私と歴史問題(2)

私の母方の祖父は従軍経験者であった、と思う。

「と思う」と書いたのは、詳しく話を聞くことができなかったからだ。

私の田舎はかなり遠方かつ辺鄙なところにあり、電車を乗り継いで七時間くらいかかるようなところにあった。 小学校低学年のころまでは母親に連れられていた帰省していたが、十歳ころからは一人で帰省していた。 小学生の夏はそうして一ヶ月くらい祖父祖母の家ですごすことが何度かあった。

性格的なことを挙げれば、私は自己抑制の傾向が強く、昼間祖父母が仕事で外出中の間ですら、テレビひとつつけられない子供だった。 見たくても勝手に点けることが憚られ、部屋に一人ぽつねんとして、茶の間に出ている新聞を眺めてみたり、まどの外を見たり、天井の木の節を数えてみたり、しかたなく夏休みの宿題をしてみたり、今思い返してみても何をして過ごしていたのか思い出せないくらい、無為な時間を過ごしていたことが多かったように思う。

そんな筆者が田舎に帰ったとき、祖父と戦争の話になったことが一度だけある。

とても眠くて、眠りながら行進したんだという短い会話であった。

しかしそのとき私はうつむき加減に適当に頷いてやりすごしてしまった。

そのときすでに旧日本軍の非道さをなんとなく「知っていた」私は、もし「南京大虐殺」のような話が(もっともこの言葉を当時知っていたかは覚えていないが)祖父の口からでてきたらどうしようと思ったからである。

そうした私の反応を見て、祖父は興味が無いと思ったのか、それ以上続けなかった。

家の都合もあって、帰省することは小学生の時までであったため、戦争についてもそれが最後の会話となっている。

もちろん今は祖父にどのような軍歴があったのか、それを調べる方法があることは知っている。

しかし私にとっては、それでは意味がないのである。

私は「南京大虐殺」「創氏改名」などが教科書に載りはじめる1980年代を10代で迎えている世代である。すなわち日本の「負の歴史」がすでに教科書の中に埋め込まれていた世代であり、それらが「歴史的事実」と化していた世代である。(つまりこれらが戦後何十年も経って出てきた「新事実」であるという認識は私にはない)

1980年代というのは、戦争に触れる番組や発言が今よりもずっと多く、歴史問題について考える機会が多かったと思う。また当時は、冷戦の緊張感もあってか、今思えば社会に重苦しい雰囲気があったように思う。
1983年の大韓航空機撃墜事件では後藤田正晴が厳しい顔で記者の質問に答えていたこと、1988年の同爆破事件では自殺防止の猿ぐつわをされてタラップを降りてくる金賢姫のこと、その教育係であった李恩恵の似顔絵のことを覚えている。また中国関連では731部隊の「悪事」が暴かれ(1981年)、そして1985年には南京虐殺記念館が開館したニュースなどを覚えている。*1
そんな1980年代、どこまでが学校教育で、どこからがメディアからの情報であったか、その境界はもうわからないが、私の歴史認識はメディアからの情報の影響を大きく受けていたと思う。

私は(繰り返しになるが)当時の教育やメディアの論調から、「植民地支配」されていた朝鮮人は、一種の奴隷のような存在だったと思っていて、同胞(味方)として一緒に戦争していたなどとは、まったく思っていなかった。

さらに植民地支配されていた朝鮮人は、「皇民化政策」によって朝鮮語を禁止されたために朝鮮語が不自由になってしまったと思いこんでいたため、日本に「強制連行」されてきて、しかも日本語が話せる、いや日本語しか話せない在日という存在は、当時の私にとって、大袈裟ではなく、本当に恐懼の対象だった。

また在日は戦後も日本社会から疎外され、皆底辺の生活をしていると思いこんでいて、有名スポーツ選手やロッテなどの大企業の社長に在日がいるなどとは、このときの私は想像もしていなかった。(→1980年代に私が抱いていた在日のイメージ

もし自分の身近に在日がいて、その実態に接触していたら、また少し違った印象を抱いたかもしれないが、幻想というものは接触が少ないほど膨らむもので(例:アイドル)、自分の中で在日とは以上のような存在だと思いこんでいた。

当時この世界観の中にいた私は、ゆえに辛淑玉氏らによる次のような「お説教」も、素朴に、殊勝な気分で聞くことになる。

※クリックで動画 (動画は90年代のものなので、80年代の話と少し前後するが、この雰囲気を参考にしてほしい)

辛淑玉氏というと、今では〝きわめて特殊な人〟という認識が定着しているが、当時の私にはそのような認識はなかった。

そして彼女が醸し出す雰囲気は、私が小学生の頃に朝鮮学校の生徒との接触で経験した、あの「異様な雰囲気」と同種のものだったため(→前頁)、彼女が普通の在日を代表する意見であると思いこんでみてしまっていた。 彼女が見せる異様な「剣幕」も左派史観(世界観A)を信じていた当時の私にとっては当然のものと映っていたので違和感はなかった。

私はこのような在日の言説を「過酷な植民地支配」の犠牲者(の子孫)である在日が、「反省しない日本」を批判するという図式で見ていた。そのため彼女の発言は「歴史の証言」として聞こえ、私の左派史観を補強する結果になっていた。

今思えば、メディアに登場する在日は、都合良く選択された人々なのであるが、そんな事情は当時の私には思いもよらないことだった。彼女のような考えが在日の基本スタンスであり、そしてそれはもっともなことだと思って見てしまっていたのである。(こうした言説の党派性については→資料・鄭大均

今でこそ中韓の発言は疑ってかかるということが習慣となっているが、当時はそうではなかった。 左派(当時私に左派という認識はないが)の言い分がほぼ無条件に信用され、その歴史認識に対する反論は、「戦争犯罪者」の苦しい言い逃れ(右翼妄言)と見なされることが常だった。今から見ればきわめて異常に思えるが、本当にそんな雰囲気の時代だった。*2

そして私も当時は「右翼妄言」と見なす側に与していた。聞く耳をまったく持てずにいた。

もっともそんな私でも、左派や「戦争犠牲者」たちの説明について、まったく違和感がなかったわけではない。たとえばなぜ「強制連行」されてきた在日が、なぜいまも滞日しているのかなどの疑問は確かにあった。

しかし誰でも経験があると思うが、ふと「引っかかり」を感じることは、日常のいろいろな場面にあるもので、そしてそうした引っかかりは、たいていの場合、なんらかのきっかけで自然に謎が解けるものである。日常にあるさまざまな引っかかりの中から、「近代史のその部分」にあえて注目することは私にはできなかった。「強制連行」されてきた在日が、ただ何か事情があって滞日し続けているのだ等として自らを納得させつつ、他のひっかかりと同様に、教科書の類や報道を見ていれば、いずれ自然に解消されるものと、やり過ごしてしまっていた。 いずれにせよ「強制連行」は動かせない事実であると思いこんでいて、それ自体を疑うという発想が私にはなかった。

私は、戦前世代がいくらでも存命している当時、まったくの虚構が政治宣伝されているなどとは思いもしなかった。よくよく調べれば、そこで展開されているものとはまったく異なる歴史観があるなどとは、このときの私は想像もしていなかった。

こうしたさまざまな事情が重なって、歴史問題について、本気で考えはじめるのがずっと遅れてしまった。*3

(ただ当時もし自分で調べはじめたとしても、ネットで見当がつけられる今と違い、左派史観が居並ぶ書店等の本棚から手探りで、自分の洗脳をとくようなものが見つけられたかというと、それほど容易ではなかったと思う。 もっとも、実際にやってみれば意外と簡単だったのかも知れないが、今となってはそれを確かめることは難しい。*4)

話を戻すと、このような歴史認識の空気の中で、1990年頃から大きく注目されるのが、いわゆる「従軍慰安婦」問題である。

今日の慰安婦問題は、「女性の人権」「軍による強制連行が(一部で)あったか否か」というところに論点が変更されつつあるが、この時代の「従軍慰安婦」はまったくそのような話ではなかった。

日本軍が各地を転戦するには性処理が必要なので、植民地の、いわば奴隷の女を20万人規模で(つまり日常的に)捕ってきて連れ回していたという話だったからである。

そして1991年の金学順会見は、その証言だと思ってみていたし、1993年の河野談話は、それを認めたものだと私は解釈してしまっていた。

しかしこの「国家犯罪」を信じていたのは私だけではない。たとえば呉智英も「従軍慰安婦」を信じていたと語っているし、つかこうへいも1997年、「従軍慰安婦」の物語を発表しているからである。↓↓

このように、当時はそれなりの知識人ですら左派史観の影響を強く受けていたのである。当時二十歳前後の私が左派史観を信じこんでいても、なんら不思議なことではないだろう。 本当にそうした認識が普通の時代だったのである。

そして、在日の指紋押捺の廃止・特別永住資格の延長(1991年)や、韓国系カルト宗教の問題とは、まさにこのような時代の風潮の中で起こった出来事なのである。

左派史観に強く影響を受けていた私は、特別永住資格のような配慮は当然だと思っていたし、またカルト宗教についても、霊感商法であることはけしからんとしても、歴史が利用されることそれ自体は(事実なので)しかたがないと思わされてしまっていた

今日、ネットの一部などで、「在日や朝鮮半島を甘やかしてきた日本にも責任がある」などという言説を見ることがある。
しかし甘やかしなどではなく、説明してきたように、左派史観によって涵養された贖罪意識によって、在日や半島への配慮は当然だと思わされてしまった人が少なくなかったのである。

(私は「南京大虐殺」が虚構だったことについては、今ではまったく気にしていない。しかし「植民地支配」の虚構が招いた事態については、まったくそういう気分にはならない。なぜなら→在日は強制連行問題をどう見ていたか@鄭大均『神話』

さてそんな私も1990年代後半から2000年代前半にかけて、歴史認識が徐々に転換していくことになる。

すなわち、朝鮮人は奴隷ではなく同胞(味方)だったこと、「植民地支配」で行われていた政策(強制連行、創氏改名、従軍慰安婦等)が国家犯罪などではなく、ごく一般的な労働問題・行政問題・社会問題にすぎなかったこと――要するに、戦後の日本人がなんら「贖罪意識」を感じるような「植民地支配」ではなかったことが判明してくるのである。(→世界観B)*5

そして私はそのとき、在日や本国人や国内左派はこれまでの嘘を恥じて黙るのだろうと思っていたし、あるいは転向して本国批判に回るのだろうと思っていた。 どう考えても、それが常識的な人間がとりうる態度だろうと思っていたからである。
ところが、驚くべきことに、彼らはまったく恥じ入ることなく、謝罪するどころか、今度は女性の人権問題(今日の慰安婦問題)へと論点をすり替えて継続していくのである。
さらに海外からは「従軍慰安婦」の線で像が建ち始めたりしているという話が聞こえはじめてくるのである。*6

ここに至ってようやく私は、朝鮮半島をめぐる歴史問題は、日本の「植民地支配」について反省を促し、それによって和解の道を模索するという真摯な想いによるものではなく、政治的利益を得るためのプロパガンダであり、我々に対する明確な害意をもった政治活動であるということ、そして半島勢力のためなら病的なまでに公正を欠く日本の「知的エリート」と、自国の歴史を正当化するためなら他国の人間を騙しても憚らない、悪意に満ちた「民主国家」が存在するという醜い現実を、ようやく直視できるようになったのである。
そして、彼らに対するどうしようもない敵意を感じざるを得ないことになる。

*1) 731部隊については、人体実験の証拠資料をアメリカで見つけたというニュースをNHKが流していた記憶がある。(その動画をyoutubeで見つけている(画像。動画の説明によると放送は1992年。私が見たのはまさに桜井洋子が読んでいたこのニュースだったと思う。なお動画はすでに消えているようである)   また余談的な思い出話になるが、ソウル五輪(1988)のすこし前に、少女隊(アイドルグループ)がソウルでコンサートをすることが話題になったことがあり、日本語が禁止の韓国で、日本語でコンサートが行われるのは初めてだという話があったと思う。そのとき「日本語強制政策」という「負の歴史」の重さを感じたこと、にもかかわらず受け入れてくれた韓国人の寛容さに感動したことを覚えている。
*2) 当時は左派史観が主流(小林よしのり氏による回想)、在日が「無垢化」した1980年代などを参照。
*3) では私が教育やメディアの言うことならなんでも鵜呑みにしていたかというと、そうでもない。その証拠に、護憲派が圧倒的だった1980年代に私は9条改正派だった。もっとも改正派だったのは深い考えがあったというよりは、単に主流の考えに反発してみたかっただけかもしれないが、いずれにせよメディアの論調にすべて従っていたわけではない。にもかかわらず歴史認識については、そうした批判精神をまったくもてずにいた。
*4) 余談的になるが、私は南京大虐殺の否定本を書店でみかけたことがある。 しかしそれを手に取ることはなかった。じつは私の世代は、ノストラダムスとかネッシーとかを小学生で経験した、いわゆるオカルトブーム世代にあたり、『ムー』などのオカルト雑誌が多く出版される時代を経験している。手に取らなかったのは、そうした「歴史否定本」をオカルト本と同列視するという心理も働いていたと思う。仮に手に取って読んだとしても、まともに取り合わなかった可能性もある。
*5) お気づきかも知れないが、本稿で説明している「植民地支配」の認識(世界観A)は、韓国で行われていた(今も行われている)教育内容と、おそらくよく似ている(cf.資料・呉善花)。なぜ似ているのだろうか。どちらがどちらに影響したのだろうか。これは重要な研究テーマだと思われる。
*6) このような「従軍慰安婦」の「海外展開」は、しばしば河野談話を根拠に行われた。一般にはあまり知られていないことだが、もともと河野談話は韓国側から「金銭的支援はこちらでやるので謝罪だけしてほしい。それで国内世論も収まる」という要請があり、それに日本側が善意で応えたものであった。ところが後年、河野談話が「慰安婦強制連行」を認めた「証拠」として喧伝されることになった。