反・社会契約論(2): ルソー「一般意志」概念の考察

はじめに――問題の所在

ルソー(1712-1778)が『社会契約論』(1762)で提示した一般意志という概念は、法の中立性・一般性という法哲学の大原則を宣言したものとされ、今日の法哲学においてもこの原則は重要な地位を占めている。

ところがこの一般意志についてルソーは明確な説明をしておらず、そのため一般意志が、とくに全体意志(後述)とどのように違うのかについて、今日においてさえも、決め手を欠いた曖昧な説明がなされていることが多いようである。

ところでルソーの知り合いに、イギリス(スコットランド)の哲学者D・ヒューム(1711-1776)がいる。
ルソーがヒュームの『人間本性論』(1739,1740)を読んでいることは当然考えられるのだが、実際『社会契約論』(1762)の記述と比較してみると、ヒュームのconvention概念が「一般意志」に影響を与えているように思われた。

そこで本稿では、ヒュームのconvention概念とのつながりを手掛かりにして、ルソーの一般意志の「謎」を解明したいと思う。

では、以下本文――

※本稿を理解するには human/artificial convention 概念の理解が必要なので、先に前頁を読んでください

ルソーによる「一般意志」の定義

まずルソーの一般意志の定義から確認しておこう。 一般意志は、次のように抽象的に説明されている。

A. 党派性があってはならない (『社会契約論』§2.2、§2.3)
B. 個別意志の総和=全体意志と一般意志は異なる (§2.3)

前者(A)が「法の一般性・中立性」原則を述べた部分である。
党派性がない法律は皆が納得して服するものなので、抑圧(強制)にはならない。法律とは、党派性のない「一般意志」に基づかなければならないというのが§2.2~§2.3の趣旨である。

そして後者(B)が、一般意志は、個別意志の総体である全体意志とは異なるということを述べている箇所である。
全体意志が個別意志の総体であるということは、多数決の一種であるとも思われるが、多数決は必ず党派性を帯びるので(なぜなら必ず賛否が含まれるので)、一般意志が(定義上)全体意志と異なることは理解できる。

しかしこのような抽象的な説明だけでは、一般意志の正体について、やはりまだよくわからない。

さらにルソーの説明を見てみると、一般意志とは次のようなものだと言っている。(順不同)

a.社会の構成員はその権利をすべて共同体に譲渡し、一般意志の最高指導の下に置かれなければならない(§1.6)
b.構成員は一般意志に服従することが強制される(§1.7)
c.主権(立法権)とは一般意志を定義する人民の実践のこと(§2.1、§2.4)
d.市民[Citoyens]は主権行為に参加する主権者[souverain]であり、それに服する臣民[sujet]でもある。(§1.6)
e.一般意志(主権)を代表することは誰にもできない。代議士は一般意志の代表者ではない。(§2.1、§2.15)
f.法律は一般意志に沿って制定されなければならない(§2.2)
g.立法機関は一般意志に拘束される。議員は主権者の付託をうけて法律を制定する使用人にすぎない(§3.15)(※選挙の時だけ主権者が尊重され、その後無視されがちなイギリスの議会制度=議会主権に対するアンチテーゼ)
h.主権は分割することも、譲り渡すこともできない。(§2.1、§2.2)
j.一般意志は常に正しく、つねに公の利益[l'utilite publique]を目指す傾向[tend]がある。一般意志は共通の利益[interet commun]だけをこころがける。(§2.1、§2.3)
k.一般意志は皆が思っていることなので、口に出すだけでよい。雄弁は必要ない。(§4.1)
m.一般意志は破壊できない。(§4.1)

!?一般意志は常に正しく公益を目指すので、人々は共同体にすべての権利を譲渡して、一般意志に服従すればよい??
こうしたルソーの定義を見ると、一般意志とはずいぶん都合のよいもののように思えるが、果たしていったいそれが何であり、どのように見出されるのかについては、やはり具体性を欠いているのでまったく分からないのである。
このように一般意志について具体的な説明がないため、その解釈は論者によってかなり差があるようなのである。

では、筆者の解釈を述べる前に、まず割とよく見かける解釈から説明しよう。

(1)近代主義的解釈

一般意志とは、理性的合理的「個人」が、党派性がなくなるまで(相殺されるまで(*1))議論する、つまり党派性がないような一致点を理性的で論理的な議論を通じて見出していくもののことである――このような種類の解釈をここでは、一般意志の近代主義的解釈と呼ぶことにしよう。

しかしこの解釈では、全体意志と一般意志の違いが――定義としては依然明確であるものの実際問題として――明確ではないし、そもそも党派性がないような一致点を議論によって見出すことは本当に可能なのか?という根本的な疑問が残る。(たとえば中絶反対と中絶賛成の両派が議論をしたからといってどのような一致点を見出せるというのだろうか??不可能だろう)

それに、はたしてこのような近代主義的解釈によって、先に引用したa.~m.までの説明を整合性を持って読むことができるだろうか? たとえば(k)「一般意志は口に出すだけでよく、雄弁は必要ない」と明らかに合致しないのではないだろうか?

(2)ヒューム的解釈(ポストモダン的解釈)

これに対して筆者は、一般意志を、人間がもつ人間の論理(human convention)から生まれる自明的な慣習(convention)であると解釈する――これを一般意志のポストモダン的解釈と呼ぶことにしよう。

筆者が一般意志についてポストモダン的解釈をとるのは、そのように解釈するとルソーの意図が理解できるからである。
以下それを説明していこう。

一般意志とは何か

さて、『社会契約論』の冒頭、第一章第二節に次のような説明が出てくる。

§1.2 親は子を養う義務、子は親に従う義務がある。子が成長するとこのnaturelな絆は解消するが、それでも一定の関係が続くのは、それがnaturellementではなくvolontairementによるものだからだ。家族はconventionによってのみ維持される。家族は最古の自然な社会である。(抄訳)

ここで使われている2つの単語に注目しよう。

・volontairement(自発的に)
・convention(慣習、約束)

多くの邦訳では、ルソーのconventionが「約束」「合意」などと訳されており、岩波文庫版でもここのconventionは「約束」と訳されている。
しかしconventionのもともとの意味は「慣習」なので、volontairement(自発的に)と併せて解釈すれば、この部分は、次のような意味に解釈できよう。
すなわち、家族というものは、一定の人間関係を形成する性向をもつ生物すなわち人間のvolontaire(自発的)な関係であり、それが人間のconventoin(慣習)になっている、と。(ここでいう「性向」とは、主体的意志によっては変更できない種類の心理的な傾向のことを意味している)

さて、前置きが長くなったが、ここで一般意志の原語が volonte generale であることに注目する。(アクサン記号は省略)

そして volonte が volontairement の類語であることを考慮すると、volonte generale は「一般意志」というよりは「一般的自発性」というような意味であると解釈することもできる。
そして§1.2において「convention(慣習)が volontirement(自発性)に基づいている」という対応関係から考えると、「artificial convention が volonte generale に基づいている」という対応関係を考えることも可能である。 そしてこの volonte generale(一般的自発性)を human convention(人間の論理)と見なすことは不自然ではない。

そうして一般意志を人間の論理(human convention)とみなして、さらに一般意志を「人間の論理」を基盤にして自明的に成立してしている秩序・慣習・常識(artificial convention)とも重ねて読んでしまうと(重ねる理由は直下に記述)、AB、a.~m. についても、筋の通った説明を行うことができる。

【重ねる理由】 『社会契約論』ではルソー自身が volonte generale を human/artifical conventionのどちらの意味にも用いているように見えるので、ここでは簡便のため思い切って、秩序・慣習・常識(artificial convention)とも重ねてしまい、まとめてvolonte generale=convention(慣習)と読んでしまうことにしよう。(その方が説明しやすいので)

(※一般意志≒conventionの根拠についてはまた後でも補足するが、まずは以下、この解釈で意味が通ることを確認しよう)

すると、たとえば(d)「市民は主権者であり同時に臣民である」というのは、人々は主権者(souverain)として一般意志(≒慣習)を定義する権能をもつと同時に、一般意志(慣習)に服従を強制される臣民(sujet)でもあるという意味だと解釈することができる。
また(a)と(b)については、たとえば我々は、convention的に生じてきた自分たちの所有権をはじめとする様々な権利について(→前頁参照)、裁定する権能を裁判所という国家権力に「譲渡」すること、そしてその決定に服すことが強制されるという意味だと解釈できる。
(実際、今日のわれわれはこうしたことを「自明」なことだと思っているではないか?なぜならそれが「一般意志」だからだ!)

また(i)「常に正しく、公益を目指す傾向[tend]がある」(*2)の意味については、次のように考えれば分かる。
たとえば<所有権を認める><殺人は窃盗よりも重罪><婚姻・親族関係>等々について、われわれはいちいち合意する必要を感じない。なぜならそれは人間の本性的な一致であり、議論や合意をするまでもないくらいに自明なことだからだ。 人間にとって議論するまでもなく「自明」なこと(慣習=一般意志)であれば、それを法律で定めて、その安定性を確保することは「常に正しく、自動的に公の利益に適う」はずである。

このようにvolonte generale/conventionは、人間が自明的に一致するところに生ずるものなので、その意味で一般意志は必ず公益[interet commun]の実現に向かう傾向[tend]があるのである。(―この説明で不足な人は、下の「補足」の中にも説明があります)

さらに、このような一般意志(に基づく慣習)は、当然、(k)「口に出すだけで表現され、そこに雄弁は必要ない」。
また一般意志が、個別意志(個人の嗜好・性向)の総和である全体意志とは性質(次元)が異なる(→B)ことも理解できよう。*3

以上、ルソーの一般意志をポストモダン的に解釈すれば、すなわち一般意志をartificial conventionを形成していく人間の基本的一般的性向(人間の論理human convention)、あるいは簡便に一般意志(volonte generale)≒慣習(convention)だと読めば、意味が通ることを確認できたのではないかと思う。

【補足】 一般意志≒conventionとするその他の根拠

一般意志とconventionの類縁性について、他の根拠文: "volonte qui determine l'acte."

volonte generale とconventionの類縁性について本文では§1.2原文の文言から説明したが、他の根拠文を示しておこう。
§3.1に "volonte qui determine l'acte." という文が出てくる。それに続いて、" ~ j'y veuille aller."(私はそこに行きたい)と補足的に例文が出てくる(veuilleは英語のwant)。つまりvolonteは、その行動(l'acte)を引き起こすような欲求(vuille)と結びつくような種類の単語だという説明がなされているのである。
ところで「きまる」という意味の単語には determine の他に decider がある。decider は選択肢がある状況で、検討した上でどれにするかを主体的に決めることである。それに対して determine は「月着陸に感動し、将来宇宙飛行士になることを決意した」「部屋の大きさによって定員が決まってくる」のように、主体的に制御できない外的な条件によって判断が実質的に限定される(決まる・定まる)ようなニュアンスを含んでいる。
人間が牛丼屋に行くときには牛丼を食べたいと思う(veuille)ことが必要であるが、そのときにはすでに牛丼屋に行くという行為(l'acte)はすでに運命づけられている(determine)。それは決してラーメン屋やカレー屋との選択の結果の決断(decider)ではない――このように主体的に制御できない内発性・決定性によって人間の行為(acte)を決定(fix)するのが volonte というわけである。
人間の行為をdetermine(fix)するvolonteは、§1.2で家族という人間関係をconventionとして運命づける(fix)する「volontairement(自発性)」と繋がる。
以上のようにvolonteを理解すると、volonte generaleとは一般的内発性という意味であり、その「内発性」はhuman conentionに由来し、人間を固定的実践に導くものである、と読むことができる。実際「一般意志」をそのように解釈すれば意味が通るのは、本文で検討したとおりである。

「公共の利益を実現する傾向」から読み解く一般意志とconventionの類縁性

ルソーの「一般意志はつねに正しく、公の利益を目指す傾向をもつ」(→(i))について、これだけ読むと理解に苦しむが、じつはヒュームの『人間本性論』にも似た記述があり、それが理解の助けになる。

ヒュームは『人間本性論』第三巻§3.1において、社会における美徳とは――すこし意訳して要約すると――所有権や正義の観念(→前頁)と同様にhuman conventionに由来し、自発的・自明的に一致しながらartificialに生じるものであって、それゆえ美徳は所有権や正義と同じように、社会にとっての善[the good of society]に向かう傾向[tendency]をもつと述べている。これは次のように考えてみれば、およそ納得できよう。

――われわれは普通、嘘をつかない人に「快」を感じ、嘘をつく人に「不快」を感じるが、しかしこれは逆でもよかったはずで、それではなぜ人間にとって嘘をつかないことが「快」をもよおす美徳となっているかといえば、おそらく嘘をつかない集団の方が生き残ってきたからである。嘘をつかない人に「快」を感じるように人間は文化的に(あるいは現代の言葉を使えば進化論的に)進化した――この「美徳」と同じように考えると、「一般意志は必ず公益に向かう傾向を持つ」の意味がわかる。つまり、絶対的に正しい方向(真理)に進むという意味ではなく、皆が自明(快)だと思う方向と、皆が正しい(善)と感じる方向は常に重なるので、一般意志は必然的に公益(善)を実現する方向を目指すということである。

(もっと卑近な例→和音と不協和音はそれぞれ「快」と「不快」。和音が一般意志。和音でよい音楽(善)を作れる傾向があるのは必然)

このようにヒュームとルソーを対比しながら読むと、その記述の類似性から、ルソーの「公共の利益を実現する傾向」の意味と機序が理解できるし、conventionとvolonte generaleの類縁性も見えてくるのである。

正義は実際、その目的でartificialに考案されたものである。同じことが忠誠、諸国民の間の法、慎み、品の良さにも言える。これらはすべて社会の利益[interest of society]のために人間が工夫したものである。(『人間本性論』第三巻§3.1)

自然な徳の多くが社会にとっての善[the good of society]に向かうこの傾向[tendency]を持っていることは、誰しも疑い得ない。 (同§3.1)

法と正義の仕組み全体は社会に利点[advantageous]をもたらすのであり、人々が随意に行う合意[voluntary convention]によってそれを確立したのは、この利点を目指してなのである。(同§3.1)

余談:この「一般意志は公益と重なる」という話は、じつは『社会契約論』の冒頭にも出てくる。

わたしは、人間をあるがままのものとして、また、法律をありうべきものとして、取り上げた場合、市民の世界に、正当で確実な何らかの政治上の法則がありうるかどうか、を調べてみたい。わたしは、正義[jistice]と有用性[utilite]が決して分離しないようにするために、権利[droit]が許すことと利害[interet]が命ずることとを、この研究において常に結合するように努めよう。(『社会契約論』§1)

『社会契約論』の主題のひとつは、神や君主の指導がなくとも、人間はその本性(human/artificial convention)に従うだけで、つまり個々人が自分や社会への関心[utilite,interet]に注意を払うだけで(無秩序で悲惨な社会ではなく)善良[justice,droit]な秩序のある社会を構築できる――すなわち両者は分離せず結びつく――ことを示すことにあった。ルソーはそのことを冒頭で宣言しているのである。(もう一つは市民が誰にも支配されない基準とは何か、つまり市民平等の正当な基準とは何かを示すことであり、引用の前段はそれを示唆している)

『社会契約論』が目指したもの

一般に「社会契約」といえば、秩序や権利のすべての根拠を「合意」に求めるということをイメージするのではないだろうか。

しかしルソーにとって社会秩序や権利は、ヒュームと同様に、人間の意志的な「合意」(約束)に基づくのではなく、社会的な相互作用によって「一致」しながら編み出されてゆく非意志的で自発的なconvention(≒一般意志)に基づくものなのである。

社会秩序[l'order social]は他のすべての権利の土台となる神聖な権利[droit sacre]である。しかしながら、この権利は自然から由来するものではない。それはだからconventionに基づくものである。これらのconventionがどんなものであるかを知ることが問題なのだ。(§1.1)

家族はconventionによってのみ維持される。家族は最古の自然な社会である。(§1.2抄訳)

社会契約の本質は次の言葉に帰着する。「我々の身体とすべての力を一般意志の最高指導に委ねる」(§1.6抄訳)

※ 主な邦訳でこのconventionが「約束」「合意」と訳されていることが誤解の元になっている

§1.1~§1.2に出てくるconventionを、素直に邦訳に従って「約束」(合意、契約)の意味で読むと――これが『社会契約論』の冒頭に置かれているが故に――うっかり、秩序や権利や人間関係は「約束」に基づくものであり、それがルソーの「社会契約」の趣旨である、と読んでしまいがちだが、これは誤読である。
なぜならルソーの「社会契約」に対応するのは、§1.1や§1.2の「約束」ではななく、§1.6の「一般意志(volonte genrerale)に従う」(ことに同意すること)だからである。

そして本文で説明したように、volonte genreraleとはconvention(慣習)のこととみなせるから、つまりルソーのいう社会契約(pacte social)とは、§1.1や§1.2で示されているような――「約束」をすることではなく――「慣習」に無条件に従うことに同意すること、なのである。

神(教会)や君主によって「支配」されるのではなく、市民が自らを統治することを目指した場合に、その強制力(とくに法律)の正当な基準を「一般意志」(≒人間が人間的に作り上げてきた慣習)に求めよう、というのがルソーの社会契約論の本旨である。

ヒュームとルソーはどちらも人間のconventionを基軸とした人間中立的(ヒューマン・ニュートラル)な社会の構築を目指したというところで通底している。
ヒュームが「合意」ではなくconventionを社会秩序や権利の基盤としたのは、conventionが人間本性から自然と立ち上がってくるものであるがゆえに人間を内的に拘束して秩序・権利の根拠となりえるものであるのに対して、「合意」(promise)は、それ自体には人間を拘束する力がなく、ゆえに秩序や権利の根拠とはなり得ないと考えたからである。(→前頁)
そしてルソーが社会の秩序維持のための強制力(とくに法律)の基準を一般意志(≒convention)に求めたのは、市民が誰からも「支配」されることがないような強制力の基準が、そこにあるとみなしたからなのである。

さて、ところが、こうしたルソーの意図をねじまげて、「一般意志」によって市民が市民を「支配」するという事件が起こる。

「一般意志」の悪用――フランス革命

所謂「フランス人権宣言」、正式名称「人間と市民の権利の宣言」(1789)の第6条には次のような文言がある。

法律は一般意思のあらわれである。 (La Loi est l'expression de la volonte generale.)

これは「法は一般意志にもとづく」というルソーの規定そのものだが(→(f))、その後ジャコバン派がこの「一般意志」を悪用したために、ルソーは「全体主義の起源」と見なされてしまったという経緯がある。

しかし見てきたように、ルソーが意図していた一般意志は誰もが自明だと思っているようなconventionなのであり、誰もそれを強制だとは感じないはずのものなのである。
ではなぜルソーの一般意志論を離れてジャコバン派独裁のような恐怖政治が起こったのだろうか?
じつはそれを予見しているかのようなルソー自身の言葉が§4.1にあるので、最後にそれを見てみよう。

党派性――「不正な法律」を成立させるもの

§4.1 〔一般意志は破壊できないこと〕

①「多くの人が結合して、一体をなしているとみずから考えているかぎり、彼らは、共同の保存と全員の幸福に関わる、ただ一つの意志しかもっていない。そのときには、国家のあらゆる原動力は、強力で単純であり、国家の格率ははっきりしていて、光りかがやいている。(中略) 共同の幸福は、いたるところに、明らかにあらわれており、常識さえあれば、誰でもそれを見分けることができる。平和、団結、平等は、政治的なかけひきの敵である。正直で単純な人間は、単純さのゆえに、だまされにくい。術策や〔巧みな〕口実をもってしても、彼らを騙すことはできない。彼らは、欺かれるだけのずるさすらない」

②「こういうふうに〔素朴に〕治められている国家は、きわめてわずかの法律しか必要としない。そして、新しい法律を発布する必要が生ずると、この必要は誰にも明らかになる。新しい法律を最初に提出する人は、すべての人々が、すでに感じていたことを、口に出すだけだ。 他人も自分と同じようにするだろうということが確かになるやいなや、各人がすでに実行しようと、心に決めていたことを、法律とするためには、術策も雄弁も必要ない

③「しかし、社会の結び目がゆるみ、国家が弱くなりはじめると、また、個人的な利害が顔をもたげ、群小の集団が大きな社会に影響を及ぼし始めると、共同体の利益は損なわれ、その敵対者があらわれてくる。投票においては、もはや全員一致は行われなくなる。 一般意志は、もはや全体の意思ではなくなる。対立や論争が起こる。そして、どんな立派な意見でも、論争を経なければ通らなくなる

④「最後に、国家が滅亡に瀕して、もはやごまかしの空虚な形でしか存在しなくなり、社会のきずなが、すべての人々の心の中で破られ、もっともいやしい利害すら、厚かましくも公共の幸福という神聖な名を装うようになると、そのときには、一般意志は黙ってしまう。 すべての人々は、人にはいえない動機に導かれ、もはや市民として意見を述べなくなり、国家はまるで存在しなかったかのようである。そして、個人的な利害しか目的としないような、不正な布告が、法律という名のもとに、誤って可決されるようになる

§4.1の章タイトル「一般意志は破壊できないこと」に注目しよう。

たとえば術策と雄弁(=「政治的なかけひき」)によって、市民が共産主義(私有財産の否定)という「党派性」に投票してしまったとしよう。それでも人々の心の中では「所有権」という一般意志は変わらない。だから共産主義はうまくいかないのである。

一般意志は人間の本性的傾向(human convention)にもとづくので絶対に変更できない。「一般意志は破壊できない」とはそういう意味である。よって一般意志に逆らった制度はうまくいかないのである。
一般意志にそぐわないものは「不正な布告」であり、それを法律として「誤って可決」してはいけないのである。

「正直で単純な人ほど騙されない」というルソーの言葉は、褒め言葉である。
素朴な人たちは、むずかしいことを考えずに、常識的な感覚を重視する(「すでに感じていることを、口に出すだけ」な)ので、雄弁に語られる「理屈」には騙されないのである。

ところがジャコバン派は、一般意志は代表できない(→e)にもかかわらず、「雄弁」によって勝手にそれを代表し、その党派性に沿って恐怖政治を強いたのである。

まるで§4.1は後のジャコバン派独裁や共産主義、今日のポリコレ全体主義の登場を予見しているようではないか。

一般意志と正義

一般意志(自明性)の存在しない領域に正義(公正さ)の基準はない。(cf.→§権利の根拠

われわれを、社会体に結びつけている約束[engagemens]は、この約束が相互的だからこそ、拘束力を備えているのである。この約束は、人が約束にしたがって他人のために働けば、必ずまた自分自身のために働くことにもなるような性格を帯びている。
なぜ一般意志は常に正しく、またなぜすべての人は、各人の幸福を望むのだろうか? その理由は、およそ人であるかぎり、この「各人」という言葉から自分のことを想定しない人はいないし、またすべての人のために票を投じるときにも、自分のためを考えずにはおられないからではないだろうか。

このことから、次のことは明らかである――権利の平等、およびこれから生ずる 正義[justice]の観念は、各人がまず自分のことを優先することから、すなわち人間の本性[nature de l'homme]から出てくるということである。 そして一般意志は、それが本当に一般的であるためには、その本質が一般的であるのと同時に、その対象においても一般的でなければならない。一般意志がすべての人に適用される以上、一般意志はすべての人から生まれなければならない。 もしも一般意志が、何らかの個人的な特定の対象に向かうことがあれば、その本来の正しさを失ってしまうことになる。なぜなら自分と関わりのないものについて判断をするときは、われわれを真の公正さに導く原理(判断基準)をもちえず、正しい判定をしようがないからである。

実際、あらかじめ定められた一般的な約束[convention generale]によって規定されていない領域について、個別的な事実や権利が問題となるときには、それはすぐに論争となる。この論争の一方の当事者はその利害関係者であり、他方の当事者は一般公衆である。しかしそこには、従うべき法もなく、判決をくだすべき裁判官も見られない。この場合、一般意志の判決に従おうとのぞむことは不可能である。このような論争の場合、判決なるものは、当事者の一方がくだす勝手な決定にすぎず、それは他方にとっては、自分以外が決定した個別意志にすぎない。こうした論争の場合、不正に走りやすく、過ちに陥りやすくなる。(§2.4改訳)

我々はなぜ法律に従うのか

我々が法律に従う理由。それは国家による強制(懲罰)があるからではない。それが我々にとって自明なことだからである。
たとえば「所有権」「殺人>窃盗」「婚姻・親族関係」等々の法律は我々とって自明である。
我々を法律に従わせているものは、この自明性なのである。
我々は法律に従わされているのではなく、自ら法律に従っているのである。 *4
なぜなら一般意志(法律)とは、人間が自然に一致するところに生ずる自明なもの(言語ゲーム)だからである。

一般意志に沿った法律である限り、我々は誰の抑圧をも(定義上そして事実上)受けない。
だから法律は一般意志に従って制定されなければならないのである。
これがルソーの主張する「一般意志」という概念の意味の核心である。

(※件の中絶賛成派と反対派は一般意志を共有できないので、分かれて住むしかない)

まとめ

以上、近代主義的解釈ではなくポストモダン的(ヒューム的)解釈をすることで、「一般意志」の謎は解明されたと思う。

見てきたように、一般意志(volonte generale)とは人間の論理(human convention)のあらわれである。
我々が法律に従うゆえんは、それが「voluntary」な一般意志に基づいているからなのである。

所有権が生じた機序(→前頁)を思い出せばわかるように、市民社会の法律はそもそも人間のconventionを保護するために存在するものである。法律の本義とは、人間の素朴な感覚(一般意志)を保護するところにある。人間の感覚に沿わない法律は、本質的に「不正」なのである。

人間の感覚(一般意志)に反するような法律を、議論(雄弁)によって多数派をとることで通してはならない。それは対等な市民どうしの法律ではなく、主人がドレイに対して課す法律(→§統治・忠誠心の起源)だからである。

ルソーの『社会契約論』は、社会のあり方について、個々人が主体的に「合意」していくような社会、つまりホッブズ的な「契約社会」のことを志向してはいない。 ホッブズが国家を、構成員が主体的に定義していく「生活のための道具」と見ているのに対して、ルソーはそうではない。
ルソーの『社会契約論』は、非意志的で人間的な一致に基づく自然な社会を志向するものであり、その書名のイメージに反してむしろ反・社会契約論(*5)と言うべきものである。

「主体的合意」の代わりにルソーが「社会契約」として挙げた要件は、「すべてを一般意志の最高指導に委ねること」(§1.6)である。一般意志とは、見てきたように、市民(Citoyen)の非主体的な実践によって生起するconventionである。

『社会契約論』によるこの「市民」の定義は、今日の「国民国家」のあり方にも大きな示唆を与えるものである。*6
その国の国民となるために必要なことは、主体的意志などではない。 口先で「国家への忠誠」を宣誓することではない。
『社会契約論』における国民(Citoyen=Souverain&Sujet)とは、その国家を成り立たしめている原理(慣習、一般意志)をvoluntaryに受けいれようとする人々のことなのである。

①「その性質上、全会一致の同意を必要とする法は、ただ一つしかない。それは、社会契約[pacte social]である。なぜなら、市民的結合[l'association civil]は、あらゆるものの中で、もっとも自発的[volontaire]な行為であるから」(§4.2)

②「だから、たとえ社会契約の時に、反対者がいても、彼らの反対は、契約[contrat]を無効にするものではない。それはただ、彼らがその契約に含まれるのを妨げるだけである。彼らは、市民[citoyen]の中の外国人[etrangers]である。国家がつくられた時には、その国住んでいるということ自体が、その国家を承認していることだ。国土に住むこと、それは主権[souverainete]に従うことである」(§4.2)

(終)

*1) 「近代主義的解釈」における「党派性がなくなるまで(相殺されるまで)」という文言は、『社会契約論』の§2.3「特殊意志から、相殺し合う過不足をのぞくと、相違の総和として、一般意志がのこることになる」という箇所をそのように解釈したものである。 ところで社会契約論の「相殺―」という表現を素直に解釈すると、一般意志と特殊意志が結局は同じ次元であるということになってしまい、一般意志と全体意志は性質が異なるというルソーの定義からすると違和感がある。 そこで次項の「ポストモダン解釈」では、この箇所のルソーの表現には拘泥せずに、思い切って次元を分離して、一般意志を、(全体意志の次元である)人間の意識(意見)の次元ではなく、無意識(human convention)の次元での一致という意味に解釈した。(→*3)
*2) 主な邦訳では「傾向」が落とされているが、原文は「Il s'ensuit de ce qui precede que la volonte generale est toujours droite & tend toujours a l'utilite publique.」(§2.3)である。
*3) たとえば、この車がAさんのものであることは皆が知っている(意見が一致している)―これが全体意志(個別意志の総和)。この議論の前提としての、所有権という概念についての自明的一致が一般意志。(全体意志と一般意志は次元が異なっている)  ――この解釈はウィトゲンシュタイン『哲学探究』§241も参考にしている。「正しかったり誤っていたりするのは人間の話すこと(内容)である。しかしその言葉においては一致している。この一致は意見の一致ではなく生活形式の一致である」(内容=個別意志/言葉の意味=生活形式=一般意志)
*4) このことを言語ゲーム論では次のように表現する。「規則(慣習)に従うとき、私は選択しない。私は規則に盲目的に従う」(『哲学探求』§219) 。 言語ゲーム論について詳しくは、下部の「参考拙稿」参照。
*5) ルソーは少数(政府)への服従を求めるホッブズはグロチウスと同じであると批判している(§1.2)。グロチウスについては前頁参照。
*6) 国民国家は19世紀の発明であり、ルソーの時代にはない。(→『想像の共同体』―B・アンダーソンの国民原理(1)

〔参考文献〕
『社会契約論』 桑原・前川訳 1954年 ◆楽天 ◆Amazon
『社会契約論/ジュネーヴ草稿』 中山元訳 2008年 ◆楽天 ◆Amazon