『想像の共同体』―ベネディクト・アンダーソンの国民原理(2)

本書でやや異質な扱いになっているのがクレオール植民地の国民である。

クレオールとは「植民地生まれの」という意味で、本書においては基本的にスペインおよびイギリスの植民地であった南北アメリカに生まれた支配階級の人々(白人)のことを指す。 
この南北アメリカ植民地における国民形成には、(1)でとりあげた欧州型国民にはない特徴が2つある。

その一つ目は、この地においては本国とおなじ言語と文化が定着していたため、本国と植民地の間に、欧州でおきたような言語や文化の違いによる境界形成はおきなかったということ。
その二つ目は、欧州における「国民」が比較的同族的な人々によって構成されていたのに対し、北米と南米においては来歴の異なる複数人種によって構成されていたということである。(支配階級白人+原住民インディオ+黒人)

ではアンダーソンはこうした植民地において国民がいかに想像されるようになったと説明しているか。

まず水平方向の連帯心については、これも大雑把に要約すると、大航海時代以降、生物学的・生態学的汚染の観念がうまれ(*1)、植民地生まれというただそれだけの理由で本国から忌避され、そこでクレオールたちが仲間意識を強めたこと、本国との物理的な距離が心理的な距離を生んだこと、同じ新聞を読む人々の間で心理的な仲間意識がうまれたこと、また南米では啓蒙主義の間接的影響によって被支配階級(非白人)と心理的な繋がりがうまれたこと、などから生まれたとされている。 そうしてクレオールたちが本国とは別の「われわれ」を想像しつつあるところに、本国からの課税強化がきっかけとなり独立につながったと説明されている。*2

ではこれら植民地における縦軸はいかに想像されたか。
南北アメリカの縦軸については、欧州その他にはない問題があらわれる。

というのは、欧州においては、例えばフランス人(白人)が自らの始祖をフランク王国のクローヴィスや古代ローマ時代のガリア人と「想像」することは、それほど不自然なことではないが、南北アメリカではイギリスやスペインから来たクレオールが主役であるため、始祖が誰であり、それと現在がどのようにつながっているのかについて、一定のこじつけが必要になってくるからである。

ではどのようにこじつけられたか。
まずはマヤ文明やアステカ文明などを滅ぼして、スペインが長きにわたって統治した南米について見てみよう。

南アメリカの縦軸について

○地球の向こう側でも、これとよく似た例を簡単にみつけることができる。スペイン語を話すメスティーソのメキシコ人は、かれらの先祖を、カスティリア人征服者にではなく、半ば消滅したアステカ人、マヤ人、トルテック人、サポテック人にたどる。ウルグアイの革命的愛国者たち〔トゥパマーロス〕は、かれら自身クレオールであるにもかかわらず、クレオールの圧政に対して立ち上がり、1781年、言語の絶する拷問のすえに死んだ最後の偉大な原住民反逆者、トゥパック・アマルーの名をとった。(250頁)

○しかし、概して言えば、言語的手段によって国民性に歴史的奥行きを与えようといういかなる試みも克服し難い困難にぶつかった。[なぜなら]事実上すべてのクレオールは、制度的に(学校、印刷メディア、行政的慣行等々によって)土着のアメリカの言葉ではなくヨーロッパのことばにみずからを委ねていた[からである]。あまりに言語的系譜を強調することは、まさに「独立の記憶」をあいまいにする危険があり、決定的に重要なことはこの記憶を維持することであった。(323頁) ※[]は引用者による補足

○ではどうするか。その解決は、歴史、あるいは特定の仕方で構想された歴史に求められた。(323頁)

○こうして「第二世代」の国民主義者は、南北アメリカでもまた他のところでも、しだいに死者に「代わって」話すことを学んでいった。死者と言語的繋がりをつけることは不可能であるか、望ましくないことである。しかし、〔そうした死者に代わって話す〕この逆立ちした腹話術によって、とくに〔メキシコ〕以南のアメリカでは、自覚的な現地主義(インディヘニスモ)に途が開かれることになった。その〔北〕端、メキシコでは、メキシコ人が、コロンブスの時代以前の「インド人」文明をその言語もわからないのにスペイン語で「代弁した。」 こういう種類の墓暴き(エクスヒューメイション)がいかに革命的なことであったか、それを見るにはこれを第Ⅱ章で引用したフェルミン・デ・バルガスの言い方と対照させればよい(*3)。フェルミンはなお軽やかに、生きたインディオを「絶滅させる」ことを考えた。〔そこから二世代〕、かれの政治的孫たちは、おそらくそのときまでにかくもしばしばインディオを絶滅させたからであろう、かれらを「記憶」し「代弁する」という考えに取り憑かれていた。(325-6頁) ※斜体は原書では傍点

南米においては、言語的系譜(かつてはスペイン語ではなく現地語が話されていたという事実)を意識してしまうと独立の記憶があいまいになってしまうため、その解決方法として「構想された歴史」が求められた。すなわち「逆立ちした腹話術」によって自らを滅びた文明の後継者たる地位に置くことで、スペインの支配を打ち破ったという「われわれの物語」を想像しようとしたのである。 簒奪者が正統性のために偉大な先祖の子孫を名乗ることは古代からしばしば行われていることであるから、スペイン語をはなす今日の南米各国の人々が、自らを古代文明の子孫であると信じているのだとすれば縦軸の接続は一応成功していることになる。 (泉下の古代人がそれをどう思うかは別として)

北米の縦軸について

一方、北米(現アメリカ合衆国)については、そのような解決策は存在しない。
なぜなら南米とは違い、先住民が今日まで生存しているからである。

ここでアンダーソンは、エルネスト・ルナンの言葉を引用して、「だからアメリカは統一された国民なのだ」という論を展開する。

(ルナン)「さて、国民の本質とは、すべての個々の国民が多くのことを共有しており、そしてまた、多くのことをおたがいすっかり忘れてしまっているということにある。〔中略〕フランス市民はすべてサン・バルテルミー〔の虐殺〕、13世紀の南フランスの〔異端の〕虐殺を忘れ去ってしまわなければならない。」(326頁)

○イギリスの歴史教科書には、すべての生徒がウィリアム征服王と呼ぶように教えられる偉大なる建国の父についておもしろい見世物がのせられている。しかし、その同じ生徒たちは、ウィリアムは英語を話さなかった、実はそういうことは不可能だった、というのはかれの時代には英語はまだ存在しなかったからだ、ということを教えられない。また生徒たちは〔ウィリアムが〕「なんの征服王」なのかも教えられない。これに対する唯一の知的な近代的答えは「イギリスの征服王」でなければならないだろう。しかしそれでは、古えのノルマン人の略奪者はナポレオンとヒットラーの先覚者でかれらよりうまくやった人物ということになってしまう。したがって「征服王」は「サン・バルテルミー」と同様、省略形で、人になにかを思い出させ、そしてそれをただちに忘れさせる。ノルマン人ウィリアムとサクソン人ハロルドはこうして、ダンスのパートナーとは言わないまでも、少なくとも兄弟として、ヘースティングスの戦場で相見えることになる。(329頁)

○そしてこの点では南北アメリカのクレオール・ナショナリズムからとくに学ぶことが多い。それはひとつには、アメリカの国家が何十年にもわたって弱体で、〔形式的にはともかく〕事実問題として分権的であり、またあまりに多くな教育的野心をもっていなかったからであった。またもうひとつには、アメリカ社会では「白人」入植者が「黒人」奴隷、半ば撲滅された「原住民」に対置され、そのため社会がヨーロッパとはまず比較にならないほど内部的に分裂していたためであった。しかしそれでも、あのわれわれの兄弟という想像力、つまりそれなしには兄弟殺しの安心など生まれようのない想像力は、驚くほど早く、しかもおもしろいことにそれなりにほんものの人気を持って、姿を現している。このパラドックスはアメリカ合衆国においてみごとに示された。(330-31頁)

○1840年、フロリダのセミノール人に対する残忍な8年戦争のさなかジェームズ・フェニモア・クーパーの全5巻大人気辺境開拓者物語の第4巻、『開拓者』が出版された。この小説において中心となっているのは、レスリー・フィードラーの表現を借りれば、「白人」のきこり、ナティ・ボンバーと高貴なるデラウェアの首長、チンガチグックを結びつける「まじめな、それとほとんど表現されていないけれども、しかし、疑いようのない愛情」である。しかしかれらの義兄弟愛のルナン的背景をなしているのは残虐な1830年代ではなく、忘却/記憶されたイギリス帝国支配の最後の時代である。かれらは、フランス人とその「原住民」同盟者、そしてジョージ3世のゆだんならぬ役人たちと、生存をかけて戦う「アメリカ人」と表現される。(331頁)

○マーク・トウェインによって、1881年、つまり「市民戦争」(南北戦争)が終わり、リンカーンの奴隷解放宣言が行われたあとに、アメリカ人「兄弟」としての黒人と白人の最初の忘れがたいイメージが創られた。それが広大なミシシッピー河をなかよく漂うジムとハックである。しかし、その舞台は記憶/忘却された南北戦争以前のアメリカ南部であり、そこでは黒人はまだ奴隷である。(332頁)

ルナンは1823年うまれのフランスの思想家で、国民というものは過去を適度に「忘却」することで成立すると主張した人である。 ルナンのいう「忘却」の意味は、人々の記憶の中で、過去の対立が曖昧となることで、歴史と化するということである。

たとえばイギリスにおいては、建国の父とされているウィリアム征服王が侵略者であったことが、いまではほとんど意識されない。サンバルテルミー事件とは、フランス人同士が――もっとも当時の人々にフランス人であるという自己認識はないが――旧教と新教で殺し合った事件であるが、それも既に歴史となっている。 日本でも明治維新までの内部対立が遠い記憶となっている。

それと同様に、アメリカ人は南北戦争および先住民や黒人との関係について、忘却された遠い過去の内戦(歴史)ととらえることに成功した。だからアメリカは、まとまった一つの「国民」をなしているのだ…という理屈でアンダーソンはアメリカの国民を説明しようとしている。

だがアンダーソンの理屈は成立していない。
なぜなら、ルナンのいう「忘却」は現在完了形でなければならないからである。

ルナンの「忘却」の真意は、過去が完了形で曖昧になることによって、異民族が同族化し、民族対立が「兄弟喧嘩」と捉えられるようになって、一つの国民となれるというところにある。(――このことを理解するには、アンダーソンが引用で省略(〔中略〕)した部分を見る必要がある→拙稿:『国民とは何か』―誤解されているルナンの国民概念

英仏の例でいえば、当時としては「同じ国民」ではなかったにもかかわらず(とくにイギリスの場合は侵略者である!)、適度な忘却によってあたかもわれわれの祖先の「同族間の争い」のように今日では思われている。 日本でいえば、今日のわれわれは、誰が縄文系か渡来系か、あるいは誰がヤマトで誰が熊襲の子孫であるかをまったく意識しないし、古代の政争から戦国大名の覇権争いまでを、すべて「われわれの祖先たちの争い」であるとすっかりみなしている。 (種族性を完了形で「忘却」している

そうして、イギリスでいえば「征服王」、フランスでいえばクローヴィスやガリア人、日本でいえば卑弥呼?等々…そうした「始祖」から今日に至るまでの、その土地の上で起きたさまざまな過去の出来事が、あたかも「われわれの祖先たちの営為」と感じられるようになって(もっと言えばそう錯覚できるようになって)はじめて一つの国民の物語が生まれ、一つの国民=主観的血統集団となれるのである。

では翻って、今日のアメリカで、白人・黒人・先住民というまったく異なる種族が同じ国に存在しているという現実が見えていない人がどれだけいるだろうか? そしていったい誰が、その歴史的経緯について完了形で忘却しているだろう? 「アメリカ国民全体」にとっての歴史は一本化されており、「内戦」はそのなかに完了形で忘却されている(われわれの祖先たちの「兄弟喧嘩」と化している)であろうか?

このようにアンダーソンは、ルナンの言葉を引いておきながら、いくつかの「創作物語」が人気を博し、「内戦」の生々しさをすこし忘れかけているだけで「国民」が成立したかのように言い、北米における縦軸の議論をやり過ごしている。するかのように言ってしまっている。*4

縦軸の不完全問題

見てきたように本書において縦軸は、欧州や日本(ここでは省略したが第10章で扱われている東南アジアのいくつかの地域など)においては国民意識を支える柱として登場する。 しかしクレオール植民地、とくに北米では縦軸が不完全な扱いになっている。 このようにアンダーソンの国民論は、「想像の共同体」という言葉でくくられてはいても、縦軸の質が地域によって異なっているという事実には注意を払っておく必要がある。

なぜ地域によって縦軸の扱いに差があるのだろうか。
その理由については「増補版への序文」(10-15頁)から窺い知れる。 じつは本書はもともと旧版部分(第9章まで)だけで構成されており、そこでは主に境界形成について述べられていた。そして旧版の発表後に、縦軸問題について「気づき」があったことをアンダーソンは告白している(→*5)。 この「気づき」によって、縦軸は、主に建て増しされた増補版部分で扱われることになった(第10章以降、275頁~)。 つまり縦軸論はもともとの主題ではなかったため、増補版で縦軸が不完全な地域がでてきてしまったのである。

では本書の国民論の主役は境界であって、縦軸はあくまでも副次的な問題とみるべきだろうか。
おそらくそうではない。
なぜなら本書で「国民」の特徴として挙げられているアンティーク性(14頁) ――「国民」は近代の産物でありながら、国民という概念がうまれる前からずっとここに住んでいたかのような感覚をもつこと―― は、想像された縦軸そのものだからである。 そしてこのアンティーク性(縦軸)が宿命性を喚起し、家族的連帯感情(ゲマインシャフトの実)を刺激するからである。

ルナンの国民論との近接性

本書は、旧版+増補版という構成どおりに読むと、境界が如何に生じたか、そのバリエーションの方に目が行く。 しかしここで興味があるのは、そうした細かい差異よりも国民の「原理」であるから、より単純な形で「国民」を捉えたい。 そこで本稿では敢えて本書の構成を無視して最初から、アンティーク性(縦軸)を「想像」していく過程のなかに、歴史学や「逆立ちした腹話術」、また本稿では省略したが地図の遍歴や博物館(第10章)など、いくつかの方式があり、境界とはその異軸同士が接する断面であるという方向で説明した。

そうして本書の横と縦をあえて転倒して読めば、結局アンダーソンの国民論もルナンのそれと同じものであることがわかる。 すなわち「国民」の人的範囲と文化は、想像上の祖先によって定義され、その結合原理は、いわば想像上の子孫としての同族意識にあるのだ、と。

『想像の共同体』まとめ

『想像の共同体』は見知らぬ無数の人々が結びつく原理が「想像」にあるということを看破した書である。 「想像」というとなにやらあやふやなものという印象を受けるが、じつはこの想像こそが確固たる現実の結合力を持っている。なにしろ日本人に日本史を意識(想像)させるだけで、1億人もの「水平的な深い同志愛」(26頁)が生まれてしまうのだから。

歴史というと必ず「統治者に都合よく書かれたもの」という批判がでてくるが、しかし歴史をまったく恣意的に書くことはできない。なぜなら、星座に線が引けるのも、そこに星々(過去の出来事)が存在しているからであり、またそこで描かれた絵柄も、人々に受け入れられなければ実体化(神話化)しないからである。(現代アメリカで縦軸の統一ができない現状を見よ)

つまり国民によって受け入れられた神話(歴史)は、それが国家によって編纂されたものにせよ、民衆側から提起されたものにせよ、受容されたというまさにそのことを以て、十分に「国民の物語」といえるのである。

みてきたように欧日型の「同志愛」は、縦軸方向の同族意識が水平方向に広がったものである。 しかしアンダーソンは「同志愛」について、現地の新聞や小説などを読むことなどで生まれる水平方向の連帯心を中心に考えていて、そこに同志愛が存在した根拠として彼は(縦軸が脆弱な)南北アメリカでも独立戦争が戦われたことを挙げている。

しかし戦争というものは単なる経済同盟でも一緒に行われるのだから、「深い同志愛」の存否の判断は戦時ではなく、平時の社会状態においてなされるべきだろう。福祉など、「同志愛」が前提となっている社会制度は平時にこそ多いのだから。 そして平時のアメリカ合衆国をみれば、言語・メディアを同じくしながら複数の縦軸が存在し、政治闘争も縦軸単位で団結する実態からすれば、「同志愛」は言語・メディア以上に、縦軸に由来していることは明らかだろう。

アメリカという国は、複数の縦軸が多文化共生イデオロギー(理屈)や経済的利益で結びついた政治的共同体であって、心理的共同体(想像の共同体)ではない。つまりアンダーソンの定義からすれば、アメリカは一つの「国民」とはいえない(*6)。 アメリカとは、縦軸ごとに「それぞれの歴史」と「それぞれの同志愛」(*7)をもつ人々の寄合所帯なのであって、複数の想像の共同体(いわば国内国民)同士が、政治的・文化的な覇権をめぐって政治闘争している多民族国家なのである。*8

・・・・・

今日、国民というと、とかく「国籍」や「国家への忠誠」が定義であると思われている

しかしアンダーソンが本書で示した「国民」の定義(原理)は、国籍や個人の意思ではない。「想像」である。 「国民」とは、その構成員が想像の縦軸(国民の物語)にアイデンティティをもち、また互いにそう見られる(同じ縦軸を持っていると想像される)人々の間にうまれる自然な同志愛によって構築された「想像の共同体」なのである。 そうして縱と橫の想像力で結びついているからこそ、国民は、「国民の物語」のなかから「われわれの文化」を見出し、実践する社会集団(民族)として存在できている。

19世紀に登場した国民国家は(結果的に)この「国民」をまもる役割を果たした。 縦軸の想像で結びついたこの心理的共同体は今日なお有効に機能し、それによってそれぞれの国民は文化集団としてこの国際社会のなかに主権的な地位を確保しえている。 とすれば今日の「国民」の主権は、今後も「国民」であり続けるために行使されるべきだろう。「国民」の政治的・文化的自由を守るために。

(終)

*1) 本国人がクレオールを忌避する思想は、16世紀以降、生物学的、生態学的汚染の概念がマキアヴェリズムと合流したこと、またルソーやヘルダーの著作が、気候と生態が文化と性格に本質的影響を与えると論じたことなどから生まれた。(103頁、106頁)
*2) なお独立の際、南米では、植民地統治のために置かれていた各地の行政単位を中心にさらに境界が形成されため、南米は各国に分立していくことになったこと。一方北米の十三植民地は、ベネズエラよりも小さく、アルゼンチンの三分の一の規模しかなかったため分裂しなかったことなど、南北の違いも補足説明もされている。
*3) 「我が農業の拡大には、我がインディオのスペイン化が肝要である。その怠惰と愚鈍、ふつうの人間の努力へのその無関心、こうしたことからすると、かれらは、その起源からの距離に比例して退化した劣種と考えられる。…〔とすれば、インディオと〕白人種の雑婚を進め、貢納その他の義務からかれらを開放する旨宣言し、そしてさらにかれらに土地の私有を認めることによって、インディオの絶滅をはかることが望ましい。」(37頁) (斜体は原書では傍点)
*4) アンダーソンは「創作物語」が受け入れられていけば、やがて「忘却」が完成すると期待したのかも知れないが、今日の時点でそれは実現していないし、今後もおそらく実現しないだろう。ではアンダーソンのルナン理解は不十分であったのかというと、おそらくそうではない。「国民の伝記」という章で、「しかし、物語の目的を果たすためには、これらの暴力的な死は「われわれのもの」として記憶/忘却されなければならない」(335頁)と正しく述べているからである。ゆえにアメリカにおけるこの不十分な説明は理解に苦しむものである。
*5) 「第二の付論(※第11章、312頁~)を書いたのは、わたしが1983年にルナンを引用したとき、わたしはルナンが実際なにを言っているのか、少しもわかっていなかったということに屈辱的にも気づいたからであった。つまり、ここでわたしは、実際にはまったく奇妙なことを手軽に反語的なものととっていたのだった。またわたしは、このとき、新興国民がいかにして、なぜ、みずからをむかしからあるもの(アンティーク)と想像するのか、これについて明快な説明をしていないことにも気がついた。多くの学問的著作においてマキアヴェリ的ペテン、あるいはブルジョワ的空想(ファンタジー)、あるいは冷淡な歴史的事実として登場することが、実はもっと奥深く、もっと興味深いものだということもわかってきた。「むかしからある」(アンティーク)と考えることは、歴史のある時点における「新しさ」の必然的結果だったのではないか」(14頁)
*6) ルナンも経済同盟は国民ではないと述べている→「利害の共通性は、明らかに、人々を結びつける絆です。しかし、それだけで国民を形成することができるでしょうか。私はそうは思いません。利害が共通なら通商条約を結べばよいのです。国民には感情の側面があります。それはまったく同時に、魂にして身体なのです。関税同盟(Zollverein)は祖国ではありません」(『国民とは何か』59頁)
*7) 「アメリカ人」のこの同志愛(縦軸)の差異については外国人でも無意識に識別している。だからたとえば原爆や奴隷貿易について難詰されるのはいつもアメリカの白人――正確に言えば、それを行った人々の子孫であると「想像」される人々――だけなのである。
*8) アメリカで Merry Chirstmas が Happy Holidays と言い換えられた問題は、多民族化による中心文化抑圧の現れである。

〔参考文献〕
『定本・想像の共同体』 ベネディクト・アンダーソン 2007年(原著1991年、旧版は1983年) ★楽天 ★Amazon
『国民とは何か』 エルネスト・ルナン、Joël Roman、鵜飼哲ほか 1997年 ◆楽天 ◆Amazon