アメリカの多文化主義の歴史――るつぼからサラダボウルへ(1)

【本稿概要】

多文化主義(*1)といえばアメリカの代名詞ともいえる社会政策である。

しかしアメリカは最初から現在のような多文化政策をとっていたわけではない。

というのはアメリカは建国以来、英国プロテスタント文化が中心の社会であり、長いあいだアメリカ人になるということは、事実上、この英国プロテスタント文化に同化することを意味していたからである。

しかし20世紀中盤以降、この同化方式は「多様な人々」を溶かしきれなくなり、以下で説明するのような経緯をたどって多文化主義へと移行していくことになる。 ではその結果、今日のアメリカにどのようなことが起きているのか。

以下、シュレジンガーJr著『アメリカの分裂』(1991)などを参照しながら、アメリカの多文化主義の発端から現状までを整理してみた。

冷戦の終結はイデオロギー抗争の時代に終止符を打った。しかしそれで歴史の歩みが止まったわけではない。 ひとつの憎悪が次の憎悪に道を譲っただけである。 すなわち今日のわれわれは、おそらくより一層危険な対立、民族的・人種的対立の時代に足を踏み入れている。より正確に言うなら、再び足を踏み入れたというべきか。

民族の対立は、ソ連邦、ユーゴスラビアなどは言うまでもなく、世界でもっとも豊かで分別のある国の一つであるカナダでさえその例外ではない。カナダで分離主義がたびたび起こるのは、彼らが独自のアイデンティティを築いてこなかったからである。

一方、合衆国が分離主義に対して強靱なのは(少なくとも最近まではそうであった)、アメリカ人の祖先たちが、クレヴクールの言う「ごたまぜの血統人種」(6頁)を単一の人民に転換させてきたからである。

多数の中の統一(E pluribus unum) ―― 「アメリカ人」という単一のアイデンティティの構築は、かつてこの新しい大陸にたどり着き、古い伝統を捨てて新しい人生に賭けようとした人々によって成し遂げられた奇跡だったのである。

クレヴクールの時代(1900年以前)

1759年、フランス革命前のフランス、つまり専制君主制で厳しい身分制の社会からアメリカへ移住したクレヴクールは、英国人、スコットランド人、アイルランド人、フランス人、オランダ人、ドイツ人、そしてスウェーデン人などによって構成された、混血の社会にまず目を見張った。

クレヴクールはこの驚くべき社会について、その著書『アメリカ農民からの手紙』(1782)のなかで次のように語っている。

彼らは旧い因習に囚われることなく、自らの根源を断ち切って、まったく新しい文化と新しい原理にもとづいて行動する新しい人々である。ここではすべての国籍の個人が溶け合い新しい人種となっているのだ、と。

大西洋をわたった勇猛な人々にとってアメリカとは、陰鬱な過去を捨て去り、他に類を見ない平等な国民をつくりあげるための国であり、古い文化を保存するのではなく、自ら新しいアメリカ的文化を鍛え上げていく国であった。

クレヴクールをはじめとするアメリカ植民者が思い描いたこうしたアメリカの理想像は、とくに独立戦争以降、アメリカ人に広く受け容れられていくことになる。

そしてこの考え方は、20世紀に入るとあの名高いメタファを得る。

『The Melting-Pot』(るつぼ) ― 1908年、ロシア系ユダヤ人のザングウィルがワシントンで上演した劇の名前がそれである。

るつぼ理論

すべての国籍の個人が溶け合い、アメリカ人という「新しい人種」が生まれているとクレヴクールは言った。

とはいえ実際の「るつぼ」は、植民者が対等に溶け合うというものではなかった。

なぜなら過去アメリカに植民した英国人は、ライバルであったフランス人、スペイン人、およびオランダ人を北アメリカの殆どの地域で押しのけて、自分たちの価値観を基準に自由に国造りをすることができたため、この新しい国の言語、法律や制度、政治理念や文学、そして慣習や戒律は、いずれもが主としてイギリスに由来するものになっていたからである。

つまり「同化」とは、事実上、この英国系プロテスタント文化への同化を意味していた。

この同化方式は「アメリカ化」(アメリカナイゼーション)と呼ばれ、長くアメリカ人になるということは、この「アメリカ化」することを意味していた。

駐米英国大使ジェームス・ブライスは、著書『アメリカ共和国』(1888年)のなかで、アメリカの制度と習慣と理念は、あらゆる人種の新参者に対して驚くべき溶解力を発揮し、その集団に注ぎ込まれる異分子を急速に溶かして同化してしまうと書いた。

1929年にアメリカを訪れたスウェーデンのグンナー・ミュルダールは、こうした一群の理念、制度、および慣習を「アメリカ的信条」と呼んだ。 学校はこの「信条」の原則を教え、教会はそれを説教し、法廷はそれに準じた判決をくだした。この「信条」こそが非白人系少数民族を含むアメリカのすべてを結びつける絆であり、アメリカ人がその原則に恥じないように行動することを絶えず励ます拍車でもあると1944年にミュルダールは書いたのである。

しかし20世紀という時代は、この「るつぼ」への賞賛がつづく一方、それとは反対の考え方も登場させていくことになる。

ホレス・カレンの異議

20世紀の初頭までの移民の多くは、るつぼによって「アメリカ化」することについて、望ましいことだと考えていた。
なぜならアメリカ化することが、出身国の旧習や身分をうちはらって平等な市民となれる道だと考えていたからである。
1880年代から1920年代にかけて3000万人に近い新移民がアメリカに押し寄せた時代には、るつぼ理論は国民統合の神話とも言える役割をはたしていた。

しかしそのころ、今度は民族派の代弁者が現れはじめる。 ザングウィルと同じユダヤ系の人々の中に、『メルティング・ポット』を酷評するものがあらわれたのである。
その一人は、次のように言って彼の「るつぼ」を批判した。 「わが友よ、君にも私にも事態はいっそう悪いではないか。われわれもその坩堝に放り込まれて溶解されることになるのか?」と。
このように一部の、アングロサクソンの血統のものさえが、無味乾燥な英国中心主義への適応のために、個性豊かな異国人の素質が抹殺されることを嘆きはじめたのである。

またこのころ、そうした感情的な反発とは別に、現実問題として、るつぼの機能不全は露呈しはじめていた。
というのは南北戦争終結から第一次世界大戦までの間に、イギリス系とは異なる文化をもつ東欧、中欧、中国からの移民たちが増加し、彼らは小イタリア、チャイナタウン、ヨークヴィル、ハーレムなど、彼ら自身の居住地区を作り上げ、そこで故国の方法そのままではないものの、自分たちの方法で生活するようになっていたからである。

1915年、ユダヤ系アメリカ人の哲学者ホレス・カレンは、るつぼという考え方は、事実としても理想としても妥当なものではないとし、民族の絆は、自由に選択された帰属とは違って非自発的かつ不易なものだと主張した。 そして彼は、民族性は不易であり、一つの文化に同化することはできない以上、むしろ多様な文化を認めることが、アメリカ社会を豊かにするのだという評論を『ネーション』誌に寄稿する。

「人びとは、その衣服、政治、配偶者、宗教、哲学を、多かれ少なかれ変えることができよう。しかし人びとは、彼らの父祖を変えることはできない。ユダヤ人であれ、ポーランド人であれ、あるいはアングロサクソンであれ、ユダヤ人、ポーランド人、アングロサクソンでなくなるためには、自らの存在そのものを否定することになる」

「(むしろこの国は)国民文化の連邦ないし共同体……共通の諸制度を通じて自発的かつ自主的に協力しあっている諸民族の民主主義体制……統一体の中での多元性、人類のオーケストラ的な編曲にほかならぬ」

この記事は、後に、アメリカの多文化主義の萌芽をあらわした歴史的記事と見なされていくことになる。

第一次世界大戦

しかしこの頃に勃発した第一次世界大戦(1914-15)は、こうした声をかき消して「アメリカ化」に一段と強制力を与えていた。
セオドア・ルーズベルトやウッドロー・ウイルソンのような移民に対して友好的だった大統領でさえ、危機のさいには帰化米国人は彼らを受けいれた国以上にそれぞれの故国にたいし一層の忠誠心を抱くのではないかと心配したのである。

ドイツの潜水艦が「ルシタニア号」を沈没させた事件(1915年5月7日)の三日後、ウイルソンは、フィラデルフィアにおいて最近の帰化市民から成る聴衆に向けて演説をし、次のように述べた。

「あなた方は、自分をグループ本位で考えるのだったら、完全なアメリカ人にはなりきれないでしょう。アメリカはいくつかのグループで構成された国ではありません。自分がアメリカの中の特定の民族的グループに属していると考えいる人は、まだアメリカ人にはなっていないのです」

その二年後、セオドア・ルーズベルトは次のように語った。 「われわれはこの国に〝五分五分〟の忠誠をもつということは許されない。 人は、アメリカ人であってそれ以外の何者でもないか、それとも全然アメリカ人ではないか、のどちらかなのだ」と。

また彼は、この世界をもう一つ別の国の立場から見ようとするアメリカ人を非難した。そして、「われわれアメリカ人はるつぼの中の子供、そしてこのるつぼは、その中のものを一つの国民的鋳型に仕上げるのでなければ、その役割を果たしたとはいえない」と述べたのである。

ランドルフ・ボーンの移民擁護 *2

アメリカの移民の民族集団は、表面的には十分にアメリカ人になっていながら、自分たちの地位がしっかりすればするほど、祖国の文学や文化的伝統を根気強く育てようとする傾向があり、スカンジナビア人、ポーランド人、ドイツ人が、意識して自分たちの伝統文化を保存するよう努めていた。

大戦中に高まったドイツ文化排斥の機運に対して、若手の評論家であったランドルフ・ボーンは反対の立場から論陣を張った。1916年7月『アトランティックマンスリー』に寄稿した評論で、ボーンは文化にこだわる移民たちを次のように擁護した。 今日のアメリカ人は「アメリカ化」を当前視しているが、初期の植民者たちは、その後の植民者たちと同様に、植民の動機でやってきたのである。彼らはメルティング・ポットに溶解されようと思って来たのではないし、アメリカ・インディアンの文化を取り入れようとしてやって来たのでもない、と。

カレンやボーンの考えは、当時としては斬新すぎて、受け入れたのは学者や芸術家など、一部の層に限られていた。
またこうした多文化主義は、合衆国を分裂させバルカン化をもたらすと警告する者もいた。 しかし当時合衆国の政治的一体性は所与のものとされており、それが損なわれる危険性について疑う者はまだ少なかったのである

しかもこのカレンやボーンでさえ、このとき念頭にあったのは欧州系の文化だけであり、アジア系やアフリカ系を含んだ文化については、その想定には入っていなかった。 カレンは黒人に触れたのは脚注の中の一箇所だけであったし、ボーンも1916年の評論でアジア・アフリカ系については言及していないからである。*3

2つの移民法―1924年、1965年

南北戦争から20世紀の初頭にかけて、急速な産業化をとげたアメリカには、ヨーロッパやアジアの途上地域から多くの移民が押し寄せていた。しかしるつぼの機能不全や第一次大戦の経緯もあって、先住市民たちは「新移民」に対して、より強い文化的・社会的な警戒心を抱いていた。

1924年の移民法改正はこの先住市民の警戒心を反映したものとなった。すなわち、新移民の流入を抑制し、産業化、都市化以前の人口構成を保持し、アングロ・サクソン系およびプロテスタントによる支配を中核とする人種民族的、社会的、文化的秩序を守ることを目的とすることになった。この改正移民法の中核をなした原理が原国籍割当制である。

原国籍割当制の目的は、事実上、欧州以外からの移民を制限することにあった。

しかし第二次世界大戦を経てヒトラーの人種主義が批判されるようになると、原国籍割当制を続けることはむずかしくなり、1965年の改正移民法でそれは廃止されることとなった。

このあと、移民の再流入および公民権運動で黒人をはじめとする国内の少数派が本格的に社会参加するようになると、かつてカレンやボーンがとなえた(正しくは、その想定を超えた)多文化主義の時代に本格的に突入することになる。

この多文化主義はやがて新たに「サラダボウル」というメタファを得ることになる。 「多様な人々」がるつぼの中に溶かされることなく、その民族性を誇りあう、それがアメリカの強みなのだという理想をあらわすメタファである。

*1) 『アメリカの分裂』では「文化多元主義」という用語が使われているが、ここでは一般にもなじみのある「多文化主義」を用いることにした。ちなみに「文化多元主義」は私的領域における文化的自由を意味し、「多文化主義」は公的領域においても尊重されることを意味する言葉のようである(後者のほうが自由度が高い)。なおここでは簡単のため両者の区別はしない。
*2) ランドルフ・ボーンの主張については『史料で読むアメリカ文化史』(4)を参照した。
*3) 村井忠政「多元主義者によるメルティングポット論批判―メルティングポット論の系譜(2)―」PDF) p.10 ~ 「カレンやボーンの文化的多元主義にはひとつの大きな限界があった。文化を異にする移民集団の共存の形態をさまざまに論じた二人ではあったが、それはあくまでもヨーロッパからの移民を念頭に置いた議論にすぎなかったのである。クレヴクールと同様、アメリカ先住民やアフリカ系アメリカ人を具体的に視野に収めた議論をカレンもボーンもついにすることはなかった。ハイアムの指摘にもあるように、「カレンの多元主義の不完全性と偏見とは、それが黒人にどのような役割を振っているかを問われた時に露呈する。『皆無である』というのが、この問に対する答えである。……すべての『アメリカの諸民族』の集団生活について書くと述べておきながら、彼が引いている事例や主張はことごとくヨーロッパからの移民、なかでもユダヤ人の経験にもとづいていた」のである。カレンがたった一度だけアフリカ系アメリカ人について論じたのは、注意しなければ見逃してしまいそうな脚注のなかでだけであった」

〔参考文献〕
『アメリカの分裂』 A.シュレジンガーJr (訳)都留重人 1992年(原著1991年)
『史料で読むアメリカ文化史』(4) 東大出版会 2005年  ◆楽天 ◆Amazon