はじめに
『大草原の小さな家』は、主人公である白人の少女の素朴な視点からの描写を魅力とする西部開拓時代の物語である。
私は幼少期にNHKでこのドラマを見て以来、ひとつの疑問があった。
それは、白人、黒人、先住民、移民等々さまざまな人種によって構成されているアメリカ社会にとって、『小さな家』はいかなる位置づけになっているのかという疑問である。
そして『小さな家』は、多文化社会・アメリカの中で、徐々に敬遠されていくのではないかという趣旨のことを前に書いた。(→多文化主義への懐疑 ― 私の原点『大草原の小さな家』)
その後、あらためて調べてみたところ、この物語が現代アメリカ社会で、まさにその意味において「大きな」問題になりつつあるという事実を、ローラ・I・ワイルダー研究会会員で『小さな家』についての著書もある服部奈美氏のサイトでみつけた。
そこで本稿では、服部氏のサイトを参照しながら、米国社会における『小さな家』の位置づけと今後の展開について考えてみることにした。 なお服部氏に迷惑がかかると困るので最初に断っておくと、私がここで書くことは氏の意見の要約ではない。 氏が記している事実から判断して、今後アメリカ社会がどのような方向に進むだろうか、という私なりの予測になる。
では、以下本文――
『小さな家』をめぐる「小さな」論争
『小さな家』をめぐる論争は、1990年代、先住民側からその表現に注文がついたところにはじまる。
その注文とは、先住民の描き方が野蛮すぎる、人扱いでないといった類いのものであった。やがてこの論争は図書館や学校教材から『小さな家』を排除する運動にまで発展した。
ドリスが批判的なエッセイを発表する以前にも、ルイジアナやアルバータ(カナダ西部の州)の先住民から「小さな家」にクレームがつけられていたが、社会的に地位のあるドリスの発言は大きかった。 時はくしくもポリティカル・コレクトの時代。「ハックルベリー・フィンの冒険」「二十日鼠と人間」「ライ麦畑でつかまえて」といった名作が次々と槍玉に挙げられていく中で、「小さな家」の排斥の動きも高まっていった。その多くは学校図書館と授業から「小さな家」を締め出すよう訴えるもので、それをめぐってさまざまな論議が引き起こされるようになった。
出典:アメリカ人の「大草原の小さな家」第四章〔甲〕 ~ 先住民論争
この問題を「小さな論争」というと怒る人がいるかもしれないが、ここでそう表現したのは、この問題が今後より普遍的で「大きな論争」へと発展する可能性があるからである。
すなわちこの問題は、「人間は誰の歴史に共感を持つのか」という人間の普遍的心理に関わってくる問題だからである。
『小さな家』を待ち受ける「大きな」運命
『小さな家』のドラマが作られた1970年代というのは、アメリカの白人人口が8割を優に超えていた時代である。そのころの『小さな家』はアメリカ人にとって、まさに「われわれの物語」だった。
そんな白いアメリカを知ったとき、私はとんでもない思い違いをしているのに気がついた。 「『小さな家』は私たちの歴史なのよ」ーーーこの言葉は私が渡米して以来、ありとあらゆる文献から、さまざまな「小さな家」ファンから、作品の舞台となった地元の人々から繰り返し聞かされてきた。 彼らが「小さな家」をアメリカ史というとき、二つの意味を含んでいる。一つはシリーズを貫いている開拓魂が、アメリカ人の精神的な根源を表しているという意味、もう一つは開拓時代の生活や出来事をつぶさに伝えているという意味である。 私は時間をかけて彼らの言葉をゆっくりとかみ砕き、こう結論づけた。 「歴史というのは過去のことだと思いがちですが、過ぎ去ってしまった過去ではなくて、現在とつながっている過去なのです。ですから、この物語は今でもアメリカ人の生活の一部でもあるのです。ローラのポリシーは祖先から受け継いだ大切な遺産だから、こんなに深くアメリカの土壌に根を張っているのです」 (出典)〔甲〕 ~ 白いアメリカ
ところが『小さな家』は「われわれの物語」という地位からまもなく脱落することが決まっている。
なぜならアメリカでは2040年代に白人人口が50%を割ることが確実視されているからである。
すなわちアメリカ人の過半数にとって『小さな家』が正式に「無関係の過去」となるからである。
服部は1993年の著作で、この迫りくる大きな転換以降、『小さな家』は人気を保ち続けられるのかと懸念を表明している。
拙書「大草原の小さな家の旅」(93年刊)で、私は白人中心の「小さな家」が、少数派が力を持ち始めた時代に、高い人気を保ち続けるかどうか、疑問を投げかけた。 アニタ・フェルマン教授もアメリカン・ガールが人気を誇る時代に、白い「小さな家」が生き残れるかどうか、疑問を呈している。 (出典)多文化時代の「小さな家」〔乙〕
白人プロテスタントの人々が共感してきたこの物語が、アメリカ人にとって「われわれの歴史(物語)」でなくなったとき、はたしてどのようなことが起こるだろうか。
『小さな家』が排除される可能性
白人プロテスタント(WASP)が圧倒的多数を占めていた時代には、『小さな家』に描かれた光景は「アメリカ人」にとって「われわれの歴史」だった。そこに疑問の余地はなかった。
しかし異文化集団が国民としての地位を確立すれば、服部もいうように、白人種しか共感できない物語を「われわれの歴史」として教えるのは難しくなるだろう。異文化集団たちも、その「われわれの歴史」に「同じ国民」として「対等に」対抗してくるからだ。
「小さな家」ファンの言うアメリカやアメリカ人には、白人のプロテスタントしか含まれないのだ。彼らの発言に耳を傾けていると、まるでアメリカには、黒人も先住民も東洋人もユダヤ教徒もいないかのような印象を受ける。意識するとしないとに関わらず、彼らは白人プロテスタントによる西部開拓のみを正統化しているからだろう。だから、少数派を締め出すのだ。それは多民族国家アメリカの多様性を否定することでもある。 (出典)〔甲〕 ~ 白いアメリカ
開拓時代はヨーロッパ系が大多数を占めていたのだから仕方がない、歴史は変えられないというかもしれない。 でも、アメリカ史の授業は国の成り立ちを学ぶだけでなく、子どもたちにアメリカ人としてのアイデンティティや誇りを育てる目的もあるはずだ。子どもたちの中にはアメリカ人なのに、アメリカの過去と自分をつなぐことが出来ない子がいる。彼らを除外したまま授業を進めていいのだろうか? (中略)
黒人が大統領に選ばれる時代に、白い「小さな家」はどう生き残って行くのだろう? 「小さな家」に関わる教師や図書館員や研究者は、保守的なキリスト教徒が主流だ。彼らが、白い「小さな家」から多文化主義への切り換えが出来るかどうか、少数派にどう対応していくかが鍵になるだろう。 そうしなければ、先住民論争が火花を散らした九十年代のように、図書館や教室から「小さな家」を排除する要求が、再び出されるかもしれない。 (出典)〔乙〕
1990年代は『小さな家』に含まれる表現が「排除」のきっかけとなった。では今後、アメリカで白人が半数以下になったとき『小さな家』は、いかなる理由で排除されうるだろうか。 それはおそらく、多文化主義の作法に則って、『小さな家』を「われわれの歴史」と表現するのは差別である(少数派抑圧である) という論法によって排除されうると私は予想する。
アメリカの未来
『小さな家』をうしなったアメリカの未来は2つの道が考えられる。
ひとつは、多様な人々がそれぞれの「われわれ」の中に閉じこもり、それぞれの集団ごとにその集団の歴史や文化を守ろうとする道である。
この場合、アメリカ人同士の溝はますます深まることになるだろう。 *1
またもうひとつの道は、過去をすべて忘却して、全員がひとつの「アメリカ人」として生きるという道である。
『小さな家』が隅に追いやられ、ディズニーのような架空話や『24』などの現代ドラマばかり作られている今日の状況は、この第二の道をすすもうとしているようにみえる。
第二の道をすすんだ場合は、多様な人々とすべての文化が「平等に」融合して、WASPそのままの文化は消滅することになる。 その場合、これまでのアメリカ文化とは別のネオ・アメリカ文化が生まれることになるだろう。それがどのようなものであるのか、良いものであるのか悪いものであるのか、まだ誰にもわからない。
ミラン・クンデラ『笑いと忘却の書』のなかに次のような一節がある。ネオ・アメリカとはこの道のことである。
「一国の人びとを抹殺するための最初の段階は、その記憶を失わせることである。その国民の図書、その文化、その歴史を消し去ったうえで、誰かに新しい本を書かせ、新しい文化を作らせて新しい歴史を発明させることだ。そうすれば間もなく、その国民は、国の現状についてもその過去についても忘れ始めることとなるだろう」 (訳文はA.シュレジンガーJr.『アメリカの分裂』56頁より)
今日のアメリカは、保守派が第一の道、リベラル派が第二の道を志向しているようにみえる。結果がどうなるかはわからない。
多文化主義の正体
多文化主義がもたらす結果とは何であろうか。
第一の道の場合、ある文化が別の文化によって存在を脅かされるのであるから、侵略である。
かつてインディアン(文化)はWASPによって軍事的に侵略された。今日はWASP(文化)が多文化主義によって「民主的に」侵略されつつある。
第二の道の場合、建国の歴史を忘れ、建国以来の文化を忘れるということであるから、民族抹殺・文化破壊である。
今日とかく称揚される「多文化主義」は、平等・多様性という反論困難な美名によって、あたかもそれが素晴らしい普遍の真理であるかのような顔をしてやってくる。 しかし結果を見ればその正体は明らかである。
多文化主義とは侵略・文化破壊の思想にほかならない。
アメリカは統合できるか
服部は、白人種によって築かれた歴史の中に、お茶やスパイスなど、移民たちと関わりのあるモノを織り込むことによって、移民にもアメリカ史に興味をもたせることができるかもしれないと期待している。だがそれはうまくいかないだろう。
たしかに開拓時代はヨーロッパ系が多数を占めていた。でも、少数派の子どもたちとアメリカの過去をつなぐことは、可能だと思う。たとえば、お茶やスパイスはインドから輸入された貴重品だったし、中国の青磁器はヨーロッパの磁器の製法に大きな影響を与えた。食事の煮炊きのように、どの国でも行われているものなら、アメリカと他国との共通点や相違点をあげることも出来る。たとえ彼らが過去に含まれなくても、接点をみつけることはできる。その接点をつなぎ止めるようにすれば、子どもたちの自尊心とアメリカ人の自覚を育てられるのではないだろうか?(出典)〔乙〕
なぜならそこには人物(人々)がいないからである。人物(人々)がいなければ「われわれの歴史」と感じることはできない。 それは漢字やお茶が含まれているからといって、中国人が日本史を「われわれの歴史」と感じるかを考えてみればわかるだろう。*2
仮にアメリカ史にさまざまな人物を織り込んで、形式的に統合できたとしても、それを見る人々の主観では別々のままになるだろう。 アメリカは2020年、「建国の英雄」だけで占められていた米ドル札の肖像画に、ハリエット・タブマン(奴隷解放、女性解放運動家の黒人女性)を採用することを決定した。しかしこのことは逆に、人種ごとに共感の対象が異なるという事実を証明してしまっている。
結局、白人はイギリスから入植してアメリカを建国した歴史の中に、黒人は奴隷解放と公民権運動の歴史の中に、先住民は先住民の中に、移民は移民してきた人々あるいは祖国の人々の中に、それぞれの「ヒーロー」を見出そうとする。それが人間の自然な感情だからである。
だからこそ、「多様な人々」が心から統合されることはない。
アメリカが統合されるとすれば、こうした過去を古代アメリカとして切り離し、「多様なアメリカ人」のなかに共通のヒーローを見出して、ネオ・アメリカとして新たに出発するほかはない。
しかし、それが可能なのか、できたとしてそれが幸せな未来なのか、誰にもわからないのである。
(終)
*1) 「文化戦争は終わらない。文化戦争は決して終わることがない。それは正しいものと誤っているものとの衝突だからである。それは神と現世、善と悪との戦いである。文化戦争は永遠にわれらとともに生きる。チルトン・ウイリアムソン・ジュニアは述べる。「先進的リベラリズムは、合衆国を新しいアメリカと古いアメリカに分ける。その分裂が近い将来に解決されるとは思えない。それはもっともっと固定化し厳しくなるのだ」 P.ブキャナン『超大国の自殺』(509-510頁)
*2) 引用部分に続けて、服部は次のような思い出話を述べている:「私がそう思うようになったのは、トロントの開拓記念館で、ガイドに連れられた学校教育プログラムの子どもたちを見てからだ。小学校三年生の、全員がアジア系カナダ人のグループで、ほとんどがインド系やパキンスタン系、それに数人の東洋系(おそらく中国系)が混ざっていた。(中略)「お茶はインドや中国から輸入されて高価だったので、この箱にいれて鍵をかけておきました」と言ったとたん、子どもたちの表情が変わったのだ。全員、ガイドの方を向いて、いかにも嬉しそうな、何ともいえない表情になった。ガイドのひと言が子どもたちに誇りを与えたのは明らかだった」(出典乙)。――しかし服部はここで重大な事実を見落としている。それは、そのとき「中国系カナダ人」の子供たちが感じた誇りとは、カナダ人としての誇りではなく、中国人(中国系)としての誇りであったという事実である。
〔参考文献〕
『超大国の自殺』 パトリック・ブキャナン 2012年 ◆楽天 ◆Amazon
『分断されるアメリカ』 サミュエル・ハンチントン 2004年 ※今は文庫版が出ています ◆楽天 ◆Amazon
『アメリカの分裂』 A.シュレジンガーJr 1992年(原著1991年)