「多様性」が世界を破壊する―ウィトゲンシュタイン・言語ゲーム(1)

【本稿概要】
 1.世界の基盤は人間の「判断の一致」である。判断の一致とは、それが正しい(自明)と皆で思い込むこと。
 2.この「思い込み」が社会的に生じる仕組みを説明するのが、ウィトゲンシュタイン言語ゲーム
 3.我々の意思疎通は、思い込み(自明性)によって、正解以外の意味が発想から外れることによってなされる。
 4.数学や論理の「正しさ」もじつは人間の思い込みにすぎない。(自然主義)
 5.日本人の思い込み(日本人が思う正しさ)を基盤に、実践的事実として現前しているのが日本という国である。
 6.多様性(選択肢)とは「正しさ」を否定する思想である。それは人々を思い込みから解放して世界を破壊する。

 7.世界は言語ゲーム(思い込み)であって合意(規約)ではない。世界は民主主義、個人主義の限界である。
 8.世界は個人(主体的合意)に属さない。 関係(社会的一致)に属している。 個人主義(主体主義)は近世近代西洋の残滓であって、日本人が今更それに追随する必要はない。

本稿は超長文です。本稿の簡易版ウィトゲンシュタインのパラドクス―世界の最終根拠を先に読むことをおすすめします。

はじめに

国家や国民なんて幻想だ―という言い方がある。

たしかに国家や国民は観念であって実体ではないから、幻想と言えば幻想である。 しかしそうはいっても我々はそれを前提として生活しているのであり、そうである以上、そこにはやはり一定の実体性、実在性があるようにも思える。
しかしなぜ人間は、幻想かも知れない国家や国民というものに一定の実体性を感じて(信じて)、生活できているのだろうか?
ところで形のないものを信じると言えば、我々は普段数学論理を客観的で絶対的に正しいものと信じている(感じている)のではないだろうか??

ウィトゲンシュタイン(1889-1951、分析哲学者)は、その思想的後期において、数式や論理の正しさですら、じつは人間の思い込みにすぎないという立場、つまり人間がその思い込みを失えば、数学や論理ですら存在できなくなるという立場に転換する。 そしてそこから、人間は集団的に盲目的に思い込むことによって、言葉の意味や抽象的な観念など「形のないもの」を社会的に固定(措定)して、言語や数学や論理をはじめとするさまざまな「世界」を営んでいるという考えに至る。
この、意味や観念を固定(措定)する盲目的な思い込みが実践的に社会的に生じていくことを、ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と呼んだ。

本稿(1)では、まず言葉の意味について、言語ゲームによってどのようにそれが固定され、意思疎通を可能にしているのかを説明する。 すると、国家や国民も(そして数学や論理も)じつは言語ゲーム的な思い込みの産物であり、我々はそれらを盲目的に信じることによって、そうした観念共同体(や数学や論理の体系)を固定的に営むことができていることが理解されるだろう。
そして本稿後半〔→(2)〕では、言語ゲームによって日本社会が実際どのように営まれているか考察する。そして「多様な価値観」を称揚することは、国民としての盲目性を奪い、日本という存在を危うくしていく思想であることを説明する。

また最後に、人間の世界認識の原理は人間の感覚を基礎とする言語ゲームであり、その感覚自体を理屈で変更することはできないがゆえに、「世界」は民主的議論の限界であること。またそれゆえに自意識(個人)を基準とした権利主張が無闇にまかり通る世界は、人間の原理を逸脱した「狂気」であることを示してみたい。
では以下本文――

反自然主義と自然主義

数学や論理は必然的真理であり、特別な真実を記述している――たとえば 2+3=5 という数式も、人間が居ようと居まいと、全宇宙のどこでも絶対的に成立すると考える――そのような考え方を数学と論理に関する反自然主義的見解という。

ウィトゲンシュタインは、その思想的後期において、『論理哲学論考』(思想的前期)でとっていたこの反自然主義を捨てて、自然主義へと転換する。(鬼界p.228-37)
そのときウィトゲンシュタインの中で確立されるのが、数学や論理は人間という一生物の生態に関する事実、すなわち人類学的事実にすぎないという見解である。 (数学と論理に関する自然主義的見解
たとえば 2+3=5 という数式は、宇宙の法則、すなわち人間と無関係に存在している普遍的な算術規則を記述したものなのではなく、人間がそれを普遍的真理だと思いこんでいるものにすぎないという見解である。(cf.鬼界p.242-3)

そんな馬鹿な!と思うかも知れない。
もっともこの見解は、2+3=5 が間違いだとか、他に正しい式が存在する(かもしれない)ということを主張するものではない。この見解の要点は、人間にはとにかく「そうとしか考えられない」「自明」「正しい」と感じられる状態があり、数学や論理(後述)ですらも、そのような人間的心理の産物にすぎないということである。
そうして人間を内側から、心理的に拘束する力を規範的強制力(鬼界p.243)と呼ぶとすると、2+3=5 は宇宙の普遍の真理を記述したものではなく、人間の規範的強制力(思い込み)の産物にすぎない―そう考えるのが自然主義である。

…今ひとつ納得できないかも知れないが、いったんこの話は棚上げして、次に言葉の意味や意思疎通の問題を考えよう。

言語ゲーム

意思疎通の例として、次のやり取りを考えてみる。

幼稚園の先生が子供たちに「赤いもの」をもってきなさいと指示した。子供たちは、リンゴ、トマト、消防車のミニカーなどをもってきたので、先生は子供たちを褒めた

レストランで給仕係から無言でメニューを渡された。 私はそれを横に読んで料理の値段を確認した。(→画像

どちらも当たり前のことのように思えるが、さてよく考えると、これは不思議なやり取りである。

なぜならこのやり取りは、リンゴや消防車などについて、色合いは違うのに、同じく「赤いもの」であるという判断が、先生と園児双方で一致してはじめて成立するものだからである。 またメニューの読み方も店員と客双方で、書式から判断して(縦や横方向に)正しく読むという判断が一致してはじめて成立するものだからである。

もしコンピュータにこれと同じ判断をさせるなら、赤いものの定義やメニューの読み方についての基準を、予めプログラムしておかなければならない。
しかし不思議なことに人間の場合は、なぜかそうした事前の打ち合わせがなくとも、各自が勝手に正しく意味を判断することができる。なぜリンゴと消防車(これらはよく見ると色合いが違う)を同じ「赤いもの」だと思ったのか? なぜメニューの読み方がわかったのか?などと聞かれても、答えに窮してしまうくらい、我々は自明だと思いこんでしまっている。 (もはやそれが慣習だからでしょ?と思った人は半分正解。しかしそれは、なぜそれが慣習化したのかについて答えていない)

人間の場合は幸いにも、先生と園児、店員と客の双方で、打ち合わせもしていないのに、なぜかこの自明的な一致(思い込み、規範的強制力)が自律的に生じているために、意味が齟齬することなく、正しく意思疎通できるのである。

われわれの生活のあらゆる局面に、このような自明性の局面、つまり、そうするのがあまりに当然で、別の可能性をそもそも思いつかないような局面が存在する。それが今や、言語が有効に働く基礎なのだ。(永井p.148) ※太字下線による強調は引用者。以下同じ。

双方に意味の自明性(思い込み、規範的強制力)が生じている状態をウィトゲンシュタインは言語ゲームと呼ぶ。

そしてこの自明性(言語ゲーム)が自律的に成立する理由について、ウィトゲンシュタインは、何を「同じ」「自然」「規則的」などと感じるかについて、人間が共通の感覚をもっているからだとした。(cf.鬼界p.283-296)

以下で述べるように、この共通感覚があるからこそ人間は「意思疎通」が可能なのであり、また豊かな言語表現が可能となっているのである。 そしてもしこの共通感覚が無ければ、じつは人間は一切の意思疎通ができなくなってしまうのである。

原言語ゲーム(原規則)

人間が共通にもっている感覚を、言語ゲームを成立させる原理という意味で、原言語ゲーム(cf.鬼界p.286)と呼ぶことにしよう。 原言語ゲームは「逆転」と「演繹」という2つの心理過程によって言語ゲーム(自明性、規範的強制力)を成立させ、我々の意思疎通を可能にしている。

後日追記: 原言語ゲーム=原規則について/言語ゲームという言葉の意味について 1.本稿では、規則(言語ゲーム)の成立を背後から支えている無意識下の(人間本性的な)実践のことを「原言語ゲーム」と呼んでいるが、意味から考えると「原規則」と呼んだ方がわかりやすいかもしれない。本稿では本の表記にあわせて、そのまま「原言語ゲーム」を用いているが、適宜「原規則」に読み換えるなどしてほしい。
2.本稿では、「言語ゲーム」を「規則」が成立した状態のことだと規定して説明を進めているが、「原規則」をもつ存在、すなわち人間が、社会的な相互作用によって実践的に具体的な「規則」を成立させていく過程のことを「言語ゲーム」と規定した方がわかりやすかったかもしれない。これも適宜読み換えるなどしてほしい。

〔1〕規則と実践の逆転――「規則」(正しさ)の成立

たとえば色について、人間が共通して「同じ」と感じる範囲内があるために、それを意味するものに名称(赤など)がつけられる。 またそういう読み方(縦または横など)が人間にとって「自然」であり、皆がそう読むために、そうした表現に名称(メニューなど)がつけられる。 また同時にこのとき、人間の感覚(原言語ゲーム)の共通性によって、「赤」「メニュー」を「その色」「そのように読む」という規則(正しさ)も自立的に生まれる。

このように、人間の感覚・判断の一致(実践)が先にあり、それが規則(正しさ)となることを「規則と実践の逆転」(永井p.154)という。 この「逆転」によって規則(正しさ)が、実践的事実として成立している状態が言語ゲームである。
人間の感覚の共通性によって、双方の判断が事実として一致するという現象が自立的に成立する、その状態が言語ゲームである。 繰り返し「判断が一致」すると、次第にその一致が硬化して規範的強制力(それが正しいという思い込み)を獲得していく、そうして成立するのが言語ゲームである。(この意味で言語ゲームは慣習だと言える)

言語ゲームが成立している表現(名称)の意味は、人間にとってつねに自明である。 なぜならそれは人間の感覚の一致と「逆転」によって成立しているものだからである。

件の先生と園児、店と客の双方で自明的に意思疎通できたのは、「赤いもの」「メニュー」が言語ゲームによって生まれたものだからなのである。 またそう解釈した根拠を問われても答えられないのは、その「根拠」が理屈の一致ではなく、感覚・判断の一致だからなのである。

『哲学探究』の中心課題は、規則(ルール)と実践(プレイ)の優先順位を逆転させること。(永井p.156)

そして、これがすなわち規則と実践の優先順位の逆転なのである。(永井p.159-60)

具体的判断が繰り返しなされる中で、誰がやってもほとんどいつも同じ結果になる判断は、いわば次第に化石のごとく硬くなり、そのうちに完全に固定化され規則となる。(中略)これを規則の発生に関する硬化理論と呼ぼう。(鬼界p.353)

どんな単純で原始的な言語ゲームであっても、そこで個々の言葉に関する規則に人々が従うのに先だって、前提されているある能力、原言語ゲームとでも言うべき過程が存在するということである。(中略)しかしこの感じ方を共有しない者に、何が自然かを言葉で説明することはできないのである。(鬼界p.286)

(Q. ファミレスのメニューは縦書きでも横書きでもないが、なぜ理解できるのだろうか。なぜ店側はそのようにデザインできたのだろうか)

ところでもし仮に人間が原言語ゲームを共有していないとすると、感覚・判断が一致しないので言語ゲーム(規則)が成立せず、正しい意思疎通はできなくなる。

このことを、人間とは感覚がまったく一致しない宇宙人を想定して考えてみよう。
たとえば色見本を見せて「赤」というものを説明しても、この宇宙人は人間と色彩感覚が異なるので、宇宙人にとっては、リンゴが「赤」に見えなかったり、あるいはミカンが「赤」に見えたりしてしまう。  あるいは別のパターンで言うと、この宇宙人の感性では(リンゴ消防車等には赤くない部分があるので)リンゴ消防車等を「赤い」とは感じない(cf.鬼界p.230、『探究』§70)。――このような宇宙人がいたら人間とは「赤い」という観念を共有できない。
(この説明で不足な人は、こちらの記事の説明などを参考にしてみてください→ウィトゲンシュタインのパラドクス

また、この宇宙人はメニューをBではなくCのように読んでしまう。(この宇宙人にとってはそれが「自然」なため)

人間とこの宇宙人では、こうした感覚・判断の不一致がすべてのところに現れるため、絶対に意思疎通することができない。

人間が意思疎通できるのは、どこかの地点で理屈が不要の「感覚・判断の一致」がおき、それを与件(自明の前提)とすることができて、説明の無限後退を避けられるからなのである。*1

補足説明 (幼児に「3」という概念を教えるとき 「3つの飴」「3つの金魚」「3つのおはじき」 と言った絵を見せれば伝わる。このときもし飴・金魚・おはじきのすべてが赤色だったり、あるいはすべての配置が正三角形だったりすると、幼児は「3」を赤色や正三角形という意味だと誤認するかも知れない。しかし色や配置を換えて示せば、数の概念「3」が伝わる・・・・はずである。しかしそうして意味が伝わるのも、人間の感覚が一緒だからで、判断の一致がそこでおこるからである。ところが「宇宙人」の場合、この感覚・判断が一致しないので、他の説明を用意しなければならなくなるが、またそこでも一致できないので、説明の無限後退に陥って、いつまで経っても意味を共有できず、絶対に意思疎通できないのである)

〔2〕演繹――無限を可能にする

そして原言語ゲームでとくに強力な機能は、この無限を可能にするところである。

どんな単純で原始的な言語ゲームであっても、そこで個々の言葉に関する規則に人々が従うのに先だって、前提されているある能力、原言語ゲームとでも言うべき過程が存在するということである。それは有限の例による訓練のあと、我々が単純な概念を無際限に「同様に」とか「自然に」呼ぶ仕方で適用する能力であり、そうした言語ゲームである。(鬼界p.286)

「赤いもの」の例で、リンゴ、トマト、消防車のミニカーを挙げたが、そこで原言語ゲーム的感覚を少し働かせると、その例にたとえば「醤油の蓋」を追加することができる。

しかし醤油の蓋は、リンゴや消防車とは色合いが違うはずだから、つまりそこには一定の飛躍があるはずである。にもかかわらずなぜそれが「赤いもの」の例として追加できるのかというと、私(人間)が原言語ゲーム的に思いついた「赤いもの」は、あなたも「赤いもの」と思うはずだからである。

ところで我々は、「数を数える」を習得するとき 1,2,3…9,10,11… と数えなさいと「有限の例」で教わる。すると我々は 1,2,3…9,10,11…,99,100,101…999,1000,1001… と数えられるようになる。 しかしこのときたとえば57の次に73へ飛んだり(…56,57,73,74…100,101…157,173,174…)、あるいは671のところで繰り上がったり(670,671,1000,1001…1670,1671,2000,2001…)しても、じつはおかしくないはずである。なぜなら「有限の例」では、そこまでは指示されていないからである。(いやいや、それでもそんな風に数えるのはおかしいと思う人は、すでに「規範的強制力」の影響を受けてしまっている!)

我々が数を数えるとき、たとえば57の次が58であるというのも、じつは根拠のない飛躍なのである。 しかし私が原言語ゲーム的に「57の次は58であることが自然・規則的だ」と思えば、あなたも必ずそう思うのである。この感覚(原言語ゲーム)の共通性があるからこそ、上の数え方が「規則」(正しいもの)として成立しているのである!(自然主義)

ところで、ここまで「同じ」「自然」「規則的」と言ってきたものは、要するに「それが自然だ」という人間の感覚一般のことである。そこで以降は、「同じ」「自然」「規則的」等々のことを「自然」の一言で代表することにしよう。
そして人間の感覚一般(原言語ゲーム)の軌道に沿って自然に飛躍することを「演繹する」と言うことにしよう。

するとたとえば「花は美しい」「鳥は美しい」から「月は美しい」という新しい表現が生まれるのも飛躍であるが、この飛躍が可能なのは、そしてそれが相手にも通じるのは、それが「自然」な飛躍(演繹)だからだと言うことができる。(自分にとって自然な飛躍は、誰にとっても自然な飛躍――だから通じる)

こうして人間は、「自然」という感覚(原言語ゲーム)の共通性によって、有限の例(リンゴ消防車、1,2,3…、花鳥等)から、無限の要素(醤油の蓋、100,1000…、月等)を演繹しているのであり、つまり「演繹」こそ(相手に通じるような)新表現(新要素)を無限に生みだすことを可能にしている人間の能力なのである。*a

食器屋にはいろんな形の食器がある。初めて見る形のコップ(飛躍)でも自明的に識別できるのは、それが人間によってコップとして制作(演繹)され、コップとして食器屋に置かれているものだからである。つまりそれに関わった人たちが皆コップと思うくらい十分にそれはコップだからなのである。(ここで、なぜそれがコップと認識されるのかという問いを浮かべるのは主客転倒である。人間がコップと認識(実践)するものがコップ(規則)なのであって、その逆ではないからである→「逆転」)

人間が概念をもてる原理

○花は美しい ○鳥は美しい ○北川景子は美しい ×リモコンは美しい
→演繹によって○の文は流通するが×の文は流通しない。なぜなら×は人間が不自然な(=正しくない)と感じる文だからである。そしてこのことこそ人間が概念をもてる根本原理なのである。なぜなら人間は言葉の使われ方から言葉の意味を知るので、人間が言葉を習得するためには正しい文(自然な文)だけが流通していなくてはならならないが、それは人間の「自然」という感覚の共通性により不自然な文が抑制されることによって実現しているからである。 「自然」「不自然」という感覚の共通性によって○のみが流通し×が流通しない――このことこそ、人間が「美しい」という概念を運用できる原理なのである。

ところで、この「演繹」によって無限に拡張されるのは、こうした表現(要素)の単純な延長だけではない。
たとえば子供が八百屋にリンゴ五個と書かれた紙片を渡すと売買の意思表示だとわかるし、野球少年が「甲子園に行きたい」と目を輝かせて言えば、高校野球に出たいという意味だとわかる。いずれも誰かが考え出した表現である。しかもそれらは比喩表現であるから、そこには相当の飛躍があるはずである。しかしそれでも意味が通じるのは、それが演繹であり、自分に通じているからである。

また倒置法や体言止めなども、あるとき誰かが新たに思いついた表現(飛躍)である。 あるいは漫画の「コマ割」なども新たに発明された表現である。 こうした新表現(飛躍)が通じるのも、それらが人間の感覚によって演繹されたものだからなのである。
(――いや倒置法や体言止め、コマ割などを持ち出さなくとも、たとえば生まれて初めて目にする文章(=飛躍)の意味が通じるのも、その文章が、その筆者の演繹した自分(人間)に通じている文章だからである。そして人間の感覚は同じだから、相手にも通じる)
(※なお原言語ゲームを逸脱した新表現(芸術等)は、演繹ではないので、「自然」には生まれないし、他人に通じない)

こうして原言語ゲームは、演繹によって無限の表現を可能にしていく人間の強力な能力なのである。 (――そして、そうして演繹された新表現のうち、一般に受け容れられたものは「慣習化」して、普通に巷に流通するようになるのである)

〔3〕ここまでまとめ

我々の意思疎通は、話者の内心が言葉となって相手に伝わる(言葉の意味を話者が主体的に構成している)というシステムにはなっていない。 コンピュータの例で説明したように、我々は意思疎通の前に、言葉の細かい定義を確認するわけではないので、それは原理的に不可能である。
そうではなく、我々の意思疎通は、「感覚」「逆転」「演繹」によって自律的に成立している/成立するような言語ゲームがあって、それを実際の言語行為(表示)によって、相手と自分の双方に同じ判断を自明的に喚起することによって為されている。
(判断の一致を喚起しさえすればよいので言語行為自体はなんでもよい。馴染みの店では「いつもの」や「目配せ」で十分なのはそのため) (説明が上手な人とは、相手に頭を使わせることなくスムースに「判断の一致」を喚起できる人である。「誤解」とは判断の一致の喚起に失敗することである)

言語によって話が通じ合うためには、定義の一致だけでなく(奇妙に思われるかもしれないが)判断の一致が必要なのだ。(『探求』§242)

(言語ゲーム的言語観では、言葉の意味は、人間の主体性が及ばない「人間の感覚」に属している。たとえば「赤いもの」という表現は、話者がその内容を主体的に構成しているわけではない。「数を数える」「いつもの」も同じく内容を述べてはいない。言葉の意味内容は原言語ゲーム由来の非主体的な感覚・判断の一致によって(言葉より先に)決まっている。人間が主体的にできることは、意味の構成ではなく、その「決まっている感覚・判断の一致」を喚起する(指示する)表現(言語行為)における工夫だけである。これを「機能主義的意味概念」という(→cf.鬼界p.246)。このように意味(世界)それ自体は主体性の及ばない「感覚」に属しており、言語行為とはそれを指示するものにすぎないと考えるのが言語ゲーム的言語観である)*2

★ところで日本人はこうした説明をあたりまえと感じる人が多いのではないだろうか。じつはこの先も、このあたりまえの話が続く。なぜウィトゲンシュタインが「あたりまえ」を考察したのかというと、それは西洋の特殊事情に原因があるのだが、そのことについては本稿末尾で触れることにする。

さてここまで、人間は原言語ゲーム(感覚・判断の一致)によって、それの意味はそれであるという自明性・思い込み(規則、言語ゲーム)が社会的に生じる(固定される)ことを説明してきた。そして我々の意思疎通は、その固定的な思い込みを利用して為されていることを説明した。

しかし原言語ゲームによって社会的な思い込みが生じるのは、言語行為・意思疎通のときだけではない。 「思い込み」を利用する言語ゲーム論(人間の感覚、逆転、演繹)は、もっと広い領域にあてはまる理論なのである。

すべては言語ゲームである

この「感覚」「逆転」「演繹」は、言葉の意味だけでなく、冒頭で触れた数学論理にもそのままあてはまる。

すなわち 2+3=5 という算術規則(足し算)が成立するのは、宇宙の規則を記述したからではなく、「2と3を合わせると5である」という人間の感覚の一致(実践)が事実として成立しているからである。つまり 2+3=5 をはじめとする数式ですら宇宙の規則などではなく、人間心理(実践)があってはじめて固定される人類学的事実(規則)なのである。(cf.鬼界p.352)

(――「おはじき2個と3個を一箇所に集めると5個になる。これが2+3=5だよ」と説明したとき、(たとえば)「2個と3個が近づいただけじゃないか。それがどうして5になるの!?まったく意味がわからない!」などと本気で反論する宇宙人がいたら、この宇宙人と人間は足し算という概念(規則)を共有することはできない。人間同士の場合は、この説明を理解できるので、人間の世界では足し算という概念(規則)が、幸いにも、成立しているのである) (なお、一見劣ったように見えるこの宇宙人も、じつは人間とはまったく別の発想で宇宙を記述し、それにより人間より高度な文明を築いているかもしれない)

またさまざまな論理(たとえば三段論法、必要条件、十分条件、順接、逆説…)が通じるのも、論理が人間と無関係に存在しているからなのではなく、人間が皆それを正しいと感じるために(実践)、事実としてその論理(規則)が成立しているのである。(cf.鬼界p.371、p.64)*3

こうして言語の意味理解から数学や論理の問題まで、人間が原言語ゲーム的に一致するところに固定的な規則(正しさ)が事実として成立しているという現実を、統一的に説明したのが言語ゲーム論なのである。

言語によって話が通じ合うためには、定義の一致だけでなく(奇妙に思われるかもしれないが)判断の一致が必要なのだ。このことは論理を無効にするように見えるかもしれないが、そうではない(『探求』§242)

二つのものと三つのものを誰が一数えても五つになるから「2+3=5」が計算の規則となるのである。それは我々が同じ数え方を「自然」と感じるからである他方こうした一致が見られない領域では規則論理が存在し得ないことになろう。そしてここでいう「一致」とは、人々が同じ規則に従っているとか、同じ定義を採用しているという意味ではなく、それぞれの判断が結果が事実として一致するということである。各人が従っている規則が同じだから判断が一致するのではなく、事実として判断が一致するから同じ規則が成り立つのである。 (鬼界p.356)

(前略)と同時にあるものが論理であるためには、各個人がそれを決して疑いえないもの、そのようでなければならないもの、と感じなければならない。これが論理の個人的側面である。各個人が論理規則に対してこうした認知的関係を持つがゆえに、論理的規則は外的強制としてではなく、各個人に内的強制力を持つ規範として機能するのである。「確実性」や「自明性」とは規則の持つこうした個人的側面を表現する言葉なのである。(鬼界p.359)

このように「規則に従う」*という実践と「確実性」、「自明性」という認知態様は不可分である。そればかりではない。「規則に従う」が持つ「確実性」、「自明性」は、我々にとってなにが確かで当たり前であることの最終的な基準なのである。(鬼界p.359) *「規則に従う」とは原言語ゲームのこと(鬼界p.287)

全ての言語ゲームは語と対象が繰り返し再認されることに基づいている。我々はこれが椅子であることを、2x2=4を学ぶのと同じ厳しさで学ぶ。(『確実性』§455)

科学の研究について考えてみよう。ラヴォアジェが彼の実験室で様々な物質を使って実験をする。そして彼は、燃焼においてこれとこれのことが起こっているのだ、と結論する。別のときには違うことが起きるかもしれないと彼は言わない。彼はある特定の世界像を持っているのである。もちろん彼がそれを考え出したのではなく、子供の頃習得したのである。私は世界像と言い、仮説とは言わない。なぜならそれは彼の探究の自明な基礎であり、それは言及されることもないからである。(『確実性』§167)

原言語ゲームによる感覚の一致、判断の一致は自然主義的一致であり人類学的一致にすぎないが、人間にとって根源的一致であり核心的に重要な一致である。 なぜならこの一致が我々の意思疎通の安定性や、日常で用いているさまざまな論理の普遍性を担保しているからである。

人間の「自然」という感覚(原言語ゲーム)によって判断の一致したところに、自然・自明・正しいという思い込み(規範的強制力)が生まれる。 この思い込みによって、人間は形のないもの(概念)を社会的に固定することができる。

その意味で、たとえば科学体系(パラダイム)も、人間が一致して「これが正しい」(そう考えるのが自然だ)と思いこむことによって成立している「規則」なのである。万有引力や進化論のような大発見があるとパラダイムが変化するが、このことはすなわち、客観的学問とされる科学(規則)でさえ、人間の感覚(実践)に依拠したものであり、それぞれの時代において、人間が「これが正しい」と思いこんでいるものにすぎないということを示している。つまり科学体系も人間の判断の一致によって実践的に固定されている人類学的事実(規則)にすぎないということである。

そしてさらに、国家や国民というものが自明的に存在しえるのも、皆がその実在性を一致して思い込んでいるからである(にすぎない)。 国家や国民は、その実在性が社会的に信じこまれることで固定されているという意味で、単なる抽象的な観念・幻想などではなく、いわば人類学的実在(規則)なのである。

(※国民という概念はじつは19世紀に登場したものである。つまり「国民」も、科学体系同様、パラダイム(認識枠組み)にすぎない。 国民も思い込み(実践)の産物に過ぎないので、もし思い込みを失えば、その国民(規則)は消滅せざるを得ないことになる。なぜ人々が国民というものを集団的に思い込めているのかについては後半(2)で述べる

こうして言語ゲームは、意思疎通の原理を説明するものに留まらず、人間の世界はすべて人類学的世界であり、思い込み(規範的強制力=それは自明だと思う心理)によって固定された世界だということ、そしてこの人類学的世界は「人間の感覚」(実践)しか根拠がなく(後述)、しかしそれ以外の根拠がないからこそ、言語ゲーム=規範的強制力が「世界」(規則)の最終根拠(後述)であることを説明するものなのである。

(→長々と説明してきたが、要するに、世界は人間の「自然」という感覚(実践)によって現在の形(規則、正しさ)に収束しているということである。人間の感覚がなければ世界は収束しないので、人間の感覚が世界の根拠だということである(自然主義、人間主義)。この人間の感覚(原言語ゲーム)こそが、この世界をこの世界たらしめている最終的な実体的根拠ということである)

話を先取りしすぎたが、後半(2)の説明に必要なので、以下、言語の話にもどって基本的な説明をもう少し続ける。

意味の基盤――生活形式

言語行為――言葉だけでなくジェスチャや道標*など何らかの意味を表すもの全般――の意味は「生活形式」依存である。

たとえば「甲子園に行きたい」という言語行為とその意味は、春夏に高校野球大会が開催されているという生活形式のなかで生まれる。あるいは子供が紙片一枚を出すという言語行為とその意味は、貨幣経済や子供のお使いといった概念をもつ生活形式の中に生まれる。ゆえに言語行為の発生およびその意味とは生活形式依存なのである。  (地元に甲子園という名のラーメン屋がある場合は、「甲子園に行きたい」はそこで昼飯を食べたいという意味で使われているかも知れない。これも生活形式依存) (言葉の意味は文脈で変わるが、要するに生活形式とは、広い意味での文脈のこと。cf.鬼界p.298)

言葉の意味を定めるのは、 言葉を使う人の心に浮かぶものではなく、むしろ生活の形態である。だから、「もしライオンが言葉を話したとしても、われわれはライオンの言うことがわからない」(『探求』Ⅱ)。想定されているのは、ライオン的な習性と生活形態を維持したまま完璧な日本語を話すようなライオン、逆に言えば、日本語を話すという点以外では完璧な動物的な生を生きているようなライオンである。彼の発言の意味がわれわれに理解できないのは、彼の言葉と彼の生き方を関連づけることがわれわれにはできないからである。(中略)
ある一つの言葉を想像することは、ある一つの生活形式を想像することである」(『探求』§19)。だから、われわれとまったく違った言語を考えることは、われわれとまったく違った生活形式を考えることであり、またその逆も成り立つ。重要なのは、生活と概念との、この内的関係である。(永井p.151)

戦闘地での命令と報告からなりたっている言語を想像することは、簡単にできる。――質問とイエス・ノーの表現からなりたっている言語も簡単に想像することができる。ほかの言語だって、いくらでも想像できる。――言語を想像することは、生活形式を想像することだ。(『探究』§19)

つまり言語行為を理解するとは、それがどのような意味を指示しうるかを知っている(想像できる)ということであって、それにはその生活形式を知っている(共有している)ことが必要となるのである。(cf.永井p.166-168)

○女子高生の会話がおじさんにわからないのも生活形式の不一致/職人同士であれば、技術についての説明の意味が手に取るようにわかるが、素人にはわからない。これも生活形式の不一致/家電音痴の人が取扱説明書の言葉を理解できないのは、彼らは家電操作の一般形式をイメージできないため。

○「数を数える」が10進数なのは、十本指という人間の生活形式。2+3が5なのも人間が脳という生活形式を共有しているため。

○ライオンは貨幣経済や子供のお使いという生活形式(発想)をもたないので、紙片で売買の意味を理解できない。ライオンと人間は色彩感覚がおそらく(例の宇宙人のように)異なるため、意思疎通は不可能。

*) ここでいう道標は民間設置の、一目で意味がわかるような標識。交通標識は判断の一致を喚起するものではない。(だから試験がある)

言語ゲームは「意見の一致」(規約主義)ではない

規約主義とは、論理や数学の規則は人間の意志的合意に基づく規約であると考える立場である。(鬼界p.357)

しかし1,2,3…を「自然数」とすることについての議論や合意はなんら存在しない。数学や論理は、そうして人間の感覚・判断の一致によって(知らず知らずのうちに)「与件」としているものの上に成立している。合意や規約ではない。

同様に、我々の言葉も、感覚・判断の一致を(無意識に)与件としていることではじめて基礎的な概念に「名前」(赤、縦・横…)がつけられ、そしてそれらを自明の基礎として、より高度な概念体系が組み上げられているのであり合意や規約ではない。(赤の範囲や縦横の角度は人間の感覚によって定義されていて、合意や規約ではない)

そして言語というものが社会の共通基盤として成立しうるのは、すなわち「赤」「メニューの読み方」などがいつでもどこでも社会的に通じるのは、それが人間が正しいと感じるところに自律的に成立している、規約が不要の言語ゲーム(判断の一致)だからである。(規約主義では意味が社会的に共有されることは不可能)

言語ゲームが要求する「一致」が意見の一致ではなく、生活形式の一致であるという§241の趣旨は、合意・多数決・理性など、人間の意志を基盤とする規約主義(意見の一致)に対する根本批判にあると理解しなければならない。

(判断の)一致とは人間の意志的な判断や討論の対象となるものではなく、討論、合議、合意が可能となるために存在しなければならない一致である。自然数を基本数として採用しないという合意は存在しない。(中略)なにが自然数なのかというのは、人間が討議や合意できるようなことではない。それは全ての討議や合意にはるかに先立つ根源的一致であり、討議や合意はそれによって可能となっているのである(異なる数体系を持つ存在者との「討議」を想像せよ)。何を自然な数とみなすか(感じるか)において一致している限りにおいてのみ、数学者はさまざまな規則や記号について合議や合意ができるのである。言語ゲームが要求する「一致」が意見の一致ではなく生活形式の一致であるという次の(§241の)言葉は、規約主義に対する最も根本的な批判として読まねばならない。 (鬼界p.357-8)

「それなら君は、何が正しく何が誤っているかを決定するのは、人間たちの一致だと言うのか」――正しかったり誤っていたりするのは、人間の話すこと[内容]である。しかし、その言葉においては一致している。この一致は意見の一致ではなく、生活形式の一致である。(『探究』§241) ※斜体は原文では傍点。以下同じ。[]は引用者による補足

言語ゲームは、けっして語られることのない、このような対象化されざる生活形式の中にのみ、基盤を持つものなのである。(永井p.148) ※引用者注:対象化されざるとは、いちいち意識されない、またそれゆえに懐疑されないという意味。

「意見」と「生活形式」の違いは、それに対して根拠を要求することが理に適っているかどうかに現れる。そしてこの場合、「判断の一致」もまた「意見の一致」ではなく「生活形式の一致」なのである。 それは論理を無効にするどころか、むしろ可能にするのである。論理学でさえ、明示された定義や公理や規則以外に、無数の判断の一致を暗黙の前提として成り立っているからである。(永井p.167から語彙調整して引用)

言語ゲームの盲目性、直観性、非意志性――それが規約主義との本質的差異

繰り返しになるが、言語ゲームが成立しているものについて、我々は一切の疑問を持たない

なぜ消防車とリンゴが「赤」なのか、なぜメニューを正しく読めたのか、なぜ2+3は5なのか、なぜ紙片が売買の意味だと理解できたのか等々…と聞かれても、その質問の意味がわからないくらいに自明で当たり前のことだと思っている。それ以外の発想を考えもしない。

このような直接性が、言語ゲームの「選択しない」「盲目的に」「自明」という状態である。(規範的強制力)

野球少年が「甲子園に行きたい」と言ったとき、甲子園駅までの電車賃をほしがっているなんて誤解は絶対にしない。 解釈としては電車賃もありうるはずなのに、絶対に間違わない。

言語ゲームが成立している言語行為について人間は、他の可能性について考えることなく、その意味であると盲目的に思いこんでいる。盲目的に思いこんでいるからこそ、正しい意味だけが伝わる。多数決的でも確率的でもなく、絶対的に伝わるのである。(「盲目的に」とは、イマドキの言葉でいえば「普通に」である)

「甲子園に行きたい」=「全国高校野球選手権大会に出場したい」は、いわば2+3=5に近い自明性を帯びているのである。*4

規則に従うとき、私は選択しない。 私は規則に盲目的に従う。(『探求』§219)

規則がすべての帰結をあらかじめ生みだしたかのように見えるためには、帰結のすべてが私にとって自明でなければならない。私にとってこの色を「青」と呼ぶのが自明であるくらいに、自明でなければならない。(これが、私にとって「自明である」ことの基準だ) (『探求』§238)

(前略)と同時にあるものが論理であるためには、各個人がそれを決して疑いえないもの、そのようでなければならないもの、と感じなければならない。これが論理の個人的側面である。各個人が論理規則に対してこうした認知的関係を持つがゆえに、論理的規則は外的強制としてではなく、各個人に内的強制力を持つ規範として機能するのである。「確実性」や「自明性」とは規則の持つこうした個人的側面を表現する言葉なのである。(鬼界p.359)

このように「規則に従う」*という実践と「確実性」、「自明性」という認知態様は不可分である。そればかりではない。「規則に従う」が持つ「確実性」、「自明性」は、我々にとってなにが確かで当たり前であることの最終的な基準なのである。(鬼界p.359) *「規則に従う」とは原言語ゲームのこと(鬼界p.287)

全ての言語ゲームは語と対象が繰り返し再認されることに基づいている。我々はこれが椅子であることを、2x2=4を学ぶのと同じ厳しさで学ぶ。(『確実性』§455)

言語ゲームは常に「自明」である。なぜなら言語ゲームは人間の「自然」という感覚に沿って成立するものだからである。
自然なものに対する引力、不自然なものに対する斥力(違和感)が言語ゲームの規範的強制力の源泉となっている。

規範的強制力は、人間を内側から直観的に拘束する力であって、外側からくる力、たとえば法的な力(規約)個人の意志(理性)などとは本質的に異なる

言語ゲームは意志(理性)に依存しないものだからこそ、むしろ安定的であり、我々の世界(後述)の基盤となりえている。

言語ゲーム(判断の一致)は世界の根底―世界の最終根拠(与件)

言語ゲームは人間の感覚が根拠であるが、この感覚を理屈を付けて説明することはできない。

(――できると思う人は、個別の事例を後付けで説明しているだけで、人間の感覚自体を説明してはいない。たとえば2+3=5について、2と3を足すと5になるからという説明は、2と3を足すと5になると感じる人間の感覚それ自体を説明してはいない。同様にメニューを読む感覚、月を花鳥と同じ「美しい」という言葉で形容しようと感じる人間の感覚そのものを理屈で説明することはできない/また甲子園→高校野球の比喩は「甲子園で高校野球が行われているから」と説明したとしても、さらにその根拠(なぜ甲子園で高校野球が行われるようになったのか、なぜ日本で野球が普及したのか等)をずっと遡っていくと最終的に説明できない人間の感覚に辿り着く)

この例が示しているのは、どんな単純で原始的な言語ゲームであっても、そこで個々の言葉に関する規則に人々が従うのに先だって、前提されているある能力、原言語ゲームとでも言うべき過程が存在するということである。(中略)「石板」という言葉が午前中と午後で意味が変わるのを、我々は「不自然」と感じる。しかしこの感じ方を共有しない者に、何が自然かを言葉で説明することはできないのである。(鬼界p.286)

「私が根拠づけをし尽くしたならば、私は固い岩盤に達し、私の鋤は跳ね返される。このとき私はこう言いたくなる。『とにかく私はこうやっている』と」(『探求』§217)

われわれの誤りは、事実を<根源的現象>とみるべきところで、つまりこのような言語ゲームが行われていると言うべきところで、説明を探し求めることである。(『探求』§654)

子供が規則に従うようになる(その一例として、言葉が使えるようになる)のはどうしてか。本当はこの問いには答えがない。「とにかくエーベン」こうであるということがすべての出発点なのである。しかし、文法学者も認知科学者も人間精神の内部に(つまりこのゲームの外部に)規則の基礎を求めている。もちろんそれは、どこまでも有意義な仕事ではある。だが、本当に難しいのは、問いに答えることではなく、結局は答えがないのを覚ることなのである。(永井p.166-7)

ゆえに「原言語ゲーム+生活形式」によって決まった言語ゲームについて、明確に言える根拠を尽くしたときは、もうそれを受け入れるしかない。

§217で「とにかく」と訳された「エーベンeben」は、「何はともあれ」「理屈抜きに」といったニュアンスで、変更できない既定の事実を確認する際に使われる語であり、もっと概念的に訳すなら文字通り「根拠なしに」という意味である。 この「エーベン」が発せられるとき、根拠への問いは終わるのである。(根底(固い岩盤)に達したのである)

ウィトゲンシュタインは、根拠の要求はその提示によって答えられねばならない、という考えそのものを拒否した。根拠のないところにそれを求め、在ると信じるのはニヒリズムである。(cf.永井p.155-6)

根拠に基づかない活動に関しては、疑いはそもそも有効性を持たない。 逆に言うと、根拠が意味を持つような場面では、疑いもまた必然的に有効性を持つのである」(永井p.162)

「理性(理由)がそこから始まる場所に、理性的な問い(理由を求める問い)を適用することはできない」(永井p.162)

「言語ゲームはあるがままに受け入れるしかない与件である。それには根拠がなく、それがすべての根拠である」(永井p.155)

ゆえに言語ゲームは我々の世界の根底であり、最終根拠なのである。(cf.→*1)

世界像――根拠なき我々の世界

知識や信念、懐疑や根拠づけが、すべてそれを前提としてその内部でなされ、営まれる、それ自体は根拠のない信念体系を、ウィトゲンシュタインは「世界像」と呼んだ。(永井p.198)

(※本稿では世界像を、その社会で営まれている言語ゲームの全体というニュアンスで使うことにする*5)

(前略)『探求』の§242は、『確実性』のこの文脈において、文字どおりの意味を獲得する。われわれが話が通じるのは、言葉の定義が一致しているからだけではなく、判断も一致しているからである。つまり、われわれの学習は、まず定義を学び、次にそれを使って判断を下す、という二段階にはなっていない。諸判断を受け入れること、つまり世界像を引き受けることが、言葉の意味を身につけることの一部をなすのである。何かを疑う余地のない真理と見なすのでなければ、言葉の意味を学ぶこともできない。 たとえば「地球は太陽のまわりを回っている」という命題を鵜呑みにすることが「地球」という語の意味を学ぶことの一部をなし、「夕焼けは美しく、ごみは汚い」という判断を疑わないことによってのみ「美」という概念が使えるようになるのだ。(永井p.199-200)

つまり我々が提起する問いと疑問は一定の命題が疑いから免除され、いわば問いと疑いがその周りを回る蝶番となっていることに依存しているのだ。(『確実性』§341)

つまり、一定の事柄が事実として疑われないということがわれわれの科学的探究の論理の一部をなしているのである。(『確実性』§342) (鬼界p.381)

「我々はそれについて全く確信している」というのは、単にあらゆる個人がそれを確信しているということではなく、我々は科学と教育によって結びつけられている共同体に属している、ということを意味している。(『確実性』§298)

根拠がある信念の根底には、根拠なき信念が存在する。(『確実性』§253)

真実が根拠を持つとすれば、その根拠はではなく、また偽でもない。(『確実性』§205)

個々の事実については私は疑うことができる。しかしこれらの事実をすべて疑うことはできない。(『確実性』§232)

私の世界像は、その正しさを私が得心したがゆえに、私のものになったのではなく、また、現にその正しさを得心しているがゆえに、私のものであるわけでもない。それは受け継がれてきた背景であり、真偽の判断もそれを前提としたうえでなされる。(『確実性』§94)

言語行為が意味している実践を習得するには、他人から示された「有限の実例」を疑わないことによって、それを理解できる。 たとえば花は美しい、鳥は美しい…と周囲から示される。その周囲の判断を信じてそれを受け入れることによってのみ「美しい」を体得できる。(この体得も原言語ゲームによって感覚的に可能となる)

そうして「それ」を体得し、共同体の判断(の一致)を逸脱しないように「それ」を示せる(演繹できる)できるようになったとき、それの意味を「知っている」ということができる。*6

おなじことが、言語行為以外にもあてはまる。「和算」は、共同体の判断に沿って正しく示せるようになったとき、それを知っていると言うことができる。 また「道を歩く」も、共同体によって示されたものが正しさ・普通さの基準になっている(日本人と外国人で道の歩き方の感じが異なるのはこのため)。「将棋盤に向かう」の正しい意味は、将棋盤の前で正座する棋士の佇まいにのみ示される。そしてそれを自分で実践するにせよ、漫画に描くにせよ、違和感なく示せる(演繹できる)ようになったとき、本当の意味でそれを知っていると言うことができる。

こうして言語ゲームは、いわゆる言語行為だけでなく、日常のあらゆる正しさ・普通さの基準となる「世界像」となっている。

言葉、慣習、常識、科学知識…それら共同体から示された世界像を与件として受け入れ、そして自ら示せるようになったとき、すなわち実践、演繹できるようになったとき、その世界像を「知っている」ということができる。(cf.鬼界p.387-8)

この世界像それ自体は無根拠にもかかわらず、我々はそれを十分な根拠と見なして生活している。 この無根拠な言語ゲームを最終根拠とする生活(実践)こそが、我々人間が住む世界(規則)である。(→人類学的実在性)

世界像(言語ゲーム、規則)に反自然的な根拠は存在しない。 しかし人間(の感覚)という根拠には基づいている

言語ゲーム(世界像)は生きている

我々は言葉の意味が変わることを経験している。

たとえば「やばい」は悪い意味しかなかったが、今ではいい意味でも使われる。 「ゆるキャラ」は、もともとは、町おこしのために役所の職員(素人)が見よう見まねで書いたへたくそな絵のことだった。それが今では事実上「デザイナーが計算づくで作った、単にゆるく見えるキャラ」になっている。

またネットスラングなどでは、よく意味が変化したり、表現が新たに派生したりする。

さて、なぜこのように表現が生まれたり、意味が変わったり、派生したりするのだろうか。

それは、人間が自分たちの感覚によって、判断の一致点を絶えず変更・生成しているからである。(演繹しているからである)

言語ゲームは、そうして不断に「判断の一致」をしつづけることによって、表現や意味が実践的に流転していく。

これが言葉が「生きている」ということである。

言葉を使用(演繹)しつづけ、「判断の一致」という作業に、その内側から実践的に関与し続けること、それが言語ゲームを生きるということである。(→*5)

辞書的定義は、典型例(結果)を記したものにすぎず、それを覚えているだけでは、判断の一致に関与していくことにはならない。 もはや使用(演繹)されなくなり、辞書の上にのみ遺された言葉は、意味が流転していかないので、文字通り死語となる。 言語ゲーム(世界像)は、それ使用している人々がいなくなったとき、それを生きる人々がいなくなったとき、死ぬのである。

前半のまとめ

ここまでウィトゲンシュタインの言語ゲームを説明してきた。

言語ゲームとは、人間の感覚・判断の一致によって規範的強制力(思い込み)が生じたものである。規範的強制力によって正しい意味が固定されることで、言語による意思疎通は可能となっている。

判断の一致によって固定されるのは言葉の意味だけでない。科学にせよ文化にせよ、判断の一致(実践)が生じると、それが規則(正しさ)となり、そこに世界(体系、パラダイム)が生まれる。(→「規則と実践の逆転」)

そして科学にせよ文化にせよ、その世界像を与件として受け入れて、「正しい世界」を盲目的に(普通に)営んでいるのが、われわれ人間の社会である。

世界像については盲目的であること、すなわちそれ自体は人間の意識(疑義)の対象からは逃れていることが、その固定性・安定性の源である。*7

もし何らかの理由で疑義が生まれ、「判断の一致」「盲目性」を失えば、その世界は失われることになる。

では、本稿の本題に入ろう。(とはいえ、ここまでの説明でほとんど答えが出ている)

日本も言語ゲーム(世界像)である。

日本という言語ゲームが盲目的に実践されなくなり、判断の一致の連鎖がおこらなくなったとき、日本は遺跡(死語)となるのである。

*1) 無限後退とは、定義についての定義が無限に続いてしまい、結果定義不可能となる状態のことを言う。この無限後退が止まる地点、常に真とみなされる最終根拠(与件)について、ウィトゲンシュタインは、前期思想ではトートロジーに置いたが、後期ではそれを破棄して、言語ゲームの実践知(感覚・判断の一致)に置いた。(cf.永井p.197)
*2) 「それ」(意味)が先にあって、人間はあとから「もののあはれ」などの「表現」を当てる。今日ネット上にも「○○という現象に名前を付けたい」という言い方があるように、じつは先に「○○」が生じているのである(→「逆転」)。なお新表現(演繹)は、意味が先に存在しないように思えるが、新表現は原言語ゲームの軌道上にある「それ」を言い当てる行為であって、やはり人間の感覚(の一致)の方が先にある。(でなければ新表現の意味は誰にも伝わらない)
*3) 人間の論理の人類性については、鬼界p.64~のヴェルベットモンキーの論理についての考察などを参照。(他の動物は別の論理をもっている。人間がもつ論理はあくまでも人間の論理(感覚)である)
*4) 甲子園→電車賃とは異なり、2+3=5についての別の発想は、いくら考えても出てこない。だから後者は特別に絶対的な真実を記述をしているのだ…と考えるのが反自然主義(プラトニズム)。 しかし出てこないだけで、「人間の感覚」から来る自明性に支配されている点では同じであると考えるのが自然主義(言語ゲーム)である。
*5) <言語ゲーム>は「とにかくeben」判断が一致している状態を基盤、<世界像>は論理的懐疑の限界(その外側は狂気)によって区切られた自明性を基盤とするという違いがある(永井p.202、鬼界p.375など)。しかしどちらも、それ以上掘り下げられない「根底」に突き当たっていて、それ自体は根拠のない信念であること、その正しさは共同体の判断に依存し、また正しさの最終的な基準は原言語ゲーム(人間の感覚)であること、懐疑や選択肢の対象から逃れて盲目的実践を行わせるものであること、それらはまず受け入れるべき与件であることなどの点で同じなので、本稿では説明の都合上、両者を区別しないことにする。(詳しく知りたい方は本を手にとって下さい)
*6) 「表現をマスターすることはこの行為を自ら行えるようになることであり、それはそこに含まれる一定の感覚、感情、認識、態度、動作を自ら体験し、示しうることを意味する。 ある表現をマスターするとは、それにともなう感情、認識、態度を体得することなのである」(鬼界p.325)「言語を習得するとは単に言葉の使い方を覚えることではなく、こうした劇(引用者注:意味を「示す」人のことを役者に喩えている)を数多く体験し、マスターし、それを通じてより幅広い感情・認識・態度を自ら「知って」ゆくこと、それらを自ら生きてゆくことなのである。 それは我々の生の様々な型を体得する過程であり、人間という存在になる過程そのものである」(鬼界p.326) 「言葉の意味は、その使用である」(哲学探究§43)における「使用」とは、この「正しい演繹」によって意味を指すことである。 
*7) ウィトゲンシュタインは世界像が人間の意識から外れていることを蝶番にたとえている(『確実性』§341) 。我々が日常生活で認識し、運用しているものは「扉」だが、それを扉として存在させている基盤である蝶番は、普段まったく意識されないものである。

*a) 近代認識論のアポリア: 経験を積み重ねることで正しい認識ができると考える認識理論を<経験論>という。経験論では普遍性を説明できないというアポリア(解決不可能な問題)がある。たとえば経験論では、消防車が「赤いもの」であると断定することはできない。「これまで経験してきたことからして、この消防車も赤いものとみなしてよいだろう」という【蓋然的】な判断にとどまらざるを得なくなる。ところが現実にははじめて見る消防車も確実に「赤いもの」のはずなのであり、実際問題それを誰も疑わない(普遍性)という体験的事実と矛盾することになる。 ウィトゲンシュタインは「正しさ」の基準を「個々人の認識が正しいか否か」から「人間が一致してそう思ったものが正しさだ」へと転換することによってこのアポリアを解決したのである。 (6251+2174=8425 という人生で初めて行う計算も、経験論では「誰も実際に数えたことはないだろうが、おそらく8425」という蓋然的判断となるが、ウィトゲンシュタインの「規則」では「計算して出した8425に人間の判断が一致するので、それが普遍的に正しい」となる)
またこの「規則」は、個人の主観に特権を与えたことで「客観性」を説明できなくなっていたデカルト的認識論のアポリアも解いている。
19世紀から20世紀にかけて、デカルト以来ながらく「個人」を世界の起点とし「真実」を探求してきた西洋近代認識論のアポリアはここに解決されることとなったのであるが、しかしこのことは同時に「絶対的な真実」の否定も意味しており、それまで絶対的なものがあると信じていた西洋人は、絶対的な正しさは存在せず、人間的な正しさしか存在しえないという事実に、大きなカルチャーショックを受けたのである。(cf.フッサール『ヨーロッパ諸学の危機』)

〔参考文献〕
『ウィトゲンシュタインはこう考えた』 鬼界彰夫 2003年 ◆楽天 ◆Amazon
『ウィトゲンシュタイン入門』 永井均 1995年 ◆楽天 ◆Amazon
『ウィトゲンシュタイン全集9』・確実性の問題 黒田亘訳 1975年 ◆楽天 ◆Amazon
『哲学探究』 ウィトゲンシュタイン 丘沢静也訳 2013年 ◆楽天 ◆Amazon