リベラルの盲点は道徳資本 ― ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』

【本稿概要】
 1.社会道徳の基盤は直観であって理性ではない。直観は理性で制御できないがゆえに拘束力を発揮する。
 2.人間の脳は、社会維持のための自己抑制をこの拘束性の高い直観道徳で身につけるように進化した。
 3.直観の源泉はその社会が慣習的に育んできた社会的事実である。リベラルはそれを変更しようとする。
 4.直観道徳を失った社会は社会道徳を理性道徳により多く依存せざるを得なくなるため不安定化する。
 5.社会の基底的秩序を理性によって組み立てられると考えるのは合理主義者の妄想である。

本書は人間の道徳意識に注目し、そこに社会が左と右に分かれる原因があることを指摘した書である。

一般に「道徳」というと理性の領分というイメージがあるが、本書ではそうではない。
本書では道徳を、理性によってコントロールできるものとそうでないものの2つに分類するところからはじめる。
たとえば 交通ルールを守る という道徳は、「誰も見ていない」「少しくらい大丈夫」などと適当な理屈を作ることによって、それを破る心理的ハードルを簡単に下げることができる。
一方たとえば 食べ物を粗末にしてはならない という道徳は、たとえ賞味期限が切れていても(理屈)、おにぎりを踏むのはなんとなく抵抗を感じる。(ハードルが下がらない)

著者は前者のような道徳を理性道徳(思考道徳)、後者を直観道徳(感情道徳)と呼んで区別する。
そして著者は「直観道徳」の方に注目する。
なぜなら直観道徳は理性(理屈)でコントロールできないがゆえに「守られやすい」(破られにくい)という特徴があるからである。 そして著者は世界各地の社会における美徳に注目して、それが次の5種類(*1)の直観道徳の成分でできていることを発見する。

【図6・2改】ケア/危害公正/欺瞞忠誠/背信権威/転覆神聖/堕落
適応課題子どもを保護しケアする双方向の協力関係の恩恵を得る結束力の強い連合体を形成する階層性のもとで有益な関係を結ぶ汚染を避ける
特徴的な情動思いやり怒り、感謝、
罪の意識
グループの誇り、
裏切り者に対する怒り
尊敬、怖れ嫌悪
関連する美徳介護、親切公正、正義、信頼性忠誠、愛国心、自己犠牲服従、敬意節制、貞節、敬虔、清潔さ

この5つのチャンネルは集団維持のための自己抑制のセットをなしており、つまり人間の脳は、社会維持にとって必要な行動(人としてどう振る舞うべきか)を、「守られやすい」直観道徳として感じるように進化したというのが著者の分析である。

これら生得的な直観道徳チャンネルには「適応課題」で示されているような抽象的な観念が置かれているだけで、内容は具体的にはきまっていない。具体的な中味は、それぞれの社会集団が生活形態に合わせてチャンネルを調整することできまってくる。 そうして各集団が調整してつくりあげた直観道徳の具体的なセットを「道徳マトリックス」といい、それがその社会における美徳(社会道徳)を構成している。

道徳というと理性的なもの、後天的なものと思われがちだが、社会道徳については、このように理性ではなく(理性では制御できないがゆえに拘束性がある)生得的な直観システムを基礎にしているというのが著者の見立てであり本書の前提である。*2

(この直観システムの存在については科学的な検証もなされている。興味深い実験なので、ぜひ本書を読んでください)

では本書の主題である、社会が左右に分かれる原因はどこにあるのか。
そしてそれは道徳マトリックスとどのような関係にあるのか。
著者によれば、左右の違いは個人と社会のとらえ方に起因しているという。そしてそれは道徳マトリックスの内容の違いではなく、重視されるチャンネルの違いとしてあらわれるという。

(Ⅰ)保守派の目的は社会の維持である(*3)。そのために守るべき道徳は広く、すべてのチャンネルにわたっている。保守主義者の社会では、社会維持のための個人が服すべき慣習、規範、制度が網の目のように張り巡らされていて、たとえば「礼儀作法」「男女の役割」「宗教的慣習」等々、その集団が発展させてきた事細かな制度や慣習が、個人の周囲に「社会的事実」として存在し、個人はそれに従って行動することによって、その複雑な直観道徳を身につけるようになっている。(デュルケーム型社会
(――「社会的事実」とは、デュルケームが考案した社会学の用語で、その社会の常識となっていて、それに反するとすると社会的な反発を受ける(まわりから唖然とされてしまう(*4))ような一切の行為様式のことをいう。典型例は「礼儀」)
(Ⅱ)一方リベラルは社会を個人の意志による契約によるものと考えるので、社会よりも個人の自由が道徳基準となる。 個人には、他の誰かを傷つけない限り、自分の思い通りに生きる権利があると考える。その結果〔ケア〕〔公正〕 を重視する一方で 〔忠誠〕〔権威〕〔神聖〕 に由来する「社会的事実」を「抑圧的」「排他的」「人権に悖る」などとして敵視することになるのである。(JSミル自由論型社会

このように保守とリベラルの間には個人社会の関係についての発想が異なるため、保守派からみると、リベラルは共同体の義務を果たさないフリーライダーで、しかも〔忠誠〕〔権威〕〔神聖〕由来の「われわれの社会的事実」を毀損しようとする存在にみえる。 逆にリベラルからすると(Ⅰ)は、社会のために個人(や女性)が犠牲になり、差別的で、宗教(後述)という非科学的なものを信じている未開な人々であり、そのような「社会的事実」は「闘争の対象ではあっても、尊重すべきものではない」(264頁)と映る。
そうして双方が互いに己の道徳基準が絶対に正しい(正義)と思いこみ、互いに相手を道徳的に見下して、歩み寄る余地がほとんどないところに「左右」にわかれる原因があると著者は指摘するのである。 (原著タイトル『正義心』はここからとられている)

しかし同時に著者がそこで注意していることは、この道徳基準の違いは「どちらがより道徳的であるか」を定めるものではないということである。 (Ⅰ)と(Ⅱ)の道徳基準は、どちらも善良な人々の基準であって、マトリックスのチャンネル数の差異が道徳の違いとして現れているものに過ぎないからである。*5

ただし、両者は善良さにおいて違いはなくとも、チャンネル数の違いという構造上の差異があるということ、そして著者によれば、世界のほとんどの地域(特に東アジア)では(Ⅰ)の共同体主義がとられており、(Ⅱ)のような道徳観は欧米社会の、しかも一部の階層でしか見られないという事実については無視できない。 そして(Ⅱ)のような価値観は、欧米都市部のインテリ層を支配しており、そのような人々を著者は WEIRD と呼ぶ。
(※WERID とは、欧米の[Western]、啓蒙化され[educated]、産業化され[industrialized]、裕福で[rich]、民主主義的[democratic]な人々…の頭文字から成る造語で、weird(奇妙な)という英単語と意味が掛かっている)

そして著者は「道徳は危害(ケア)と公正だけではない」という道徳心理学の第二原理を提示しながらリベラルの盲点を指摘していく。

著者によると、リベラルは(Ⅰ)の 〔忠誠〕〔権威〕〔神聖〕 基盤を敵視するものの、では実際にその直観を欠いた社会とはどのような社会なのかについて想像力が及んでいないところに盲点があるという。 たとえばリベラルは 〔神聖〕 が社会統合の重要基盤となっているという認識を欠いているという。 (※〔神聖〕基盤とは、何を神聖視し何に嫌悪感を抱くのかに関わる直観道徳で、集団を破綻から守る機能を果たしている。「国旗に敬意を払う」など(とくにリベラルから見て)非合理的な何かに対して労力を投資させるという特徴をもつ)

<ケア><公正>基盤のみによる道徳マトリックスを身につけている人は、アメリカの非公式のモットー「多から一へ(E pluribus unum)」に、神聖な響きをうまく聞き分けられないだろう。「神聖な」とは、前章で<神聖>基盤を取り上げた際に導入した概念を指す。つまり、(とりわけ集団を結束させる)ものの見方、もの、できごとに無限の価値を授ける能力のことだ。さまざまな人々(pluribus)を一つ(unum)に統合するこのプロセスは、繁栄を享受する国家にはかならず起こる奇跡なのである。この機能を失った国家は、やがて、もしくは分裂するはずだ。

1960年代に、民主党pluribusの政党になった。一般に民主党支持者は、多様性を重視し、アメリカに同化しようとしない移民を支援し、英語を唯一の国語として扱うことに反対し、上着の折り返しに国旗をかたどったピンを刺すことを拒否し、世界市民の一員として自己を語る。1968年以来、大統領選で、民主党候補が有権者の前でうまく振る舞えなかったことに何の不思議があろうか。アメリカ大統領は、社会学者ロバート・ベラー言う「アメリカの市民宗教」の大司祭とも見なせる。大統領は、神の名を唱え(イエスの名ではないが)、アメリカの英雄や歴史をたたえ、神聖なテキストを引用し(独立宣言や合衆国憲法)、pluribusから unumへの転換を行わなければならない。カトリック教会が、ラテン語を話そうとしない者や、異端の神々を擁護する人物を司祭に選ぶだろうか?(265頁)(太字下線強調は引用者。以下同じ)

ここでいう〔神聖〕基盤とは、いわゆる宗教のことだけを意味するのではない。
個人よりも上に置かれた何らかの存在、理屈ではなく、人々が〔直観的に、無条件で〕服するこのとできるような存在すべてを指す。いわゆる宗教もそうだが、国家の歴史(神話)などもこれにあたる。

人々が統合されるには、この「理屈ではない何か」を神聖視して、それに帰依していなくてはならない。 なぜなら理屈ではないものだからこそ皆がそれに服することができるからだ。 たとえば民族の神話や英雄の言葉だからこそ皆がそれに正統性を感じ自然に受容することができる。(その結果価値観が共有される。単なる理屈ではそうはいかない)

アメリカの〔神聖〕基盤は、多様な出身をもつ人々が溶け合って自由で平等なアメリカ人という新しい人種になるという「神話」が担っていた。(欧州や日本では「国民の歴史」が神話となっている *6)

しかし「神話」に帰依しなくなる人が増えると社会統合は難しくなる。
社会が基本的な価値観(道徳マトリックス)を共有できなくなり、やがてそれは「われわれ」という意識の喪失へと進むからだ。

たとえば、これは本書に直接的に書かれてはいないが(間接的に述べられていることだが)、今アメリカで問題となっている南米移民によるスペイン語圏の拡大はその好例といえるだろう。多様性を重視し同化を軽視して神話に帰依しない人間が増えれば、アメリカ建国神話由来の価値観の一つ、すなわち建国の歴史とともにあった英語がアメリカの国語であるという基本的価値観(それは「社会的事実」であり「直観道徳」である)ですら自明ではなくなっていく。

〔神聖〕基盤の地位低下は、そうして社会全体であたりまえに共有されるべき直観道徳を失わせて、やがてそれは「われわれ」という統合意識の低下に繋がる。 「われわれ」意識がなくなれば共同体もなくなり、当然その恩恵の崩壊につながる。継承できる共同体の文化遺産の規模も縮小していくし、リベラルが重視する福祉制度(ケア)なども縮小や破綻をしていくだろう。

宗教は、道徳の外骨格と見なせる。宗教的な共同体で暮らしていれば、おもに「感情」に働きかけて人間の行動に影響を及ぼす、一連の規範、関係、制度の網の目に織り込まれざるを得ない。だが、結束力の弱い道徳マトリックスに依拠する弛緩した共同体で暮らす無神論者は、「理性」の参照する道徳指針に強く依存しなければならなくなるだろう。これは合理主義者には魅力的に聞こえるかもしれないが、アノミーに至るレシピでもある。アノミーとはデュルケームの用語で、共有する道徳秩序を失った社会に生じる混沌のことだ(字義通りには「無規範」を意味する)。人類は共有された道徳マトリックスのもとで生活し、貿易し、互いを信用するように進化してきた。一世紀以上前にデュルケームが指摘したことだが、社会が個人を統制できなくなり、誰もが好き勝手をするようになれば、人々の幸福の度合いは低下し、自殺は増加する。

宗教という外骨格を欠いた社会を擁護する人々は、数世代が経過するうちにその社会に何が起こるかをよく考えてみるべきだ。もちろん、真の答えは今のところ得られないだろう。というのも、無神論者の社会は、ここ数十年のあいだにヨーロッパで出現したばかりなのだから。しかし、この社会が、資源を子孫の繁栄に転化することにかけては、史上もっとも非効率な社会であることには間違いない。世代を追うごとに、手にできる資源の量は先細りしていくことだろう。(415頁から一部用語修正して引用)

このほか〔神聖〕基盤は社会統合だけでなく、倫理観の下支えなども担当している。 〔神聖〕基盤が存在しない社会というのは、背徳的だが理屈では禁止しにくいような行為―日本で言えば刺青など―が氾濫する社会のことである。 人間が頽廃的で堕落した社会に対して否定的な感情を抱くのは、〔神聖〕基盤がそうした風潮を避けるための直観道徳を担っているからだといえる。
またここでは省略するが〔忠誠〕〔権威〕 基盤も、同様に、共同体の運営に資するように人々を自然と振る舞わせる機能をもっている。
このように 〔忠誠〕〔権威〕〔神聖〕 基盤は、リベラルが想像している以上に、人々を道徳的に振る舞わせる直観(直観道徳)に広く深く関わっている。

著者は、こうして人々を道徳的に振る舞わせるようにする環境全体、すなわち道徳共同体を維持するための資源全体を「道徳資本」と呼び、構築することが極めて難しいうえに、いとも簡単に崩壊する貴重な社会資本だと指摘する。(450頁)
保守主義者はそのことを感覚的に理解しており、ゆえに道徳資本に影響しそうな政策、とくに「社会的事実」を変更しようとする政策を嫌う。*7

しかしリベラルは、事実上(Ⅰ)型の社会が築いてきた社会秩序のなかに居住しながら、つまり5チャンネル由来の道徳資本の「恩恵」を受けていながら、その認識が疎かで、リベラルな(理性主義的・合理主義的な)政策介入が道徳資本を破壊するかもしれないという危機意識に乏しい。*8
リベラルは(Ⅰ)型の社会を(Ⅱ)型に改良することがより善き道徳社会への変革だと信じて疑わないが、人間の行動は直観を基盤にしている以上(→*2)、教育によって理性道徳を身につけた個人が集まって善き社会をつくるという発想は現実的でない。 人間の心の原理に鑑みれば、むしろ現実は逆であり、人々を道徳的に振る舞わせるには、道徳的個人をつくるには、経験的に育まれてきた道徳マトリックスに満たされた社会(道徳資本)を維持することがまずは肝要である。 下手な政策介入によって道徳資本を毀損すれば、共有されている直観道徳秩序が欠損・崩壊し、理性により強く依存した不安定な社会に移行する可能性がある。
リベラルの盲点とは、こうした人間の道徳心理の仕組みや道徳資本の機能そしてその維持に対する無理解にある。

本書において豊富な具体例と実験結果を示しながら指摘されているのは、およそ以上のようなことである。

道徳資本とは、進化のプロセスを通して獲得された諸々の心理的なメカニズムとうまく調和し、利己主義を抑制もしくは統制して協力関係の構築を可能にする、一連の価値観、美徳、規範、実践、アイデンティティ、制度、テクノロジーの組み合わせを、一つの共同体が保持する程度のことである。(448頁)

リベラルは〔忠誠〕〔権威〕〔神聖〕の三つの基盤がなぜ道徳と関係し得るのか理解していないことが多く、したがって彼らが保守主義者を理解するのは、その逆のケースより難しい。とりわけ彼らは、道徳共同体の維持に必要な資源である道徳資本の意義を理解しようとしない。(479頁)

リベラルは排除を嫌う。私が参加した数年前の後援会で、ある哲学教授が国家の合法性にケチをつけていた。彼は次のように言った。「それは地図上の恣意的な線に過ぎない。どこかの誰かが勝手に線を引いて<ここからこっちはわれわれのものだ。多の奴らははいってくるな>と言ったのも同然だ。誰もがこの教授と一緒に笑っていた。(後略)」

この手のコメントを聞いていると、あの忘れがたい名曲『イマジン』で、ジョン・レノンはリベラルの夢を実にみごとにとらえていたことに思い当たる。国も宗教ものない世界を想像してみよう。私たちを隔てる国境や境界を消し去ることができるのなら、世界はきっと「一つ」になるだろう。これはいわゆるリベラルの天国だが、そんな世界はすぐに地獄と化すはずだと保守主義者は考えている。思うに保守主義者の直観は正しい。

本書を通して、大規模な社会は人類が発達した奇跡的な成果であることを、そして、複雑な道徳心理が、宗教や、部族、農業などのその他の文化的な発明とともにいかに進化し、今日の私たちへと人類を導いたかを論じた。さらには、私たち人類は集団選択を含めたマルチレベル選択の産物であることを、また、「郷党的な利他主義」が、人類をかくも偉大なチームプレイヤーにしている要因の一つであることを述べた。部外者をいずれ排除し始めるのは必至だとしても、私たちは集団を必要とし、愛し、それを通して美徳を身につけていく。あらゆる集団を破壊し、すべての内部構造を解体してしまったなら、道徳資本もすべて失われるだろう。(470-471頁)

道徳共同体は、構築が難しいうえに、いとも簡単に崩壊する。国家などの巨大な共同体が抱える課題は途方もなく大きく、道徳が崩壊する危険性は高い。誤りを受け入れる余地は少ない。とりわけ独裁者やエリートが私腹を肥やす、汚職にまみれた国など、多くの国家が道徳共同体として失敗している。道徳資本に価値を認めない国では、その増大に寄与する価値観、美徳、規範、実践、アイデンティティ、制度、テクノロジーも育たない。(450頁)

著者ジョナサン・ハイトは、2008年のオバマ大統領当選まで「ガチガチのリベラル」(442頁)を自認し、「保守主義者=排他的差別主義者で宗教という非科学的なものを信じる妄想主義者」という安直な図式を信じ込んでいたという。そして無神論の立場をとる科学者として、リベラルであることが義務だとすら思っていたという。
しかしその後、自らの研究のなかで「道徳資本」と呼んでいたものが、まさにバークやハイエクなど保守派知識人が洞察していたものであるということに気づき、そしてむしろ保守主義者の制度や社会慣習に対する消極主義こそが、「理性の行使による幸福追求」という啓蒙主義本来の思想に由来していることに気づいて「叩きのめされる思いがした」(444頁)と回想している。
本書は、科学的実証のほかに、著者のこうした思想遍歴も踏まえられており、道徳資本(換言すれば「社会の維持と存続」)に対する認識が乏しいところにリベラルの盲点があるという指摘がなおいっそう説得力のあるものとなっている。

・・・・・

本書は欧米リベラルに読まれることを想定しているため、その感情に配慮してバランスをとった書き方がされている。 たとえば保守派の欠点にも触れられているし、保守派とリベラルが対等な立場で(?)歩み寄ろうという呼びかけもなされている。

しかし全体を吟味すれば、リベラルな人々の社会に対する無理解と独善性、また「政治的な正しさ」のために理性主義(合理主義)を社会に適用しつづけようとする欧米アカデミックレフトに対する批判が全体を占めていることは明らかである。著者がリベラルを WEIRD(奇妙な) と名づけたのも、自分たちの特殊な価値観を普遍的なものだと思い込み「多様な社会」を採点しようとするだからだ。

西洋哲学はこれまで何千年にもわたって理性を崇拝し、情熱を疑いの目で見てきた。かくして、プラトンからイマヌエル・カントを経てローレンス・コールバーグに至るまで、一本の直線を引ける。私は本書を通じて、この理性崇拝を「合理主義者の妄想」と呼ぶ。(63頁)

直観主義者の私としては、理性の崇拝それ自体が、西洋の歴史上もっとも長く生き続けている妄想の一つ、すなわち「合理主義者の妄想」だといいたい。それは、「合理的な思考能力はもっとも高貴な人間の属性であり、それによって、(プラトンに従えば)人間は神のような存在になり、(無神論者によれば)神の信仰という『妄想』を脱却できる」という考えのことだ。(中略) プラトンからカントを経てコールバーグに至るまで、多くの合理主義者は、倫理に関する優れた思考能力が、よい行いを生むと想定してきた。思考は道徳的な真実への王道であり、その能力を駆使する人はより道徳的に振る舞うと考えてきたのだ。(154頁) (斜体は原文では傍点。以下同じ)

規範倫理学は、どんな行動が真に正しいか、あるいは間違っているかという問いに答えを出そうとする分野で、そのもっともよく知られた例は、単一受容器システムたる、功利主義(全体的な福祉の最大化を説く)と義務論(カント版では、他者の権利と自主性を至上のものと考えよと説く)だ。たった一つの明晰な原理を適用すれば、文化の相違を超えた判断が可能であるというのがこれらの見方の骨子であり、それをもとに評価したとき、高いスコアを得た文化は道徳的に秀でると考えるのだ。(418頁)

保守主義者がしばしばリベラルを社会や文化の破壊者とみなす理由も、本書の内容を踏まえれば理解できよう。
なぜなら民族性は(5チャンネルの)「社会的事実」によって基底されているのであり(*9)、にもかかわらずリベラルはそれを中立的な 〔ケア〕〔公正〕 だけの社会に変更しようとするからだ。

しかもリベラルは〔忠誠〕〔権威〕〔神聖〕を平等に否定するのではなく、マジョリティのそれは敵視するが、マイノリティ(や移民)のそれは「多文化共生」などによって擁護する。
この「非対称性」が、マジョリティ保守派にとって必要な「社会的事実」の形成を阻害し(たとえばHappy Holidays問題)、それはマジョリティの道徳マトリックスの維持を阻害することに繋がる。
そのことがマジョリティ保守派のさらなる憎悪を買う原因となっているのである。*10

社会政策を考える上でまず踏まえておくべきことは、今日のわれわれは、自生的秩序として(結果的に)優れた「社会的事実」を形成して、生き残りに成功してきた集団であるという歴史的事実である。
そして本書に拠れば、リベラルとはそうした「社会的事実」を変更する(とり払う)思想ということになるだろう。
とすればわれわれはここで、何がわれわれの「社会的事実」であり、それを変更すると何が起こるのか、あるいはこれまで変更してきた結果、現在どのような矛盾が起きているのか、それを改めて点検検討してみる必要があるのではないだろうか。

(終)

*1) 直観道徳の種類は本書後半で6に拡張されるが、本稿の範囲では6種類扱う必要がないので、基本の5種類としている。
*2) 著者は「まず感情が先にあり理性はそれを正当化するものに過ぎない」と考えたD・ヒューム(1711-76)に賛同し、道徳秩序もじつは理性(理屈)ではなく直観(感情)できまっていると考えた。本書ではこの道徳の直観性について科学的な検証もされており、ヒュームの主張が道徳の面でも正しいことが示されている(著者が提示する「まず直観、それから戦略的な思考」という道徳心理学の第一原理はここから導かれる)。 また直感道徳に比べて理性道徳が当てにならないことについて著者は、興味深い例をいくつかあげている。そのひとつは、数十の図書館をしらべ、倫理学者しか借りないであろう倫理の専門書が他の哲学領域の本に比べ、盗まれたり長期未返却となっている割合が高かったという事実である(155頁)。こうした事実は「リベラル」が唱える啓蒙教育による「市民社会」というものがいかに脆弱で、「合理主義者の妄想」(154頁)にすぎないかを端的に示すものとして挙げられている。
*3) 本書では「保守主義者」を社会保守主義者の意味で用いている。アメリカの本来的な意味での保守主義はリバタリアン(政府の干渉を極力排除する思想)のことであるが、リバタリアンはここでいう保守主義者には含まれない。
*4) 著者の表現では「道徳的に唖然とされる」となっている。「社会的事実」については広島国際大・沢田善太郎教授の説明(外部サイト)がわかりやすい。
*5) たとえば女性が家庭で給仕係を担当することは、家族という最小相互依存共同体における役割の違いであって、それ自体は道徳的に劣るものではなく、あくまでもその社会集団が道徳チャンネルをカスタマイズした結果に過ぎないと考える。(このような各社会の道徳に対する著者の多元的理解についてはインド滞在記(第5章)に記されている)
*6) 欧州や日本では19世紀に国家が歴史を編纂するようになって「国民の歴史」がうまれた(→拙稿『想像の共同体』という国民原理)。この「神話」「国民の歴史」は国民にとって一種の「宗教教典」となる。なぜならそれが「われわれの祖先たち」の営為と見なされるからこそ、それに服する正当性(直観)が自然と生まれ、それが一種の教典的な効果をもつからである。歴史・古典・民話のなかに「われわれの価値観」を見出し、そこに帰依し、内面化することで国民性(道徳マトリックス)が生じる。
*7) 「彼ら(保守主義者)はすべてのものごとに反対するわけではない(たとえばインターネットには反対していない)。しかし、道徳の枠組みを形作る(家族などの)制度や伝統が破壊されていると思ったときには、激しく変化に抵抗する。制度や伝統の保護は、彼らにとってもっとも神聖な価値を帯びた営為なのだ」(468頁)
*8) 著者はこの盲点がリベラルの改革がたびたび裏目に出る理由だとしている。「リベラルは、抑圧と排除の犠牲者を支援する。人種差別、あるいは最近では性的嗜好に基づく差別など、恣意的に築かれた障害を打破するために奮闘する。しかし犠牲者を救おうとする彼らの熱意は、〔忠誠〕〔権威〕〔神聖〕基盤への依存度の低さゆえに、集団、伝統、制度、道徳資本を弱体化させる結果に至っているケースが多々ある。たとえば1960年代に、都市に住む貧民を救おうとする彼らの努力によって福祉プログラムが実施されたが、この政策は、結婚に対する人々の価値観を損ない、未婚の父親や母親を増やし、アフリカ系アメリカ人家族の紐帯を弱めた。70年代には、教師や学校を訴える権利を学生に与えようとした結果、学校の権威や道徳資本が侵食され、とりわけ貧しい人々に害を及ぼす無秩序な環境を生んだ。80年代になると、スペイン系移民を援助する努力は、共通の価値観やアイデンティティではなく、アメリカ人同士の差別を助長する結果につながる多文化教育プログラムの実施に至った。差異を強調することは、人種主義を緩和するのではなく強化する結果になるのだ」(473-4頁)
*9) イギリスの社会学者A.D.スミスは「社会的事実」こそ民族性のあらわれであると述べている。(『ネイションとエスニシティ』270頁)
*10) この点を踏まえれば、社会保守主義者に対して「移民を入れれば経済も上向き生活が豊かになる」といった種類の説得がまったく筋違いであることが理解できよう。アメリカのトランプ現象は、まさにこの社会保守主義者の不満が原因となってあらわれてきたものである。

〔参考文献〕
『社会はなぜ左と右にわかれるのか』 ジョナサン・ハイト 2014年(原著2012年) ◆楽天 ◆Amazon
『社会学的方法の規準』 エミール・デュルケーム 宮島喬 1978年(原著1895年) ◆楽天 ◆Amazon
『ネイションとエスニシティ』 A.D.スミス 1999年(原著1986年) ◆楽天 ◆Amazon