アメリカの多文化主義の歴史――るつぼからサラダボウルへ(2)

ホレス・カレンらの異議がそうであったように、多文化主義は、独立戦争や南北戦争の時代からアメリカに居住していた民族的少数派(以下「古参少数派」)のアメリカ化や英国中心主義に対する反発が発端となっている。
そこでまず古参少数派の代表であるアイルランド系アフリカ系という2つの系統が、どのようにアメリカ社会で自己の存在を認めさせようとしたか見てみよう。

民族の誇りというものは、つねに歴史によって裏づけられる。
ゆえに彼らにとってまず大事なことはアメリカ史の中で自分たちがどこに位置づけられるかということだった。
というのはアメリカの歴史は長らく、白人でアングロサクソン人種のプロテスタント(WASP)の視点からのみ書かれ、「ワスプ」以外の人たちの存在が無視されており、それが「古参少数派」の国内的な存在基盤の弱さに直結していたからである。
よって彼らはまず自分たちがアメリカの建国にいかに貢献したかを誇示しようとした。

アイルランド系の成功

かつてのアイルランド系の人々は、働かない上に飲酒癖があり、しかもカトリック教徒であるため、愛国的なアメリカ人とはなりえないだろうとみなされ、とくにアメリカの上流社会からは見下された存在であった。

それがどれほどの偏見であったかというと、1870年代にマサチューセッツ州で育った黒人学者のW・E・B・デュボイスが、「人種的偏見の意識は、私に対するよりもアイルランド人に対してもっと露骨に明示されていた」と証言しているほどであった。

ゆえにアイルランド系移民たちは、あまり有力でないカトリック系の雑誌やボストンの新聞の日曜版に、いかに自分たちがアメリカに貢献したかという物語 ―― たとえば、独立戦争当時のアメリカ兵は76パーセントがアイルランド系であったとか、ジョージ・ワシントンの側近友人の多くがカトリックの司祭であったというような類の記事 ―― を掲載するなどしてその民族的感情を慰撫していた。

ハーバード大学の著名なアイルランド系アメリカ人学者、ジョン・V・ケレハー教授は、この種のことを、アメリカ史にたいする「大事な仕事の根底には常にアイルランド人がいる」的アプローチと呼んだ。

しかしケレハー教授の回想によると、その後アイルランド系の人々がアメリカ社会の中で地位を高めていくにつれて、この種の記事はボストンの新聞から姿を消しはじめたという。
そして1960年に、アイルランド系でカトリックのJ・F・ケネディが大統領に当選したころから、アイルランド系の人々は、当初の立場とは反対に、「建国神話」や英国中心の社会規範を擁護する側になっていった。

たとえば二人目のアイルランド系アメリカ人大統領(ロナルド・レーガン)の原稿代作の任にあったペギー・ヌーナン(アイルランド系アメリカ人)は、1990年に次のように述べている。

移民の人たちは自分の仲間集団の功績にひたるためではなく、アメリカの夢と特質とその独特の歴史を明示している偉大な統合の神話についての教導を受けるべきである。さもなければ、アメリカの過去を語り継ごうとしても、思考不十分な尊大さにとりつかれた現代精神の懐疑主義に否応なしに支配されることになってしまい、延いては、われわれ自身がアメリカ的であることを放棄する結果になるであろう、と。

またこれはユダヤ系アメリカ人であるが、『アメリカン・マインドの終焉』の著者であるアラン・ブルーム教授ほどに、怒りを込めて学会におけるアメリカ建国の功労者たちに対する偶像打破の思潮を告発してきた人はいない。

こうしてアイルランド系もユダヤ系も、アメリカという大鍋のなかでそれぞれに苦闘を続けはしたものの、自らの立場を確立していくにつれて、むしろ「アメリカ化」の擁護者へと転向していく。 そうして、ヌーナンやブルームのような英国中心主義の真実性の擁護者が出現するにいたったのである。

黒人の場合

黒人はいうまでもなくもっとも過酷な運命を引き受けた古参少数派の一つである。 彼らは米国史での扱いでも、長く蔑まれており、たとえば奴隷制度に対しては受動的で、南北戦争後の再建期には滑稽ともいうべき役割しか果たしていなかったであるとか、達成した唯一の成果はジャズ音楽の発明だけであったなどと言われていた。*1

黒人の評論家たちは、英国系(*2)、またアイルランド系やユダヤ系の評論家が集団の安定には民族の歴史の正当化が必要だと考えていたのと同じように、黒人たちの自負心が低く社会的な成功が難しいのは過去を讃え得なかったことにあると考えていた。 となれば、アイルランド系と同様に「大事な仕事の根底には常に黒人がいる」式のものが出現したことも何ら驚くにあたらないことである。

しかも近年では、黒人の歴史家のみならず白人の歴史家によっても、奴隷制について、再建期について、そしてアメリカ的生活における黒人の役割について、最新で説得力のある学問的成果がうまれており、それが従来の慣習的な論調を逆転させている。

この論調の転換は、学問の世界だけでなく大衆文化の領域にまで波及した。たとえばエドワード・ツウィックのすばらしい映画 Glory(1989) は、数多くの白人アメリカ人に初めて、南北戦争における18万6000人もの黒人兵士たちの活躍を提示してみせた。

ところが、この米国史のなかにおける黒人の位置づけの問題に並行して、黒人学者のなかには、アメリカ社会を規定しているヨーロッパ的価値観そのものが黒人の発展を阻害してきたと主張する者があらわれる。

たとえばイースタン・ワシントン大学のフェリックス・ボーテングは次のように述べる。

「公立学校制度のなかでは、教育内容がヨーロッパ中心の指向性を持っているため、白人の生徒たちは当然のこととして自分たちの自己確認ができるが、アフリカ系アメリカ人の生徒たちは完全に脱文化の状態に落ち込んでいる、そして、この脱文化の状態とは、個人がその固有の文化を奪われ、他者の文化的価値観に従属させられるプロセスにほかならない」と。

またキャンサス大学のゴードン教授は、「われわれは、白人の人たちが彼らの歴史書のなかにわれわれのことを書いてくれるのを待つなどということは止めなければいけない。この点、ユダヤ系の人たちは立派にやりとげた。われわれも、アフリカ中心観に立つ学問の府を創りあげ、われわれ自身の歴史書を創造する必要がある」と述べる。
つまり黒人の自負心が低く、業績が振るわないのは、黒人固有の歴史や文化が尊重されておらず、ヨーロッパ文化に精神的に隷属させられているからだという主張である。
こうしたヨーロッパ中心主義による精神的支配を打破すべきという主張の中からは、過激な「アフリカ中心主義」――クレオパトラは黒人であったとか、古代エジプトは黒人であり、それは古代ギリシアに影響を与え、アメリカを含む欧州文明の基礎になっているとか――を打ち出す人々も現れてくることになる。*3

かつて奴隷解放の直後、黒人が苗字を選ぶときには、アフリカ流の名前ではなく、アメリカの英雄たち――ワシントン、ジェファソン、ジャックソン、クレイ、リンカン――の名前を取ったし、MLキングJrなどの黒人指導者層も「ニグロはアメリカ人だ、われわれはアフリカについて何も知らない」と、アフリカと結び付けられることをむしろ嫌悪していた。
にもかかわらず歴史的、文化的なものが強調されるようになると、黒人たちは、アイルランド系やユダヤ系らとは反対に、英国やヨーロッパ中心の価値観により一層反感を持つようになり、そこから分離していくような心理が生まれていった。
そうして、なかにはアメリカ流の名前を棄ててアフリカ系などの別系統の名前に改名するものもあらわれるようになったのである。*4

アメリカ建国に貢献したという民族的自尊心が満たされることは、その少数派集団の安定と地位の向上につながる、そしてそれがアメリカ社会を豊かにするという考え方は、一定の成功は収めつつも、その効果についてはよく検証されないまま(*5)、またそれが分離方向へと働く危険性については省みられないまま、より一般的なモデルとなってアメリカ社会に浸透していく。

すなわち、今日の「新参」の少数派を含め、すべての少数集団の自尊心をもたせるような教育が行われるべきだという理念へと進んでいくことになる。

またそのとき、非ヨーロッパ系集団の停滞の原因が欧州中心の歴史文化教育にあるとされたために、(アメリカ社会の基盤であるはずの)欧州系の歴史文化については軽視されるという、歪んだ状況すら生まれることになる。

教育現場において

「いったん民族の誇りと自尊心が歴史教育の基準にされてしまうと、いくつかの事柄は教えることができない」

そう言ったのは、アメリカ教育史家ダイアン・ラヴィッチである。なぜなら歴史を教える際には、それぞれの子孫たちに不愉快な感じを与えないようにならざるをえないからだと彼女はいう。

多文化主義という点で、カリフォルニア州ほど、アメリカの歴史カリキュラムが慎重に作成され均衡のとれているところはない。しかし民族性の重視が学問を押しのけて自由な振る舞いをするとき、どのようなことが起こるか、同州教育委員会への報告で明らかとなっている。

報告によると、新しいカリキュラムに即した教科書について、ポーランド系アメリカ人は、もしもヒトラーの大虐殺に言及するのであればポーランドのキリスト教徒たちが受けたような同じような集団虐殺の記述が同時になされるべきだと要求した。 アルメニア系アメリカ人は、トルコによる大虐殺について教科書は述べるべきだと主張し、トルコ系アメリカ人はそれに反対した。回教徒たちは、三日月刀を振りかざしたイスラム勇士の挿絵を使うことは回教徒を「テロリスト」として型にはめることになると言って抗議する、という具合であった。

ラヴィッチの回想によると、「各集団は次々と、その先祖が歴史の中でほかの誰よりも被害を受けたと主張した」という。

アメリカ・インディアン、ヒスパニック、中国系アメリカ人、同性愛者たち、復活説信仰の正統派キリスト教徒、無神論者――これらの集団すべてが、学校教科書は彼ら特有の文化ないし考え方を賞賛する上で不十分だったと言って抗議した。

ラヴィッチは更に続けて次のように書いている。

「聴聞の場で執拗に続けられた一つの共通点は、批判者たちが、それぞれの集団構成員を怒らせるようなことは一切教えてほしくない、としたことである。 何が教えられるにせよ、それは彼ら集団の自尊心または誇りにプラスの効果をもつものでなければならぬ、と主張するものが多かった。……〝自尊心のための歴史〟運動における唯一の悪役は……これまでのところ代弁者を持たぬ白人男性である」と。(→資料・文化多元主義教育がもたらすもの

すべての民族的・宗教的集団が公立学校で教えられる教育について承認したり否認したりする権利を主張するようになると、もはや多文化主義と民族中心主義とのあいだの区別がつかなくなってくる。

社会において民族中心主義が前面にでたときに、その民族的基盤がなんであるにせよ失われることが明らかなのは、われわれすべてが一蓮托生のアメリカ人だという旧来の理念になるだろう。

失われた統合神話

多文化主義に熱心な人たちは、共通の理想への傾倒を分かち合うという考え方自体を覇権主義的であるとして拒否する。

だが多文化主義による民族集団の神聖化は、結合の緊密な社会という古い理念を危うくすことになるだろう。

アメリカは、民族、宗教、政治の境界線を超えて、理想を体現しようとする共和国である。それは、さまざまの人種、宗教、言語、文化をもつ人びとにとっての共通の自己確認を創り上げるという実験なのであり、一時期、ある程度の成功をおさめていた。

しかしこの実験は、アメリカ人が目標とされていることを信じ続ける限り成功するものなのである。

もしもこの国が今やワシントンの「一つの人民」と言った古い目標に背を向けるのであれば、その将来はどのようなものであろうか。国民的共同社会の解体か、アパルトヘイトか、バルカン化か、それとも部族社会化であろうか

分離主義の衝動でもっとも不気味なのは、一つの集団が他の集団と対抗しあうときに生み出される卑劣さである。

人種的な感性や怨恨についての鋭敏な学徒であるハロルド・アイザックスが「本来的なわれわれ対彼ら症候群」と呼んだものが、有史以来、その他どの単一の原因にもまして多くの支配と恐怖、憎悪と殺害を人類にもたらした。

互いに押しのけ競い合う集団で成り立つという建前に固執する社会では、相互不信と敵対心が確実に生まれるに相違ない。

それにしても、クレヴクールの「新しい人種」、ザングウィルの「坩堝」、ブライスの「驚くべき溶解力」、ミュルダールの「アメリカ的信条」から、今のアメリカは、なんと遠ざかってしまったことだろう。

・・・・・

以上、『アメリカの分裂』などを参考に米国における多文化主義(文化多元主義)の歴史と現状を簡単に追ってみた。

シュレジンガーは、本書の時点(1991年)では、多文化政策を改め、集団(すなわち民族)ではなく個人を尊重するという「アメリカ的信条」の本義にもどれば、社会の一体性は損なわれないかのような見通しを立てている。 しかしその見通しは正しいのだろうか。多文化政策さえ採らなければ「るつぼ」は機能して、『アメリカの分裂』はさけられたのだろうか。

たしかに1965年移民法書名の時点ではジョンソン大統領も、多様な起源を持つ人々が最終的には強いアメリカ合衆国を作っていくのだという楽観的な信念を述べていた。*6

だがその後に明らかになっていくのは、カレンのいう民族の不易性であり、同化できるのはせいぜい文化的な「いとこ」までしかないという事実ではないだろうか。*7

多文化主義は、一見素晴らしいもののように思えるが、その国の中心文化も外国由来の文化も平等に扱われる以上、必然的に人口構成によってその社会の中心文化が変化していくことになる。 その結果、今日のアメリカでは、英国プロテスタント文化はその中心的地位を追われ「多文化」の中の一つへと埋没しつつある。

この、多文化主義と人口構成の変化によって主役の座を追われつつあるWASPの様子については、本書『アメリカの分裂』の10年後、20年後に書かれたハンチントン『分断されるアメリカ』(2004)、ブキャナン『超大国の自殺』(2012)に詳しい。(→関連資料)

2016年末、トランプ氏が大統領に当選した際には、彼がアメリカに分断をもたらしているという趣旨の分析・報道が多くなされていた。しかしハンチントンも予言(*8)していたように、彼の登場は、多文化主義や移民流入に対する懸念が、とくに白人の側で高まっていたからであり、また社会の分断はカレンらの時代から懸念されていた国民統合と民族の不易性との矛盾が(欧州系しか念頭になかった当時の想定よりもより大きな形で)顕在化したといえるものであって、トランプ氏が分断を「招いた」と見るのは誤りだろう。

(終)

*1) 本稿では割愛したが、『アメリカの分裂』ではインディアンと黒人の政治力に差について次のように説明されている…「黒い」アメリカ人も「赤い」アメリカ人も共に、歴史的な平衡の是正を求める十分な理由をもっている。ただしインディアンたちは、アフリカ系アメリカ人がもっている数と統一性と顕著さと政治的重みとを欠いていた。アメリカ人の12パーセントは黒人であって、ゆえに過去の学問分野における不公正をただすべく高まっている圧力は、ほとんど彼らのために集中している。(64頁)
*2) 歴史による権威づけは、自らを造り上げていく過程にある国や集団にとって不可欠の要件である。それなくば、その集団の合法性、伝統の持続、進路の正統性を確立することはできない。それは英国系プロテスタントにおいても例外でなく、英国本国との関係、また植民の際に行われたインディアンに対する非道な行為などについて、その歴史の正当化が図られた。
*3) マーティン・バナール『黒いアテナ』(1987) は、このような主張をする人々によってしばしば引用された。(92頁)
*4) アフリカ研究者のアーサー・スミスはモレフィ・キート・アサンテと改名し、「そうしてこそ、われわれの意識が映しだされるのだ」と他の人たちにもアフリカ名にすることを呼びかけた(105頁)。また本書には出てこないが、カシアス・クレイがモハメド・アリと改名したのも同じ流れ(アメリカ流の拒否)だろう。
*5) アメリカにはユダヤ系やアジア系など、歴史的な役割モデルのないこと――公立学校のカリキュラムに彼らの先祖を讃えるようなものは存在しない――が一向にハンディキャップとなっていない集団があり(110頁)、アメリカ史における民族的自尊心と社会的成功の因果関係が疑問視される材料となっている。(参考→キャンディス・オーウェンズとラリー・エルダーの対談(外部リンク))
*6) 「ただし、「移民国家」としてのアメリカ合衆国が、すでにこうした移民法による既成の観点からのみでは論じられない状況に立たされていることも忘れてはならない。 すなわち移民の多様性が絶対的に増大したために、それまでのアメリカ社会が行ってきた「多様な起源を持つ人々から一つの国民へ」という合衆国建国以来の統合の過程が自明ではなくなっているのである。 65年移民法書名におけるジョンソン大統領の演説には、多様な起源を持つ人々が最終的には強いアメリカ合衆国を作っていくのだという楽観的な信念が述べられている。これはとりもなおさず、多様性を一つに吸収しうる「統合」の方向性が明らかに存在しているという見通しでもあった。 しかしながら現代アメリカに押し寄せる移民の多様性とその規模は、合衆国建国の時代以来認識されてきたものとは比較にならない「分裂」をアメリカ社会にもたらしているといえる」(『史料で読むアメリカ文化史』(5) 107-8頁)
*7) グレイザーとモイニハンは1963年の著作で次のように語っている。なお1963年という時代からもわかるとおり、多文化主義が本格的に始まる以前の時代の話である…①「エスニック集団は、多くの場合、第二世代において、また第三世代ではもっと完全に見られるように、特殊な言語、習慣、文化が失われた後ですら、アメリカでの新しい経験によって間断なく再生されているのである。ある名前の存在自体だけで、新しい状況における集団の特性を形成するに十分であろう。というのは、名前は実際上、何にでもなりうる個人を、ある特定の過去、国、人種と結びつけるからである」 ②「19世紀初めの重要なエスニック集団であるスコットランド系アイルランド人集団は、現在では大部分が単なる旧いアメリカ人、「古い血統」である。古いオランダ系家族はニューヨークの上層階級の一部となっている。しかし、これらのテスト・ケースは、単に、古いアメリカのタイプの同化力がいかに部分的であるかを暴露するのみである――古いアメリカ人はそのエスニック上のいとこを同化したに過ぎない」(『人種のるつぼを超えて』①44-45頁、②49頁)
*8) 「大衆は総じて社会的安全保障に関心をいだいており、それは前述したように、発展のための受け入れ可能な条件のなかで、言語、文化、人間関係、宗教的アイデンティティとナショナル・アイデンティティおよび慣習の伝統的なパターンを維持できるかどうかを問題にしている」「アメリカ人は自分たちの国を移民の国と考えたがるが、おそらくアメリカの歴史上いつの時代にも、アメリカ人の過半数が移民の拡大を支持したことはなかったと思われる。調査資料が入手可能な1930年代以降は明らかにそうだった」「政界の指導者が大衆に『迎合』できなくなれば、どのような結果になるかは予測がつく。重要な争点で政府の政策が大衆の見解から明らかに逸脱すれば、大衆は政府への信頼を失い、政治への関心と参加が減り、政治的なエリートによって支配されない別の政策立案手段に訴えるようになると考えられるだろう」(『分断されるアメリカ』450、457、460頁)

〔参考文献〕
『アメリカの分裂』 A.シュレジンガーJr (訳)都留重人 1992年(原著1991年)
『人種のるつぼを超えて』 グレイザー、モイニハン 1986年 (原著1963年)
『史料で読むアメリカ文化史』(5) 東大出版会 2006年  ◆楽天 ◆Amazon
『分断されるアメリカ』 サミュエル・ハンチントン 2004年(単行本版) ※文庫版も出ています ◆楽天 ◆Amazon