あなたが何者であるかを決めるのは、あなたの自意識ではない

あなたが何者であるかを決めるのは、あなたの自意識ではない。

もし自意識が基準だとすると、資格試験は不要になるし(自己申告でよくなる)、 ストーカーは自動的に対象の恋人になってしまうし、60歳が20歳として結婚相談所に登録する「権利」も生まれてしまう。
自己暗示で自分はイチローだと思いこめば、テレビ局に乗り込んで野球解説もできてしまう。
――こんなことはもちろんおかしなことである。
(現実の世界はそうなっていない。人間の世界はそのようなルールにはなっていない。では、どうなっているのか?)

あなたが何者であるかを決めるのは、あなたの自意識ではなく、振る舞い(見え方=doxa)である。
たとえば「英語が上手な人」とは、「上手だ」という自意識の持ち主のことではなく、実際に英語が上手な人のこと、つまりそのように振る舞うことができる人のことである。

虎が李徴と見なされたのは、自意識が李徴だからではなく、振る舞いが李徴だったからである。
イチローがイチローなのも、外見がイチローだからではなく、振る舞いがイチローだからである。
竹食ってたらパンダだが、鮭食ってたら熊だと疑われるのである。(たとえ白黒でも)

銭形はその振る舞いからルパンの変装を見やぶるが、ある意味人間は皆銭形なのである。
李徴であれ、イチローであれ、パンダであれ、人間は対象の外見そのものではなく、その振る舞い(doxa)によって正体を判断されているからである。*1

椅子が椅子なのも、自意識が椅子だからではなく、椅子として「振る舞う」ように(人間によって)作られているからである。
このように振る舞い(doxa)を基準にすれば、認識(世界)の矛盾は起こらない。 (人間は振る舞いを誤らない)*2
自意識なるものを世界の起点としたのは近代西洋(デカルト)の誤りである。
(終)

*1) 外形的に観測できることを基準に、その対象が何ものであるかを判断するという考え方を「行動主義」(ギルバート・ライル)という。ライルはウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」(示すこと=振る舞い)を重視している。A・チューリングが考案したチューリングテストも、振る舞いのみが評価の対象であり、身体と別に自意識なるものがあることは想定されない。(自意識があったとしても、評価の対象とされない)
*2) なぜ誤らないかというと、人間が振る舞い(そしてその認識)を誤らないようなところに「世界(現実)」は生じているからである。これを言語ゲーム論における「規則と実践の逆転」という(→§規則と実践の逆転―ウィトゲンシュタイン・言語ゲーム(1))。「まんじゅうこわい」は振る舞い(doxa)を認識の基準として成立している小噺の代表である。 ――このようにdoxaを基準にすれば、認識は自然と一致するので、誰も何も強制されることはない。doxaに対する認識の一致を世界(現実)の基準とすること、それが人間世界のルールなのである。自意識を世界の基準とする近代主義(デカルト主義)はこの「人間のルール」に反している。ルール違反のデカルト主義だと冒頭の例で示したような矛盾が生じてしまうのである。