「理由」は本当の理由ではない――社会政策の陥穽

本当の理由は「感情」である

「理性は感情の奴隷である」
18世紀の哲学者D・ヒュームの言葉だが、人間とは感情に振り回されるものだという通俗的解釈がなされていることが多い。

それも間違いではないが、しかしこの言葉の本当の意味は、感情がなければ人間は行動を選択できないということであり、それゆえに選択の「理由」とされるものは、じつは後付けの理屈で、またしばしば嘘の理屈をでっちあげ(*1)てしまうということなのである。

感情が行動を決定している――人間のこうした心理特性は、たとえば次のエピソードにも現れている。

「僕は落語家になって6年目のある日、若き日の談志師匠のやった『ひなつば』のテープを聞いてショックを受けたんです。(中略)同じ年代の頃に談志師匠がやった落語のクオリティーの差に、もうどうしようもないほどの衝撃を受けたんです。決して埋まらないであろう差がわかったんです。そしてしばらくして落語を辞めました」

黙って聞いていた家元が一言。
「うまい理屈が見つかったじゃねえか」

僕はうまいことをいうつもりなんかなかった。ヨイショをするつもりもない。(中略)あわてて「本当です!」といい返したが「そんなことは百も承知」といった風に家元の口から出た言葉が凄かった。

本当だろうよ。本当だろうけど、本当の本当は違うね。まず最初にその時のお前さんは落語が辞めたかったんだよ。『あきちゃった』のか『自分に実力がないことに本能的に気づいちゃった』か、簡単な理由でね。もっといや『なんだかわからないけどただ辞めたかった』んダネ。けど人間なんてものは、今までやってきたことをただ理由なく辞めるなんざ、格好悪くて出来ないもんなんだ。そしたらそこに渡りに船で俺の噺があった。『名人談志の落語にショックを受けて』辞めるんなら、自分にも余所にも理屈が通る。ってなわけだ。本当の本当のところは『嫌ンなるのに理屈なんざねェ』わな」

図星だった。もちろん『ショックを受けて辞めた』ことは本当だし、嘘をついたり言い訳をしたつもりなどなかったが、(中略)10年もの間、いの一番に自分がだまされていたものだから、完全には飲み込めていないけど。

いろんな物や人が好きな理由にしたってそうだ。「家庭的だから」「目が綺麗だから」「平井堅に似てるから」「さっぱりしてるから」「デザインに丸みがあって、堅い材質の中にも温かみがあるから」。そんなものは理屈だ。本当の本当は「好きだから」以外の何ものでもない。それらを嫌いになる理由も「時々寂しそうな目をするのに気づいた」「そのやさしさが窮屈になってきて」なんていうのは理屈もいいところで、「ただなんとなく嫌いになった」ということだ。

伊集院光『のはなし』~「好きな理由」の話より

じつは人間が行動を選択(A)をするときには、まず感情が理由に先行している
この逆がありえないのは、感情がなければそもそもAしないのであって、従ってその理由Bも存在しないからである。 たとえば洋服を選ぶとき、感情がなければまず洋服Aを「気に入る」こと自体ができないのであり(*2)、従ってその理由Bも存在しない。
このように人間の選択はまず感情的に行われるのであり、つまり「本当の理由」は感情であって理由Bはあとづけである。(→*1)

Aを<しない>ときも「本当の理由」は感情である。 お金がないからそれをしないと言う人は概してお金があってもそれをしないし、時間がないからそれをしないと言う人も概して時間があってもそれをしない。 (例:読書、旅行)
結局AしないのはAしようとする感情が弱い(Aしたくない感情が強い)からであって、やはりBは「本当の理由」ではない。(この場合Bはでっちあげである)

こうした考察からわかるように人間の行動を決定しているのは<合理的な理由>ではなく感情であり、 それらしい<理由>は、じつはすべて後付けにすぎないのである。

社会政策の陥穽

さて、この<人間の行動を決めているのは感情である>という考察から次の重要な示唆が得られる――それはAという行為を社会的に実践させようとする場合に、なにかしら合理的な条件(B)を探して、それを整えればAがなされるだろうと考えるのは間違いだということである。
Aさせるための理由(B)を見つけようという発想は、根本的に間違っているということである。

では、Aという行為を社会的に実践させるには、どのような社会政策を採ったらよいのか。
それは感情をそのように仕向ける政策、すなわち「Aをするのが常識である」という感情(感覚)をもたせるような政策を採ることが必要である。

たとえば以下のものなどは、その「感情」の具体例になるだろう。それぞれたいした理由はないにもかかわらず(商業的な陰謀!である)、なぜか社会的に為されているものである。
こうした行為が社会的に為されるのは、それをすることが「常識」「あたりまえ」という感情が定着しているからである。*3

・クリスマスは子供にプレゼント  ・婚約指輪は給料三ヶ月分  ・年越しそば

何らかの方策により「Aするのが常識」「あたりまえ」という感覚感情が社会に定着すると、Aは社会的に実践されるようになる。そうなると最早Aすることが普通となって、むしろAしない人の方に違和感を覚え、反発を感じるようになる。(ちなみにこうした心理のことを社会学の用語で社会的事実と言う)*4

たとえば「うちは子供にクリスマスプレゼントをやらない」と言う人がいたら、あなたは直観的な反発を感じるはずだ。 クリスマスに子供にプレゼントをあげるという行為が社会的になされるのは、人々にこのような感覚(感情)が定着しているからなのである。

さてところで、社会政策にはまず「感情」を定着させることが必要であることはわかったものの、筆者がここで主張したいことは、そうした新しい常識(感情)を社会に定着させるにはどうしたらよいかという方法論ではない。そんなことができるような一般的良策(魔法)を筆者は持ち合わせてはいない。

そうではなくて、ここで言いたいことは、

(1)既に述べたように、Aさせたいのであれば、理由Bを探してそれを整えようとするより前に、まずAする常識(感情)を社会的に定着させる方策を考えなくてはならないということ。(社会政策の順序を間違えてはならないということ)

(2)常識を定着させることは大変に難しいことなので、すでに社会に「常識」「あたりまえ」のものとして(せっかく)定着している(望ましい)慣習(A)は、それが毀損されないように注意しなくてはならない、Aするのが「常識」「あたりまえ」という感情(感覚)が、無条件にいつまでも続くと思うのは油断であるということ。(あるいは油断をした結果、失ってしまった「常識」があるのではないか?ということ)

ということである。

今日の社会政策論争においては、まず(1)が踏まえられていない議論が多いと感じる。
たとえば少子化問題について、(世論調査等で収入が「理由」とされていることを根拠に)収入を増やすことで解決するはずだとか、あるいはその他なんらかの条件Bを整えれば解決するといった種類の議論がそうである。Bの前に、結婚子育ては常識であるという感覚Aの定着をまず目指さねばならない。(→少子化対策は2.0を念頭において議論すべき―日本の少子化議論の誤り

また(2)について、たとえば古文・漢文の学習をするという常識(感情)があるからこそ、この国は日本たりえていることを考えずに、時代に合わないから廃止せよ(選択制にせよ)といった安易な「合理主義」が叫ばれたり(元号廃止論も同じ)、*5*6
あるいは家族というものですら、社会を運営するために人間が実践的に築きあげてきた慣習(常識)にすぎな いのに、「多様性」という標語によって――とくに学問的で理念的な見地、つまり実践的・人間的な根拠をもたない見地から――価値観変更が叫ばれたりする。*7

人間は、合理的な「理由」ではなく、社会的に常識(感情)を作り上げ、また次の世代がその常識――それを実践することが自明であり普通であるという「感情」――を身につけることによって社会を営んでいる。
作り上げてきた「常識」に対して「あたりまえ」という感覚(感情)が失われてしまえば、それがどんなに長期にわたってなされてきたことでも社会的にはなされなくなってしまう。*8

そうなってしまえば条件Bをいかに整えようとも、それをしろといくら(狭義の)教育をしようとも、無駄である。 なぜならそれはもはや「常識」「あたりまえ」ではなく、単なる<個人の嗜好>(単なる趣味)となってしまっているからである。

・・・・・

社会は「理由」や<個人の意志>によって成立しているのではない。非意志的で自明的な実践(「普通」)によって成立している。
結婚子育ては当然という自明性(普通)を持つ社会だけが人口を再生産でき存続できる。

自明性はその社会の文化的特徴をも生み出す。「日本史がわれわれの歴史である」という自明性(普通)もつ社会だけが、雛祭鯉幟を行う、古文漢文を勉強する等の自明性(普通)をも持ち得、以てそこが「日本」となれる。

すべてが<個人の嗜好>と化し、すべての自明性を失なった社会は、もはや「混沌」以外の何物でもない。

社会を維持し、その社会をその社会たらしめている原理――無意識の自明性(普通)――を損なってしまえば、その社会はその社会として存続できなくなり、やがて混沌の中に回帰していくことになるだろう。

(終)

*1) 理由が後付け(でっちあげ)であることのひとつの証明として「理屈の付けられない判断」というものがある。ジョナサン・ハイトは「無害なタブー侵犯ストーリー」というものを案出して、「人間の判断は理屈ではない」ことを間接的に証明した(『社会はなぜ左と右にわかれるのか』p.24,p.48,p.78等)。ここでは筆者なりに「理屈の付けられない判断」の例を挙げてみよう。たとえばわれわれ日本人は消費期限切れのおにぎりでも踏んではならないと思う(判断)。しかしだからといってその合理的な理由を言えと言われても「食べ物を粗末にしてはいけないから」「罰が当たるから」などと理屈になってない理屈しか言うことができない(∵罰は非科学的だし、消費期限切れなら捨てることの方に合理性がある=踏んでも構わないはず)――このようなケースが「理屈の付けられない判断」に相当する。おにぎりを踏めない「本当の理由」は「おにぎりを踏むなんてできない…」という感情それ自体であって、そこに「理屈」は存在しないのである(だからこの場合でっちあげる)。なお理屈をうまく言えるようなケースであっても、それっぽい理屈を後付けで言っているだけで、正味の「本当の理由」はやはり感情それ自体である。
*2) 感情がなければ行動を決定できないことについては前掲書「ダマシオの発見」(p.71-72)、ヒューム『人間本性論』第二巻§3.3など参照。 ただし完全に理屈で決まるケースもある。外部要因で行動を迫られているときである。たとえば間に合わせで家電を買うとき、スペックを満たしていれば何でもいいようなことがある。また本当に金額の問題で買えないときがある(例:家、車)。このようなときは理屈=本当の理由である。
*3) 本文では穏当な例(婚約指輪等)をあげたが、もっと極端な例をあげれば、親が子を養うことですらじつは「根拠のない常識」である。動物的本能と、それを基盤に形成されてきた社会慣習の結果、我々はそれを「常識」だと思い込んでいるだけである。親にとって労力金品を費やして子供を養うことは、「根拠のない強制」ともいえるはずだが、幸いにもこれが「あたりまえ」となっているために子供は育つことができる。(→*7)
*4) 社会的事実の具体例としては、ジョナサン・ハイトの「直観道徳」もそうである。→リベラルの盲点は道徳資本―ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』
*5) 「古文・漢文を学ぶのは自明である」―という意識が人々から失われてしまった社会を想像してみよう。それはどのような社会だろうか。それは「外国」である。 廃止論・選択制論によってもたらされる致命的な問題は、古文・漢文の知識の低下はもとより、<古文・漢文はわれわれの古典であり、それを学ぶことは常識である>という社会的な通念(普通)の消失である。 このことに直観的な危機感をもつ人は、古文・漢文の脱必修化(選択化)に反対する。たとえば教養だから、何かの役に立つからなどと効用面から「学ぶ理由」の擁護を試みる。それも間違いではないが、しかし本当の本当は、もしこの社会的な自明性(「それが普通」)が失われれば、やがて我々は古典を意識しなくなって、われわれたりえなくなるのではないかという危機感(感情)それ自体にあるのではないか。 古文漢文が選択化すれば、まず触れる機会が激減するし、受験科目としても課されなくなっていくだろう。これまでなら古文漢文の研究者になったであろうような人材が他の分野へと進むようになり、やがて我々は日本の古典を読めなくなるだろう。
*6) 現状、たとえば日本の歴史をろくに知らない人でも元号というものを身近なものとして意識している。しかし元号を廃止して数世代のち、元号が身近でなくもはや遠い過去のことでしかないような世代の時代が到来したとき、元号と天皇というものが古より我々の世代まで続いているという、今日の我々が持っているこの半ば無意識の感覚(自明性)が薄れる可能性があるのではないか。それは「日本史がわれわれの歴史である」という意識の弱体化にも繋がりうるのではないか。
*7) たとえば男が女子供を養うという規範(感情)を、その発想ごと失った人々の社会が最終的にどのような状態になるか、よくよく想像してみるべきだろう。(→*3)
*8) たとえば雛祭鯉幟を祝うことや七歳から就学することは、われわれにとっては「普通」なことであり、将来もずっと続くだろうと思って多くの人が油断をしているが、しかしそれらも社会的に作り上げてきた「自明性」にすぎず、「多様性」を許容することなどによってこの自明性が失われれば、それらはなされなくなる。

〔参考文献〕
『社会はなぜ左と右にわかれるのか』 ジョナサン・ハイト 2014年(原著2012年)  ◆楽天 ◆Amazon
『人間本性論』 第二巻 D・ヒューム  ◆楽天 ◆Amazon