はじめに
国家や国民なんて幻想だ―という言い方がある。
たしかに国家や国民は観念であって実体ではないから、幻想と言えば幻想である。 しかしそうはいっても我々はそれを前提として生活しているのであり、そうである以上、そこにはやはり一定の実体性、実在性があるようにも思える。 しかしなぜ人間は幻想かも知れない国家や国民というものに一定の実体性、実在性を感じて(信じて)、生活できているのだろうか?
ところで形のないものを信じると言えば、我々は普段数学や論理を客観的で絶対的に正しいものと信じている(感じている)のではないだろうか??
ウィトゲンシュタイン(1889-1951、分析哲学者)は、その思想的後期において、数式や論理の正しさですら、じつは人間の思い込みにすぎないという立場、つまり人間がその思い込みを失えば、数学や論理ですら存在できなくなるという立場に転換する。 そしてそこから、人間は集団的に盲目的に思い込むことによって、言葉の意味や抽象的な観念など「形のないもの」を社会的に固定(措定)して、言語や数学や論理をはじめとするさまざまな「世界」を営んでいるという考えに至る。
この、意味や観念を固定(措定)する盲目的な思い込みが実践的に社会的に生じていくことを、ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と呼んだ。
本稿(1)では、まず言葉の意味について、言語ゲームによってどのようにそれが固定され、意思疎通を可能にしているのかを説明する。 すると、国家や国民も(そして数学や論理も)じつは言語ゲーム的な思い込みの産物であり、我々はそれらを盲目的に信じることによって、そうした観念共同体(や数学や論理の体系)を固定的に営むことができていることが理解されるだろう。
そして本稿後半〔→(2)〕では、言語ゲームによって日本社会が実際どのように営まれているか考察する。そして「多様な価値観」を称揚することは、国民としての盲目性を奪い、日本という存在を危うくしていく思想であることを説明する。
また最後に、人間の世界認識の原理は人間の感覚を基礎とする言語ゲームであり、その感覚自体を理屈で変更することはできないがゆえに、「世界」は民主的議論の限界であること。またそれゆえに自意識(個人)を基準とした権利主張が無闇にまかり通る世界は、人間の原理を逸脱した「狂気」であることを示してみたい。
では以下本文――
反自然主義と自然主義
数学や論理は必然的真理であり、特別な真実を記述している――たとえば 2+3=5 という数式も、人間が居ようと居まいと全宇宙のどこでも絶対的に成立する、と考える――そのような考え方を数学と論理に関する反自然主義的見解という。
ウィトゲンシュタインは、その思想的後期において、『論理哲学論考』(思想的前期)でとっていたこの反自然主義を捨てて、自然主義へと転換する(鬼界p.228-37)。 このときウィトゲンシュタインの中で確立されるのが、数学や論理は人間という一生物の生態に関する事実、すなわち人類学的事実にすぎないという見解である。 (数学と論理に関する自然主義的見解)
たとえば 2+3=5 という数式は、宇宙の法則、すなわち人間と無関係に存在している普遍的な算術規則を記述したものなのではなく、人間がそれを普遍的真理だと思いこんでいるものにすぎないという見解である。(cf.鬼界p.242-3)
そんな馬鹿な!と思うかも知れない。
もっともこの見解は、2+3=5 が間違いだとか、他に正しい式が存在する(かもしれない)ということを主張するものではない。この見解の要点は、人間にはとにかく「そうとしか考えられない」「自明」「正しい」と感じられる状態があり、数学や論理(後述)ですらも、そのような人間的心理の産物にすぎないということである。
そうして人間を内側から、心理的に拘束する力を規範的強制力(鬼界p.243)と呼ぶとすると、2+3=5 は宇宙の普遍の真理を記述したものではなく、人間の規範的強制力(思い込み)の産物にすぎない―そう考えるのが自然主義である。
…今ひとつ納得できないかも知れないが、いったんこの話は棚上げして、次に言葉の意味や意思疎通の問題を考えよう。
言語ゲーム
意思疎通の例として、次のようなやり取りを考えてみる。
幼稚園の先生が子供たちに「赤いもの」をもってきなさいと指示した。子供たちは、リンゴ、トマト、消防車のミニカーなどをもってきたので、先生は子供たちを褒めた
レストランで給仕係から無言でメニューを渡された。 私はそれを横に読んで料理の値段を確認した。(→画像)
どちらも当たり前の光景のように思えるが、さてよく考えると、これは不思議なやり取りである。
なぜならこのやり取りは、リンゴや消防車などについて、色合いは微妙に違うのにもかかわらず、(なぜかそれらは)同じ「赤いもの」であるという判断が、先生と園児双方で一致してはじめて成立するものだからである。 またメニューの読み方も店員と客双方で、書式から判断して(縦や横方向に)正しく読むという判断が一致してはじめて成立するものだからである。
もしコンピュータにこれと同じ判断をさせようとしたら、赤いものの定義やメニューの読み方についての基準を、予めプログラムしておかなければならない。(そしてそれは困難を極めるだろう)
しかし人間の場合は不思議なことに、なぜかそうした事前の打ち合わせがなくとも、各自が勝手に正しく意味を判断することができる。なぜリンゴと消防車(よく見ると色合いが違う)を同じ「赤いもの」だと思ったのか? なぜメニューの読み方がわかったのか?などと聞かれても、答えに窮してしまうくらい、我々は自明だと思いこんでしまっている。 (もはやそれが慣習だからでしょ?と思った人は半分正解。しかしそれは、なぜそれが慣習化したのかについて答えていない)
人間の場合は幸いにも、先生と園児、店員と客の双方で、打ち合わせもしていないのに、なぜかこの自明的な一致(思い込み、規範的強制力)が自律的に生じているために、意味が齟齬することなく、正しく意思疎通できるのである。
われわれの生活のあらゆる局面に、このような自明性の局面、つまり、そうするのがあまりに当然で、別の可能性をそもそも思いつかないような局面が存在する。それが今や、言語が有効に働く基礎なのだ。(永井p.148) ※太字や下線による強調は引用者。以下同じ。
双方に意味の自明性(思い込み、規範的強制力)が生じていく過程のことをウィトゲンシュタインは言語ゲームと呼ぶ。
そしてこの自明性(思い込み)が自律的に成立する理由について、ウィトゲンシュタインは、何を「同じ」「自然」「規則的」などと感じるかについて、人間が共通の感覚をもっているからだとした。(cf.鬼界p.283-296)
以下で述べるように、この共通感覚があるからこそ人間は「意思疎通」が可能なのであり、また豊かな言語表現が可能となっているのである。 そしてもしこの共通感覚が無ければ、じつは人間は一切の意思疎通ができなくなってしまうのである。
原言語ゲーム(あるいは原規則)
人間が共通にもっている感覚を、言語ゲームを成立させる原理という意味で、原言語ゲーム(cf.鬼界p.286)と呼ぶことにしよう。 原言語ゲームは「逆転」と「演繹」という2つの心理過程によって言語ゲーム(自明性、規範的強制力)を成立させ、我々の意思疎通を可能にしている。
★後日追記: 「原言語ゲーム」あるいは「原規則」について
本稿では、規則(言語ゲーム)の成立を背後から支えている無意識下の(人間本性的な)実践のことを「原言語ゲーム」と呼んでいる。これは本の表記に合わせた名称なのだが、「規則を成立させている原理」という意味からすると、原言語ゲームではなく「原規則」と呼んだ方がわかりやすいかもしれない。本稿では本の表記にあわせて、そのまま「原言語ゲーム」を用いているが、適宜「原規則」に読み換えてもらった方が意味を取りやすいかもしれない。
〔1〕規則と実践の逆転――「規則」(正しさ)の成立
たとえば色について、人間が共通して「同じ」と感じる範囲内があるために、それを意味するものに名称(赤など)がつけられる。 またそういう読み方(縦または横など)が人間にとって「自然」であり、皆がそう読むために、そうした表現に名称(メニューなど)がつけられる。 また同時にこのとき、人間の感覚(原言語ゲーム)の共通性によって、「赤」「メニュー」を「その色」「そのように読む」という規則(正しさ)も自律的に生まれる。
このように、人間の感覚・判断の一致(実践)が先にあり、それが規則(正しさ)となることを「規則と実践の逆転」(永井p.154)という。
この「逆転」によって規則(正しさ)が、実践的事実として成立していく過程が言語ゲームである。 人間の感覚の共通性によって、双方の判断が事実として一致するという現象が自律的に成立する、その過程が言語ゲームである。
繰り返し「判断が一致」すると、次第にその一致が硬化して規範的強制力(それが正しいという思い込み)を獲得していく、そうして成立するのが「規則」である。(この意味で「規則」は慣習だと言える)
「規則」が成立している表現(名称)の意味は、人間にとってつねに自明である。 なぜならそれは人間の感覚の一致と「逆転」によって成立しているものだからである。
件の先生と園児、店と客の双方で自明的に意思疎通できたのは、「赤いもの」「メニュー」が言語ゲームによって生まれた「規則」だからなのである。 またそう解釈した根拠を問われても答えられないのは、その根拠が理屈の一致ではなく、感覚・判断の一致だからなのである。
『哲学探究』の中心課題は、規則(ルール)と実践(プレイ)の優先順位を逆転させること。(永井p.156)
そして、これがすなわち規則と実践の優先順位の逆転なのである。(永井p.159-60)
具体的判断が繰り返しなされる中で、誰がやってもほとんどいつも同じ結果になる判断は、いわば次第に化石のごとく硬くなり、そのうちに完全に固定化され規則となる。(中略)これを規則の発生に関する硬化理論と呼ぼう。(鬼界p.353)
どんな単純で原始的な言語ゲームであっても、そこで個々の言葉に関する規則に人々が従うのに先だって、前提されているある能力、原言語ゲームとでも言うべき過程が存在するということである。(中略)しかしこの感じ方を共有しない者に、何が自然かを言葉で説明することはできないのである。(鬼界p.286)
(Q. ファミレスのメニューは縦書きでも横書きでもないが、なぜ理解できるのだろうか。なぜ店側はそのようにデザインできたのだろうか)
(Q. 広島カープは「赤いもの」と言えるか?その根拠は何か)
ところでもし仮に人間が原言語ゲームを共有していないとすると、感覚・判断が一致しないので言語ゲーム(規則)が成立せず、正しい意思疎通はできなくなる。
このことを、人間とは感覚がまったく一致しない宇宙人を想定して考えてみよう。
たとえば色見本を見せて「赤」というものを説明しても、この宇宙人は人間と色彩感覚が異なるので、宇宙人にとっては、リンゴが「赤」に見えなかったり、あるいはミカンが「赤」に見えたりしてしまう。
あるいは別パターンで言うと、この宇宙人の感性では(リンゴ消防車等には赤くない部分があるので)リンゴ消防車等を「赤い」とは感じなかったりする(cf.鬼界p.230、『探究』§70)。――もしこのような宇宙人がいたとしたら人間とは「赤い」という観念を共有できない。
また、この宇宙人はメニュー(画像)を表2ではなく表3のように読んでしまう。(この宇宙人にとってはそれが「自然」なため)
人間とこの宇宙人では、こうした感覚・判断の不一致がすべてのところに現れるため、絶対に意思疎通することができない。
人間同士で意思疎通ができるのは、どこかの地点で理屈が不要の「感覚・判断の一致」がおき、それを与件(自明の前提)とすることができて、説明の無限後退を避けられるからなのである。*1
補足説明
幼児に「3」という概念を教えるとき 「3つの飴」「3つの金魚」「3つのおはじき」 と言った絵を見せれば伝わる。このときもし飴・金魚・おはじきのすべてが赤色だったり、あるいはすべての配置が正三角形だったりすると、幼児は「3」を赤色や正三角形という意味だと誤認するかも知れない。しかし色や配置を換えて示せば、数の概念「3」が伝わる・・・・はずである。しかしそうして意味が伝わるのは、人間の感覚が一緒だからこそであって、判断の一致がそこでおこるからなのである。ところが「宇宙人」の場合、この感覚・判断が一致しないので、別の説明を考えなくてはならなくなるが、またそこでも一致できないので、説明の無限後退に陥って、いつまで経っても意味を共有できず、絶対に意思疎通できないのである。
〔2〕演繹――無限を可能にする
そして原言語ゲームでとくに強力な機能は、この無限を可能にするところである。
どんな単純で原始的な言語ゲームであっても、そこで個々の言葉に関する規則に人々が従うのに先だって、前提されているある能力、原言語ゲームとでも言うべき過程が存在するということである。それは有限の例による訓練のあと、我々が単純な概念を無際限に「同様に」とか「自然に」呼ぶ仕方で適用する能力であり、そうした言語ゲームである。(鬼界p.286)
「赤いもの」の例で、リンゴ、トマト、消防車のミニカーを挙げたが、そこで原言語ゲーム的感覚を少し働かせると、その例にたとえば「醤油の蓋」を追加することができる。
しかし醤油の蓋は、リンゴや消防車とは色合いが違うはずだから、つまりそこには一定の飛躍があるはずである。にもかかわらずなぜそれが「赤いもの」の例として追加できるのかというと、私(人間)が原言語ゲーム的に思いついた「赤いもの」は、あなたも「赤いもの」と思うはずだからである。
ところで我々は、「数を数える」を習得するとき 1,2,3…9,10,11… と数えなさいと「有限の例」で教わる。すると我々は 1,2,3…9,10,11…,99,100,101…999,1000,1001… と数えられるようになる。 しかしこのときたとえば57の次に73へ飛んだり(…56,57,73,74…100,101…157,173,174…)、あるいは671のところで繰り上がったり(670,671,1000,1001…1670,1671,2000,2001…)しても、じつはおかしくないはずである。なぜなら「有限の例」では、そこまでは指示されていないからである。(いやいや、それでもそんな風に数えるのはおかしいと思う人は、すでに「規範的強制力」の影響を受けてしまっている!)
我々が数を数えるとき、たとえば57の次を58としているのも、じつは根拠のない飛躍なのである。 しかし私が原言語ゲーム的に「57の次は58であることが自然・規則的だ」と思えば、あなたも必ずそう思うのである。この感覚(原言語ゲーム)の共通性があるからこそ、上の数え方が「規則」(正しいもの)として成立しているのである!(自然主義)
〔★ ここで陥りやすい誤解についてひとつ注意しておくと、ここでいう「規則」とは「順番」のことではない。数列の例が出てくることから、規則が順番のことだと勘違いしてしまいがちだが、そうではない。「消防車の次が必ず醤油の蓋」という意味ではない。 そうではなくて、私が次のステップで表現したものについて、他者が違和感を持たない状態――私と他者、両者の判断が実践的事実として一致して違和感が生じていない状態――が存在して、そうして人間の発想が同じであるために、同じような実践が共有され、それを外部から観察するとあたかも人間がそのようなルールを持っているかのように見える、一定の「規則」に従っているかのように見える、そうした現れが「規則」である 〕
ところで、ここまで「同じ」「自然」「規則的」と言ってきたものは、要するに「それが自然だ」という人間の感覚一般のことであるから、以降は、「同じ」「自然」「規則的」等々のことを「自然」の一言で代表することにしよう。
そして人間の感覚一般(原言語ゲーム)の軌道に沿って自然に飛躍することを「演繹する」と言うことにしよう。
するとたとえば「花は美しい」「鳥は美しい」から「月は美しい」という新しい表現が生まれるのも飛躍であるが、この飛躍が可能なのは、そしてそれが相手にも通じるのは、それが「自然」な飛躍(演繹)だからだと言うことができる。(自分にとって自然な飛躍は、誰にとっても自然な飛躍――だから通じる)
こうして人間は、「自然」という感覚(原言語ゲーム)の共通性によって、有限の例(リンゴ消防車、1,2,3…、花鳥等)から、無限の要素(醤油の蓋、100,1000…、月等)を演繹しているのであり、つまり「演繹」こそ(相手に通じるような)新表現(新要素)を無限に生みだすことを可能にしている人間の能力なのである。
食器屋にはいろんな形の食器がある。初めて見る形のコップ(飛躍)でも自明的に識別できるのは、それが人間によってコップとして制作(演繹)され、コップとして食器屋に置かれているものだからである。つまりそれに関わった人たちが皆コップと思うくらい十分にそれはコップだからなのである。ここで、なぜそれがコップと認識されるのかという問いを浮かべるのは主客転倒である。人間がコップと認識(実践)するものがコップ(規則)なのであって、その逆ではないからである。(→「逆転」)
人間が概念をもてる原理
○花は美しい ○鳥は美しい ○北川景子は美しい ×リモコンは美しい
→演繹されることで○の文は生まれ流通もするが、×の文は演繹されないし流通することもない。なぜなら×は人間が不自然(=正しくない)と感じるものであり、従って演繹によって生まれない文だからである。そしてこのことこそ人間が概念をもてる根本原理なのである。なぜなら人間は言葉の使われ方から言葉の意味を知るので、人間が言葉を習得するためには正しい文(自然な文)だけが流通していなくてはならならないが、それは人間の「自然」という感覚の共通性により不自然な文が抑制されることによって実現しているからである。 「自然」「不自然」という感覚の共通性によって○のみが流通し×が流通しない――このことこそ、人間が「美しい」という概念を理解し運用できる原理なのである。
ところで、この「演繹」によって無限に拡張されるのは、こうした表現(要素)の単純な延長だけではない。
たとえば子供が八百屋にリンゴ五個と書かれた紙片を渡すと売買の意思表示だとわかるし、野球少年が「甲子園に行きたい」と目を輝かせて言えば、高校野球に出たいという意味だとわかる。いずれも誰かが考え出した表現である。しかもそれらは比喩表現であるから、そこには相当の飛躍があるはずである。しかしそれでも意味が通じるのは、それが演繹であり、自分に通じているからである。
また倒置法や体言止めなども、あるとき誰かが新たに思いついた表現(飛躍)である。 あるいは漫画の「コマ割」なども新たに発明された表現である。
こうした新表現(飛躍)が通じるのも、それらが人間の感覚によって演繹されたものだからなのである。
(――いや倒置法や体言止め、コマ割などを持ち出さなくとも、たとえば生まれて初めて目にする文章(=飛躍)の意味が通じるのも、その文章が、その筆者の演繹した自分(人間)に通じている文章だからである。そして人間の感覚は同じだから、相手にも通じる)
(※なお原言語ゲームを逸脱した新表現(芸術等)は、演繹ではないので、「自然」には生まれないし、他人に通じない)
こうして原言語ゲームは、演繹によって無限の表現を可能にしていく人間の強力な能力なのである。 (――そして、そうして演繹された新表現のうち、一般に受け容れられたものは「慣習化」して、普通に巷に流通するようになるのである)
〔3〕ここまでまとめ
我々の意思疎通は、話者の内心が言葉となって相手に伝わる(言葉の意味を話者が主体的に構成している)というシステムにはなっていない。 コンピュータの例で説明したように、我々は意思疎通の前に、言葉の細かい定義を確認するわけではないので、それは原理的に不可能である。
そうではなくて、我々の意思疎通は、「感覚」「逆転」「演繹」によって自律的に成立した言語ゲーム(規則)があって、それを実際の言語行為(表示)によって、相手と自分の双方に同じ判断を自明的に喚起することによって為されている。
(判断の一致を喚起しさえすればよいので言語行為自体はなんでもよい。馴染みの店では「いつもの」や「目配せ」で十分なのはそのため) (説明が上手な人とは、相手に頭を使わせることなくスムースに「判断の一致」を喚起できる人である。「誤解」とは判断の一致の喚起に失敗することである)
言語によって話が通じ合うためには、定義の一致だけでなく(奇妙に思われるかもしれないが)判断の一致が必要なのだ。(『探求』§242)
(言語ゲーム的言語観では、言葉の意味は、人間の主体性が及ばない「人間の感覚」に属している。たとえば「赤いもの」という表現は、話者がその内容を主体的に構成しているわけではない。「数を数える」「いつもの」も同じく内容を述べてはいない。言葉の意味内容は原言語ゲーム由来の非主体的な感覚・判断の一致によって(言葉より先に)決まっている。人間が主体的にできることは、意味の構成ではなく、その「決まっている感覚・判断の一致」を喚起する(指示する)表現(言語行為)における工夫だけである。これを「機能主義的意味概念」という(→cf.鬼界p.246)。このように意味(世界)それ自体は主体性の及ばない「感覚」に属しており、言語行為とはそれを指示するものにすぎないと考えるのが言語ゲーム的言語観である)*2
★ところで日本人はこうした説明をあたりまえと感じる人が多いのではないだろうか。じつはこの先も、このあたりまえの話が続く。なぜウィトゲンシュタインが「あたりまえ」を考察したのかというと、それは西洋の特殊事情に原因があるのだが、そのことについては本稿末尾で触れることにする。
さてここまで、人間は原言語ゲーム(感覚・判断の一致)によって、それの意味はそれであるという自明性・思い込み(規則)が社会的に生じる(固定される)ことを説明してきた。そして我々の意思疎通は、その固定的な思い込みを利用して為されていることを説明した。
しかし原言語ゲームによって社会的な思い込みが生じるのは、言語行為・意思疎通のときだけではない。 「思い込み」を利用する言語ゲーム論(人間の感覚、逆転、演繹)は、もっと広い領域にあてはまる理論なのである。
すべては言語ゲームである
この「感覚」「逆転」「演繹」は、言葉の意味だけでなく、冒頭で触れた数学や論理にもそのままあてはまる。
すなわち 2+3=5 という算術規則(足し算)が成立するのは、宇宙の規則を記述したからではなく、「おはじき2個と3個を一箇所に集めた状態を5個とみなす」という人間の感覚の一致(実践)が事実として成立しているからである。つまり 2+3=5 をはじめとする数式ですら宇宙の法則などではなく、人間心理(実践)があってはじめて固定される人類学的事実(規則)なのである。(cf.鬼界p.352)
(補足説明) 「おはじき2個と3個を一箇所に集めると5個になる。これが2+3=5だよ」と説明したとき、(たとえば)「2個と3個が近づいただけじゃないか。それがどうして5になるの!?まったく意味がわからない!」などと本気で反論する宇宙人がいたら、この宇宙人と人間は足し算という概念(規則)を共有することはできない。人間同士の場合は、この感覚を理解できるので、人間の世界では足し算という概念(規則)が、幸いにも、成立しているのである) (なお、一見劣ったように見えるこの宇宙人も、じつは人間とはまったく別の発想で宇宙を記述し、それにより人間より高度な文明を築いているかもしれない)
またさまざまな論理(たとえば三段論法、必要条件、十分条件、順接、逆説、かつ、または…)が通じるのも、論理が人間と無関係に存在しているからなのではなく、人間が皆そうした論理を正しい(自明)と感じるために(実践)、事実としてその論理(規則)が成立しているのである。(cf.鬼界p.371、p.64)*3
こうして言語の意味理解から数学や論理の問題まで、人間が原言語ゲーム的に一致するところに固定的な規則(正しさ)が事実として成立しているという現実を、統一的に説明したのが言語ゲーム論なのである。
言語によって話が通じ合うためには、定義の一致だけでなく(奇妙に思われるかもしれないが)判断の一致が必要なのだ。このことは論理を無効にするように見えるかもしれないが、そうではない。(『探求』§242)
二つのものと三つのものを誰が一数えても五つになるから「2+3=5」が計算の規則となるのである。それは我々が同じ数え方を「自然」と感じるからである。 他方こうした一致が見られない領域では規則や論理が存在し得ないことになろう。そしてここでいう「一致」とは、人々が同じ規則に従っているとか、同じ定義を採用しているという意味ではなく、それぞれの判断が結果が事実として一致するということである。各人が従っている規則が同じだから判断が一致するのではなく、事実として判断が一致するから同じ規則が成り立つのである。 (鬼界p.356)
(前略)と同時にあるものが論理であるためには、各個人がそれを決して疑いえないもの、そのようでなければならないもの、と感じなければならない。これが論理の個人的側面である。各個人が論理規則に対してこうした認知的関係を持つがゆえに、論理的規則は外的強制としてではなく、各個人に内的強制力を持つ規範として機能するのである。「確実性」や「自明性」とは規則の持つこうした個人的側面を表現する言葉なのである。(鬼界p.359)
このように「規則に従う」*という実践と「確実性」、「自明性」という認知態様は不可分である。そればかりではない。「規則に従う」が持つ「確実性」、「自明性」は、我々にとってなにが確かで当たり前であることの最終的な基準なのである。(鬼界p.359) *「規則に従う」とは原言語ゲームのこと(鬼界p.287)
全ての言語ゲームは語と対象が繰り返し再認されることに基づいている。我々はこれが椅子であることを、2x2=4を学ぶのと同じ厳しさで学ぶ。(『確実性』§455)
科学の研究について考えてみよう。ラヴォアジェが彼の実験室で様々な物質を使って実験をする。そして彼は、燃焼においてこれとこれのことが起こっているのだ、と結論する。別のときには違うことが起きるかもしれないと彼は言わない。彼はある特定の世界像を持っているのである。もちろん彼がそれを考え出したのではなく、子供の頃習得したのである。私は世界像と言い、仮説とは言わない。なぜならそれは彼の探究の自明な基礎であり、それは言及されることもないからである。(『確実性』§167)
原言語ゲームによる感覚の一致、判断の一致は自然主義的一致であり人類学的一致にすぎないが、人間にとって根源的一致であり核心的に重要な一致である。 なぜならこの一致が我々の意思疎通の安定性や、日常で用いているさまざまな論理の普遍性を担保しているからである。
人間の「自然」という感覚(原言語ゲーム)によって判断の一致したところに、自然・自明・正しいという思い込み(規範的強制力)が生まれる。 この思い込みによって、人間は形のないもの(概念)を社会的に固定することができる。
その意味で、たとえば科学体系(パラダイム)も、人間が一致して「これが正しい」(そう考えるのが自然だ)と思いこむことによって成立している「規則」なのである。万有引力や進化論のような大発見があるとパラダイムが変化するが、このことはすなわち、客観的学問とされる科学(規則)でさえ、人間の感覚(実践)に依拠したものであり、それぞれの時代において、人間が「これが正しい」と思いこんでいるものにすぎないということを示している。つまり科学体系も人間の判断の一致によって実践的に固定されている人類学的事実(規則)にすぎないということである。
そしてさらに、国家や国民というものが自明的に存在しえるのも、皆がその実在性を一致して思い込んでいるからである(にすぎない)。 国家や国民は、その実在性が社会的に信じこまれることで固定されているという意味で、単なる抽象的な観念・幻想などではなく、いわば人類学的実在(規則)なのである。
(※国民という概念はじつは19世紀に登場したものである。つまり「国民」も、科学体系同様、パラダイム(認識枠組み)にすぎない。 国民も思い込み(実践)の産物に過ぎないので、もし思い込みを失えば、その国民(規則)は消滅せざるを得ないことになる。なぜ人々が国民というものを集団的に思い込めているのかについては後半(2)で述べる)
こうして言語ゲームは、意思疎通の原理を説明するものに留まらず、人間の世界はすべて人類学的世界であり、思い込み(規範的強制力=それは自明だと思う心理)によって固定された世界だということ、そしてこの人類学的世界は「人間の感覚」(実践)しか根拠がなく(後述)、しかしそれ以外の根拠がないからこそ、言語ゲームによって成立した規則=規範的強制力が「世界」の最終根拠(後述)であることを説明するものなのである。
(→長々と説明してきたが、要するに、世界は人間の「自然」という感覚(実践)によって現在の形(規則、正しさ)に収束しているということである。人間の感覚がなければ世界は収束しないので、人間の感覚が世界の根拠だということである(自然主義、人間主義)。この人間の感覚(原言語ゲーム)こそが、この世界をこの世界たらしめている最終的な実体的根拠ということである)