ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』(資料)

斜体は原文では傍点。色字は引用者による。 (引用箇所は暫定的なものです。適宜入れ替えることがあります)

1 ここにひとつの手があるということを君が知っているのであれば、それ以外のことについては全て君の主張を認めよう。(→鬼界p.362)

9 そもそも実生活において、ここに手があるということ(それも私自身の手があるということ)をことさらに確かめる場合があるだろうか。

94 私の世界像は、私がその正しさを納得したから私のものになったわけではない。私が現にその正しさを確信しているという理由で、それが私の世界像であるわけでもない。これは伝統として受け継いだ背景であり、私が真と偽を区別するのもこれに拠ってのことなのだ。(→永井p.198)

155 人間はある状況においては決して誤ることができない。(「できない」という言葉はここでは論理学的な意味で用いられている。右の命題は、そういう状況のもとで人間が偽の言明をすることは不可能である、と言っているのではない。) もしもムーアが、彼が確実であると宣言する命題の反対を言おうとしたら、われわれは同意しないばかりでなく、彼は錯乱状態に陥っているのだと考えるであろう。(→鬼界p.378)

〔▲人間が「そう思う」ことが「正しさ」を定義している。「2+3は5である」はその意味で論理的に正しく、また人間はここで決して「誤る」ことはできない。むろん「2+3は6だ」と口で言うことはできる。しかし本心からそう思う(誤る)ことはできない。本心からそう思っている人がいたら、その人は錯乱していることになる/「ここにひとつの手がある」と思うとき、その判断は常に論理的に正しい。この判断を「誤る」ことは決してできない。仮にそこで「ここにひとつの手はない」と本気で言う人がいたらその人は錯乱していることになる/カリフォルニア・ロールは寿司ではない〕

160 子供は大人を信用することによって学ぶ。疑うことは信じることのあとに来る。

161 私は無数のことを学び、他人の権威にしたがってそれを受け入れた。しかるのちに、私自身の経験によってそれらの多くが確認され、またあるものが反証されるのを見たのだ。

163 この机に注意を向ける人間がひとりもいないとしても、それは存在し続けるかどうか。そんなことを誰が調べようとするだろう。

165 ひとりの子供がべつの子供にこう言う。「僕は地球が随分昔からあるということを知っている。」 それは「僕はそのことを習ったのだ」という意味である。

166 われわれの信念に根拠がないことを洞察する[さとる]、これが難しいのだ。(→永井p.198)

167 われわれの立てる経験命題がすべて同じ身分のものではないということは、つぎのことから明らかである。われわれは、経験命題としてではなく記述の規範として、そのひとつを定立することができるのだ。
科学の研究について考えてみよう。ラヴォアジェが実験室内の物質によって実験を行い、燃焼に際してはこれこれの過程が生じる、という結論を下す。彼は、べつの場所にはべつの過程が生じるであろう、とは言わない。彼はすでに確定しているひとつの世界像に従うのだが、それは勿論彼が発明したものではなく、幼少の頃彼が学んだものだ。私は世界像と言って仮設とは言わない。それは彼の研究の自明の前提であって、とりたてて言い表されることのないものだからである。(→鬼界p.382)

170 私は、他人が一定の仕方で私に伝達する事柄であれば、それを信じる。それで私は地理や化学や歴史に属するさまざまな事実を信じるわけだ。私はそうやって科学を学ぶ学習とは、もとより、信じることから始まるものだ。
モンブランは標高四千メートルであると教えられたり、地図でそう読んだりしたら、誰でも、自分はそれを知っていると言う。
ところでこの場合、われわれが教えられるままに信じるのは、それまで信用が裏切られなかったからだ、と言ってよいだろうか。

172 多分ひとは言うであろう。「それにしてもそういう信頼の根拠となる原理がなければならぬ」、と。だがそんな原理が何の役に立つというのか。それは「本当と思う」ことについての自然法則でなくて何であろうか。

204 証拠を基礎づけ、正当化する営みはどこかで終わる。――しかし、ある命題が端的に真として直観されることがその終点なのではない。すなわち言語ゲームの根底になっているのはある種の視覚ではなく、われわれの営む行為こそそれなのである。(→永井p.199)

205 真理に根拠があるならば、その根拠はでも偽でもない。 (→永井p.198)(→鬼界p.386)

220 分別のある人は、ある種のことは決して疑わないものだ。

221 私は自分の意志で何かを疑うことができるだろうか。

288 私は、地球が私の誕生の遙か以前から存在することを知っているばかりでなく、それが大きな物体であるということ、人々がすれにそれを確認しているということ、自分も含めて人間には祖先があるということ、こうした事どもに関する書物があるということ、そういう書物には嘘がないということ、その他もろもろのことを知っている。だが本当にすべてを知っているのか。私はそう信じている。これらの知識の総体は私に伝承されたものであり、私にはそれを疑う理由がなく、反対に無数の経験がそれを確証している。
それなのにどうして、これらすべてを私は知っている、と言ってはならないのか。皆そう言っているではないか。
それを知っているのは、あるいは信じているのは私だけではないのだ。というより私は、皆がそう信じていると信じているのである。(→鬼界p.387)

298 それはわれわれにとって絶対に確かであるとは、ひとりひとりがそれを確信するということだけでなく、科学と教育とによって結ばれたひとつの共同体にわれわれが属しているということなのだ。(→鬼界p.399)

334 つまり、分別を具えた人間は一定の状況のもとでのみそれを疑うのである。

341 すなわち、われわれが立てる問題疑義は、ある種の命題が疑いの対象から除外され、問や疑いを動かす蝶番のような役割をしているからこそ成り立つのである。(→鬼界p381)

342 つまり科学的探究の論理の一部として、事実上疑いの対象とされないものがすなわち確実なものである、ということがあるのだ。

455 およそ言語ゲームが成り立つためには、言葉と対象が再認されなければならぬ。われわれが2x2=4を学ぶのも、これが椅子であることを学ぶのも、厳しさという点では同じである[我々はこれが椅子であることを、2x2=4を学ぶのと同じ厳しさで学ぶ]。(→鬼界p.403)

498 これは実に奇妙なことだ。誰かが、自分の拠って立つ基盤を疑わせようとする企みを、「馬鹿げている」という一語で却けるとすれば、それは全く正しいと私は考える。にもかかわらず、彼がそこで「私は知っている」という表現を使って自分を守ろうとすれば、彼は間違っている、と私は思う。(→鬼界p.384)

608 私が物理学の命題に従って自分の行動を律していることは、間違いなのであろうか。しかるべき理由は何もない、と言うべきであろうか。それこそわれわれが「しかるべき理由」と呼ぶものではあるまいか。(→鬼界p.387)

609 その理由を適切とは見做さない人々にわれわれが出会った、と仮定しよう。われわれはこれをどう考えたらよいか。彼らは物理学者の見解を尋ねるかわりに、信託を問うようなことをするのである。(だからわれわれは彼らを原始人と見做す。) 彼らが信託を仰ぎ、それに従って行動することは誤りなのか。――これを「誤り」と呼ぶとき、われわれは自分たちの言語ゲームを拠点として、そこから彼らのゲームを攻撃しているのではないか。(→鬼界p.390)

610 ではわれわれが彼らの言語ゲームを攻撃することは正しいか、それとも誤りか。勿論ひとはさまざまなスローガンを動員して、われわれのやり方を持ち上げようとするだろう。

611 ふたつの相容れない原理がぶつかり合う場合は、どちらも相手を蒙昧と断じ、異端と謗る。

612 さきに、私は他人を「攻撃」するだろう、と言った――だがその場合、私は彼に理由を示さないであろうか。勿論示す。だがどこまで遡るかが問題である。理由の連鎖の終わるところに説得がくる。(宣教師が原住民を入信させるときのことを考えてみよ。)

655 数学的命題には、いわば公式に、反駁不可能のスタンプが押されている。すなわち、「意義はほかの命題に向けよ。これは君の異論の支えになる蝶番であり、動かすべからざるものである」と。(→鬼界p.400)

656 ところが「私の名はL.Wである」という命題について同じことは言えない。また、これこれの人間がしかじかの計算を正しく行った、という命題についても言えない。

657 数学の命題はいわば化石である。――「私の名は……」という命題はそうではない。だが私自身をはじめとして、とても逆らえないほどの証拠を与えられている者からみれば、それもまた論駁不可能である。そしてこれを軽率と責めることはできない。というのは、証拠が圧倒的であるとは、どんな反証が出てきてもわれわれは屈服するには及ばないということにほかならぬ。してみれば、数学の命題を異論の余地のないものとしている支えと似たものが、ここにはあるわけだ。

〔▲数学の命題(たとえば2+3=5)は(全員が自明性に支配されているので)論駁不可能だ。しかし「私の名前は…」はそうではない―例えば新人が自己紹介する場面を思い浮かべてみよ。しかし自分自身や友人など「私」をよく知っている人、つまり「とても逆らえないほどの証拠を与えられている者」にとっては(自明性に支配されているので)「私の名前は…」は数学の命題と同じくらいに論駁が不可能なものとなる。こうした事実からして、論駁不可能性とは自明性の産物にすぎないということである。
 ――自明性に支配されると、それはもはや問われることのない「蝶番」となって世界の基盤(前提)となる〕

〔参考文献〕
『ウィトゲンシュタインはこう考えた』 鬼界彰夫 2003年 ◆楽天 ◆Amazon
『ウィトゲンシュタイン入門』 永井均 1995年 ◆楽天 ◆Amazon
『ウィトゲンシュタイン全集9』・確実性の問題 黒田亘訳 1975年 ◆楽天 ◆Amazon