また逆方向の実力行使が行われる、という状況が延々と繰り返されることになる。
一方、conventionに基づく命令は、従う側もその命令に従う義務の感覚を自発的に抱くのであり、だからこそ権利義務は安定的に存続しうる。民主政治における命令の正当性とは、すなわち正当な権利義務の設定の実質的根拠は、国会の形式的な議決(戦争の勝利)にあるのではなく、その前提であるconventionにあるのである。
(なおルソーはconventionを後にvolonté generale(一般意志=一般的自発性)と言い換え、そして(人々の自由を侵害しないためには)法律(つまり命令)は一般意志に沿って制定されねばならないと述べることになる。一般に「意志」と訳されるvolontéはvoluntary、volontirementと同じ系列の言葉であり「自発的」という意味を含む。→関連拙稿参照)
条件Ⅳ:convention自体を変更の対象にすることはできない
さて、説明してきたように、敗者にその自由を侵害しない義務を課すことができるのはconventionだけであった。
すると、(ルソーは説明していないが)ここで正当な集団的意思決定に必要な最後の条件=条件Ⅳが判明するだろう――それは、conventionalな秩序それ自体を、多数決や籤その他の集団意志決定の対象にすることはできないということである。
たとえば「先占者に所有権」「殺人は窃盗より罪が重い」「性別は男女二つ」などは、それ自体がconvention、つまり皆が自発的に従っている慣習そのものであって、これらを多数決・籤あるいは議論の勝敗のような集団的意志決定方式によって変更することはできない。(→*6)
集団的意志決定方式で決定(変更)の対象としてよいのは、convention(慣習)が存在していない領域だけである。
たとえば税率などはそうであろう。誰に何%税金をかけるといったようなconventionは存在しない。だから税率は議論や多数決によって決定することができるし、状況が変わればまたそれらによって変更することができる。そしてこのとき、敗者の側も「戦争の敗者」のときと同じような心理状態に置かれることはない。すなわち「多数者の専制」にはならない。
libertre conventionnelle(慣習に基づく自由)
こうしてconventionにのみ従うことによって皆の自由が保たれることをルソーはlibertre conventionnelle(conventionに基づく自由)と呼ぶ(§1.6)。もしこれをやめると人々はliberte naturelle(自然に基づく自由)、すなわち実力の世界(=「多数者の専制」の世界)へと回帰することになる。
ルソーの社会契約[le pacte social]とは、社会の構成員はlibertre conventionnelleに従うということを皆で守るというものであり、つまりそれは実力の世界への回帰を防止することを目的としているのである。
まとめ
冒頭で、民主社会において「多数者の専制」=少数派の自由の抑圧とならないためには、どうしたらよいのかと問うた。
その答えは、多数決その他の集団意志決定方式においてⅠ~Ⅳの条件が満たされているとき、人間はその結果に「自ら従う気」になるのであり、このときには命令される側(少数派)の自由は侵害されず、「多数者の専制」とはならない、ということである。
民主主義社会においては、(A)選挙(多数決)で代議士を選び、(B)法律を国会の多数決によって決定するが、その決定が「自由」を侵害しないためには、ABそれぞれの段階で条件Ⅰ~Ⅳについて皆が自発的に合意(convention)している必要がある。
ところが昨今の国会の議論、SNS上の議論をみていると、このルソーやトクヴィルの指摘が忘れられて、conventionなき法律をつくろうとする風潮、「議論」によって一時的な数的優位を形成し「多数者の専制」によって法律を押し通してしまおうとする風潮がみられる。しかしそれは、かつての専制君主の時代のように一部の人間が他者の「自由」を一方的に侵害する行為なのであって、つまりそれは自由主義・民主主義に反する行為そのものなのである。
(終)
*1) ここで 2+3=5 という数式の「根拠」について考えてみよう。「おはじき2個と3個を近づけると5個になるから」という説明は、じつは「根拠」にはなっていない。なぜならそれは、2個と3個を近づけたときの状態を「5個」と思えるという人間の「感覚」(動物にこの感覚はない)に依存している説明であって、つまりその感覚を根拠にしているにすぎず、感覚以上の「本当の根拠」の説明にはなっていないからである。結局 2+3=5 は人間の「それが当然だ」という勝手な思い込み(感覚)によって成立しているconventionalな数式にすぎない。同様に、籤の当選や先占によって所有権を獲得できるという決め事に「感覚」以上の根拠はない。「それで所有者が決まるのは当然である」「そう考えるのが自然である」と人間が思い込んでいる感覚によって成り立っているconventionalなルールに過ぎない。(動物の世界に籤や先占というルールは存在しない)
*2) 注意してほしいのは、(1)conventionはいわゆる「合意」ではないということである。日常では通常、合意という言葉は政治的妥協のことを意味し、全員一致を意味しないが、ここでいうconventionは基本的に「全員一致」である。事実、籤や先占の勝者が所有権を得ることに正当性を感じることは「合意」ではなく「一致」であろう。 (2)またconventionは単なる社会慣習のことでもない。ここでいうconventionとは、人間の認知特性と強固に結びついている、変更しがたい持続的な実践的事実のことを指している(→*6)。 たとえばエスカレーターの右側・左側に乗るのは、単なる社会慣習にすぎないし、奴隷制もまた、人間の認知のレベルで規定されているものではなく、やはり単なる社会慣習であったすぎない。(実力による強制が慣習化していたものにすぎない)
*3) 籤の場合、条件Ⅱ違反にあたるものは、たとえば次のようなケースをイメージすればよいだろう。宝籤の主催者が売れ残った籤を自分のものにして、そこから一等が出たとする。このとき一般の籤の購入者は賞金の獲得を認める気になるだろうか。もちろんならないだろう。その当選者は形式的には間違いなく一等の当選者であるが、条件Ⅱ(母集団としての心理的適格性)を満たしていないからである。そしてこのようなときに「その当選は無効だ」と言える根拠は、じつは、条件Ⅱを満たしていないという「感覚」にしかない。(→*1)(→*4)
*4) 集団の一体性(仲間意識)とはいかなるものかについては、ルソーが『社会契約論』§1.2で、最も古く自然な社会とは家族であり、それはvolontairementなconventionによって結合していると述べていることが参考になる。つまりvolontairement(自発的)な結合集団こそが一体的集団(仲間意識)なのである。O.J.シンプソンの例は、黒人は黒人に対して自発的な仲間意識(同胞意識)をもっているからこそ起きた事例である。クラス分けは、学校が一方的に決めるもので自発的な結合集団ではない、と思うかもしれないが、学校というものにつきもののクラス分けというシステムに我々は自発的に従っているし、そこできまったクラスメートを一体と感じることも自発的な感覚であろう。なお現代の「国民」は、共通の「想像上の祖先」をもつ同族集団という自発的な認知によって結合し成立している。(→『想像の共同体』―B・アンダーソンの国民原理(1)、ウィトゲンシュタインのパラドクス――世界の最終根拠)
*5) 「少なくとも一度だけは、全員一致があったこと」というのは、ある瞬間に同時に全員が一致しているという意味ではなくて、時間差があってもよい(私見)。「そのとき自分がその場にいたら条件ⅠⅡに納得(convention②)していただろうことが容易に想像できれば十分」ということである。たとえば我々は、過去の国会議員の作った大部分の法律に自発的に従っているが、これもⅠⅡについて時間差で「全員一致」しているからだと言える。
*6) 人間の性別は男女2つ――人間はメダカを二種類に見わけられないが、人間は人間を直観的に二種類に見わける。人間はこの自発的識別から逃れることはできない。そしてそれぞれ、力が強い、子供を産めるといった生理的特徴を持つことが認められ、男女という名称がつけられているが、これがわれわれが一致して心の底から従っているconventionである。ではここで仮に、何らかの学問的見地から性別は3つであることが「証明」されたとしよう。このとき国会はその学問に従って性別は3つであるという法律を可決してもよいだろうか? もしそのような法律が制定されたとしても「敗者」である我々は法律の「義務」に自発的に心から従うことはできないだろう。戦争の敗者の場合と同じような心持ちとなっているはずである。――このようにconventionそれ自体を対象とした集団的意志決定は、敗者側の自発的な「義務の感覚」を喚起せず「多数者の専制」となってしまう。ゆえに、このような場合には、そうした法律を定めずにconventionに従いつづけるべきなのである。
〔参考文献〕
- 『社会契約論』 桑原・前川訳 1954年
- 『社会契約論/ジュネーヴ草稿』 中山元訳 2008年
- 『学問芸術論』 中山元訳 2018年
- 『不平等起源論』 本田喜代治・平岡昇訳 1972年
- 『不平等起源論』 中山元訳 2008年
- 『エミール』 今野一雄訳 1962年
- 『人間本性論』 D.ヒューム 木曾好能訳 2011年