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社会は同じ教条的信仰(行動原理、慣習)を持つ者同士でしか成立しない。
なぜなら、共通の観念なくして共通の行動はなく、共通の行動なくしては、人間は存在しても社会はないからである。社会が存在するために、またそれ以上にその社会が繁栄するためには、すべての市民の精神が常にいくつかの主要な観念によってまとめられ、一つになっていなければならない。そして、市民の誰もが時折は共通の源泉から意見を引き出し、いくつかの出来合いの信念を受容することに同意しなければ、そうはなり得ない。
人間は、日々の生活の中の行動について、いちいち懐疑しながら実行することはできず、良しとされているものを疑わずに生活することしかできない。それは「出来合いの信念」に精神を隷属させてしまうことではあるが、だがそれは人間が本来享受すべき自由の善用を可能ならしめる健全な従属であり、望ましいものである。
平等の世紀には、貴族階級や知識人など、あらゆる世俗的権威が保持できなくなる。それに代わって「最大多数」が世俗的権威となる。なぜなら、誰もが似たような知識水準である以上、真理が最大多数の側にない(少数の側にある)とは思えなくなるからである。最大多数という権威に抗うことはむずかしくなり、それゆえ、この権威は一般意志を逆に拘束していくことになる。
平等は人を独立させるが、人間を孤立させる。その不安・不安定さがゆえに「最大多数」に盲目的に依存するようになり、思考停止に陥らせてしまうだろう。
精神をほどよく隷属させるためのもの、すなわち良質で適度な宗教は重要になる。
平等を突き詰めれば、人は孤立し、自分のことしか考えなくなる。物質的享楽を求めがちになる。宗教の最大の利点はこれと正反対の本能を吹き込むことにある。 人間の欲求の対象を現世の幸福の外、その上におかない宗教はない。社会に対するなんらかの義務、社会とともにあるべき義務を課さない宗教はない。それゆえ平等になればなるほど、むしろ宗教は重要になる。
適度な宗教は知性に健全な枠をはめるものということができる。もし国民の宗教が破壊されると、国民のもっとも知的な部分が懐疑にとりつかれ、その他の部分も懐疑のために心が半分麻痺してしまう。誰もが同胞と自分自身の最重要の関心事について混乱した移ろいやすい考えしか持たぬ状態に慣れ、自分の意見をうまく擁護できず、簡単にこれを捨て去る。人間の運命が提示するもっとも重要な諸問題を自分の力だけで解くことができないと絶望し、無気力にもそうしたことがらを考えなくなる。
このような状態は間違いなく魂を軟弱にする。意志の活力を弛緩させ、市民に隷従を受け容れる用意をさせる。このとき、市民は手を拱いて自由を奪われるに任せるだけではない。しばしば自ら進んでこれを譲り渡す。
平等に向けて最後の一歩を踏み出させたのは相続法である。
立法者が一度市民の相続関係を規定すると、彼は何世紀も安心していられる。仕掛けは自力で働き、予め示された目標ぬ向けてひとりでに進むからだ。
均分相続法は単に財産の状態に影響を及ぼすだけではない。それは所有者の心そのものに働きかけ、所有者の情念を味方につける。この間接的効果が莫大な財産、なかんずく大領地を急激に消滅させるのである。
相続法が長子相続を基礎にしている国民にあっては、所有者は大抵の場合、何世代にもわたって分割されることなく受け継がれる。相続法が均等分割を定めるときには、それは家の意識と土地の保持との間の密接な関係を断ち切る。土地は家を表すことをやめる。なぜなら、一世代化二世代経てば分割されざるをえないので、土地は絶えず小さくなり、ついには消えてしまうことが明らかだからである。
そして、感情と想い出、誇りと野心にかけて土地を保持しようという偉大な関心を所有者から奪ったその瞬間から、彼らが早晩これを売り払うであろうと確信してよい。家の意識が終わる時、利己心は現実に返り、本来の傾向を追う。
このように相続法は、家が同一の領地をもち続けることを困難にするだけでなく、そうする意思を家から奪い、家自身が自らの解体に手を貸すように仕向けるのである。
個人主義は新しい思想が生んだ最近の言葉である。われわれの父祖は利己主義しか知らなかった。
利己主義は自分自身に対する激しい、行き過ぎた愛であり、これに動かされると、人は何事も自己本位に考え、何を措いても自分の利益を優先させる。 個人主義は思慮ある静かな感情であるが、市民を同胞全体から孤立させ、家族と友人と共に片隅に閉じこもる気にさせる。その結果、自分だけの小さな社会をつくって、ともすれば大きな社会のことを忘れてしまう。
利己主義はあらゆる徳の芽を摘むが、個人主義は初めは公共の徳の源泉を涸らすだけである。だが、長い間には、他のすべての徳を攻撃し、破壊し、結局のところ利己主義に帰着する。
貴族的な国民にあっては、諸家族は何世紀にもわたって同じ状態のままにあり、しばしば同じ土地に住み続ける。このことは、あらゆる世代をいわば同世代にする。人はほとんどつねに祖先をしっており、祖先を尊敬している。生まれてもいない曾孫を目に浮かべる思いで、これを愛する。祖先や子孫に対する義務を進んで自分に課し、しばしば自分の楽しみを犠牲にして世を去った人々や生まれ来る人々のために尽くす。
民主的世紀は逆で、誰もが個人として人類に負う義務は明確だが、一人の人間に対する献身は稀になる。人間的感情の絆は広がり、かつ緩むのである。
民主的な国民にあっては、新たな家族が絶えず無から生まれ、別の家族は絶えず無に戻り、、残ったものすべて姿を変える。時の流れは刻々断たれ、過ぎた世代の名残は消える。人は先だった人たちをすぐに忘れ、後に続く人々のことはなにも考えない。すぐ近くにいる人だけが関心の対象である。
このように、デモクラシーは祖先を忘れさせるだけでなく、子孫の姿を見えなくし、一人一人を同時代の人々から引き離す。それは各人を絶えず自分だけのところに引き戻し、ついには自分ひとりの孤独な心に閉じこもらせてしまう恐れがある。
モンテスキューは、専制に固有の力を付与することによって、これにふさわしからざる名誉を与えたのではないかと思う。専制は、それだけではなんら持続的なものを保ちえない。近くで見れば、絶対的な政府を長期にわたって繁栄させたものは宗教であって、恐怖ではないことに気づく。
何事をなすにせよ、人間社会の真正な権力は意志の自由な協力のうちにしか認められぬであろう。そして、すべての市民をあまねく一つの目的に向けて長期間歩ませうるものは、愛国心か宗教しかこの世にない。
消滅しつつある信仰を法律で生き返らすことはできない。だが人々の関心を国の運命に向けさせるのは法律の仕事である。人の心から決して消えることのない祖国を愛する漠たる本能を目覚めさせ、導くこと、そしてこれを日常の思想、情熱、習慣に結びつけ、落ち着いた持続的な感情に仕立てること、これは法律次第でできることである。そしてこれを試みるに、時すでに遅しと言ってはならない。国民は個々の人間と同じように年をとるわけではない。つぎつぎと生まれ出る世代は、それぞれに立法者の助力を求めにやってくる新しい国民に等しい。
奴隷制がなお存在する南部では、それほど注意深く黒人を分離しない。彼らが白人の仕事や娯楽を共有することもある。ある程度彼らと一緒になることにも同意がある。法制は黒人に対して北部より厳しいが、習慣はより寛容でより柔軟である。 南部では、主人は奴隷を自分の位置にまで引き上げるのを恐れない。その気になればいつでもこれを塵芥の中に放り出せることを心得ているからである。
北部では、白人は自分を劣等人種から分けるべき障壁がはっきり見えず、いつの日か黒人と混じり合ってしまうのを恐れるだけに、それだけいっそう注意深くこれから距離をとる。
したがって合衆国では、黒人を遠ざける偏見は黒人が奴隷でなくなるにつれて増大するように思われ、法の不平等が消えれば消えるほど、習俗のそれは深刻化する。
白人と解放黒人が同じ土地に互いに異民族のように住むことを受け容れた瞬間から、将来に二つの可能性しかないのはたやすく分かる。黒人と白人は完全に混じり合うか、分離するかである。
しかしヨーロッパ系の人々がいつか黒人と混じり合うと期待する者は、私には空想を弄んでいるように思われる。私の理性はこれを信じさせず、これを示唆する何事も事実の中に見いだせない。 どこの国でも、白人人種と黒人人種とが対等に暮らすようになるとは考えられない。
これまでのところ、白人の力が強かったところではどこでも、白人は黒人を卑しめ、あるいは奴隷にした。黒人の力が強かったところではどこでも、黒人が白人を打ち破った。これが両者の間で交わされた唯一の取引計算である。
※抜粋箇所は暫定的なものであり、適宜変更・改訂する場合があります。