P・ブキャナン『超大国の自殺』(序文・まえがき)

日本語版への序文

本書が、日本で出版されると聞いてうれしく思っている。なぜなら、この本の各章で明らかにした、わたしの国、アメリカ合衆国に起きている宗教的、文化的、社会的、経済的な変化の数々は、日本に直接の衝撃をおよぼすだろうからである。そして日本は、合衆国と西洋諸国の本来の住民を悩ます不吉な人口減退――国々の基本的特質に革命的な変貌をもたらす危機――に、より切迫したかたちで直面している。この本に詳述された趨勢が逆転されない限り、またその徴候もないのだが、その趨勢は、この新しい二十一世紀が終わる前に、世界の偉大な文明が死んでしまうことの前触れにほかならないのである。私の本の翻訳・出版に謝意を表明する。

パトリック・J・ブキャナン

序文

「われわれが育った国に何が起こったのか?」

十年前の、『病むアメリカ、滅びゆく西洋』と同じように、この本はその設問に答えようとするものである。しかし『超大国の自殺』は、それとは違う時代、それとは違うアメリカについて書かれている。『病むアメリカ、滅びゆく西洋』が2002年の新年に出版されたとき、国民は統合されており決然としていた。アメリカは無血の勝利をタリバンからかちとっており、国民の十人に九人が、勝ち誇ったジョージ・W・ブッシュを支持していた。大統領は、その年1月の一般教書演説で、われわれが立ち向かうのは「悪の枢軸諸国」である、とつたえ、二度目の就任演説では、アメリカ兵を、「世界の暴虐を終わらせるための」偉大な十字軍と呼んだ。うぬぼれの時代だった。

この本は、アフガニスタン戦争から十年、イラク戦争から八年、1930年代以降アメリカが蒙った最悪のリセッション、債務危機のあと、国家が分裂状態にあり、すべての分野で後退を余儀なくされているような状況のなかで出版された。いまの世代は経験したことのない耐乏と緊縮の時代に突入した。しかしアメリカが下方の循環過程に向かっているように見えるのは経済と政治の分野だけではない。社会的に、文化的に、倫理的に、アメリカは堕落社会と衰亡国家の様相を呈している。

信義が死ぬと、文化が、文明が、国民が死ぬ。それが進路というものである。そして、西洋を生み出した信義が西洋において死に直面すると、ロシアの草原からカリフォルニアの海岸にいたるヨーロッパ人の末裔は途絶えはじめる。そして第三世界が、居場所を求めて北方へ行進をはじめる。直近の十年間は、決定的とはいえないまでも、確実に、われらの文明が小春日和におかれていたことを証明している。アーノルド・トインビーが書いている、「文明は自殺によって死ぬ、殺されるわけではない」。そのとおりである。われわれは遺産を食いつぶした放蕩息子である。しかし、放蕩息子と違って、われわれには帰るべき家がないのである。

まえがき 分裂していく国家

国民がこまかく分かれているのは哀れである。そのそれぞれが一国だと思っている。 カーリル・ギブラン(1934年、預言者の庭園)
この国は割れようとしている、とわたしは思う…… ジョージ・ケナン(2000年)
遠心力が支配的になった。 リー・ハミルトン(2010年)

「ソビエトは1984年まで生き延びるだろうか?」、これはロシアの反体制派、アンドレイ・アマルリクの1970年のエッセイのタイトルである。強制追放されて、アマルリクは、1980年、スペインで交通事故に遭って死亡した。かれの言葉を真面目に受け取ったものはほとんどいなかった。しかし、かれの死後九年経ってソビエト帝国は崩壊し、ソビエト連邦は解体した。

このことがわれわれとどう関わるか?想像以上のものがあろう。

ソ連と同様、アメリカは同盟国、軍事基地、駐留軍で構成する一つの帝国を支配している。またアメリカは、果てしないように見えるアフガニスタンの戦争を戦っている。またアメリカはイデオロギー国家である。またアメリカは、多人種、多民族、多宗教、多言語の国である。またアメリカは帝国として伸びきっている。

多くのものは反射的にアメリカとの比較を拒否する。ソビエト帝国が、マルキシズムのイデオロギーを、力とテロルで押しつけられた国々の監獄だった時代、アメリカはその同盟国が好きなだけアメリカの保護を求め得る民主国だった。

とはいえ、その類似点には驚かされる。

なぜならば、ソ連邦を解体させた民族ナショナリズム、一国の中で人々を分離させようとして部族主義にまで陥ったすさまじい力は、世界を分割するのみならず、アメリカ統合の縫い目までも裂こうとしている。そして一つの国民としていったん定義された理想――自由、平等、民主主義――は腐敗して、アメリカの独立革命当時のものよりも一層古臭いマルキシズムの概念にとって代わられようとしてきた。

国家とは何ぞや?

国民とは、共通の祖先、文化、言語をいただき、同じ神をうやまい、同じヒーローをあがめ、同じ歴史を大事にし、同じ祝日を祝い、同じ音楽、詩、美術、文学、そして同時に、リンカーンの言葉でいう「情愛の絆……すべての戦場と愛国者の墓地からすべてのひとびとの心と家庭に拡がる神秘的な記憶の同調」を共有するものではなかったか?

それが国家というものならば、われわれは、アメリカが依然として国家である、と本当に言えるのだろうか?

わが国のヨーロッパ的、キリスト教的核心は小さくなりつつある。ここ数十年、新生児出生率は再生産水準を下回っている。2020年までに、白人アメリカ人の死亡率は出生率をうわまる一方で、集団移民がアメリカの顔貌を変え続ける。2009年1/2月号のアトランティックの特集のタイトルは、「白いアメリカの終わり?」というものだった。2009年のニューズウィークのイースター号の特集は、「キリスト教アメリカの退場と崩落」だった。統計がこれらの記事を応援していた。

他の国々と同様に、米国にあって、その揺籃であった信義の消滅が社会の分解を促し、倫理的社会を終わらせ、文化の闘いを招いた。一方、グローバリゼーションは、われわれを国民としてまとめていた経済的自立の絆を崩壊させて、文化の多様性主義が古い文化を締め出した。

アメリカは分裂しはじめているのか?この本の答えはイエスである。
わが国は、民族的に、倫理的に、政治的に分解しつつある。キリストの教えのようにわれわれはお互いに愛することをしなくなったのみならず、南部人が商売好きの北部人を毛嫌いし、北部人が農業奴隷制を維持する南部を毛嫌いしたように、お互いを憎み合っている。

(中略)

キリスト教世界の聖なる日、クリスマスとイースターは、むかし、われわれを喜びで結びつけていた。いまわれわれは、それが公立学校で触れられるのかどうかで争う。アメリカ人の半分はアメリカ史を栄光の歴史とみる。あとの半分はそれを人種差別的と貶める。コロンブスとロバート・E・ケリーといった古い英雄たちは、カレンダーの中で、マルチン・ルーサー・キングやセザール・チャベスにとって代わられるだろう。古い休日と英雄は、中米の根っこの一番狭いところで新しい悪口としてのみ生き延びる。メキシコ系アメリカ人は、シンコ・デ・マイヨ(1862年5月5日)を祝う。しかしほとんどのアメリカ人にとってその日は、あまりそのなかみを知らない、関心もない、ただの小競り合いがあった日にすぎない。アメリカ人には、その年は、アメリカの土地で史上最大の流血を招いた戦闘の年であると記憶されている――それはアンティエタムの戦い(1862年9月17日)である。

24時間のケーブル・ニュース・ネットワークは文化的、政治的戦争の片方を選ぶ。音楽ですら、われわれを分離するように考案されているようである。かつてわれわれは、クラシック、ポップス、カントリー・ウエスタン、ジャズを楽しんだ。いまのわれわれには、人種、世代、民族集団を分かち、排除するように設定された無数のバラエティがある。

(中略)

2009年秋、USAネットワークに対する世論調査の大部分は、われわれアメリカ人は人種と宗教について「分断されすぎている」と答えた。また、四分の三は、われわれは政治と経済において「分断されすぎている」、という。大多数は、新しい世紀に入って、分裂が悪化している、と考えている。人種的、宗教的多様性が国力である、とみるものは四人に一人である。

これまでに戦われたてきた問題を見てみよう。多くの場合、それらは数十年にわたるものでもあった――公立学校における祈りと十戒、公園の十字架、進化論、死刑、妊娠中絶、自殺幇助、ES細胞研究、差別撤廃運動(アファーマティブ・アクション)、輸入割当、(人種差別廃止のための)バス通学、南軍軍旗問題、デューク大学レイプ事件、テリ・シャイポ尊厳死問題、アムネスティ、拷問、イラク戦争。いま問題は「デス・パネル(訳注、静止決定委員会=サラ・ペイリンがオバマを攻撃するための造語。活かすか殺すかを決定する審議会の意味)」、地球温暖化、ゲイの結婚、社会主義、歴史書、そしてバラク・オバマは真に合衆国市民であるか、となっている。夫婦が、こういった基本的な新年に関わる問題でアメリカ人がするように深刻な言い合いをはじめると、夫婦は離婚し、別々の長い道のりを歩むことになるはずである。

(中略)

以前、われわれは、トルーマン=マッカーシー時代、ベトナム戦争、ウォーター・ゲートといった時代を過ごした。しかしこうした不穏な日々のあとには良き時代が続いた。アイゼンハワー=ケネディとレーガンの時代には国家的信頼が再生され、その頂点で1989年の、半世紀継続した冷戦の平和的終焉が輝いたのである。

いまは何かが違っている。われわれが育ったアメリカはなくなった。「神のもとに、分断されることのない一つの国家」を顕す一つの旗に、ともに忠誠を誓いあった、統合と普遍の目的は消え去った。今日のアメリカで、人々をたがいに隔てるものは心である。
「イー・ブリバス・ユーナム」――OUT OF MANY, ONE(多数でできた一つ)――は、1776年の人々が気づいた国家の標語(モットー)である。今日、多数はいるが、一つはどこにいるのか?
「中心で何が起こったのだろう?」、インディアナに戻った時、引退した民主党議員のリー・ハミルトンは訪ねた。「ゲティスバーグでの問題」――アメリカは一つの国家であり続けるだろうか?――は「今日に影響をおよぼす大問題である。
カーター元大統領はハミルトンに応えた。

この国は驚くほど分極してしまった……。レッド(共和党)、ブルー(民主党)の州だけのことではない……。オバマはワシントンで、われわれが見たこともないほど分極化された状況に悩まされている――多分、アブラハム・リンカーンのころ、南北戦争がはじまった時代よりも。

(中略)

この本のテーマはここにある。アメリカは分解しようとしている。われわれを離れ離れにさせようとする力は容赦なく襲い掛かってくる。かつてわれわれを結びつけていたものは溶解した。これが西洋文明の真実である。「この国には、もはやハイフンでつなぐアメリカニズムの生じる余地はない」とセオドア・ルーズベルトは、1915年、ナイツ・オブ・コロンブスに警告した。「この国を崩壊させ、一つの国としての統合を妨害する絶対的な方法は、国民をたがいに、それぞれの民族性をあげつらわせ、紛糾するにまかせておくことである。

ルーズベルトが警告したことは、そのとおりになってしまった。(後略)

(終)

〔参考文献〕
『超大国の自殺』 パトリック・ブキャナン 2012年  ◆楽天 ◆Amazon