ハンチントン『分断されるアメリカ』(要旨)

アメリカ合衆国の歴史は、17世紀、イギリスを逃れた清教徒たちがアメリカ大陸へ入植するところからはじまる。

18世紀末、イギリスから独立を勝ち取ったころのアメリカ人は、まだほとんどが同質の人々であった。つまり白人で、イギリス出身のプロテスタントであり、ほぼ共通の文化を持っていた。
19世紀末の頃にはそこに文化的にはやや異質のドイツ系、アイルランド系、スカンディナビア系が含まれるようになっていた。
二度の世界大戦を経て、南欧と東欧からの移民とその子孫が大量にアメリカ社会に参加する頃になると、ナショナル・アイデンティティを構成する要素から民族性はほとんど消え去った。
公民権運動がみのり、また1965年に移民法が成立して欧州系以外の人々が増えると、人種ももはや問題とされなくなった。

1970年代には、アメリカのアイデンティティはアングロ-プロテスタントの文化と自由と民主主義を謳う「アメリカの信条」という政治的な誓約の面だけから定義されるようになったが、この時点ですでに、三世紀に渡って存続してきたアングロ-プロテスタント文化を中心とするアメリカの文化も危うくなりつつあった。 そして今日(1990~)、アメリカのアイデンティティは「信条」という政治イデオロギーだけになる可能性が生じている。

 民族性人種文化政治  
1607-1775年× 入植者時代
1775-1940年 1775-83独立戦争
(1840~1865年を除く) 46-48米墨戦争,61-65南北戦争
1940-1965年×  
1965-1990年×× 1964公民権法,1965移民法
1990~××  〔分断するアメリカ表3-1改〕

アメリカ文化は、アメリカを築いた17世紀および18世紀の入植者たちの文化に由来している。

その中心的な要素はさまざまな方法で定義できるが、そこにはキリスト教の信仰、プロテスタントの価値観と道徳主義、労働倫理、英語、イギリス法の伝統、司法、政府権力の制限、およびヨーロッパの芸術、文学、哲学と音楽の遺産が含まれる。
そしてこの中心文化をもとに、初期の入植者はアメリカの「信条」を築き上あげ、そこに自由、平等、個人主義、人権、代議政体、そして私有財産制の原則を盛りこんでいった。

プロテスタントの信仰と、このアメリカの「信条」は並行する似たような思想を含んでおり、要するに、ここで築きあげられたアメリカの信条とは神抜きのプロテスタンティズムであり、世俗的な信条なのである。
やがて統一的な民族性は消失し、文化も多様化していくが、このアメリカ文化の中核=「信条」だけはのこった。

そしてこの「信条」をアメリカ社会の政治原則としたことにより、他国にみられるような民族文化的アイデンティティにもとづいた社会とは対照的に、アメリカには「市民的」なナショナル・アイデンティティがあるのだという主張ができるようになった。すなわち「信条」による国民定義は、アメリカ社会は、種族によって定義された社会よりも自由で、原則に基づいた、文明的な社会であると考えることを可能にした。
またこの信条による社会の定義は、すべての人間社会に適用しうるがゆえに、アメリカは「普遍的」なのだという思いにも繋がっていったのである。

さまざまな種族からなるアメリカの国民の統合・結束の経緯は、同民族で構成された国とは異なり複雑である。
アメリカに移り住んだ人々は別々の移民集団であり、白人といっても英国系、アイルランド系、ドイツ系など宗教的にも言語的にも異なる人々であったため、統合に困難を生じていた。しかし独立戦争、南北戦争、2つの世界大戦などの国家的な脅威を経て、そうした細かい差異は重要でなくなり、英語とアングロ-プロテスタントの価値観(アメリカの信条)を軸に一つのアメリカ人集団としてナショナル・アイデンティティが構築されていった。

この間にもアメリカは断続的に移民を受け入れていたが、移民は「アメリカ化」すること、つまり持っていた民族性を捨ててアメリカの価値観に染まることが、アメリカ社会に受け入れられる条件とされていた。(るつぼ理論)
それでもこの時代の移民たちは「アメリカ化」に抵抗することはなかった。なぜなら彼らをアメリカに惹きつけていた理由が、アングロ-プロテスタントの文化とそこから生み出される政治的自由と経済的機会だったからである。
彼らは何世代にもわたって、このアメリカの文化に同化し、それに貢献し、手を加えていった。

白人が大多数を占め、また移民に「アメリカ化」を強制していた時代には、これでよかった。
しかし1960年代に公民権運動が成就し、多くの人種や移民集団に市民権が与えられるようになると、信仰や発言の自由、個人の権利を重視する「信条」は、多文化主義へと応用されていくようになる。「アメリカ化」を意味していたるつぼやトマト・スープ的な理念は忌避されるようになり、アメリカ社会はモザイクやサラダなのだという主張が好まれるようになっていった。

こうしてアメリカは、かつて国民統合に苦心した歴史を逆行するかのように、ナショナル・アイデンティティが軽視され、サブナショナルなアイデンティティが歓迎されるという方向にすすんでいく。(脱構築主義の運動
20世紀後半になってソ連などの国家的驚異が低下すると、こうした傾向にさらに拍車がかかり、結果、今日のアメリカ社会においては、文化集団ごとの心理的な断層線(フォルトライン)が形成されることとなった。

「アメリカ化」に真っ向から挑んできた多文化主義者たちは、アメリカが「文化的には定義が困難な集団」になることすら望んでいた。 しかしそうしてサブナショナルな面を積極的に推進してきた多文化主義は、今日、大きく分けて2つの問題を生んでいる。

(1)ひとつは積極的差別是正措置(アファーマティブアクション)に対して、白人が不利益を感じているという問題である。
積極的差別是正措置は、本来は「民族的出自」によって雇用差別を防止することを目的とした公民権法を、「結果の平等」へと解釈しなおしたところにその起源がある。
そうして「結果の平等」が求められるようになったことで、たとえば雇用実態と人種人口比率との間に不均衡がみられたような場合には(差別の意図があったことを証明することなしに)自動的に差別があったとみなされるようになっていった。このような考え方は、雇用だけでなく大学入試などにおいても適用され、人種を基準としたマイノリティ優遇政策がとられていくことになる。

しかし今日の白人はもはや「強者」ではない。他人種の活躍が目立つ中、中流および下層中流階級の白人は自分たちこそマイノリティだと感じめてており、犠牲者であるかのような態度を取るようになっている。
『エコノミスト』によると、2000年にはカリフォルニアで「かつては新参者に極めて寛大だった白人が、圧力をかけられたマイノリティのように振る舞いはじめている」光景がみられると報じた。 こうした不満は全米各地で高まりつつあり、今や白人たちは、黒人とヒスパニックが自分たちの利益を最大化しているように、自分たちを「人種化」し、白人の利益を増進させるためのロビー活動をすることは道理であると感じはじめている。(ホワイト・ネイティビズム

特に注目すべき点は、このネイティビズムを志向する者たちは、多文化主義を主張する人々の伝統にのっとって、人種、民族性、文化を一括して考えていることである。つまり、人種的民族的マイノリティグループがそれぞれ固有文化を持つのと同様に、白人にも白人固有の民族性や文化があるのだと考えるのである。彼らにとって人種は文化の根源であり、アメリカをアメリカとして維持するには、ホワイト・アメリカを維持する必要があると考えている。ネイティビストが望んでいるのは「人種的自決権と自己保存」なのである。

(2)多文化主義のもうひとつの問題は、複数言語化がもたらす社会問題である。
英語は、アメリカの歴史を通して常にナショナル・アイデンティティの中心だった。しかし二十世紀末から英語を軽視し、マイノリティの言語を奨励することが政府などの機関が行う取り組みの主たる要素になっていった。

そして投票権法やニ言語教育法によって、選挙や教育において非英語話者が不利にならないように制度が整備されていった。連邦政府と裁判所は、公民権法の「民族的出自」には言語および差別の禁止が含まれると解釈し、担当機関は政府プログラムに参加する人に英語を話すことを求めてはならないとした。
(これは、公民権法の差別禁止規定から積極的差別是正措置がうまれた過程とどこか似ている。人種による差別を禁止した法律が逆に人種を意識した法律に解釈された)

ヒスパニックの急増にともなって、二言語推進の問題は特にスペイン語において顕著となり、英語の(単独での)公用語化にヒスパニックたちが反対するという現象すら出てきた。
もしこのままスペイン語をアメリカの第二言語として普及させる動きがつづけば、その過程で重大な結果がもたらされる可能性がある。多くの州では行政職に就くために、両方の言語に熟達していなければならなくなり、大統領および閣僚の候補でも、バイリンガルの人は英語しか話せない人間よりも有利になるかもしれない。また第一言語がスペイン語の人はほとんどがおそらく英語もかなり堪能なので、英語を話す人間でスペイン語が苦手な人は、就職、昇進、および受注戦争で不利になっていくことが考えられる。

スペイン語話者の多い地域では、アメリカの歴史が始まって以来はじめて、英語しか話せないために就職できない、あるいはもらえたはずの給料がもらえないアメリカ人が増えている
こうした傾向が続けば、ヒスパニックとアングロのあいだの文化の境界線が、アメリカ社会で最も深刻な溝として、黒人と白人のあいだの人種の境界線に取って代わるだろう。

現在の移民はかつてのような移民とは異なり、必ずしもアメリカ人になりたいのではない。
彼らは多文化主義によって民族性を維持し、飛躍的に進歩した通信と交通を活用して、出身国との二重の忠誠と、二重の国民性と、二重の国籍を維持する。そしてディアスポラ(国外離散者)として、国境を越えて広がるトランスナショナルな文化共同体を出現させているのである。

さて、ここで大事なことは、じつはこうした問題を生んでいる多文化主義およびそれに関連した政策は、アメリカの一般大衆に支持されていないということである。 世論調査の結果は、積極的差別是正措置や二言語教育について、当事者であるマイノリティを含めて、必ずしも大きな賛同を得られていないことを示している。
つまり「信条」を重視して「市民的」であろうとする指導者層と、未だ「愛国的」である大衆との間に乖離が生じているのである。

こうした、いわば無国籍化したエリート層への反感を募らせているアメリカ大衆は、イニシアティブ(直接発案による住民投票など)によって多文化政策への反対運動を活発化させつつある。 このまま指導者層と大衆の乖離傾向が続けば、大衆は政府への信頼を失い、選挙運動のボランティアからテレビ討論の視聴者まで、既存の政治参加システムへの関心が減少し、政治的なエリートによって支配されない別の政策立案手段に訴えるようになると考えられる

アメリカ社会というのは現在、このように多文化主義による水平方向の分断と、エリートと大衆という垂直方向の分断が同時におきているが、それでもアメリカ国民は自由平等などの「信条」によって結びつこうとしている。 しかしそこでひとつ疑問がある。それははたして「信条」(イデオロギー)だけで国家は維持できるのかという疑問である。

歴史を振り返ると、ソ連、ユーゴスラビア、チェコスロバキアがそうであったように、共産主義イデオロギーは、異なった文化や国民性をもつ人々を統一するために利用された。あるいは東西ドイツと南北朝鮮のように、同じ国民性を持つ人々から一部を引き離すために用いられもした。イデオロギーによって定義されたこれらの国家は、強制されて成立したものだった。

共産主義が魅力を失い、これらの統一体を維持する誘引が冷戦とともに失われると、こうした国々は北朝鮮を除いてみな消滅し、国民性と文化および民族性によって定義された国に取って代わられた。一方、中国では共産主義イデオロギーが衰退しても、何千年も続いてきた漢民族の中心文化をもつ国の統一が脅かされることはなく、それどころか新たに中国のナショナリズムを鼓吹することになった。
共産主義者が熱心な反共主義者になり、リベラルな民主主義者がマルクス主義を信奉したように、政治的な信条というものは比較的に容易に変えられる。政治的なイデオロギーだけで定義された国は、脆い国家なのである。
人は政治的な原則の中に、身内と友人、血縁関係、文化と国民性がもたらす深い感情的な意義や意味を見出すことはないだろう。そうした強い愛着は実際には何ら根拠がないのかもしれないが、それらは意味のある共同体を求める人間の深い願望を満足させるものである。

国とは、ベネディクト・アンダーソンが言ったように、想像された共同体だが、より明確に言えば、それは記憶された共同体であり、想像された歴史を持つ共同体であって、それは共同体そのものの歴史的な記憶によって定義されている。どんな国も、その国の歴史なしには存在し得ず、国民の心には苦難や功績、英雄や悪漢、敗北や勝利の共通の思い出が宿っていなければならない

アメリカの「信条」も、もとをたどれば、建国の入植者たち(ファウンディング・セトラーズ)からの歴史にその起源をもつものであった。その他の民族もこの信条に含まれる要素を支持してきたが、信条そのものは、18世紀の入植者のイギリスの伝統と非国教派プロテスタンティズム、そして啓蒙思想に由来しているのである。
合衆国に住むアメリカ人の慣習こそが特殊な原因となり、アメリカ大陸にある諸国の中で民主主義の政府を支持しうる唯一の国民にあの人々を仕立てているのであり、その民主主義制度もアメリカ人の慣習の実践の産物なのである。

「われわれ合衆国民」は、まず共通の民族性、人種、文化、言語、および宗教をもって存在しなければならなかったのであり、そこから初めて「アメリカ合衆国のためにこの憲法を制定」〔合衆国憲法の前文より〕することができたのである。
もしアメリカ人が自らの信条の根拠となるアングロ-プロテスタント文化を放棄すれば、この信条もこれまでのような顕著性を保持できなくなるだろう。 そして多文化のアメリカはいずれ多数の信条を持つアメリカになり、異なる文化グループごとに、その特定の文化に根ざした特有の政治的価値観と原則を信奉するようになっていくだろう。

このアメリカ社会の将来については4つの可能性が考えられる。すなわち(1)信条の原則のみでまとまる。(2)英語とスペイン語の二言語二文化並存社会となる。(3)ネイティビズムが興隆し人種・民族で分断される。(4)文化と宗教によってまとまる。キリスト教の国としてアングロ-プロテスタントの価値観にのっとり、英語とヨーロッパの伝統を保持し、信条の原則を守る――の4つである。 だが、リベラルな人が好む第一の形態では、歴史を見ても心理学的にも、国家を長く存続させることは難しいだろう。

またアメリカと他国との関係についても3つの形態が考えられる。(1)アメリカ人は世界を受け入れ、多民族、多人種、多文化の社会になる。この場合、世界がアメリカを作り直す。(2)アメリカの価値観が普遍的だとして、文化帝国主義的な行動を取る。アメリカが世界を作り直す。(3)建国以来のキリスト教、アングロ-プロテスタント文化に回帰しナショナリズムを高め、独自性を維持する ――エリートは1または2を志向しているが、アメリカの国民の圧倒的な多数はナショナリスティックな3の道を目指しており、何世紀にもわたって存在してきたアメリカのアイデンティティを守り、強化しようとしている。

アイデンティティが重要なのは、それが人々の態度を定めるからである。自分を学者だと思えば学者らしく振る舞おうとするように。 アメリカ人は今後自分たちをどのように再定義するのか。それによってアメリカという国の将来と、世界における役割が決まっていくだろう。
(終)

〔参考文献〕
『分断されるアメリカ』 サミュエル・ハンチントン 2004年 ※文庫版が出ています。必携。 ◆楽天 ◆Amazon