梶山季之『族譜』の間違い(嘘)について〔創氏改名〕

梶山季之『族譜』(1961)は、創氏改名の誤解を助長してきた作品である。 ここではこの作品のを検証したい。

まずごく簡単に要約すると『族譜』のあらすじは次のようなものである。

【A】創氏しないと子供を進級させぬぞと学校が脅してむりやり創氏させたため**創氏改名せぬなら日本人ではない、明日から学校に来るなと教師に言われた孫に泣きつかれ、ついに一族の長老(薛)は創氏の手続きへと赴き、その夜、祖先子孫に申し訳が立たぬとして自死した。 (姓が変わると、書き継いできた族譜(家系図)が意味をなさなくなるため)

「創氏改名」については、戦後ながらくこのあらすじ【A】のような種類の誤解が定着していた。

すなわち「創氏改名」によって、自分の意に沿わぬ改姓改名(日本名)が強制され、祖先伝来の「姓」がなくなってしまうことを恐れた朝鮮人は必死にそれに抵抗し、なかには抗議の自死をする人まであらわれた、かのようなイメージが定着していた。(→創氏改名の誤解がどれほど定着していたか

しかし別稿でも説明したように、実際の創氏改名は「氏」を追加する制度(しかも届出制)であって「姓」に変更はなかった。 ゆえに改姓であるかのような筋書き【A】は、まず完全に誤りである。

梶山『族譜』は、このように創氏改姓廃姓であるかのように書いているところに、まず最初の問題があるのだが、問題はそれだけではない。 じつはこの小説の元となった事件は水野直樹・京大教授の資料によると次のようなものであることがわかっている。*1

【B】長老が反対したのにもかかわらず、一族会議が長老の意見を無視して「非姓氏」(玉川)を名乗ることを決めてしまったため、長老が抗議の自死をした。(祖先子孫に申し訳が立たぬという理由は同じ)

このAとBの性質の違いがわかるだろうか。

【A】は自分の創氏が、自分の思うようにならなかったという話。(自分の創氏が日本によって理不尽に強制されたという話)

【B】は他人の創氏が、自分の思うようにならなかったという話である。(自分=長老、他人=一族内他家)

じつは「創氏改名への激しい抵抗」とされていたものをよくよく調べてみると、そのほとんどはこの【B】のように、民族派が、他者の創氏に対して抵抗したものなのである。 (詳しくは→抵抗運動についての誤解

つまり朝鮮総督府が創氏制度を導入したところ、朝鮮人同士の間で路線対立が起きてしまった。とくに問題視せずに創氏した一般朝鮮人に対し、頑固(過激)な民族派が抵抗した――それが「創氏改名」にまつわる「抵抗運動」の正体である。

にもかかわらず『族譜』は、BA(しかも改姓廃姓)のような民族弾圧政策であったかのような筋書きで語った。
そうしてこの『族譜』は、戦後、創氏改名強制説・朝鮮民族弾圧説を流布する主犯の一角をなしてきたのである。
(※なお族譜の編纂自体が日本に弾圧されたかのような説については→*2)

…結論としては以上ですべてなのであるが、せっかくの機会なのでもうすこし梶山『族譜』について見てみよう。

『族譜』から長老自死以外の場面をひろってみる。

(舞台背景) 道庁に務めている谷六郎は、創氏改名に応じない朝鮮人名家である薛鎮英の指導に関わっている。主な登場人物は谷六郎、そして朝鮮人名家の薛鎮英とその娘玉順。

(本作品における創氏改名) 本作品で「創氏改名」は、朝鮮名(姓名)を日本名に変更する制度という設定になっている。つまり姓名そのものを変更するという旧来の誤解の線で書かれている。日本名に改めさせることで朝鮮人を日本人になりきらせようとする政策として描かれている。

○創氏改名に応じないと拷問されるかのような描写がある。

(谷が創氏改名を促すために再度薛宅を訪れる場面)
網膜には、昼間に見た血みどろの、青黝く腫れ上がり、靴の鋲で生々しく眉間を割られた、あの裕川仁という若い鮮人の残像が、くっきり浮かび上がっていた。(中略)〈この男は、あの凄まじい、地獄の拷問に遭っても、いやだと云い切れるだろうか?〉しまいには、僕は歯痒いような気分に陥って行った。 でも、薛鎮英は、決して創氏改名への翻意を示さなかった。(『族譜・李朝残影』48頁)

○牢屋に入れられてしまうような描写もある。(苦笑)

(谷が薛の娘玉順に)
「貴女は、お父さんを牢屋に入れたいですか」(同50頁)

○創氏改名に応じないと婚約者が拘束されるらしい。(苦笑)

この日、薛鎮英が創氏改名を承諾しなければ、玉順の婚約者であるセブランス医科大学のインターン学生、金田北萬は、政治思想犯の容疑で病院から拘束される手筈なのだ。(同54頁)

「創氏改名」がらみで逮捕された朝鮮人がいたことは、じつは【事実】である。
しかしそれは独立運動などをしていた朝鮮人であって、つまり民族派の政治思想犯のなかに日本風氏名を名乗らない朝鮮人がいたというだけの話である。(∴適用された法律は独立運動を取り締まる治安維持法→水野資料2) *3

姓そのままを氏にすると民族名(姓名)がそのまま氏名となるが、ある推計によると半島では24%の朝鮮人が民族名をそのまま氏名とした。その人たちが逮捕されたという記録はない。つまり「創始改名」で日本風氏名を名乗らなくても、それだけでは別に逮捕などされることはなかった。

にもかかわらず戦後、この主客が転倒して、「創氏改名をしないだけで逮捕された」「創氏改名をしないと政治思想犯扱いされた」「日本名を名乗らないと逮捕された」といった話にすり替えられていく。
その一端を担ったのがこの『族譜』なのである。

今日の歴史知識のある人からみれば、『族譜』ような話は都市伝説的な嘘話に思えるかもしれない。 しかし1980年代に十代を過ごした筆者は「植民地支配」「創氏改名」に関するこのような言説を真面目に信じていた。 「創氏改名」を『族譜』に描かれているような朝鮮人から名前を取り上げる非人道的な政策(国家犯罪)だと思いこんでいた。

1990年代までの日本社会では、そのような嘘話がかなりの影響力を持っており(→関連拙稿)、だからこそそれがさまざまに政治利用されたのである。(→「朝鮮半島をめぐる歴史問題」とはなにか

なおこの『族譜』は今でもジェームス三木脚本で上演される(外部リンク)などされており、その影響は小さくないようである。*4

※なお創氏改名の実態について詳しくは拙稿「朝鮮総督府は、日本風ではなく朝鮮風の氏名を推奨していた」、もしくは、下の関連拙稿の「水野直樹『創氏改名』の考察 (長文版)」を参照してください。(前者の方がおすすめです)

(終)

*1) 詳しい経緯は長文版の資料を。なお姓は残ったにもかかわらず長老(B)が自死した理由(推測)については長文版の考察を。
*2) なお族譜の私的編纂自体も日本に弾圧されたという説もあり、水野も「印刷に警察の許可が必要だったので圧力もあったと考えられる」と書いている(→水野『創氏改名』―族譜について)。しかしその明確な証拠は挙げられていない。 創氏制度の趣旨から判断すれば(→朝鮮風氏名推奨)、それは過剰な意味づけだと考える。(私見)
*3) しかしそのような「創氏反対運動」は朝鮮人一般から指示されていなかったことがわかっている。(→検挙された朝鮮人の気持ち
*4) 筆者はジェームス三木氏らを非難するつもりは毛頭ない。騙してきた人間(民族派在日、進歩的知識人そして本国人)こそ糾弾されるべきである。

**) 訂正:進級させぬぞという脅しは、水野『創氏改名』にある金龍周の証言「そこで薛さんの愛児の通っている学校の受持先生を動員して、創氏しなければ進級も出来ないし、退校になるかもしれないと嚇したものだから、子供が泣く泣く帰宅して、お父さんにぜひ創氏してくれと訴えたのです」との混同によるものでした。お詫びして訂正します。(なお水野によるとこの金龍周の「証言」は実際の事件とは異なるものであることが判っています→長文版の資料

〔参考文献〕
『創氏改名』 水野直樹 2008年  ◆楽天 ◆Amazon
『族譜・李朝残影』 梶山季之 2007年  ◆楽天 ◆Amazon