多文化主義と民主主義は両立しない

「多文化主義と民主主義は両立しない」…このことを次のようなモデルをつかって考えてみよう。

中絶反対教徒の国Aに、中絶容認派の移民Bがやってきた。 その後、移民Bがさらに増加し、またAの中から一部転向者も出た結果、A国にあった中絶禁止法が改正されてしまった。

このような経緯でAB間に対立が生じ、A側から不満が出たケースを考えてみよう。
「多文化主義者」は、A側の不満に対しておそらく次のように主張して事態を収拾しようとするだろう。

Aに中絶を強要するわけではない。中絶という選択肢を用意しただけなのだからA抑圧にはならない

一見もっともらしい理屈だが、はたしてこの理屈は妥当だろうか。

はたしてこの理屈でAは納得するだろうか。Aが納得できないとすれば、この理屈のどこがおかしいのだろうか。

(1)19世紀のアメリカ社会を観察して『アメリカの民主主義』(1835-1840年)を著したフランスの政治家トクヴィルは、基本的な価値観を共有していなければ社会は繁栄し得ず、それどころか、そうでなければ社会は存続も不可能であると述べた。

教条的信仰は時代によってその数に多少がある。(中略)だが、教条的信仰、すなわち人々が信じ切って議論なしに受け容れる意見が存在しないということはあり得まい。もし、各人がそれぞれの意見をもとうとし、独力で切り開いた道を通って個別に真理を求めようとするならば、多くの人間が共通の信仰の下に集まることはありそうにない。

ところで、たやすく分かることだが、同じ信仰をもつことなしに社会は繁栄し得ず、というより、そうでなければ社会は存続しない。なぜなら、共通の観念なくして共通の行動はなく、共通の行動なくしては、人間は存在しても社会はないからである。社会が存在するため、それ以上にその社会が繁栄するためには、すべての市民の精神が常にいくつかの主要な観念によってまとめられ、一つになっていなければならない。そして、市民の誰もが時折は共通の源泉から意見を引き出し、いくつかの出来合いの信念を受容することに同意しなければ、そうはなり得ない。(第二巻・第1部第2章)

ここでいう信仰(教条的信仰)とは、いわゆる宗教的信仰だけを指すのではない。その社会にある価値観や常識のようなもの、無自覚なものを含めて、疑いようもなく皆が「良し」としているもののことである。(→cf.『アメリカのデモクラシー』より

トクヴィルはここで、「いくつかの主要な観念」を共有してこそ社会はまとまるのだということを、「たやすく分かること」とまで言い切っている。

(2)また『歴史の終わり』(1992年)を著したフクヤマは、トクヴィルの「アメリカ人は生まれながらにして平等」という言葉に言及しながら(上巻・201頁)、アメリカで民族対立が起こらないのは、ルーツは多様でありながら自らの古いアイデンティティを捨て去って、アメリカという社会において新たな一つの価値観・アイデンティティに同化している人々だからだと述べている。

そして民主主義というものは、文化的な調整はできないシステムであるということを彼は明確に述べている。

リベラルな民主主義は、社会的平等や基本的価値観についてのコンセンサスがすでに高い水準にまで達した社会なら、いっそううまく機能するかもしれない。だが、社会階級や国籍、宗教の面で分極化が進んだ社会では、民主主義の差し出す処方箋もまるで事態の打開には役立たない。(上巻202頁)

異なる民族間の紛争を解決する際にも、民主主義はあまり役に立たない。民族主権の問題は、そもそも一切の妥協を許さないものである。アルメニア人かアゼルバイジャン人か、リトアニア人かロシア人かという具合に、主権はどちらか一方にのみ属するのだ。経済問題での争いならいざしらず、異なる民族同士が対立した場合には、平和で民主的な妥協を通じて双方が歩み寄る余地はほとんどない。(同203頁)

そして「分極化した社会」における民主主義とは、各派の間の休戦協定にすぎないとしている。

民主主義はむしろ、交戦状態にある各派の間の一種の休戦協定とされており、特定のグループや階級が勝利を占めるような勢力バランスの変化が起きればもろさを露呈してしまうことになる。(同207頁)

ラテン・アメリカの民主主義も、権威主義的な左右両派のあいだの、あるいは右派内の有力グループ同士の妥協の産物にすぎない。そしてどこかの派が権力を獲得する立場に立ったとき、彼らは従来からもちあわせていた自分たちにとって好ましいビジョンを押しつけてくることになる。(同207頁)

トクヴィルとフクヤマがここで実質的にのべていることは、多文化社会では民主主義は機能しないということである。 なぜなら多文化社会では「治者と被治者の自同性(同一性)」という民主主義の前提が成立しなくなるからである。

民主主義が本来的な意味で機能するのは、その決定に皆が納得できるような社会状態にあるときだけである。そのためには、その社会が「基本的価値観」を同じくした者同士で構成されていなければならない。(自同性が確保されていなければならない)

冒頭のモデルは、「多様性」によって「自同性」が崩れ、もともとその社会にあった基本的価値観Aが脅かされてしまったという事態を想定している。

このとき、独自の価値観を擁するA(被治者)は、多文化主義民主主義によって別のビジョンB(中絶容認社会)を、法律という形で「押しつけ」られている。

Aにとっては、自らが住む社会に、その選択肢が与えられること自体が苦痛である。 なぜならAにとっては中絶とは殺人であり、そうした「基本的価値観」を異にする人々と一緒に社会を構成することが苦痛だからである。

しかもビジョンBA自身の社会の中で決まったものならともかく、Bの政治参加によって「自同性」が崩れた状態で決まったものであるため、Aはその決定に納得することができない。

このABは一時的には「休戦協定」に入るかもしれないが、もし対立が先鋭化すれば、AB排除して、価値観を同じくする者同士で社会を作るようになるかもしれない。

さて、以上はあくまでもモデルの話であるが、このような場合に冒頭のような「選択肢」の設置は、Aの価値観を抑圧していないなどと簡単に言うことができるだろうか?

冒頭の回答は、選択肢の設置がAを抑圧していないと言い切っているところに最初の欺瞞がある。

さらに、多文化主義という理屈によって、民主主義の前提である「自同性」の破綻を説明していないところにも欺瞞がある。 A+Bという有権者集団は、形式的な自同性は維持しているが、実質的なそれは崩れてしまっているからである。

民主主義社会において、異民族(B)のように基本的な価値観の異なる人間が政治的決定に加わると、実質的な「自同性」が確保されないため、その決定に対して納得感が得られなくなって破綻してしまう。

「多様な価値観」を認める社会とは、言葉は美しいが、このように自同性という民主主義の大前提を危うくする社会なのである。

さて、このABのような対立は、アメリカでは民族対立は起こらないとしたフクヤマの予想に反して(*1)、今日のアメリカで部族主義(トライバリズム)という形であらわれている。

たとえばアメリカの共和党・民主党間の得票傾向などに、部族主義政治の現実が端的にあらわれている。*2

アメリカは「自同性」に乏しい多民族社会である。人種間や文化宗教間にABのような譲れない問題が常に横たわっている。 そこでABの勢力が逆転すれば、A側に強い不満が生じることになる。 しかもこの部族主義は人間の本質に根ざしており、決して解消されることはない。 共和党の重鎮パトリック・ブキャナンは著書『超大国の自殺』(2012年)のなかでこうしたアメリカの将来について極めて悲観的な見方をしている。

文化戦争は終わらない。文化戦争は決して終わることがない。それは正しいものと誤っているものとの衝突だからである。(中略)その分裂が近い将来に解決されるとは思えない。それはもっともっと固定化し厳しくなるのだ。(509頁要旨)

またハンチントンは『分断されるアメリカ』(2004年)で白人の民族主義(ホワイト・ネイティビズム)が台頭することを予言した。それが現実のものとなっていることは、昨今の報道のとおりである。

・・・・・

昨今もてはやされる多文化主義について、筆者は、次のような根本的な疑問を拭いさることができないでいる。

○ こうした矛盾が生じるのは、結局、民主主義と多文化主義が両立しないからではないのか?
○ 多文化主義は「自同性」を破壊して、民主社会を混乱させているだけではないのか??
○ そもそも多文化主義は外国人参政権と本質的にどこが違うのか???

日本においてもこの多様性、多文化主義という言葉を好む政治家・識者は少なくない。

しかし彼らのいう「多様性」とはいったい何を意味しているのだろうか。 日本にとって譲れない基本的価値観とは何であり、それは彼らのいう「多様性」によって脅かされることはないのだろうか。 もし日本で「自同性」を破壊するような「多様性」をみとめれば、ヨーロッパやアメリカの後を追って社会と文化が混乱し、社会に分断が生じるのは必至だろう。

今日のような欧米の現状を目にしながら、未だ安直に「多様性」や「移民」を語る政治家や識者は、無思慮で無責任な存在でしかないと思うのだが、どうだろうか。

(終)

*1) 『歴史の終わり』でフクヤマは、アメリカは分断することはない、なぜならアメリカの移民その他は「出身国の地の誇り」に生きていないからだと主張していた。(上巻・203頁)
*2) ブキャナン『超大国の自殺』188-9頁より引用: 部族主義の政治というあり方は異常ではないし、いつもあり得る。ジョン・F・ケネディがカソリックでなかりせば、カソリックの78%という票を取れるはずはなかった。ヒラリー・クリントンは、きわどい状況でなかったら、ニューハンプシャーの女性票をかき集められたなかっただろう。ミット・ロムニーがモルモン教徒でなければ、ユタ州で圧勝し、また南部で燃え上がることもなかっただろう。マイク・ハッカビーは福音はクリスチャンでバプティストの伝道師でなかったら、バイブルベルトで旋風を起こすことはできなかっただろう。故人となった市監察官のハーベイ・ミルクがサンフランシスコのカストロ通りでうまく仕事ができたのは、かれが「ぼくたち(ゲイ)の仲間」だったからだ。1964年、上院議員のバリー・ゴールドウォーターが大統領選に立候補したころから、アフリカ系アメリカ人は9対1で共和党に投票しなくなった。しかし、トニ・モリソン(引用者注:アメリカ黒人初のノーベル文学賞受賞者)が「我が国初代の黒人大統領(クリントンのこと)」と呼ぶものの妻に対抗したオバマに、黒人票が9対1で集まった事実は、人種以外の要因でどう説明すればよいのか? ニューヨーク・タイムズですら黒人有権者と黒人放送局との連帯関係に呆れている様子だ。「トム・ジョイナー・モーニング・ショウ」「マイケル・バイデン・ショウ」「スティーブ・ハーベイ・モーニング・ショウ」、あわせて2000万の視聴者となるが、ジム・ルーテンベルグはこれらの番組には「バランスのひとかけらもない……オバマをまるでホーム・チームのように応援している」、と書いた。

〔参考文献〕
『アメリカのデモクラシー』 トクヴィル著、松本礼二訳 2005-08年(原著1835、1840年)
『歴史の終わり』 フランシス・フクヤマ著、渡部昇一訳 2005年(原著1992年)
『超大国の自殺』 パトリック・ブキャナン 2012年