「多様性を認めて」がおかしな主張である理由

「多様性を認めて」とは、その社会で決まっている正しさ(規則)を否定する思想である。
すなわち「多様性」とは、言葉は美しいが、社会(世界)そのものを否定する思想なのである。
この事実を、以下、簡単な例で考えてみよう。

たとえばあなたがスターウォーズのファンコミュニティに参加したとする。
彼らは普段からコスプレや同人漫画をつくって、SWの世界観を楽しんでいる人たちだ。
そこにもしSWの世界観にあわないものをもちこんだら、「それはSWの世界観ではない」と怒られるだろう。
たとえば同人漫画で主要登場人物におかしな台詞を言わせたら、「キャラの性格が違う」「○○はそんなこと言わない」「SWをわかってない」などと非難されるはずである。
あるいは山田太郎という名前の人物――しかもタロー・ヤマダならまだしも、漢字表記の山田太郎(*1)――を登場させたら、やはりSWファンから非難されることになるだろう。
もしそこで「多様性(選択肢)を認めて!」と主張して食い下がったら、変な人だと思われるはずである。

別の例。覚えたての英単語を使ってみたとき、英文法に沿って使ったはずなのに不自然な言い方だなどと言われて却下された経験をした人は少なくないだろう。 あるいは日本語でも、単語の使い方や文章がどことなく不自然で、直された経験は誰にでもあるだろう。

そこで「多様性を認めて!」と食い下がる人がいるだろうか??

言葉の正しさや(SWのような)文化の正しさは人間の感覚によって決まっている。
じつは言葉や文化に限らず、数学のようなものも含めて、人間の世界の正しさ(規則)はすべて人間の感覚の一致によって定義されているのであり、人間の感覚こそがその最終根拠なのである。(→ウィトゲンシュタインのパラドクス―世界の最終根拠
ゆえに人々が違和感を覚えるもの、世界観にあわないものは、理屈なしで自動的に絶対的に「誤り」なのである。そこで食い下がることはおかしなことなのである。

(日本の習俗習慣には、日本人の生活の積み重ねによって生まれた「正しさ」(規則)がある。 それを行い、それ以外を行わないのが「正しさ」である(*2)。それは日本人の「感覚」しか根拠がないが、だからこそそれは絶対的なものである。日本の「正しさ」を否定する「多様性」は日本の社会・文化(世界像)の否定にほかならない

われわれの学習は、まず定義を学び、次にそれを使って判断を下す、という二段階にはなっていない。諸判断を受け入れること、つまり世界像を引き受けることが、言葉の意味を身につけることの一部をなすのである。何かを疑う余地のない真理と見なすのでなければ、言葉の意味を学ぶこともできない。 たとえば「地球は太陽のまわりを回っている」という命題を鵜呑みにすることが「地球」という語の意味を学ぶことの一部をなし、「夕焼けは美しく、ごみは汚い」という判断を疑わないことによってのみ「美」という概念が使えるようになるのだ。(永井p.199-200) (→§世界像―ウィトゲンシュタイン・言語ゲーム(1)

もちろん一般に「多様性」や「選択肢」は認められるし、必要なことである。
しかし「多様性」「選択肢」は、世界像(規則の総体)に沿っている限りで認められるものなのである。

個人の自由(多様性の尊重)とは、世界像の内側における自由、あるいは世界像を離脱する自由であって、世界像そのものを変更する自由は、「個人の自由」には含まれない。
冒頭の例のように、世界像に反するような「多様性」「選択肢」を要求することは、その世界像の規則(正しさ)を否定することであって、それはその社会・世界の否定に他ならない。*a
その世界の住人になることを希望しながら、その世界像に抵触するような「多様性」「選択肢」を要求することは、おかしなことなのである。

社会(世界)とは、そもそも、その基盤となる価値観について構成員の意識の一致(感覚の一致)があってはじめて成立するものなのであり、その意味で「多文化社会」などというものは定義上も事実上も存在しえない。(了)

*1) さらにキャラクタデザインを水島新司にしたらどうなるだろうか。
*2) たとえば日本において子供の息災を祈る行事は、雛祭や鯉幟であって、それ以外のなにものでもない――これが日本の規則(世界像)であり、こうした日本の「規則」に沿った実践がなされている場所が「日本」なのであって、「多様な実践」が許されたら、もうそれは日本ではない。(SWに水島新司・あだち充のキャラクタが出てきたら、もうそれはSWではない)
*a) たとえば次の文を考えてみる。
   ○花は美しい ○鳥は美しい ○北川景子は美しい ×リモコンは美しい
→○の文は流通するが×の文は流通しない。なぜなら×は人間が不自然(=正しくない)と感じる文だからである。そしてこのことこそ人間が概念をもてる原理なのである。なぜなら人間は言葉の使われ方から言葉の意味を知るので、人間が言葉を習得するためには正しい文(自然な文)だけが流通していなくてはならならないが、それは人間の「自然」という感覚の共通性により不自然な文が抑制されることによって実現しているからである。 「自然」「不自然」という感覚の共通性によって○のみが流通し×が流通しない――このことこそ、人間が「美しい」という概念を運用できる原理なのである。言葉について「多様性」が認められないのは、自然・不自然が概念共有の原理になっているからである。 「多様性」に対して不寛容なのは、言葉以外でも同様である。「不自然」に対して不寛容だからこそ、人間は概念・世界(正しさ)を維持できるのである

〔参考文献〕
『ウィトゲンシュタイン入門』 永井均 1995年 ◆楽天 ◆Amazon