- 国民を「真実の共同体ではない」「捏造だ」とする種類の言説に対しては、著者自身が反駁している。
- 国民とは国史の編纂により想像上の祖先-子孫というイメージが喚起されて生まれた主観的血統集団
- 祖先の統合ができないアメリカは、一つの国民(想像の共同体)ではない。(白人、黒人、先住民等)
ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』は、無数の見知らぬ人々がなぜ「国民」という概念で結びついたのか、なぜ人々はそこにリアリティを感じたのか、その心理的なメカニズムを解明した本である。
しかし本書は「想像」というタイトルのせいか、国民には実体がないとか、あるいは国家の教育によって思い込まされている捏造であるかのような誤解がされてしまう場合がある。
しかしアンダーソンは本書冒頭で、「国民」や「ナショナリズム」が捏造であることを強調しようとしたアーネスト・ゲルナーに対して、次のように批判している。
またゲルナーは、敢然と次のようなめざましい論を展開する。「ナショナリズムは国民の自意識の覚醒ではない。ナショナリズムは、もともと存在していないところに国民を発明することだ。」ゲルナーのこの規定は、少々過激ではあっても、実はわたしと同じことを言っている。もっとも、この規定の欠点は、彼が、ナショナリズムとは偽りの仮装であると言いたいがあまり、「発明」を、「想像」と「創造」にではなく、「捏造」と「欺瞞」になぞらえたことにある。そうすることで彼は、国民と並べてそれよりもっと「真実」の共同体が存在するのだと言おうとする。(24頁) (下線・太字強調は筆者。以下同じ)
そして「ナショナリズム」に対して「そこにはなんにもない」としたガートルード・スタインや、ナショナリズムを「神経症」「病理」と表現したトム・ネアンに対しても、そうした評価は「ナショナリズム」を「自由主義」や「ファシズム」の同類(つまり実体とは無関係の政治イデオロギー)とみなすところからくる間違いだと批判している。(23頁)
このようにアンダーソンは、国民が、(ゲルナーと同じく)国家による文化的人造物(後述)であることは認めつつも、(ゲルナーらとは異なり)「真実の共同体」ではないことを強調しようとする種類の言説については、冒頭で異を唱えているのである。
では彼は国民という「想像の共同体」についてどのように説明しているか。
アンダーソンはまず、そもそも共同体というものには真偽の問題は存在せず、「想像のスタイル」の違いに過ぎないと主張する。 そして「国民」という想像のスタイルは、途方もない数の人々に自ら命を投げ出させてしまうほどの現実味を感じさせるところに大きな特徴があると指摘する。
つまり、国民と国民主義(ネーションとナショナリズム)は、「自由主義」や「ファシズム」の同類として扱うよりも、「親族」や「宗教」の問題として扱った方が話は簡単なのだ。(24頁)
日々顔付き合わせる原初的な村落より大きいすべての共同体は(そして本当はおそらく、そうした原初的村落ですら)想像されたものである。共同体は、その真偽によってではなく、それが想像されるスタイルによって区別される。(25頁)
先に指摘したように、今世紀の大戦の異常さは、人々が類例のない規模で殺し合ったということよりも、途方もない数の人々がみずからの命を投げ出そうとしたということにある。こうして殺された人々の数が、殺した人々の数をはるかに上まわったことは確実ではないだろうか。究極的〔自己〕犠牲の観念は、宿命を媒介とする純粋性の観念をともなってのみ生まれる。(237頁)
では、この「国民」とは、どのような「想像のスタイル」によるものなのか。 なぜ「国民」という想像のスタイルは、会ったこともない人々を、数百万数千万という規模で結びつけることができたのか。 そしてなぜ人々は「国民」にリアリティを感じ、宿命性を感じ、途方もない数の人々がみずから生命を投げ出そうとしたのか。 本書で説明されているものは、この点に集約される。
アンダーソンの丁寧な論証をここで繰り返すことはできないが、要約すると、まず欧州における国民形成は、言語の統一による水平方向の想像と、国史の編纂を通じた垂直方向の想像という、2つの想像力が軸となっている。
まず言語の統一については、統治者が統治に都合のよい言語を選択し、それを標準語としていった。 この統一言語(標準語)は学校教育、出版資本主義(*1)、通信技術の発達等々を通じて人々の間に伝播していき、やがて同じ言語の新聞や小説を読む人たちの間などで、「われわれ」と他者との境界が想像されるようになっていった。
出版資本主義はこのとき同時に啓蒙思想も普及させ、王権の正統性を危うくしていく。やがてフランスなどで市民革命がおこると(*2)、それまで王の臣民(領民)でしかなかった民衆のアイデンティティの軸となっていくのが19世紀前半に興隆する歴史学である。 この歴史学によって「国史」が編纂されるようになり、「われわれ」の中身について時間的な意味づけがされるようになると、欧州の民衆は現在から遠い過去までのつながりを感じるようになっていった。たとえばギリシア人は古代ギリシア人を、フランス人はガリア人をわれわれの祖先であると「自覚」するようになった。この自覚は「眠りからの目覚め」(320頁)などと表現された。
こうして19世紀、領主と領民という関係(意識)に代わり、いわば想像上の祖先と子孫という、家族的連帯のイメージ(意識)が喚起されて「国民」は生まれたのである。
国史の編纂は国民に祖先への憧憬や次世代への希望、またその「死」(滅亡)への怖れなどを抱かせることとなった。こうして国史の編纂により一種の「生命体的な観念」がうまれたことによって「国民」は、「文化的人造物」(22頁)でありながら、かくも深く情念を揺さぶる正当性をもつようになった。 すなわち、およそ人というものは、この土地、皮膚の色、性、生まれ、生まれた時代など、選択されたものではない「自然のきずな」(236頁)のなかに、「ゲマインシャフトの実」(236頁)とも言いうるものを感知する。「われわれ」の属性が選択されたものでないこと、まさにそれゆえに自己犠牲の精神が喚起され、戦時にはこの家族的共同体のために多くの人がみずから生命を投げ出すことになったのである。*3
以上が欧州における国民の「想像のスタイル」であり、「国民」のために多くの人が命を投げだそうとした理由である。**
なお日本の国民形成についても言及されてる箇所があり、二世紀半の鎖国によってもたらされた日本人の比較的高い民族文化的同質性と、天皇という万邦無比の古さをもつ疑う余地なく日本的な存在であったこと(*4)が、日本においても欧州型と同じ「国民」の形成に有利に働いたとされている。(159頁など)
アンダーソンは、この「国民」の創出は、国家官僚の冷徹な計算によってなされたというよりは、「個々別々の歴史的諸力が複雑に『交叉』するなかで、18世紀末にいたっておのずと蒸留されて創り出され」(22頁)たものであり、よくも悪くもそれは近代という時代がもたらした必然的結果(14頁)だったとも述べている。*5
ではこの「国民」という共同体は、ゲルナーらが言うように「真実の共同体」とはいえないのだろうか。 もちろんその完全な答えが存在するわけではないが、少なくとも次のようなことは言えるのではないか。
まず、「国民」と(おそらくゲルナーも「真実の共同体」と見なしているであろう)原初的村落は、どちらも(具体的な人間関係だけでなく一定の間接的人間関係すなわち)「想像」にもとづいているという点で同じであるということ(「想像のスタイル」の違い)。 そして、イデオロギーで定義されたソ連が70年で解体したことに比べて(*6)、今日、多くの欧日型の国民国家が民主的に安定して存在できているという現実からすると、「祖先と子孫」という「想像のスタイル」が人間の本性に沿ったものであるということ。
とすれば「国民」は共同体としての実質を十分備えているといえるのではないだろうか。
いずれにせよ、いまだ国家をもたぬ流浪の民や、各国内部に少数民族としての地位に甘んじている人々からすれば、「国民は幻想である」などと安易に言い捨てられるようなものではなく、国民とは、「想像」で結びつくことによって結束し、国際社会に主権的地位を確立することに成功した文化集団(民族)であると解すべきだろう。
話を「スタイル」に戻すと、言語と歴史という橫縱二軸の想像によって結びついた家族的共同体がいわば欧州型国民である。 しかし本書が特記的に取り上げるクレオール植民地型の国民は、この欧州型国民とは成立過程と「スタイル」が異なっている。
*1) 出版資本主義…初期の書物はラテン語で出版されていたが、話者が少ないため市場がすぐに飽和した。そのため書物は各地の俗語(英語、仏語等々の今日でいう欧州言語)の市場へと参入していく。それがそれぞれの言語の普及と標準化につながった。
*2) 革命のおこらなかった地域でも多くの君主は「国民的意匠」を手に入れようしていった。たとえばフリードリヒ大王(在位1740-86)の軍隊が圧倒的に「外国人」であったのに対して、その曾甥ウィルヘルム三世(在位1797-1840)の軍隊は、まったく「プロシア国民」だけからになった。(46頁)
*3) 究極的〔自己〕犠牲の観念は、宿命を媒介とする純粋性の観念をともなってのみ生まれる。宿命共同体のために死ぬということは、労働党のため、アメリカ医師会のため、あるいはおそらくアムネスティ・インターナショナルのために死ぬということでは決して太刀打ちできない崇高さを帯びる。それらの団体は、国民共同体とは違って、たやすく参加したり脱退したりできるからである。(237頁)
*4) 天皇の自明性…欧州各地で王として君臨したブルボン家、ハプスブルク家などと対比すれば理解できよう。
*5) 「国民」は、国家によって計算ずくで創出されたというよりは、啓蒙主義、出版資本主義、辞書の編纂、歴史学等々の登場によって、人々の意識(認識枠組み)が自然に変容したことによって生みだされたものと考えるのが妥当だということ。(329頁など)
*6)「共産主義国家(中略)では、ソ連、ユーゴスラビア、チェコスロバキアがそうであったように、イデオロギーが異なった文化や国民性をもつ人々を統一するために利用された。あるいは、東西ドイツと南北朝鮮のように同じ国民性を持つ人々から一部を引き離すために用いられもした。信条によって、あるいはイデオロギーによって定義されたこれらの国家は、強制されて成立したものだった。共産主義が魅力を失い、これらの統一体を維持する誘引が冷戦とともに失われると、こうした国々は北朝鮮を除いてみな消滅し、国民性と文化および民族性によって定義された国に取って代わられた。一方、中国では共産主義イデオロギーが衰退しても、何千年も続いてきた漢民族の中心文化をもつ国の統一が脅かされることはなく、それどころか新たに中国のナショナリズムを鼓吹することになった」(ハンチントン『分断されるアメリカ』467-8頁)
**) 一連の要約の中で、王の臣民から開放された民衆がアイデンティティを歴史に求めた、という意味づけは本書には直接的には書かれていない。本書の内容をふまえつつ筆者が個人的につけ加えたもの。
〔参考文献〕
『定本・想像の共同体』 ベネディクト・アンダーソン 2007年(原著1991年、旧版は1983年) ◆楽天 ◆Amazon
『分断されるアメリカ』 サミュエル・ハンチントン 2004年(単行本) ※今は文庫版も出ています。 ◆楽天 ◆Amazon