反・社会契約論(2): ルソー「一般意志」概念の考察

(2022.1)一部用語を修正しました。

はじめに――問題の所在

ルソー(1712-1778)が『社会契約論』(1762)で提示した「一般意志」という概念は、市民間における公正な法律の基準とは何かについて述べたものとされ、今日の法哲学においても重要な地位を占めている。
ところがこの一般意志についてルソー自身は抽象的な説明しかしておらず、そのため一般意志が具体的にどのようなものなのかについて、またとくに全体意志(後述)とどのように違うのかについて、今日においてさえも、曖昧な説明がなされていることが多いようである。

ところでルソーと同時代の人に、スコットランドの哲学者D・ヒューム(1711-1776)がいる。
ルソーがヒュームの『人間本性論』(1739,1740)を読んでいることは考えられるのだが、実際『社会契約論』(1762)の記述と比較してみると、ヒュームのconvention概念が「一般意志」に影響を与えているように思われた。

そこで本稿では、ヒュームのconvention概念を手掛かりにして、ルソーの一般意志の「謎」を解明したいと思う。
そうして一般意志の謎が解明されると、ルソーが『社会契約論』で目指したところのものも明らかになるだろう。

では、以下本文――

※ヒュームの convention/human conventions は「非主体的で自明的な一致」を意味する。詳しい説明は前頁を参照のこと

ルソーによる「一般意志」の定義

まずルソーの一般意志の定義を確認しよう。
『社会契約論』において、法律とは一般意志に沿って制定されねばならないとされ(§2.2)、そして一般意志とは、次のようなものであると抽象的に定義されている。

A. 党派性のないものが一般意志である (§2.2、§2.3)
B. 一般意志は個別意志の総和である全体意志とは異なる (§2.3)

それぞれの意味を確認しよう。
まずAは所謂法の一般性・中立性原則を述べた部分である。これは――
法律とは人々を抑圧するものであるが、多数派の都合で定められた法律は必然的に、少数派を不公平に抑圧することになってしまう。したがって対等な市民間の法律と言えるためには党派性があってはならない(一般意志に基づかねばならない)――という趣旨である。

次にBは、一般意志は全体意志とは異なる(ので両者を混同しないように)というルソーの注意である。個別意志の総体である全体意志は一種の多数決によって導出されると思われるが、多数決は必ず党派性を帯びるので(∵必ず賛否が含まれるので)、そのような全体意志と一般意志が異なるというのは、Aからの論理的帰結としても理解できよう。

しかしABのような抽象的な説明では、実際問題、一般意志が全体意志とどのように異なるのかわからないし、党派性のない一般意志とは結局どういうものなのかも要領を得ない。

さらに『社会契約論』を読んでいくと一般意志に関して次のような記述がみつかる。(順不同)

a.社会の構成員はその権利をすべて共同体に譲渡し、一般意志の最高指導の下に置かれなければならない(§1.6)
b.構成員は一般意志に服従することが強制される(§1.7)
c.主権(立法権)とは一般意志を定義する人民の実践のこと(§2.1、§2.4)
d.市民[Citoyens]は主権行為に参加する主権者[souverain]であり、それに服する臣民[sujet]でもある。(§1.6)
e.一般意志(主権)を代表することは誰にもできない。代議士は一般意志の代表者ではない。(§2.1、§3.15)
f.法律は一般意志に沿って制定されなければならない(§2.2)
g.立法機関は一般意志に拘束される。議員は主権者の付託をうけて法律を制定する使用人にすぎない(§3.15)(※選挙の時だけ主権者が尊重され、その後無視されがちなイギリスの議会制度=議会主権に対する批判)
h.主権は分割することも、譲り渡すこともできない。(§2.1、§2.2)
j.一般意志は常に正しく、つねに公の利益[l'utilite publique]を目指す傾向[tend]がある。一般意志は共通の利益[interet commun]だけをこころがける。(§2.1、§2.3)
k.一般意志は皆が思っていることなので、口に出すだけでよい。雄弁は必要ない。(§4.1)
m.一般意志は破壊できない。(§4.1)

!?一般意志は常に正しく公益を目指すので、人々は共同体にすべての権利を譲渡して、一般意志に服従すればよい??
こうしたルソーの記述からすると、一般意志とはずいぶん都合のよいもののように思えるが、果たしていったいそれが何であり、どのように見出されるのかについては、やはり具体性を欠いているのでまったく分からないのである。 このため一般意志とは何かについての解釈が、人によってかなり差があるようなのである。

では「一般意志」の解釈について筆者の見解を述べる前に、まず割とよく見かける解釈から説明しよう。

(Ⅰ)近代主義的解釈

一般意志とは、理性的合理的「個人」が、党派性がなくなるまで(相殺されるまで(*1))議論をして、つまり党派性がないような一致点を理性的で論理的な議論を通じて、見出していくもののことである――このような種類の解釈をここでは、一般意志の近代主義的解釈と呼ぶことにしよう。

しかしこの解釈では、全体意志と一般意志の違いが――定義としては依然明確であるものの実際問題として――明確ではないし、そもそも党派性がないような一致点を議論によって見出すことは可能なのか?という根本的な疑問を感じざるをえない。(たとえば中絶反対派と中絶賛成派が議論をしたとしてどのような一致点を見出せるというのだろうか??不可能だろう)

それに、はたしてこのような近代主義的解釈によって、a.~m.までの説明を整合性を持って読むことができるかというと、かなり疑問だろう。 たとえば(k)「一般意志は口に出すだけでよく、雄弁は必要ない」と明らかに合致しないのではないだろうか?

(Ⅱ)ポストモダン的解釈(ヒューム的解釈)

これに対して筆者は、一般意志を、人間がもつ人間の論理(人間本性)から非意志的に生じる自明的な慣習(convention)であると解釈する――これを一般意志のポストモダン的解釈と呼ぶことにしよう。

筆者が一般意志についてポストモダン的解釈をとるのは、そのように解釈するとルソーの意図が理解できるからである。

一般意志とは何か

さて、『社会契約論』の冒頭、第一章第二節に次のような説明が出てくる。

§1.2 親は子を養う義務、子は親に従う義務がある。子が成長するとこの自然の結びつきは解消するが、それでも一定の関係が続くのは、それが自然ではなくvolontairementによるものだからだ。家族はconventionによってのみ維持されている。家族は最古の自然な社会である。(抄訳) (*a)

ここで使われている2つの単語に注目しよう。

・volontairement(自発的に)
・convention(慣習、約束)

多くの邦訳では、ルソーのconventionが「約束」「合意」などと訳されており、岩波文庫版でもここのconventionは「約束」と訳されているが、しかしconventionはもともと「慣習」という意味なので、volontairement(自発的に)と併せて解釈すれば、この部分は、次のような意味に解釈できよう。
すなわち、家族というものは、一定の人間関係を形成する性向をもつ生物すなわち人間のvolontaire(自発的)な関係であり、それが人間のconventoin(慣習)になっている、と。(ここでいう「性向」は、主体的意志によっては変更できない種類の、人間本性的な(→*a)、心理的な傾向という意味で使っている)

さて、前置きが長くなったが、ここで一般意志の原語が volonte generale であることに着目する。

そして volonte が volontairement と語源を同じくする(ラテン語のvoluntas)ことを考慮すると、volonte generale は「一般意志」というよりは「一般的自発性」というような意味であると解釈することもできる。
そして§1.2において「convention(慣習)が volontirement(自発性)に基づいている」という対応関係になっていることから考えると、「human conventions(人間の慣習) が volonte generale に基づいている」という対応関係を考えることも可能である。またこのとき volonte generale(一般的自発性)を<人間の論理>(→前頁)と見なすことは不自然ではない。

そして簡便のために、volonte generale(一般的自発性)を<人間の論理>およびその現れである human conventions(人間の秩序・慣習・常識)と重ねて読んでしまうと(重ねる理由は直下に記述)、AB、a.~m. についても整合性のある説明が可能になる。

【重ねる理由】 『社会契約論』ではルソー自身が volonte generale を 人間の論理/human conventions のどちらの意味にも用いているように見えるので、ここでは簡便のため思い切って重ねてしまい、まとめてvolonte generale=convention(慣習)と読んでしまうことにしよう。(その方が説明しやすいので)

(※一般意志≒conventionの根拠についてはまた後でも補足するが、まずは以下、この解釈で意味が通ることを確認しよう)

すると、たとえば(d)「市民は主権者であり同時に臣民である」というのは、人々は主権者(souverain)として一般意志(≒慣習)を定義する権能をもつと同時に、一般意志(慣習)に服従を強制される臣民(sujet)でもあるという意味だと解釈することができる。
そして(a)~(d)(f)は、たとえば我々は、convention的(一般意志的)に生じてきた所有権をはじめとする様々な権利について(→前頁参照)、法律(一般意志)に基づいて裁定される権能を裁判所に「譲渡」すること、そしてその判決に服従することが強制される等のことを意味していると解釈することが可能である。
(実際、今日のわれわれはこうしたことを普通に受け容れているではないか?なぜならそれが「一般意志」だからだ!)

また(i)「常に正しく、公益を目指す傾向[tend](*2)がある」の意味については、次のように考えれば分かる。
たとえば<先占した者に所有権を認める><殺人は窃盗よりも重罪><婚姻・親族関係の範囲と態様>等々について、われわれはいちいち合意・議論・多数決をする必要を感じない。なぜならそれらは人間の本性的な一致であり、議論するまでもないくらいに自明なことだからである。 人間にとって議論するまでもなく「自明」なこと(一般意志≒慣習)であれば、それを法律で定めて、その安定性を確保することは「常に正し」く、いわば自動的に「公の利益」を目指すことになるはずである。

このように一般意志(≒慣習)は、人間が自明的に一致するところに生ずるものなので、その意味で一般意志は必ず公益[interet commun]の実現に向かう傾向[tend]があるのである。(―この説明で不足な人は、下の「補足」の中にも説明があります)

さらに、このような一般意志(≒慣習)は、当然、「口に出すだけで表現され、そこに雄弁は必要ない」(→k)。
また一般意志(一般的自発性)が、単なる個別意志(個人の嗜好・性向・意見)の総和である全体意志とは性質(次元)が異なる(→B)ことも理解できよう。*3

以上、ルソーの一般意志をポストモダン的(ヒューム的)に解釈すれば、すなわち一般意志をhuman conventionsを形成していく人間の基本的一般的性向(人間の論理)、あるいは簡便に一般意志(volonte generale)≒慣習(convention)だと読めば、意味が通ることを確認できたのではないかと思う。

一般意志とは、党派性がなくなるまで議論することで見出されるようなもの(近代主義的解釈)ではない。
筆者の見るところ、そもそも党派性が出ないようなものを一般意志と呼ぶのである。 党派性のないものの典型は慣習(convention)であるが、慣習は<人間の論理>が一致するところに生じるものなので党派性がないのである。

(――なおルソーがconventionそのままでなくvolonte generaleと言い換えたのは、conventionだと意味が習俗的な範囲に限定されがちなのに対し、ルソーが意味したかったところのものは、所有権など、より広範囲な「慣習的事実」を含むために、敢えて言い換えたのではないかと想像する)

【補足】 一般意志≒conventionとするその他の根拠

一般意志とconventionの類縁性について、他の根拠文: "volonte qui determine l'acte."

volonte generale とconventionの類縁性について本文では§1.2原文の文言から説明したが、他の根拠文を示しておこう。
§3.1に "volonte qui determine l'acte." という文が出てくる。それに続いて、" ~ j'y veuille aller."(私はそこに行きたい)と補足的に例文が出てくる(veuilleは英語のwant)。つまりvolonteは、その行動(l'acte)を引き起こすような欲求(vuille)と結びつくような種類の単語だという説明がなされているのである。
ところで「きまる」という意味の単語には determine の他に decider があるが、decider は選択肢がある状況で、検討した上でどれにするかを主体的に決めることである。それに対して determine は「月着陸に感動し、将来宇宙飛行士になることを決意した」「部屋の大きさによって定員が決まってくる」のように、主体的に制御できない外的な条件によって判断が実質的に限定される(決まる・定まる)ようなニュアンスを含んでいる。
人間が牛丼屋に行くときには牛丼を食べたいと思う(veuille)ことが必要であるが、そのときにはすでに牛丼屋に行くという行為(l'acte)はすでに運命づけられている(determine)。それは決してラーメン屋やカレー屋との選択の結果の決断(decider)ではない――このように主体的に制御できない内発性・決定性によって人間の行為(acte)を決定(fix)するのが volonte というわけである。
人間の行為をdetermine(fix)するvolonteは、§1.2で家族という人間関係をconventionとして運命づける(fix)する「volontairement(自発性)」と繋がる。
以上のようにvolonteを理解すると、volonte generaleとは一般的内発性という意味であり、その「内発性」は<人間の論理>に由来し、人間を固定的実践に導くものである、と読むことができる。実際「一般意志」をそのように解釈すれば意味が通るのは、本文で検討したとおりである。

「公共の利益を実現する傾向」から読み解く一般意志とconventionの類縁性

ルソーの「一般意志はつねに正しく、公の利益[interet commun]を目指す傾向をもつ」(→(i))について、これだけ読むと理解に苦しむが、じつはヒュームの『人間本性論』にも似た記述があり、それが理解の助けになる。

まずヒュームは『人間本性論』第三巻§2.2において共通の利益[common interest]という単語を使い、それがconventionの元になっていると述べている。(→§conventionとpromiseの違い

また§3.1において、社会における美徳とは――すこし意訳して要約すると――所有権や正義の観念(→前頁)と同様に voluntary convention(≒人間の論理)に由来し、自発的・自明的に一致しながらartificial(営為的)に生じるものであって、それゆえに美徳は、所有権や正義と同じように、社会にとっての善[the good of society]に向かう傾向[tendency]をもつと述べている。これは次のように考えてみれば、およそ納得できよう。

――われわれは普通、嘘をつかない人に「快」を感じ、嘘をつく人に「不快」を感じるが、しかしこれは逆でもよかったはずで、それではなぜ人間にとって嘘をつかないことが「快」をもよおす美徳となっているかといえば、おそらく嘘をつかない集団の方が生き残ってきたからである。嘘をつかない人に「快」を感じるように人間は文化的に(あるいは現代の言葉を使えば進化論的に)進化した――この「美徳」と同じように考えると、「一般意志は必ず公益に向かう傾向を持つ」の意味がわかる。つまりそれは、絶対的に正しい方向(真理)に進むという意味ではなく、皆が自明(快)だと思う方向と、皆が正しい(善)と感じる方向は常に重なるので、一般意志は必然的に公益(善)を実現する方向を目指すということである。

(もっと卑近な例→和音と不協和音はそれぞれ「快」と「不快」。和音が一般意志。和音からよい音楽(善)が作られる傾向があるのは必然)

このようにヒュームとルソーを対比しながら読むと、その記述の類似性から、ルソーの「公共の利益を実現する傾向」の意味と機序が理解できるし、conventionとvolonte generaleの類縁性も見えてくるのである。

正義は実際、その目的でartificialに考案されたものである。同じことが忠誠、諸国民の間の法、慎み、品の良さにも言える。これらはすべて社会の利益[interest of society]のために人間が工夫したものである。(『人間本性論』第三巻§3.1)

自然な徳の多くが社会にとっての善[the good of society]に向かうこの傾向[tendency]を持っていることは、誰しも疑い得ない。 (同§3.1)

法と正義の仕組み全体は社会に利点[advantageous]をもたらすのであり、人々が随意に行う合意[voluntary convention]によってそれを確立したのは、この利点を目指してなのである。(同§3.1)

余談:この「一般意志は公益と重なる」という話は、じつは『社会契約論』の冒頭にも出てくる。

わたしは、人間をあるがままのものとして、また、法律をありうべきものとして、取り上げた場合、市民の世界に、正当で確実な何らかの政治上の法則がありうるかどうか、を調べてみたい。わたしは、正義[jistice]と有用性[utilite]が決して分離しないようにするために、権利[droit]が許すことと利害[interet]が命ずることとを、この研究において常に結合するように努めよう。(『社会契約論』§1)

『社会契約論』の主題のひとつは、神や君主の指導がなくとも、人間はその本性に従うだけで、つまり個々人が自分や社会への関心(utilite,interet)に注意を払うだけで(無秩序で悲惨な社会ではなく)公正(justice,droit)な秩序のある社会を構築できる――すなわち両者は分離せず結びつく――ことを示すことにあった。ルソーはそのことを冒頭で宣言しているのである。(もう一つは「市民が誰にも支配されない基準とは何か」で、つまり市民平等の「正当な基準とは何か」を示すことであり、引用の前段がそれを示唆している)

※因みに「功利主義」の原語は utilitarianism である。JSミルは功利主義に従うことが道徳原理だと述べている。

『社会契約論』が目指したもの

一般に「社会契約」といえば、秩序や権利のすべての根拠を「合意」に求めたものだと思いがちである。(→Ⅰ)

しかしルソーにとって社会秩序や権利は、ヒュームと同様に、人間の意志的な「合意」(約束)に基づくのではなく、社会的な相互作用によって「一致」しながら編み出されてゆく非意志的で自発的なconvention(≒一般意志)に基づくものなのである。(→Ⅱ)

社会秩序[l'order social]は他のすべての権利の土台となる神聖な権利[droit sacre]である。しかしながら、この権利は自然から由来するものではない。それはだからconventionsに基づくものである。これらのconventionsがどんなものであるかを知ることが問題なのだ。(§1.1)

家族はconventionによってのみ維持される。家族は最古の自然な社会である。(§1.2抄訳) (*a)

社会契約の本質は次の言葉に帰着する。「我々の身体とすべての力を一般意志の最高指導に委ねる」(§1.6抄訳)

主な邦訳でこのconvention(s)が「約束」「合意」と訳されていることが誤解の元になっている

§1.1~§1.2に出てくるconvention(s)を、邦訳に素直に従って「約束」(合意、契約)の意味で読むと――これが『社会契約論』の冒頭に置かれているが故に――うっかり、秩序や権利や人間関係は(意志的・主体的な)「約束」に基づくものであり、それがルソーの「社会契約」の趣旨である、と読んでしまいがちだが、これは誤読である。
なぜならルソーの「社会契約」に対応するのは、§1.6の「一般意志(volonte genrerale)に従う」(ことに同意すること)であって、§1.1や§1.2の「約束」(すること)ではないからである。

そして本文で説明したように、volonte genreraleとはconvention(慣習)のこととみなせるから、つまりルソーのいう社会契約(pacte social)とは、§1.1や§1.2で示されているような――「約束」をすることではなく――「慣習」(convention)に無条件に従うことに同意すること、なのである。

神(教会)や君主によって「支配」されるのではなく、市民が自らを統治することを目指した場合に、その強制力(とくに法律)の正当な基準を「一般意志」(≒人間が人間的に(非意志的・非主体的に)作り上げてきた慣習)に求めよう、というのがルソーの社会契約論の本旨である。

(追加理由1) もしconventionが意志的な約束なら「どんなものかを知ることが問題」(§1.1)は違和感がある。conventionが非意志的・無意識的なものだからこそ「(法律化するためにはそれが)どんなものかを知る(意識する)ことが問題」になるのである。

(追加理由2) ヒュームが言うようにconventionと無関係なpromiseは存在しない(→前頁)。家族もvolontairementなconvention(慣習)が先であって、promise(約束)が単独で先行するのではない。§1.1,§1.2のconventionには権利秩序に関するこうした根源的な洞察が含まれているので、「約束」という訳語を当てるのは不適当である。

ヒュームとルソーはどちらも人間のconventionを基軸とした人間中立的(ヒューマン・ニュートラル)な社会の構築を目指したという点で通底している。
ヒュームが「合意」(promise)ではなくconventionを社会秩序や権利の基盤としたのは、conventionが人間本性から自然と立ち上がってくるもの(=自明)であるがゆえに人間を内的に拘束して秩序・権利の根拠となりえるものであるのに対して、「合意」は、それ自体には人間を拘束する力がなく、ゆえに秩序や権利の根拠とはなり得ないと考えたからである。(→前頁参照)
そしてルソーが社会の秩序維持のための強制力(とくに法律)の基準を一般意志(≒convention)に求めたのは、市民が誰からも「支配」されることがないような強制力の基準が、そこにあるとみなしたからなのである。

さて、ところが、こうしたルソーの意図をねじまげて、「一般意志」によって市民が市民を「支配」するという事件が起こる。

「一般意志」の悪用――フランス革命

所謂「フランス人権宣言」、正式名称「人間と市民の権利の宣言」(1789)の第6条には次のような文言がある。

法律は一般意思のあらわれである。 (La Loi est l'expression de la volonte generale.)

これは「法は一般意志にもとづく」というルソーの規定そのものだが(→(f))、その後ジャコバン派がこの「一般意志」を悪用したために、ルソーは「全体主義の起源」と見なされてしまったという経緯がある。

しかし見てきたように、ルソーが意図していた一般意志は誰もが自明だと思っているようなconventionなのであり、誰もそれを強制だとは感じないはずのものなのである。
ではなぜルソーの一般意志論を離れてジャコバン派独裁のような恐怖政治が起こったのだろうか?
じつはそれを予見しているかのようなルソー自身の言葉が§4.1にあるので、最後にそれを見てみよう。

党派性――「不正な法律」を成立させるもの

§4.1 〔一般意志は破壊できないこと〕

①「多くの人が結合して、一体をなしているとみずから考えているかぎり、彼らは、共同の保存と全員の幸福に関わる、ただ一つの意志しかもっていない。そのときには、国家のあらゆる原動力は、強力で単純であり、国家の格率ははっきりしていて、光りかがやいている。(中略) 共同の幸福は、いたるところに、明らかにあらわれており、常識さえあれば、誰でもそれを見分けることができる。平和、団結、平等は、政治的なかけひきの敵である。正直で単純な人間は、単純さのゆえに、だまされにくい。術策や〔巧みな〕口実をもってしても、彼らを騙すことはできない。彼らは、欺かれるだけのずるさすらない」

②「こういうふうに〔素朴に〕治められている国家は、きわめてわずかの法律しか必要としない。そして、新しい法律を発布する必要が生ずると、この必要は誰にも明らかになる。新しい法律を最初に提出する人は、すべての人々が、すでに感じていたことを、口に出すだけだ。 他人も自分と同じようにするだろうということが確かになるやいなや、各人がすでに実行しようと、心に決めていたことを、法律とするためには、術策も雄弁も必要ない

③「しかし、社会の結び目がゆるみ、国家が弱くなりはじめると、また、個人的な利害が顔をもたげ、群小の集団が大きな社会に影響を及ぼし始めると、共同体の利益は損なわれ、その敵対者があらわれてくる。投票においては、もはや全員一致は行われなくなる。 一般意志は、もはや全体の意思ではなくなる。対立や論争が起こる。そして、どんな立派な意見でも、論争を経なければ通らなくなる

④「最後に、国家が滅亡に瀕して、もはやごまかしの空虚な形でしか存在しなくなり、社会のきずなが、すべての人々の心の中で破られ、もっともいやしい利害すら、厚かましくも公共の幸福という神聖な名を装うようになると、そのときには、一般意志は黙ってしまう。 すべての人々は、人にはいえない動機に導かれ、もはや市民として意見を述べなくなり、国家はまるで存在しなかったかのようである。そして、個人的な利害しか目的としないような、不正な布告が、法律という名のもとに、誤って可決されるようになる

§4.1の章タイトル「一般意志は破壊できないこと」に注目しよう。

たとえば術策と雄弁(=「政治的なかけひき」)によって、市民が共産主義(私有財産の否定)という「党派性」に投票してしまったとしよう。それでも人々の心の中では「所有権」という一般意志は変わらない。だから共産主義はうまくいかないのである。

一般意志は人間の<本性的傾向>にもとづくので変更できない。「一般意志は破壊できない」とはそういう意味である。よって一般意志に逆らった制度はうまくいかないのである。
一般意志にそぐわないものは「不正な布告」であり、それを法律として「誤って可決」してはいけないのである。

「正直で単純な人ほど騙されない」というルソーの言葉は、褒め言葉である。
素朴な人たちは、むずかしいことを考えずに、常識的な感覚を重視する(「すでに感じていることを、口に出すだけ」な)ので、雄弁に語られる「理屈」には騙されないのである。

共産主義だけでなくジャコバン派も、一般意志は代表できない(→e)にもかかわらず、「雄弁」によって勝手にそれを代表し、その党派性に沿って恐怖政治を敷いた。*4

まるで§4.1は後のジャコバン派独裁や共産主義、今日のポリコレ全体主義の登場を予見しているようではないか。

一般意志と正義

一般意志(自明性)が存在しない領域に正義(公正さ)の基準はない。(cf.→§権利の根拠

われわれを、社会体に結びつけている約束[engagemens]は、この約束が相互的だからこそ、拘束力を備えているのである。この約束は、人が約束にしたがって他人のために働けば、必ずまた自分自身のために働くことにもなるような性格を帯びている。
なぜ一般意志は常に正しく、またなぜすべての人は、各人の幸福を望むのだろうか? その理由は、およそ人であるかぎり、この「各人」という言葉から自分のことを想定しない人はいないし、またすべての人のために票を投じるときにも、自分のためを考えずにはおられないからではないだろうか。

このことから、次のことは明らかである――権利の平等、およびこれから生ずる 正義[justice]の観念は、各人がまず自分のことを優先することから、すなわち人間の本性[nature de l'homme]から出てくるということである。 そして一般意志は、それが本当に一般的であるためには、その本質が一般的であるのと同時に、その対象においても一般的でなければならない。一般意志がすべての人に適用される以上、一般意志はすべての人から生まれなければならない。 もしも一般意志が、何らかの個人的な特定の対象に向かうことがあれば、その本来の正しさを失ってしまうことになる。なぜなら自分と関わりのないものについて判断をするときは、われわれを真の公正さに導く原理(判断基準)をもちえず、正しい判定をしようがないからである。

実際、あらかじめ定められた一般的な約束[convention generale]によって規定されていない領域について、個別的な事実や権利が問題となるときには、それはすぐに論争となる。この論争の一方の当事者はその利害関係者であり、他方の当事者は一般公衆である。しかしそこには、従うべき法もなく、判決をくだすべき裁判官も見られない。この場合、一般意志の判決に従おうとのぞむことは不可能である。このような論争の場合、判決なるものは、当事者の一方がくだす勝手な決定にすぎず、それは他方にとっては、自分以外が決定した個別意志にすぎない。こうした論争の場合、不正に走りやすく、過ちに陥りやすくなる。(『社会契約論』§2.4改訳)

ナチズムと共産主義の違い

全体主義といえばナチズムのことを思い浮かべる人も多いだろう。しかし、ナチズムと共産主義は次の点で次元が異なっている。

本文で説明したように、共産主義は(私有財産という)一般意志に反する思想を押しつける、いわば反ヒューマニズム的な全体主義である。
一方、ナチズムにおいて一般意志にあたるものは「我々はドイツ人であり、固有の権益がある」「彼らはユダヤ人で異民族である」といった感覚などのことであって、「ユダヤ人を弾圧しよう」といった政治的意志は、個別意志の総和である全体意志の次元の話になる。つまりナチズムは、いうまでもなく通常の意味でのヒューマニズム(人道主義)には反しているが、ここでいうところのヒューマニズム(一般意志)には反していない。この意味でナチズムと共産主義は次元が異なっているのである。

我々はなぜ法律に従うのか

我々が法律に従う理由―それは国家による強制(懲罰)があるからではない。それが我々にとって自明なことだからである。
たとえば「所有権」「殺人>窃盗」「婚姻・親族関係」等々の法律は我々とって自明である。
我々を法律に従わせているものは、この自明性なのである。
我々は法律に従わされているのではなく、自ら法律に従っているのである。 *5
なぜなら一般意志(法律)とは、人間が自然に一致するところに生ずる自明なもの(言語ゲーム)だからである。

(――ジャイアンはその個別意志によってのび太の所有権を侵害するが(→前頁)、その一般意志に従って牢屋に入る。牢屋に入ることはジャイアン本人の意志でもあるのである。この意味においてジャイアンは「ドレイ」ではなく「自由」なのである)

一般意志に沿った法律である限り、我々は誰の抑圧をも(定義上そして事実上)受けない。
だから法律は一般意志に従って制定されなければならないのである。
これがルソーが「一般意志」という概念で主張したかった意味の核心である。

(※件の中絶賛成派と反対派は一般意志を共有できないので、分かれて住むしかない)

まとめ

以上、近代主義的解釈ではなくポストモダン的(ヒューム的)解釈をすることで、「一般意志」の謎は解明されたと思う。

見てきたように、一般意志(volonte generale)とは人間の論理(人間本性)のあらわれである。
我々が法律に従うゆえんは、それが「voluntary」な一般意志に基づいているからなのである。

所有権が生じた機序(→前頁)を思い出せばわかるように、市民社会の法律はそもそも人間のconventionを保護するために存在するものである。法律の本義とは、人間の素朴な感覚(一般意志)を保護するところにある。人間の感覚に沿わない法律は、本質的に不正なのである。

法律とは数を恃んで通してはならないものである。多数派(勝者)が制定した法律は対等な市民どうしの法律ではなく、主人がドレイに対して課す法律(→§統治・忠誠心の起源)だからである。 一般意志が存在しない領域(たとえば税率の決定など)は別として、一般意志が存在する領域では、それに反するような法律を議論(雄弁)により多数派を取って通すようなことはあってはならない(不正である)。

ルソーの『社会契約論』は、社会のあり方について、個々人が主体的に「合意」していくような社会、つまりホッブズ的な「契約社会」のことを志向してはいない。 ホッブズが国家を、構成員が主体的に定義していく「生活のための道具」と見ているのに対して、ルソーはそうではない。

「主体的合意」の代わりにルソーが「社会契約」として挙げた要件は、「すべてを一般意志の最高指導に委ねること」(§1.6)である。一般意志とは、見てきたように、市民(Citoyen)の非主体的な実践によって生起するconventionである。
ルソーの『社会契約論』は、市民の非主体的で非意志的な一致(一般意志)に基づく自然な社会を志向するものであり、その書名のイメージに反してむしろ反・社会契約論と言うべきものなのである。

『社会契約論』によるこうした「市民」の定義は、今日の「国民国家」のあり方にも大きな示唆を与えるものである。*6
その国の国民となるために必要なことは、主体的意志などではない。 口先で「国家への忠誠」を宣誓することではない。
『社会契約論』における国民(Citoyen=Souverain&Sujet)とは、その国家を成り立たしめている原理(慣習、一般意志)をvoluntaryに受けいれようとする人々のことなのである。

①「その性質上、全会一致の同意を必要とする法は、ただ一つしかない。それは、社会契約[pacte social]である。なぜなら、市民的結合[l'association civil]は、あらゆるものの中で、もっとも自発的[volontaire]な行為であるから」(§4.2)

②「だから、たとえ社会契約の時に、反対者がいても、彼らの反対は、契約[contrat]を無効にするものではない。それはただ、彼らがその契約に含まれるのを妨げるだけである。彼らは、市民[citoyen]の中の外国人[etrangers]である。国家がつくられた時には、その国住んでいるということ自体が、その国家を承認していることだ。国土に住むこと、それは主権[souverainete]に従うことである」(§4.2)

(終)

*1) 「党派性がなくなるまで(相殺されるまで)議論して一致したものが一般意志」は、『社会契約論』§2.3の「個別意志から、相殺し合う過不足をのぞくと、相違の総和として、一般意志がのこることになる」というルソーの表現をそのように解釈し要約したものである。ところで個別意志が相殺されると一般意志になるのだとすると結局、個別意志と一般意志が<同じ次元>ということになってしまうが、それでは一般意志と全体意志は性質が異なるというルソーの定義からすると違和感がある。そこで次項の「ポストモダン解釈」では、ルソーの表現には敢えて拘泥せずに、思い切って次元を分離して、一般意志を、(個別意志・全体意志の次元である)人間の意識(意見)の次元ではなく、無意識(人間の論理)の次元での一致という意味に解釈することにした。(→*3)
*2) 主な邦訳では「傾向」が落とされているが、原文は “Il s'ensuit de ce qui precede que la volonte generale est toujours droite & tend toujours a l'utilite publique.”(§2.3)である。
*3) たとえば、この土地が誰に帰属するかで言い争うのが個別意志。あるいはこの土地はAさんに帰属していることを村人全員が知っている、これが全体意志。こうした議論の前提としての、所有権というものが如何に決まるかの条件(先占、時効、増加、相続等→cf.『人間本性論』第三巻§2.3)についての自明的一致が一般意志。(個別意志・全体意志と一般意志は次元が異なっている)  ――この解釈はウィトゲンシュタイン『哲学探究』§241も参考にしている。「正しかったり誤っていたりするのは人間の話すこと(内容)である。しかしその言葉の意味においては一致している。この一致は意見の一致ではなく生活形式の一致である」(話す内容=個別意志・全体意志/言葉の意味=生活形式=一般意志)
*4) ルソーは「勝者」への服従を求めるホッブズはグロチウスと同じであると批判している(§1.2)。グロチウスについては前頁参照
*5) このことを言語ゲーム論では次のように表現する。「規則(慣習)に従うとき、私は選択しない。私は規則に盲目的に従う」(『哲学探求』§219) 。 言語ゲーム論について詳しくは、下部の「参考拙稿」参照。
*6) 国民国家は19世紀の発明であり、ルソーの時代にはない。(→『想像の共同体』―B・アンダーソンの国民原理(1)

*a) 本文ではルソーが人間本性についてどのように言及しているか説明を割愛したのでヒュームの人間本性[human nature]との関係がわかりづらいかもしれないが、じつはルソーは§1.2の第二段落、つまり家族の結びつきの話の後で次のように言っている。
 “Cette liberte commune est une consequence de la nature de l'homme.”(この親子に共通の自由は、人間本性の結果である)
つまりルソーはここで、人間の親子関係は人間本性から生まれると言っており、前段落と合わせると、「家族とは人間本性からvolontairementに生じるconvention(慣習)である」と言っていることになる。これはヒュームの「人間本性の相互作用からconventionが生まれる」という考え方と同じである。このようにルソーとヒュームの「人間本性」とconventionの考え方はよく似ているのである。

〔参考文献〕
『社会契約論』 桑原・前川訳 1954年 ◆楽天 ◆Amazon
『社会契約論/ジュネーヴ草稿』 中山元訳 2008年 ◆楽天 ◆Amazon