日本人の定義 ― われわれはわれわれであり続けることができるか(2)

アメリカには白人、先住民、黒人、移民など「多様な」人びとが住んでいる。彼らは皆、米国籍を持ち、星条旗に忠誠を誓い、アメリカ社会に適応して生活している。

彼らは法的地位としては皆「アメリカ人」である。

しかし彼らには大きな違いがある。それは、見ている過去が別々だということである。

白人はイギリスから入植しアメリカを建国した歴史を、黒人は奴隷時代と公民権運動の歴史を、先住民は先住民の歴史を、それぞれ見ている。 また移民たちは移民元の民族の歴史にシンパシーを感じている。

アメリカという国は、このように国民の歴史軸(縦軸)が分断している複数縦軸社会なのである。

そしてアイデンティティは、どこに生まれ育つかではなく、その人が意識する縦軸によって決まってくる。

ゆえに彼らが実践する文化も、それぞれの縦軸の文化になるのである。

同じ社会に住み、地域の行事等に参加はしても、彼らが私的な領域で実践するのは、自分たちの縦軸文化の方なのである。 子の名前の付け方も、季節の行事も、現地文化と一部融合したり重なり合ったりしながらも、それぞれが異なっている。

つまり彼らは、同じアメリカ社会に生まれ育ちながら、縦軸によってアイデンティティ(民族)が異なっている。 彼らは「同じアメリカ人」ではなく、アメリカは正真正銘の「多民族社会」なのである。

この縦軸の多様性は、アメリカ国民同士の間に心情面で複雑な問題をひきおこす。

たとえば独立記念日は、白人にとっては「われわれの歴史」であるが、それ以外の人にとっては無関係の歴史である。 『大草原の小さな家』も非白人にとっては「われわれの物語」ではない。(→『大草原の小さな家』をめぐる「大きな」論争

このようにアメリカでは、国家の最重要記念日や国民的物語ですら、白人とそれ以外では心理的な距離がある。 つまりアメリカとは「われわれの文化」が存在しない国であるだけでなく、「われわれの歴史物語」も存在しない国なのである。

ということは、もし日本が複数縦軸社会になれば、日本史と日本文化はこれとおなじ位置づけのものになるだろう。

日本に縦軸をもたない人からみれば、日本の古代史も近代史も「自分とは関係のない過去」である。 日本文化も「われわれの文化」ではない。 日本語も「われわれの言葉」ではない。

それゆえ彼らの中には、子や孫に鯉のぼりを買い与えるという発想がなかったり、それどころか非日本軸文化(自分の意識する縦軸文化)の方を実践する者も現れてくるだろう。 外国の言葉にシンパシーをもつ者も現れてくるだろう。

今日、手放しで称揚されている「多文化共生社会」とは、歴史も文化も不定となった、このような社会のことである。

われわれはわれわれであり続けることができるか

今後、日本でも、日本史が「われわれの歴史」でありつづけられるかという重大な事態に直面する可能性がある。
もし日本史が「われわれの歴史」であり続けられれば、われわれはわれわれであり続けることができるだろう。

しかしもし日本史を「われわれの歴史」と見る人間の割合が減少していけば、われわれはわれわれであり続けることはできなくなる。 日本の歴史や古典を「われわれのもの」ではなく、第三者的な目で見る人の割合が増えていけば――つまり日本の歴史文化が「他人事」となっていけば――、やがて日本社会全体の感性が変質(非日本化)していくだろう。

なぜなら日本人の感性は、かつては古典物語に描かれ詩歌に詠まれ、また今日の小説や漫画にもそれが織り込まれていて、それを読み継ぐことで、われわれは感性を継承しているからである。
もし日本史が「無関係化」すれば、外国文学と同じような距離感で(つまり他人事のように)日本の古典を眺めるようになるため、その感性が内面に取り込まれなくなっていく。 そうなれば現代の作品にもそれは含まれなくなっていく。
また「無関係化」すれば、日本の歴史や文化を扱った教養番組やドラマは、〔自然と〕 作られなっていく。日本の民俗行事がニュースとして扱われる機会も減っていくし、信長の『敦盛』も見る機会が減っていく。
そうして日本の歴史文化はますます縁遠いものになっていくと、そこに含まれていた感性ごとわからなくなっていくだろう。

やがて、これと入れ替わるように、日本軸の感性を踏まえない表現(外国軸を内面化した表現)が日本の内側で増えていく。(TV番組、小説、マンガ、人間の態度に) *1

すると、徐々にわれわれが目にするもの(番組、小説…)が、外国軸の感性を含んだものになっていく。 日本軸と非日本軸の勢力変化によって、これまで日本の内側で続いてきた感性継承の組成が変わるのである。

外国文化と日本文化の関係については、これまでも日本は多くの外国の文化を取り入れてきた(だから問題ない)という反論があるかもしれない。 しかしこれまでの外来文化というのは、すべて日本軸によって解釈され、日本化して日本に取り入れてきたものである。 つまりこれまで日本の内側で実践されていたものはすべて日本軸の文化だった。外国のものはそれとして区別して見ていた。

ところがこの時代の日本では、非日本軸の表現そのものが、「日本人」の表現として日本の内側で実践されるようになるため、どれが日本軸本来の表現なのかも区別がつかなくなっていく。*2

そして現代人は(学校で触れる古典よりも)現代文化に多く接するため、それに感化されて日本人の感性の軸が変質していくことになる。

日本史の「無関係化」からはじまるこの一連の変化は、日本を内側から変質させて、これまで受け継いできた日本軸の感性からわれわれを引き剥がし、それをうしなわせていくだろう。

それは、もはや非日本軸で育った「日本語が話せる外国人」となんら変わらるところがない。

ジェネレーションギャップが世代特有の実践によって生じ、世代間で感覚が断絶するように、日本軸感性の変質(消滅)は、新旧日本人の間に民族の根源的な感覚の部分での致命的な断絶をもたらす。

そうして、われわれはわれわれではなくなって、本人たちの自覚もないほど自然な形で、日本は質的に滅びることになるのである。

民族は主観(縦軸)を失って滅びる

民族は戦争で滅びるとは限らない。それは滅びの一形態にすぎない。戦争などなくとも、その主観(縦軸)をもつ人間がいなくなれば滅びるのである。 民族は主観によって構成され、主観を失って亡びるのである。

チェコ出身でフランスに亡命したミラン・クンデラの著作『笑いと忘却の書』のなかには次のような一節がある。

「一国の人びとを抹殺するための最初の段階は、その記憶を失わせることである。その国民の図書、その文化、その歴史を消し去ったうえで、誰かに新しい本を書かせ、新しい文化を作らせて新しい歴史を発明させることだ。そうすれば間もなく、その国民は、国の現状についてもその過去についても忘れ始めることとなるだろう」 (翻訳は『アメリカの分裂』56頁より)

ここに書かれた、記憶を失いかけている「一国の人びと」とは、ここで述べている、日本の歴史と文化が無関係化していく「われわれ」のことではないだろうか?

日本が日本であり続けるためには

アメリカという国はきわめて特異な国である。興味深い国であるが、普通の国だと思って見習うと間違う。

アメリカは、歴史や文化ではなく、自由平等などの政治理念(イデオロギー)によって定義されている国である。

アラン・ブルームもいうように、「アメリカ人には一日でなることができる」(*3)。星条旗に忠誠を誓うだけでいい。

だが日本は歴史によって定義されている国である。日本人の精神は歴史によって規定されている。

ゆえに日本人が忠誠を誓うべき相手は、政府でも国旗でも社会でもなく、日本史でなければならない

しかし今日の帰化制度その他は、この「縦軸同化」を意識した体系にはなっていないのである。*4

社会(文化)への適応(水平同化)というのは誰でもできる。外国人でも可能である。

しかし、その社会(文化)を代々継承できるのは その国の歴史を「われわれの歴史」と思っている集団 しかありえない。

日本が日本であり続けるためには、日本の国土の上で、日本軸集団が圧倒的多数であるという状態(割合)を保持しなければならない。

もしその状態が維持できなくなれば、日本史と文化は「われわれのもの」ではなくなって、やがてすべてが変質していく。

そうしていつしかわれわれはわれわれではなくなって、これまでの日本は古代日本として切り離され、日本という名前の別の国=ネオ日本の歴史がまた一から新たにはじまることになるだろう。

日本史によって定義された価値観を社会的に喪失し、多様な価値観をもつ個人の寄せ集めでしかない正体不明の国家として。

(終)

*1) このような現象については、「価値観の変化」や「時代の流れ」など、使い古されたありきたりな言葉によって説明されるだろう。ときには「新しい価値観」などと称揚されたりすることもあるかもしれない。だがそこで起きている変化とは、過去にわれわれが何度も経験してきたような「価値観の変化」とは次元が異なるものである。なぜならそれは日本の「無関係化」だからである。 折り紙を折っても将棋を指しても日本人とはどことなく佇まいが異なる外国人。しかしこの時代には日本生まれ育ちながら、そのような「日本人」が増えていくということ。
*2) これまでの外国文化は日本軸によって解釈して日本化して取り入れてきた。「ベースボール」は「野球」となり「甲子園」は夏の季語となった。「拉麺」は「ラーメン」となった。しかし今後、外国文化の方を内面化しようとする人間が増えれば外国文化は日本化せずに外国の感性のまま日本国内で実践されるようになる。やがてそれは日本軸そのものに影響を与えて、日本軸を内側から変質させていくだろう。
*3) なおブルームはこう続ける。「(前略)これに対して、フランス人になることは不可能である。少なくとも昨今までは不可能だった。フランス人とは、生まれながらにしてさまざまの歴史的反響音が調和や不調和を呈する複合体だからである。(中略)フランス語を歴史意識と区別することはできなかった。まさにこの言語を話し、この言語で書かれた文芸作品になじみ、この言語をもたらすあらゆる効果に浸ることによって、フランス的性格は定義される。(中略)原理的にいって、アメリカには真のよそ者はいないが、フランスでは市民でありながらもこの伝統の周縁にいる人々――たとえばユダヤ人――は、自分たちが何に所属しているのかつねに考え込まざるをえない状況にある」
*4) 縦軸同化させるには、たとえば日本国籍者には日本名を義務づけることなどが考えられる(→日本名を義務づけるべき理由)。 なお19世紀フランスの思想家エルネスト・ルナンも、この「縦軸同化」が国民統合の本質的因子だと述べている。→拙稿E・ルナン『国民とは何か』

〔参考文献〕
『分断されるアメリカ』 サミュエル・ハンチントン 2004年  ◆楽天 ◆Amazon
『アメリカの分裂』 アーサー・シュレジンガーJr 1992年
『アメリカン・マインドの終焉』 アラン・ブルーム 1988年、原書1987年