ウィトゲンシュタインのパラドクス――世界の最終根拠

ここではウィトゲンシュタインのパラドクス(規則のパラドクス)から、「人間の世界」の最終根拠について考えてみよう。

ウィトゲンシュタインのパラドクスとは次のようなものである。
すなわち、2,4,6,8,10,12…と有限の例を示し、以下これと同じように数えろ、という課題を出したとする(以下「n+2」と呼ぶ)。その場合、次の【B】が不正解であることを理屈で説明することはできないというものである。(鬼界p.275-280、永井p.157-160)

【A】2,4,6,8,10,12,……,98,100,……,698,700,702,704,706……
【B】2,4,6,8,10,12,……,98,100,……,698,700,703,706,709……

そして【B】が不正解とは言えない理由について、たとえば次のように説明される。 「有限の例が示されただけでは 703,706,709,… を否定することはできない」「規則はどんな解釈も可能なので n+2 が【B】であることは否定できない」等々。

たいていの人はここで意味不明となり嫌になってしまうのだが、じつはこのパラドクスは、いったん別の例で考えてみると、簡単に理解することができる。

正しさ(規則)の根拠

数列だとかえってわかりにくいので、幼稚園児に、赤い折り紙とリンゴ(=有限の例)を見せながら、この色と同じもをもってこさせるという課題に変更してみよう。(以下「赤いもの」)

【A】赤い折り紙、リンゴ、……、いちご、トマト、……郵便ポスト(ミニチュア)、消防車(ミニカー)……
【B】赤い折り紙、リンゴ、……、いちご、トマト、……郵便ポスト(ミニチュア)、救急車(ミニカー)……

むろん【A】が正解で【B】は不正解だが、では、この正解・不正解の根拠はなんだろうか?
ここで次のようなSF(サイエンス・フィクション)を考えてみる。

色の割合に対する感覚が人間と異なり、救急車(*側面のラインと回転灯が赤色)くらいの色の割合では「赤いもの」に見えてしまう宇宙人Bの園児がいたとする。 その園児は、なぜ救急車が「赤いもの」ではないのか、まったく理解できず、孤独に苛まれている。
(――消防車をよく見ると、赤くない部分がある(タイヤは黒、ホースは白)。だから消防車を「赤くないもの」とすることは理論上は成り立つ。しかしそれでも消防車が「赤いもの」なのは、人間の「色の割合」についての感覚が、たまたまそうなっているからである。 宇宙人Bは、(人間から見ると赤くない)救急車くらいの赤色の割合であれば「赤いもの」に見えてしまう、そういう感覚の宇宙人なのである。だからBは人間の世界で孤独に苛まれる)

別パターンで言うと、たとえば「ミカン」がリンゴなどと同じ「赤いもの」に見えてしまうような「色彩感覚」の宇宙人Cの園児がいたら、やはり同様のことがおこるはずである。

では逆に、我々人間が宇宙人BCの星に移民したら、どうなるだろうか。
当然、今度は我々の方が「孤独」になるはずだ。 *a
ところでこのとき、我々も宇宙人も、自分の立場を正当化できる根拠(理屈)を見出しえないのではないか!?

・・・意味がわかっただろうか?
宇宙人Bにとっては、n+2という数列(=規則)は、700を超えると(人間でいうところの)n+3となるのが普通なのである。そういう数的感覚の宇宙人なのである。 【A】が正解で【B】が不正解ということは、その逆と同次元で根拠がないことなのである。 だから数列【B】を間違いだとは言えないのである。(人間の世界では間違いだが、宇宙の真理として間違いだとは言えない)

今度は孤独なのは私の方である。私以外の全ての人が、「+2」という命令をごく自然に「100までは2を、200までは4を、300までは6を、というように足していけ」と(私なら表現するような仕方で)理解するらしいのだ。共同体は私にとって突如として異様なものとして現われる(カフカや安部公房の描く世界には、この感覚が少し残っている)。(永井p.158-9)

つまり、
(1)人間の世界で「正しさ」(規則)とされているものは、「それが自然だ」と人間の判断が一致するという実践的事実にすぎないということ。
(2)人間の判断の一致(感覚的一致)こそが正しさ(規則)の最終根拠であり、それ以外に本当に何も根拠(理屈)がないこと

これがウィトゲンシュタインが規則のパラドクス(『哲学探究』§185-188、§217-219)で示そうとした意味である。*1
(――別の言い方をすれば、人間の実践が先にあって、それが規則に見えているだけだということ。(n+2=【A】などの)規則が先にあるのではないということ。人間は(アプリオリな)規則に従っているのではない/従えないということ。人間がいなければ(実践的事実がなければ)規則も存在しないということ)

(――かつてキリスト教圏の人間は、超自然的な規則、つまり神によって創造された(アプリオリな)規則が存在し、人間はそれに従って生活している/生活するべきと考えていた。数学はその最たる例である。 ウィトゲンシュタインはそうして超自然的な規則は原理的に存在しえないこと、そしてこの世界の規則は人間的実践によって定義されているにすぎないことを本パラドクスによって示そうとした)

リンゴの定義

【A】 リンゴA、リンゴB、リンゴC……、リンゴX……
【B】 リンゴA、リンゴB、リンゴC……、……
【C】 リンゴA、リンゴC、……、リンゴX……

→ 人間にとっての「リンゴ」は、実践【A】によって定義されている。【A】によってリンゴというものの規則=正しさがきまっている。
→ 宇宙人Bは、人間には「梨」に見えるものがリンゴに見えている。宇宙人Bにとってのリンゴは実践【B】で定義されている。
→ 宇宙人CにとってリンゴBはリンゴに見えない。別の果物にみえる。宇宙人Cにとってのリンゴは実践【C】で定義されている。

足し算という規則

「おはじき2個と3個を一箇所に集めると5個になる。これが2+3=5だよ」(A)と説明したとき、(たとえば)「2個と3個が近づいただけじゃないか。それがどうして5になるの!?まったく意味がわからない!」(B)などと本気で反論するような宇宙人がいたら、この宇宙人と人間は足し算という概念(規則)を共有できないということである。人間同士の場合は、この説明を理解できるので、幸いにも、人間の世界では足し算という概念(規則)が成立しているのである。
(なお、一見劣ったように見えるこの宇宙人は、人間とまったく別の発想で宇宙を記述し、それにより人間より高度な文明を築いているかもしれない。その意味で足し算はなんら「宇宙の真理」ではない)

我々が普段「正しさ」(規則)だと思いこんでいるものは、それ自体で成立しているのではなく、人間同士の「それが自然だ」という「判断の一致」に補助されて成立している。「それが自然だ」という判断の一致がもし共有できなければ、「赤いもの」はもちろん「n+2」のような単純な数列(数学)でさえ「正しさ」(規則)は存在しえない。
しかし人間同士は、まことに幸いなことに、この「自然」を共有しているがために「正しさ」【A】を共有でき、以て、意思疎通(意味の共有)が可能になっている、ということなのである。
(――このことは「自然」を共有できない相手とは概念を共有できず、一つの社会を形成できないことを意味する。人間と感覚が異なる宇宙人は人間の社会(世界)には住めない。人間同士、宇宙人同士の社会に分離せざるをえない

この「判断の一致」は、後期ウィトゲンシュタイン(言語ゲーム、世界像)の最重要概念である。

【注意】
ここでいう「判断の一致」とは合意ではない。 合意とは、「Bという見方もありうる」という状態の中で行われる議論や多数決、要するに、政治的妥協のことである。 判断の一致はそうではなく、「Bが一人も居ない」という状態、つまり自然に全面的な一致が成立していて、合意という手続きがそもそも不要な状態のことである。 両者は本質的に異なる。
もし判断の一致が成立しないと「無限後退」に陥って、そこに「世界」は成立しえなくなる。(詳しい説明は→§「規則」(正しさ)の成立――ウィトゲンシュタイン・言語ゲーム(1)

飛躍、そして演繹と逸脱――「無限」を可能にするもの

ところで、「赤いもの」(という規則)の例として挙げた、赤い折り紙、リンゴ、いちご、消防車等々は、おなじ色合いではない。
つまりそれらは、それぞれ、不連続に「飛躍」している。
(既に述べたように、この、飛躍しているものそれぞれが、同じ「赤いもの」である「根拠」は皆無である)
にもかかわらず、人間はなぜかそれらを普通に「赤いもの」と見なしている。なぜだろうか。
それは、その飛躍が人間の感覚の軌道に沿った「自然な」飛躍だからである。*2

以下、この、人間の感覚の軌道に沿って「自然に」飛躍することを「演繹」と呼ぶことにしよう。
そして軌道を外れた飛躍のことを「逸脱」と呼ぶことにしよう。

ここで筆者が「赤いもの」として「醤油の蓋」を普通に追加したとする。するとあなたもそれを赤いものと普通に認識するはずである。なぜならこの飛躍(追加)が演繹だからである。【A】

他の概念も同様である。

たとえば花鳥風月は「美しいもの」の代名詞である。しかしよく考えると、それぞれはまったく性質が異なるものである。にもかからわず、我々は普通にそれらを「美しいもの」と思っている。そのことに疑問を持たない。なぜならそれらは演繹で結ばれているからである。 そしてここに「北川景子」というまた異質なものを普通に追加できるのも、それが演繹だからである。【A】

日本人がつくる寿司は、日本の寿司だと感じられる。それが演繹だからである。【A】
(――日本人がつくる寿司だってそれなりに多様である。つまりそれぞれは「飛躍」している。にもかかわらず、それらが皆同じ「日本の寿司」と認識されるのは、日本人の感覚(演繹)によって作られている寿司だからである)
しかしアメリカ人がつくるカリフォルニア・ロールは、日本人には違和感がある。日本のクリスマスも、正統派のキリスト教徒からすると違和感がある。それらが「逸脱」したものだからである。【B】

(Q.デーモン閣下が葬儀で着る喪服は一般的なものではない。悪魔流のものである。しかし皆それを普通に喪服と見なしている。なぜか)

配列【A】という現象は、有限から無限が生じていると見ることができる。
有限から無限が生じるというのは、考えてみると不思議なことだが、それができるのは、「自然」という感覚を人間が共有し、その「自然」に沿った演繹が「それ」の規則(正しさ・意味)となれるからである。(cf.『哲学探究』§217-242)

「それ」の意味を理解しているということは、正しく演繹できるということである。「それ」を正しく演繹できるようになったとき、「それ」の無限の演繹に内側から関与していくことができるようになる。
(辞書に書き留められている例は、他人によって演繹されたいくつかの例にすぎない。そのいくつかの例を話せても、その言葉を理解したことにはならない。自分で「正しく」演繹できる(使える、示せる)ようになったときはじめてその言葉を理解したことになる)

人間が概念をもてる原理

○花は美しい ○鳥は美しい ○北川景子は美しい ×リモコンは美しい
→演繹によって○の文は流通するが×の文は流通しない。なぜなら×は人間が不自然な(=正しくない)と感じる文だからである。そしてこのことこそ人間が概念をもてる根本原理なのである。なぜなら人間は言葉の使われ方から言葉の意味を知るので、人間が言葉を習得するためには正しい文(自然な文)だけが流通していなくてはならならないが、それは人間の「自然」という感覚の共通性によって不自然な文が抑制されることによって実現しているからである。 「自然」「不自然」という感覚の共通性により○のみが流通し×が流通しない――このことこそ、人間が「美しい」という概念を運用できる原理なのである。

ところでもし人間がこの「演繹」をできなくなったらどうなるだろうか。まず人間は「有限の例」から一歩も先に進むことはできなくなる。さらに「有限の例」同士についても、演繹によって結びつけることができなくなるので、「有限の例」それぞれが「単に飛躍している別個のもの」へと分解し、結果、一つの概念としてまとまっていられなくなって、消えてしまうことになるだろう。

最後に、もっと「飛躍」した例を考えてみよう。
野球少年が「甲子園に行きたい」と言ったとき、それは甲子園駅までの電車賃が欲しいという意味ではない。高校野球大会に出場したいという意味だ。なぜだろうか。そもそも、なぜそうした文学的な表現(相当な飛躍)は生まれ得るのだろうか。

規則(正しさ)について整理

ここまでの話を整理しよう。
【1】規則(正しさ)とは、人間の「自然」という感覚の共通性によって、社会的に、自律的に、判断が一致(収束)している状態のことを言う。
【2】「規則」は人間にとって常に「自明」である。なぜなら規則は人間の「自然」という感覚に沿って生じているものだからである。 (→§規則と実践の逆転――「規則」(正しさ)の成立
規則は人間にとって「自然」なものなので、人間は「規則」に疑問を感じない。規則が成立しているとき、規則(正しさ)以外の選択肢を発想すらしない/できない(発想外)。だからこそ人間は規則に常に盲目的に(非選択的に)従う(従うことができる)(――たとえば野球少年+甲子園→高校野球という解釈が「規則」。このとき電車賃等は発想外/2+3=5も規則。2+3=6等は発想外)

規則に従うとき、私は選択しない。 私は規則に盲目的に従う。(ウィトゲンシュタイン『哲学探求』§219)

醤油の蓋を追加したとき、自然にそれができたのは、それが「赤いもの」の「規則」(演繹)だからである。 6251+2174=8425 など、生まれて初めて行う足し算の結果を自明と思う(疑わない)のも、それが「足し算」の「規則」だからである。*b
もちろんそこで「ソースの蓋」「6251+2174=33」などと誤答することは可能だが、それは正しさ(規則)を故意に外しているのであって、つまり誤答の場合も「規則」それ自体には盲目的に非選択的に従っている。

(――「規則」とは、人間の内側から人間を<発想的に>拘束しているものである。しかし当の人間は「規則」に拘束されていることに気づきもしない(∵「自然」)。だから人間は「規則に盲目的に従う」のである。「規則」は「常識」と言い換えることもできる)

人間は規則(正しさ)に盲目的に従う(従ってしまう、気づいたときには既に従っている)。それが「自然」だからである。*3
また、「規則」だからこそ、人間はそれを無限に(盲目的に)「演繹」していくことができる。

【 補足 】 社会(世界)も「規則」である

▲前項の【1】をよく読んでほしいのだが、この定義の意味は、【A】【B】のように単純に要素が追加(演繹)されていくようなものにとどまらず、「自然」という感覚から自明性が確立され、人間が「非選択的に」「盲目的に」従って行動(演繹)してしまうような実践はすべて「規則」だということである。 たとえば紙切れに一万円の価値があると思い込んでいること、商品を受け取るときにお金を<自然と>支払ってしまうこと(貨幣経済)もそうだし、あるいは正月に初詣に行くこと、七歳から就学すること、書店員が<自然と>日本の書籍と世界の書籍に分けて陳列してしまうこと等々も、われわれにとって「自然」で自明的な一致によって成立している「規則」なのである。――こうした「規則」に沿った人々の実践によって現前(実体化)するものが我々の社会(世界)なのであり、だから社会(世界)とは「規則」なのである。
▲社会の構成員が「われわれの生活」を「自然な感覚」によって演繹し、一致させながら新たな「規則」を生じさせていく、そして構成員はそうして生じた「規則」に盲目的に従って生活する――この連鎖が人間の社会である。これらの「規則」は平たく言えば「常識」「慣習」である。
▲それぞれの社会の文化的特徴(慣習)も「演繹」によって決まってくる。【A】初詣、雛祭、鯉幟…といった「規則」を持つ(持てる)社会、そこに「判断が一致」する(できる)社会が日本社会である。

人間の世界

人間の世界にプラトニックな(超自然的な)規則(正しさ)は一切存在しない。
人間の実践(感覚・判断の一致、演繹)こそが規則(正しさ)を定義している。(だからこそ無限が可能となる)

数学や論理の規則(正しさ)ですら、その例外ではない。(→すべては言語ゲームである
人間の感覚だけが、この世界の最終根拠である。(→言語ゲームは世界の最終根拠

科学公式から、言語、音楽(例えばメロディ)、図画・デザイン(例えば男女トイレのマーク)、習慣習俗その他、あらゆるものは、人間の「自然」という感覚を基準にした「正しさ」(規則)に収束した結果である。それがわれわれ「人間の世界」である。
世界それ自体は乱数的であるが、人間の感覚が「この現世界」に収束させている。

人間は「それが自然である」という感覚(の軌道)からは逃れられない。*4
逃れられないからこそ、世界は「この現世界」に安定的に収束していられる。(それに沿った演繹=活動も可能になる)

「自然」という感覚の一致が「判断の一致」をもたらすからこそ、そこに「世界」が生まれる(収束する)。
「自然」のあるところに世界(演繹可能な概念)が生まれる。
「合意」では「世界」は生まれない。

日本という世界

日本史は日本人(われわれ)にとって「われわれの歴史」である。そこに「自然」と判断が一致している。(規則、正しさである)
清少納言に「日本人」という自意識はなかったが、日本人が彼女を「われわれの祖先」とみなすことは「自然」である。*5
ゆえに枕草子を「われわれの古典」として読むことは自然である。(こうした素朴な実践も日本人の「規則」である)
この態度(規則)を社会的に有しているからこそ、自然と、日本の情緒は日本の古典から読み取られるし、またその情緒が今日の漫画や小説や歌謡曲にも演繹されながら織り込まれる。(そしてそれを楽しむ我々のなかにその情緒が自然と涵養される)
だから日本の情緒は「このよう」になっている。

雛祭、習字、相撲、たこ焼き…そして「これ」はわれわれ(日本人)の文化である。
日本人の道の歩き方、正座の仕方、美意識、死生観、寿司、ラーメン、初音ミク…(その内実)は「このよう」である。

そうして日本人(われわれ)の自然な実践によって収束し(規則が定義され)、また演繹されつづけているのがこの日本という世界である。 (→§日本も言語ゲームである――ウィトゲンシュタイン・言語ゲーム(2)

社会の大前提について人々の判断がどこに一致しているか、つまり何が「与件」とされているか、それがその社会の性格を決定する。(繰り返すが「合意」ではない)
日本史がわれわれの歴史である――このことを与件としている人々の実践が現前させているのが日本という国(規則)である。
いつの日か、日本の学校で、会社で、メディアで、地域社会において、日本史が与件でなくなったとき、「人々」の実践は「これ」「このよう」に収束しなくなって、日本という世界(規則)は消滅することになる。

(終)

*1) 本稿の「正しさ」(規則)は、『哲学探求』§219「規則に従うとき、私は選択しない。 私は規則に盲目的に従う」にいう「規則」と同じ意味で使っている。「正しさ」(規則)は人間の「自然」という感覚に由来するものなので、気づいときは既にそれに従っている。ゆえに「規則に従うとき、私は『選択しない』」のである。そしてだからこそn+2のような<規則>が成り立つ。<規則>は「盲目的正しさ(規則)」に補助されてはじめて<規則>として成立している。
<規則>と「規則」(正しさ)は、意味するところは異なるが、事実上は重なっている。<規則>(n+2、赤いもの)は「それ」の記述形式にすぎず、「それ」を内側から実質的に支えているのは人間の「規則」(正しさ、自然さ)である。
<数学公式>も<科学公式>も、人間が現実と照合しながら、人間が「それで正しい」「それが自然」と感じるところに成立している。<規則>を成立させている最終基盤は人間の感覚(自然)である。人間が「不自然」と感じる<規則>は存在しえない。
*2) 例に挙げた「n+2」「赤いもの」どころか、我々が普段「自然数」と思いこんでいる数列{1,2,3…}において、6の次を7、21の次を22としていることさえも、じつは根拠のない「飛躍」なのである。しかしまことに幸いなことに人間の「自然」という感覚が共通であるがゆえに、この飛躍が全地球的に「自然な」飛躍(すなわち演繹)となっていて、ゆえにそれが正しさ(規則)【A】となっているにすぎないのである。
*3) §219は次のように言い換えることもできよう。「『自然』に従うとき、私は選択しない。 私は『自然』に盲目的に従う」
*4) じつは日本人には「カリフォルニア・ロール」を編み出すことはできない。寿司職人が新しい寿司を開発しようとしても必ず「寿司」の枠内に収まってしまう。なぜなら不自然な演繹は(発想的に)できないものだからである。(→*a)
*5) {イチロー、清少納言、卑弥呼…}は「日本人」として【A】なのである。だから清少納言や卑弥呼は「われわれの祖先」なのである。一方、たとえば阿弖流為を自然と日本人だとは思うことはない(【A】に含まれない)。ゆえに阿弖流為は「われわれの祖先」ではないのである。ここでは学術的な反論は意味がない。たんに人間がどう感じるかによって世界(規則)が定義されているということである。(それが「最終根拠」ということである)

*a) ABそれぞれ相手の世界を「狂気」という。人間は【A】という島に住み、狂気によって発想的に他の島【X】と隔てられている。(鬼界p.294)
*b) 近代認識論のアポリア: 経験を積み重ねることで正しい認識ができると考える認識理論を<経験論>という。経験論では普遍性を説明できないというアポリア(解決不可能な問題)がある。たとえば経験論では、消防車が「赤いもの」であると断定することはできない。「これまで経験してきたことからして、この消防車も赤いものとみなしてよいだろう」という【蓋然的】な判断にとどまらざるを得なくなる。ところが現実にははじめて見る消防車も確実に「赤いもの」のはずなのであり、実際問題それを誰も疑わない(普遍性)という体験的事実と矛盾することになる。 ウィトゲンシュタインは「正しさ」の基準を「個々人の認識が正しいか否か」から「人間が一致してそう思ったものが正しさだ」へと転換することによってこのアポリアを解決したのである。 (6251+2174=8425 という人生で初めて行う計算も、経験論では「誰も実際に数えたことはないだろうが、おそらく8425」という蓋然的判断となるが、ウィトゲンシュタインの「規則」では「計算して出した8425に人間の判断が一致するので、それが普遍的に正しい」となる)
またこの「規則」は、個人の主観に特権を与えたことで「客観性」を説明できなくなっていたデカルト的認識論のアポリアも解いている。
19世紀から20世紀にかけて、デカルト以来ながらく「個人」を世界の起点とし「真実」を探求してきた西洋近代認識論のアポリアはここに解決されることとなったのであるが、しかしこのことは同時に「絶対的な真実」の否定も意味しており、それまで絶対的なものがあると信じていた西洋人は、絶対的な正しさは存在せず、人間的な正しさしか存在しえないという事実に、大きなカルチャーショックを受けたのである。(cf.フッサール『ヨーロッパ諸学の危機』)

〔参考文献〕
『ウィトゲンシュタインはこう考えた』 鬼界彰夫 2003年 ◆楽天 ◆Amazon
『ウィトゲンシュタイン入門』 永井均 1995年 ◆楽天 ◆Amazon