反・社会契約論(1): ヒュームとルソーのconvention概念について

【本稿概要】
(2022.1)一部用語を修正しました。

はじめに

今日われわれの社会においては、さまざまな<権利>の主張がなされる。

しかし権利というものは、他者に対して作為・不作為を要求できる、より直截に言えば指図できる、という特異な性質をもつものであるから、したがってその性質上、むやみやたらと認めることもできないはずである。
――では認められるべき「権利」の正当な基準(根拠)は、いったいどこにあるのだろうか?

スコットランドの哲学者 D・ヒューム(1711-76)は「権利」の根拠を―これから述べるように―<人間の論理>(人間本性)から生じる社会的で自明的な慣習(convention)に基礎づけようとした。
すなわちヒュームは、人間の論理が人間共通であるがゆえに一定の自明性=慣習が社会に生まれ、その自明性(慣習)の遵守を相手に要求するということこそ、権利というものの実体的本質(根拠)だというのである。

ところで以下、ヒュームの権利・秩序の原理を考察していく中で出てくるくconventionという単語は、じつはヒュームと同世代の知識人であるJ・J・ルソー(1712-78)もその著作『社会契約論』(1762)の中で使用しているものであり、そして筆者の読解によれば、ルソーとヒュームのconventionに対する態度は通底しているように思われるのである。実際両者のconvention概念を関連づけて読むと、難解でもって知られるルソーの『社会契約論』が整合性をもって理解できるようになるように思われるのである。

ヒュームは「合意」(promise)を基盤とする社会契約論――人間の意志による社会定義――に反対する哲学者である。そして筆者の理解では、じつはルソーもヒュームと同じ立場なのである。conventionによる非意志的な社会定義こそ、人間が誰にも従属しない自由な社会の原理であると二人は考えたのである。

以上のことを確かめるために、まずは以下、ヒュームのconvention概念から見ていこう――

用語説明――邦訳の問題

『人間本性論』第三巻(1740)には convention(human conventions) という重要単語が出てくる。(初出§2.1~§2.2)

主な邦訳ではこのconventionが「合意」とか「黙約」などと訳されているが、しかし筆者の理解によれば、この訳ではヒュームが意図したところが伝わらない恐れがある。

とくに「合意」という日本語は、議論を通じた「意志的な合意」(主体的な合意)を意味するようなニュアンスをもつ言葉であり、また多くの場合、「合意」は、政治的妥協のニュアンスを帯びている。
しかしヒュームのconventionは、筆者の解釈では、<人間の論理>から生じる「人間的一致」のことであって、それは議論も妥協も必要がないほどに――すなわち「合意」の必要がないほどに――皆の判断が自明的に一致(それは非主体的で非意志的な一致である)している状態のことを指している。(後述)

こうしたニュアンス上の違和感があるので、本稿では「邦訳」を使わず適宜、原語(convention)を用いることにした。

conventionとは何か

(注意) 本パートが本稿の核心です。できるだけ注意深くゆっくりと読んでください。

ヒュームは§2.2において「正義と所有の根源」を説明している。以下、ヒュームの説明そのままではないが、筆者なりに彼が言いたいことを説明してみよう。

原始人だったころの我々は、いつしか群れをつくって狩りをするようなった。
そしてそのときの我々は、収穫物を分けるときに、喧嘩にならないように、巧みに(artificialに)分けるようにしたはずである。 そこで決まった分け方は、<人間の論理>(人間の感覚)からして皆が妥当(自明)と感じるような分け方だったはずである。 そこに皆の「判断が一致」するような分け方だったはずである。

注意:この分け方は「判断の一致」であって合意(promise)ではない。

注意してほしいのは、ここで決まった分け方は、<人間の論理>から直接的・非主体的に生じる「判断の一致」だということである。それは、いちいち議論や合意するまでもないほどに妥当(自明)な分け方だという印象を全員が共有しているような分け方だということである。

たとえば原始人が10匹の魚を5人で取ったとしよう。彼らはおそらく[2,2,2,2,2]などと分配していたはずである。これが彼らにとって自明な分け方であって、誰も何も疑問を感じていなかったはずである(「判断が一致」していたはずである)。
その後、狩猟社会から農耕社会に移行したとしよう。すると今度は [6,1,1,1,1] のような「自明な分け方」が存在したと考えられる。このときの「自明な取り分6」はその村の指導者である。このときもやはり彼らはその分け方について疑問を(なぜか)まったく感じていない状態にある。(また現代ではビルゲイツや大谷翔平が「6」に当たるだろう)

本稿に言う「判断の一致」とは、以上のように、理屈ではなく、人々の間に非主体的に自明性が生じていて、議論や合意の必要すら感じていないような状態のことを言う。 本註釈の表題「この分け方は判断の一致であって合意(promise)ではない」とは以上のような意味である。

※じつは「判断の一致」とはウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」に出てくる概念である。「判断の一致」についてもっと考えたい人は→ウィトゲンシュタインのパラドクス――世界の最終根拠

皆の「判断の一致」によって「自明な取り分」がきまると、次の瞬間、他人の取り分に手を出したら罪だという感覚もまた自明的に生じる。(この自明性もまた<人間の論理>(言ってしまえば脳の構造)から非主体的に生じてくる「判断の一致」である)
ヒュームは、この「一致」のプロセスこそ今日の我々が「正義」「所有権」と名前で呼ぶ概念の生じる機序だと考えたのである。

(――「正義」「所有権」という概念は、このような人間同士の相互作用のなかから実践的に、非主体的に立ち上がってくるものであって、この実践的事実より先に正義や所有という概念(発想)が存在するわけではない)

他人の保有物に手を出さないことに関するこのconventionが結ばれ、各人が保有物の固定を得た後、直ちに正義と不正義の観念が生じ、また同様に所有、権利、責務の観念が生じる。後者(所有、権利、責務の観念)は、最初に前者(正義と不正義の観念)を理解していなければ、まったく理解不能である。われわれの所有物とは、その恒常的な保有が社会の法によって、つまり正義の法によって確立された財にほかならない。それゆえ、「所有」「権利」「責務」という語を、正義の根源を説明する以前に用いたり、ましてや、その説明の中で用いたりする者は、ひどい誤謬を犯している。(§2.2)

所有を区別し財の保有を固定させるためのconventionが、あらゆる条件のうちで、人間の社会を確立するのにもっとも必要であること、そして、この規則を確定し遵守することがagreementされた後には、完全な協調と融和の定着に向けてなされるべきことがほとんどあるいはまったく残らないこと、これは誰しも疑い得ない。(§2.2)

ここでいうconventionは、邦訳からイメージされるような主体的な合意のことではなく、人間の論理から非主体的に生じてくる判断の一致(自明性)のことである。 「自明」だからこそ全員がそのルールに内的に(自発的に)拘束される。それゆえに「協調と融和の定着に向けてなされるべきことがほとんどあるいはまったく残らない」のである。
やがてこのような実践は human conventions (人間的慣習)としてその集団に定着する。
これが人間の秩序の起源である、というのがヒュームの主張である。

(――本パートの意味は、権利秩序の発生・維持は<人間本性>だけから基礎づけられ、「神」「理性」を必要としないということにある。後述するように、自然権神授説そして近代主義を否定するところにヒュームの意図がある)

ところで、なんらかのきかっけで複数の群が合流することになったとしよう。
このとき彼らは分配や所有のルール(秩序)について「合意」「契約」(promise)する必要はない。
なぜならどの群にもすでに同じようなルールが convention として定着しているはずだからである。

(補足)反近代主義者・反社会契約論者としてのヒューム (ヒュームの基本思想について)

本文の流れとは少し離れるが、ここでヒュームの基本思想について簡単に説明しておきたい。
ヒュームの基本思想をひとことで言うと、反近代主義である。 ここでいう近代主義とは、次のような考え方のことである。「人間は確固たる主体であり、世界の起点となる存在である。人間が理性によって合理的に世界を把握し、行動してゆけば、社会はよりよくなるのだ」。

一般的に「社会契約」というと、社会は、こうした理性的で確固たる<近代主義的個人>がpromise(意志的な合意、契約)をすることによって形成される――というイメージではないだろうか。 しかしヒュームは、このような合理的個人によるpromise型の社会契約論に異を唱える。なぜなら後述するようにヒュームは、promiseが実効性を持つためには、その前提としてconvention(非主体的な一致)を必要とするのであり、つまり社会秩序の真の基盤もpromiseではなくconventionだと考えるからである。この意味でヒュームは反・社会契約論者なのである。

※本稿では便宜上、ヒュームのような反近代主義的な立場に「ポストモダン」という言葉を当てている。 哲学思想史に詳しい人であれば合理論/経験論という分け方の方がなじみがあると思うが、本稿で近代主義/ポストモダンという区分を使うのは、経験論者ではないウィトゲンシュタイン(後述)をヒュームの系列に含めて論じるためである。

conventionとpromiseの違い

ヒュームはまた、日本語ではどちらも合意・約束などと訳される場合がある(つまり紛らわしい)conventionとpromiseについて、性質が異なっていることに注意しなければならないと述べている。

このconventionはpromiseという本性のものではない。なぜなら、後で見るように、それ[promises]自体もやはりhuman conventionsから生ずるからである。 このconvention[It]は、共通の利益[common interest]に全員が気づくこと(感覚sense)にすぎず、社会のすべての成員はこの感覚をたがいに表出し、この感覚に誘導されて、一定の規則に従って自分の振る舞いを規制するのである。(§2.2)

promiseを守ろうとする傾向は、自然に、promiseの課す責務の感覚と別個には存在しない。であるから、〔promiseを〕忠実に守ることは自然な徳[natural virtue]ではない。promisesは、human conventionsに先立っては何らの効力を持たない。(§2.5) ※natural は 「生得的」という意味。

後段の記述がわかりにくいがこういうことである:
promiseを守ろうという責務の感覚はconventionに由来するものでありpromiseから来るのではない。というのはpromiseの前にconventionがまず事実として存在してはじめて、それ(promise)を守ろうとする傾向(情念)が生じるのであって、promiseそれ自体から単独で「それを守ろう」という情念が自然とわくということはないからである(すなわちpromiseの履行は「自然の徳」でない)。conventionのないところにpromiseは形式的には存在しえても実質的には存在しえない――ということである。この意味は重要である。

原始人の分配の例で説明したように、所有という観念は、<人間の論理>から生ずる、皆の気づき(sense、発見)であり、共通の利益(common interest)として共有される意識(判断の一致)であって、この意識がconvention(慣習)化すると「所有権」という名の法律となってpromiseされる。このプロセスを経ているからこそ、そのpromise(法律)を守ろうとする傾向(情念)も生ずるのであって、conventionと無関係にpromiseだけが単独で先行することはできない。conventionが存在しない領域におけるpromiseは(人間にとって)意味不明である、ということである。

conventionとpromiseの関係について、もうひとつ簡単な例を挙げて考えてみよう。

権利の根拠

A:神によって生存を義務づけられた人間に神が与えた権利 (自然権・神授説)
B:それを認めた方がよいと理性の推論により合理的に「発明」されるもの (近代主義)
C:人間の営みのなかで実践的に「発見」(sense)され形成されるhuman conventions (ヒューム/ポストモダン)

たとえば今日われわれの社会では、「離婚した相手から子供の養育費をもらう権利」というものが存在する。
なぜこのような「権利」が存在するかといえば、それが<人間の発想>によって「発見sense」されたものだからであり(注:たとえば動物にはこの発想はできない)、しかもその意識がcommon interestとして、社会的に共有されている(そこに皆の判断が一致している)からである。

一方、たとえば「私は赤の他人のあなたから月々10万円もらう」という権利が存在しないのは(意味不明なのは)、それが人間の発想としては(自然には)出てこないものだからであり、それゆえcommon interestとして共有されえないものだからである。

このように養育権や(先に見た)所有権は、人間の感覚によって「発見」され、それがcommon interestとして自明的にその社会において共有され、慣習化(convention化)していることが、法律として制定(promise)することの妥当性や正当性の根拠になっているのである。

(――ここの要点は、養育権や所有権の根拠は、自然権でも神授説(A)でもなければ、理性による合理的な発明(B)でもなく、人間の社会的営為によって編み出された(発見された)human conventions(C)にあるということである)

冒頭でも述べたが、権利というものは(なぜか)他人に作為不作為を要求できるという特異な性質をもつ。(たとえば所有権は「私のものに手を出すな」という不作為を他人に要求できるという「権利」である)
なぜ作為不作為を他人に要求できるのかといえば、ヒュームによれば、それが誰にとっても「自明」なものだからなのである。自明なことに従うこと(そこから逸脱しないこと)を他人に要求することが権利というものの本質なのである。(このことは、自明でないものは「権利」ではない、少なくとも直ちに「権利」とは言えないということを意味する)
(――秩序や権利には、神(権力)や理性は必要とせず、「議論」や「合意」も必要としない。<人間の論理>から生じる自明性のみがその根拠となれる。<人間の論理>や自明性と無縁な「権利」は存在できない)

統治・忠誠心の起源

ところで我々が誰かに忠誠を誓うのは、その人が「戦争が強い」「神の血統だ」「土地をくれる」等々そこからなんらかの正当性を感じるからである。そういう人に忠誠を誓うのは<人間の論理>である。それは自発的(voluntary)なconventionである。

統治は、それゆえ、人々が随意に行なう[voluntary] conventionから生ずる。そして、明らかに、統治を確立するのと同じconventionが統治を行なうべき人たちをも決定し、この点に関していかなる疑いも非決定も残らないようにするであろう。(§2.10)

じつはルソーは『社会契約論』§1.4で、「戦争の勝者に敗者が従うのはconventionではない、それはドレイである」と主張している。これはヒュームのいうvoluntaryな関係ではないということである――この意味についてはまた次頁で考えよう。

グロチウスやその他の人々は、ドレイ権などと称するものの、いま一つ別の起源を戦争から引き出す。彼らによると、勝った者は負けた者を殺す権利[droit]を持っているのだから、負けた者は、自由を代償として自分の生命を買い戻すことができる。つまり、これはどちらの側にも得[profit]になるのだから、いよいよもって正当なconventionだというのである。(『社会契約論』§1.4)

一人対一人の場合でも、一人対全人民の場合でも、次のようなせりふは、いつでもばかばかしいことに変わりはない――「わたしはお前との間に、負担は全くお前にかかり、利益は全くわたしのものになるような、conventionを結ぼう。そのconventionを、わたしはわたしの好きな間だけ守り、そしてお前はわたしの好きな間だけ守るのだ。」(同§1.4)

なぜなら、権利[droit]を生みだすものは[force]だということになれば、すぐさま結果は原因とともに変わってしまうからだ。(中略)ところで、力がなくなればほろんでしまうような権利とは、いったいどんなものだろう? もし力のために服従せねばならなぬのなら、義務のために服従する必要はない。またもし、ひとがもはや服従を強制されなくなれば、もはや服従の義務はなくなる。 (中略)そこで、力は権利を生みださないこと、また、ひとは正当な権力にしか従う義務がないこと、をみとめよう。だから、いつもわたしの最初の問題にもどることになるのだ。(同§1.3)

(余談:conventionと言語ゲームとの類似性)

ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論を知っている人は、conventionと「規則」が似てると思ったのではないか。
(ちなみにジョナサン・ハイトの道徳心理学とも似ている。ハイトはヒュームを参考にしていると明言しているので当然だが)

筆者の理解では、次のように整理することができると思う。(上の方が抽象度が高いが、発想は皆同じ)

ウィトゲンシュタイン原規則(原言語ゲーム)規則
ヒューム<人間の論理>human conventions
J・ハイト直観チャンネル道徳マトリクス

(それぞれ以下で説明しているので、興味のある人は参考にしてください)

(ちなみにヒュームによる次のような記述が、言語ゲーム論的な発想を感じさせるところである)

ボートのオールを漕ぐ二人の人は、たがいにpromiseを交わしたわけではないが、agreementないしconventionによってそうする。 財の保有の固定に関する規則は、徐々に生じ、ゆっくりとした進行を通じて、その規則に背くことの不都合が繰り返し経験されることによって、〔強制力が〕強くなるが、だからといってhuman conventionsから引き出されないことにはならない。反対に、この経験が、利益の感覚が仲間全員に共通のものになったという確信をよりいっそう強め、彼らの振るまいが今後も規則的であるという信頼を与える。そして、われわれが節度を持ち、自制することは、この期待だけに基づく。これは、諸言語が、promiseによらずともhuman conventionsによって徐々に確立されるのと似ている。(§2.2)

ルソーのconvention

さて次頁では、ルソーの「一般意志」概念を検討するが、ここで簡単に目を通しておこう。
ルソーは『社会契約論』の冒頭で、次のようにconventionという単語を使っている。

・社会秩序と権利はconventionsにもとづく。(『社会契約論』§1.1)
・家族という人間関係もconventionによってのみ維持されている。(§1.2)
・いかなる人間もその仲間にたいして自然的な権威をもつものではなく、また、力はいかなる権利をも生みだすものではない以上、人間のあいだの正当な全ての権威の基礎となるのはconventionsだけである(§1.4)
・社会契約の条項は、おそらく正式に公布されたことは一度もなかったが、いたるところで同一で、いたるところで暗黙のうちに受けいれられ是認されている。 契約をやめると、liberté conventionnelleを失ない、liberté naturelle(ホッブズ的自然人の自由=自然状態)に回帰する(§1.6)

liberté conventionnelle という用語は、通常「契約による自由」と訳される。この意味だけ説明して、本頁を終わろう。

たまにこのようなニュースを目にする。 「○○村に熊が出没し、民家の冷蔵庫から食べ物を奪って逃げました」
このときの熊は、あたりまえだが、良心の呵責に苛まれることはない。所有権という発想がないからである。
そして「自然状態」(*1)のジャイアンは、この熊と同じ状態(動物的「本能」の赴くままの状態)にある。*2

他方、「社会状態」のジャイアンはhuman conventions(慣習)として「所有権」という発想に囚われている。のび太が空き地で拾った(先占した)宝物(ビー玉)はのび太のものであるという、いわば先入観に囚われるのである。(社会状態ではこの先入観を頭から消滅させることは最早できない)
ゆえにジャイアンはそれを取り上げようとする際に、まず直観的な――それを取り上げることは違法行為だという合理的な判断からではなく、徹頭徹尾直観的な――躊躇が生じるし、またその先入観ゆえに、とりあげたとしても後で返したりするのである。(自然状態のジャイアンに返すという発想はない)

牢屋に捕まったとき、自然状態のジャイアンは自分が捕まった理由を理解できないので理不尽(意味不明)と感じるが、社会状態のジャイアンは捕まったこと自体には納得する、しかも法律を犯したからという論理的な納得ではなく、心から納得する(自明だと思う)のである。

社会状態では、ジャイアンがhuman conventionsによって内的に・発想的に拘束されている状態(*3)にある。それによってのび太は安心して暮らせる(安全性が向上する)。 これがliberté conventionnelle(慣習による自由)である。 (※本稿冒頭でconventionの訳の問題を指摘したが、このliberté conventionnelleも訳をもっと工夫した方がよさそうである)

自然状態から社会状態への、この推移は、人間のうちにきわめて注目すべき変化をもたらす。人間の行為において、本能を正義によっておきかえ、これまで欠けていたところの道徳性を、その行動に与えるのである。(『社会契約論』§1.8)

この基本契約は、自然的平等を破壊するのではなく、逆に、自然的に人間の間にありうる肉体的不平等のようなもののかわりに、道徳上および法律上の平等をおきかえるものだということ、また、人間は体力や、精神については不平等でありうるが、conventionによって、また権利によってすべて平等になるということである。(同§1.9)

さて、ここまでconventionが、その自明性によって人間を内側から心理的に拘束するものであることを説明してきた。 (ルソーのconventionについてはまだ詳しく説明していないが、読み進めてもらうとヒュームのそれに近いことがわかるかと思う)

次頁ではヒュームとルソーのconventionの対応を考えながら、難解と言われる「一般意志」という概念の謎を解明しよう。

*1) ここでいう自然状態とは、群れ(社会)を作る前の原始人の状態のことである。現実にはそのような状態はほとんど存在しなかったと考えられるので、あくまでも説明のために設けられた架空の状態である。自然状態では原始人はバラバラの単独行動をしているので、所有権や正義という発想がまだ生まれてない。ゆえに「取ったもの勝ち」になる。 しかし人間が群れを作るようになって「社会状態」に入ると、本文で述べたような機序を辿ってhuman conventionsとして所有権・正義の概念が生まれ、その発想に囚われるようになる。 ちなみにヒュームとルソーは、ホッブズが自然状態に(存在するはずのない)所有や正義の観念を持ち込んで社会契約論(『リヴァイアサン』)を組み立てていることを批判している。
*2) 所有権という発想を持たない熊は、冷蔵庫から食べ物を失敬しても良心の呵責を感じない。 また自然状態のジャイアンは<人間の論理>(脳の構造、潜在的能力)はもっているものの、まだ所有権というhuman conventionsには囚われていない状態にあるので(→*1)、熊と同じく良心の呵責がなく、のび太のものを思う存分取り上げてしまう。これがliberté naturelle(自然状態における自由)であり、非常に危険な状態である。いわゆる「力こそ正義」の状態である。
*3) 「内的に、発想的に拘束される」というのは、言語ゲーム論では規範的強制力と言う。(→§反自然主義と自然主義―ウィトゲンシュタイン・言語ゲーム(1)

〔参考文献〕
『人間本性論』第3巻 D・ヒューム 2019年 ◆楽天 ◆Amazon
『社会契約論』 桑原・前川訳 1954年 ◆楽天 ◆Amazon
『社会契約論/ジュネーヴ草稿』 中山元訳 2008年 ◆楽天 ◆Amazon