つかこうへい・資料2――慰安所管理者への取材

つかこうへい 『娘に語る祖国 満州駅伝―従軍慰安婦編』(1997) より引用

以下は、つかこうへいが慰安所の元管理者などに取材をしている場面から抜粋したものである。

このやりとりをよく読んで欲しいのだが、この時のつかこうへいは、今日知られているような「実際の慰安婦」についての取材をしているのではない。

この時つかこうへいは、彼の主観では、「従軍慰安婦」という、日本軍が、朝鮮人女性を20万人規模で拉致誘拐などして性奴隷にしていたという前代未聞の特異な非人道的行為についての取材をしている。

だからこそつかは「従軍慰安婦」の生活や待遇について、未知のものを探るような聞き方をしているのである。

一方答える側は、単なる遊郭の遊女の生活を、当たり前のように答えている。 日本兵と朝鮮人慰安婦の恋愛があったこと、金銭の授受があったこと、また慰安婦(遊女)には日本人の慰安婦もいたこと等々を普通に答えている。 なぜそんな当たり前のことを聞くんだ?くらいの気持ちだっただろう。

しかしつかは、慰安婦を拉致誘拐されて閉じ込められている性奴隷だと思いこんでいるために、その「当たり前のこと」にとても驚いてしまうのである。 つまり性奴隷の筈なのに、恋愛や金銭の授受があったこと、そしてそれどころか、そのなかに日本人慰安婦もいたなんて!と驚いてしまうのである。(→つか1

このちぐはぐさが、つかこうへいが「従軍慰安婦」を完全に誤解していた証拠なのである。

そしてつかこうへいは、慰安婦=性奴隷という錯覚がとけないまま、1997年に「従軍慰安婦」の物語を刊行してしまうのである。 (詳しい解説は→「従軍慰安婦問題とは何か」、「つかこうへいが描いた従軍慰安婦」)

満州にいた元将校の話(抜粋)

私がいたのは東寧っていうところでしたが、軍都ですからね、街には軍人しかいないんです。町民がいたって、二、三百人いたかな。その他は軍人が休みの時に繰り出して、街の昼間人口が膨れ上がるというような町でしたからね。国境の、うら寂しい、物悲しい町でしたよ。

その東寧の街外れに、われわれの用語でいうとピー屋、ピーは何の略かと言われても分からないんですが、そういう店が百軒近くありました。それで一つの店で女の子が十人ぐらい雇っていましたから、千人くらいいたんじゃないですか。いわゆる慰安婦と称されるものが。

(兵隊が数万いるから慰安婦が千人いてもそれほど多いということはないという話など …省略/以下同じ)

休みになると一斉に街に繰り出すわけです。その街を取り囲むようにして、ピー屋があるんですが、経営者が日本人だったかどうかは分かりませんが、日本人の女の子ばっかりを雇った店が百軒のうちに十軒ぐらいありましたね。

「日本人の慰安婦もいたんですか」

はい。それから、私の知っている範囲では、やっぱり朝鮮半島出身が圧倒的に多いですよ。中国人がいたという話も聞いているけど私は会ったことはないです。日本人の慰安婦というのは、金儲けで来ているんですよ。日本では食い詰めちゃって、もうどうにもこうにもならなくて、新天地に来て自分の肉体を切り売りしているという感じで、もう商売人に徹してましたね。

ただ、朝鮮人の場合には、後からの脚色もあるでしょうけど、強制的に連れて来られてこうなったというふうなことで、賠償の責任があるんだと言われてる。それがその通りなら、むべなるかなと思いますけどね。少なくとも私の接していた皮膚感覚では、朝鮮人の中にもやっぱり日本人の食い詰めた女と同じような感覚を持った連中もいたことは事実です。

「報道とはすこし違うという感覚でしょうか」

はい。慰安婦はいましたが、そもそも従軍という言葉が違うんじゃないでしょうか。慰安婦は二通りあったんじゃないかと思います。騙した騙されたは知りませんが、慰安婦と知らずに連れて来られて、慰安婦にされてしまったという女と、最初から慰安婦だと言って募集して、その代わりおカネはこれだけやるんだと、ペイはするんだということで集められてきた女と。どっちだか知ってるのは、朝鮮の村のボスだけでしょうね。

ただ、少なくともわれわれの軍隊では、従軍なんて言わなかった。直接日本軍が関与したというよりも、言ってみりゃ女衒というか、仕切っていたのが朝鮮人の人間であり、日本人の商売人であったというのが本当のところじゃないでしょうかね。

(従軍慰安婦なんて言葉は当時なかったという話など)

従軍と言うと、部隊が移動すると、慰安婦も一緒に移動してったというイメージがありますが、東寧ではそんなことはありませんでした。ですから、ピー屋というのもバラックづくりのようなものじゃなくて、ちゃんとした建物なんですね。それほど立派な建物ではないですが、ちゃんとそこで生活できるような施設になっていました。

(将校と朝鮮人慰安婦の恋の話、料金の話など)

「ピー屋というのは、軍隊が管理していたんですか」

いや、実質的には衛生面だけでした。これは性病が蔓延したら困るからということで、軍医が定期的に、半ば強制的に検査をして、という衛生管理はありましたね。

(兵隊の休みの日の過ごし方など)

「女の子はどんな雰囲気でしたか?」

女の子たちは媚びを売る商売だから、それなりのお化粧をしてまして、とにかく野郎ばっかりの生活から、いきなりそこ入りゃ、だれでもきれいに見えちゃうんですよ。そういうような雰囲気ですな。そういう仕掛けがやっぱり業者はうまいです。ちゃんと部屋になっていてね。もうやっぱりそそるように、入り口からそういう風になってますよ。ただ、悲しいかな、時間がない。時間がないから、すべて駆け足のようなことばっかりで済ませるというのが、私の軍隊時代の印象です」

慰安所の責任者Hさんの話(抜粋)

台湾にいた頃なんですが、高雄から澎湖島に移る時に、突然『おまえ、慰安所の責任者になれ』と言われまして……

「責任者?」

はい。慰安所の女達は、台湾人の業者が集めてくれるから、ということだったんですが、その業者は、どこから見つけてきたんだか、日本人の芸者を十人ほど連れてきました。

「芸者を」
(また、慰安婦に日本人がいるという話にパパは内心驚いていました)

その芸者が勇ましい、変な女達なんですよ。その上、その業者はその他に台湾人の女を十五人、朝鮮人の女を十五人も集めてきました。
それで、カネの方は、軍隊は関係しないからおまえの方で全部やれ、と上から言われた通りその業者に言いました。

「カネは軍は関係しないと?」

はい。『儲けていいから、けれども安くしろ』ということで、昼の場合は一円五十銭、夜が一晩五円ということで。

「それは今でいうとどれくらいの?」

当時、給料は学徒出陣の見習士官が六十五円、とかいうことですから、決して安くはなかったと思いますね。女たちが首に縄をつけて引っ張ってこられたみたいな、そういう言われ方をしていますけど、実際はいい商売でした。業者のオヤジさんといくらでおカネ分けたんだか知りませんけど、食い物も何もかも軍隊から来ますからね、裕福だったとおもいますよ。

それで十時くらいから商売始めて、午前中は忙しいですけれども、それでも一日大体十五人くらいを相手にするわけです。

何しろ、兵隊は楽しむ余裕なんかないですから、あっという間に終わってしまう。それでもって将校連中が七時か八時から十時頃までですからね。『そんなに疲れない』って、彼女らは言ってましたけどね。

(病気の検査の話など)

「慰安所の部屋はどんな感じでしたか?」

慰安婦の部屋は六畳の部屋に畳敷いて、鏡台とか箪笥とか置いて、ちょっとした吉原みたいな雰囲気ですけどね。結構家庭的な部屋とかもありましたよ。

将校になると、慰安婦がみんな惚れちゃったりしまして。そうすると貢ぐんですね。彼女らの方がカネ持ってますから。だから将校は目をつけて、自分の女にしちゃうんですね。

「でも、その女の子が別の兵隊にも身体を売っているわけですよね」

まあそうなんですがね、その辺は諦めてしまうみたいです。それから、一週間に一回、女が休みの日がありましてね、下士官はそれに合わせて休みを取るんですよ。舟遊びしたり、釣りやったり。

「戦時中にですか?」

まあ、飛行機が来なけりゃ戦争じゃないですからね。憲兵に隠れてこそこそやってました。
カネのある奴は料理屋に行って飲んだり食ったりして、カネのないやつは公園に行ったり。そういう時はセックスなしの、かわいらしいデートですよ。夢を語ったりしちゃうんですよ、慰安婦と。涙ぐんで聞いてくれたりしてました。下っぱの兵隊って、大抵農家の次男坊とか三男坊ですから、日本に帰ったって、田んぼもらえるわけじゃなし、辛いとこもあたんですよ。なかには所帯を持って暮らしてた奴もいました。

「所帯?」

日本には家族がありますけど、外地ですから。将校になると営外居住が認められますから、軍には女中って届け出て。みんなそうでしたよ。そうすると、女中手当とかもつきますしね。

(パパはなんだか訳がわからない気分でした。戦時中に女を囲っていた将校たちがいたのです)

終戦になって、現地除隊になってもいいっていう命令が出て。うちの大隊長なんか、慰安婦を日本まで連れてきちゃいましたよ。浅草の芸者だった女でしたけどね。家に帰しちゃった。戦争が終わると、朝鮮人や台湾人の慰安婦には日本への渡航許可が下りませんでした。ですから連れて帰れなくて心中した軍曹もいますよ。

「まるで、普通の男女の恋愛みたいですね」

まあ、そうですね。だから、今みたいな従軍慰安婦の報道されちゃうと、よく分からなくなるんですよ。もっとも、あの頃はとにかく何かが狂ってましたから、そういうこともあったかもしれないとは思いますし、日本兵だってね、そこまで悪者じゃないって思うし。だからって、まあ、女買ってたってのは事実ですから、実態を言うのも言いにくい部分はあると思います。

「でも、報道ではずっと違う感じに言われていますよね」

とにかく、私としては、商売をさせてたっていう印象で、無理矢理引っ張ってきたとか、そういう、今、報道で言われているような感じはしませんでした。強制的に連れて行かれた女の子がどのくらいいるか、私なんかは全然見当もつきませんけど、私のところには、強制的な女の子はいませんからね。あれだけ恵まれて、何しろ、当時の女の子の稼ぎからすると桁違いに多いですから。

彼女たちはみんな、生活のために来ている、という感じでしたね。台湾人や朝鮮人の場合は生活が苦しいんで、いじらしかったです。なかなか純情な女が多かったです。むしろ日本人の場合は、芸者だか、売春婦だかわかりませんが、三十すぎの、すれっからしの、遊び半分の女で、考え方が全然違います。外地で持ってカネを貯めようというで来るわけですよ。

つかこうへい『娘に語る祖国 満州駅伝―従軍慰安婦編』(1997) 44頁~、82頁~より

※引用者注:これらは、比較的安定した地域の慰安所の話なので、もっと劣悪な環境の慰安所ももちろんあったと思います。

〔参考文献〕
『娘に語る祖国 「満州駅伝」―従軍慰安婦編』 つかこうへい 1997年