19歳のときにニューヨークに出てきました……あのころ、自分がどういう人間か説明してくれと言われたら、ミュージシャン、詩人、アーチストだと答えていたと思う。もっと政治的なレベルで言えば、女性でレズビアン、そしてユダヤ人でしょうね。アメリカ人だというのは、私のアイデンティティには含まれていなかった。(ジェンダーと経済学に関する大学の授業で)ガールフレンドと私は、アメリカにおける不平等に憤慨していたから、別の国へ行こうかと相談していたところでした。9月11日に、そうしたことのすべてが変わった。この国で得ている自由を当然のものとして考えていたことに気づいたからです。いまではデイバックにアメリカの旗をつけているし、頭上を戦闘機が通過すれば歓声を上げる。自分を愛国者だと言っているくらいなのよ。
レイチェル・ニューマンのこの言葉は、9.11以前、一部のアメリカ人のあいだでナショナル・アイデンティティの顕著性がいかに低かったかを反映している。(18-20頁)
○(ナショナル・アイデンティティとサブナショナル・アイデンティティについての)対照的な姿勢は、1997年にNYT紙の記者がウォード・コナーリー(Ward Connerly)に電話インタビューしたさいにも同様に見られた。コナーリーは当時、カリフォルニアで州政府による積極的差別是正措置を禁ずるイニシアティブ(直接発案)法案を率先して提唱した人物である。
記者「あなたはどういう人ですか?」
コナーリー「私はアメリカ人だ」
記者「いえ、いえ、そうじゃありません! あなたはどういった人ですか?」
コナーリー「いや、いや、そうなんだ! 私はアメリカ人だよ」
記者「そういう意味ではありません。あなたはアフリカ系アメリカ人だと伺いました。 アフリカ系アメリカ人であることを恥ずかしく思うのですか?」
コナーリー「そんなことはない。ただアメリカ人であることに誇りをもっているだけだ」
コナーリーはそこで自分の祖先には、アフリカ人、フランス人、アイルランド人、そしてアメリカ先住民(インディアン)がいたことを説明し、対話は次の言葉で終わった。
記者「そうなると、どういう人になるんですか?」
コナーリー「生粋のアメリカ人だよ」
1990年代には、レイチェル・ニューマンを初めとする多くのアメリカ人は、「あなたはどういう人ですか?」という質問に、ウォード・コナーリーほど積極的にナショナル・アイデンティティを肯定した答えを返さなかっただろう。多くの人はむしろNYTの記者が明らかに予想していたように、サブナショナルな人種、民族、あるいはジェンダーのアイデンティティを主張していただろう。(23-24頁)
○ソ連が解体し、イギリスでも分裂に向かう動きがでてくることを、そうなる十年前から予測した人はほとんどいなかった。現在、アメリカが解体すると予想する人はまずいないし、根本的な変化をとげると考える人ですら、いたとしてもごく少数だ。とはいえ、冷戦の終結、ソ連の崩壊、1990年代の東アジア経済危機、そして同時多発テロといった事件を見れば、歴史がいかに驚きに満ちているかがわかる。最も驚くべきことは、実は2025年になってもアメリカがまだ2000年と同じ状態の国でありつづけることなのかもしれない。四半世紀前と比べて、まるで異なる国の概念とアイデンティティをもつ、まるで異なった国家(あるいは複数の国)になるかわりに。(30頁)
○アイデンティティの特徴。 第一に、個人にも集団にもある。 第二に、構築されるものである。ベネディクト・アンダーソンは国民を「想像された共同体」と表現した。 第三に、個人には複数のアイデンティティがある。 第四に、他者との相互作用から生まれるものである。新しい社会環境において、よそ者として見られると、人はえてして疎外されたとを感じる。あるマイノリティグループの数人が、ある特徴を持っているとマジョリティからみられたとき、自らもそうした思いを抱くようになる可能性がある。そうなったとき、それが彼らのアイデンティティの一部となる。あるいは、自動的にそう特徴づけられることに反発し、それに反対した形で自己定義することもあるだろう。 第五に、状況に左右される。女ひとりが男集団にはいると、自分が女であることを強く意識するように。(45-48頁)*
○部分的な真実や半分だけの真実は、完全な偽り以上に人を欺くことが多い。 (62頁)
○アメリカは17世紀と18世紀の入植者によって築かれた社会である。彼らはほぼ全員がイギリス諸島からやってきた。彼らの価値観と制度および文化が、後の時代におけるアメリカの土台となり、その発展に影響を及ぼした。入植者達は当初、人種、民族性、文化、そしてとりわけ宗教の面からアメリカを定義づけていた。18世紀になると、アメリカをイデオロギー面からも定義づけ、祖国の人々からの独立を正当化しなければならなくなった。
これらの4つの要素は、ほぼ19世紀を通じてアメリカのアイデンティティの一部として残っていた。19世紀末には民族的な要素の許容範囲が広げられ、ドイツ人、アイルランド人、スカンディナビア人が含まれるようになった。第二次大戦が勃発して、南欧と東欧からの移民とその子孫が大量にアメリカ社会に同化する頃になると、ナショナル・アイデンティティを構成する決定的要素から民族性は、ほとんど消え去った。
公民権運動が実って、1965年に移民法が成立すると、人種ももはや問題とされなくなった。1970年台には、アメリカのアイデンティティは文化と信条の面から定義されるようになった。この時点で、三世紀に渡って存続してきたアングロ-プロテスタントの中心的な文化も危うくなり、アメリカのアイデンティティは(自由と民主主義を謳う)信条に対するイデオロギー的な誓約だけになる可能性が生じた。(63-64頁)
○アメリカは移民の国というのは誤解である。 アメリカを「移民の国」と呼ぶのは、部分的な真実を拡大して誤解を招く偽りに変えることであり、アメリカが入植者の社会としてはじまったという中心的な事実に目を塞いでいるのである。(74頁)
○アメリカを信条のイデオロギーと結びつけたことにより、他国の民族や民族文化的アイデンティティとは対照的に、アメリカ人には「市民的」なナショナル・アイデンティティがあるのだという主張ができるようになった。アメリカは種族によって定義された社会よりも自由で、原則に基づき、文明的なのだと言われる。信条による定義は、アメリカ人が自分たちの国を「例外的」だと考えることを可能にした。他の国とは異なり、アイデンティティが属性ではなく原則によって定義されているからだ。それは同時に、アメリカの原則が全ての人間社会に適応できるがゆえに、アメリカは「普遍的」なのだという主張にも繋がった。信条は「アメリカニズム」を社会主義や共産主義に匹敵する政治的イデオロギーとして、あるいは一連の教義として語れるものにした。 同じような意味で、フレンチイズムやブリティッシズムやジャーマニズムが語られることはないだろう。(76頁)
○17世紀と18世紀のアメリカに入植したのがイギリスのプロテスタントではなく、フランス、スペインまたはポルトガルのカトリック教徒だったら、今日のアメリカがあっただろうか? 答えは、ノーである。それはアメリカではなく、ケベックやメキシコやブラジルになったであろう。(92頁)
○アメリカのアングロ-プロテスタントの文化は、イングランドから受け継いだ政治と社会の制度および慣例――その最たる例が英語――と、非国教派プロテスタンティズムの概念と価値観を結びつけたものだった。入植者がたずさえてきたこのプロテスタンティズムは、イングランドでは力を失ったが、新大陸で活気を取り戻した。入植者の文化は、イギリスの一般的な文化的要素と、イギリス社会の一部である入植者たちの出身地に特有の要素を含んでいた。
当初、オールデン・ボーンが言ったように「ほぼすべてが根本的にイングランドのものだった。土地の所有形態と工作方法、政府の制度、法律手続きの基本形態、娯楽と余暇の好みなど、植民地生活の多くの側面がイングランドのものだった」
シュレジンジャー・ジュニアも同意見である。「新しい国の言葉も、その法律や制度も、政治思想、文学、習慣、教訓、祈りの文句も、主としてイギリスのものだった」(93頁)
○1967年に、ハロルド・クルーズはこう言明した。 「アメリカは、それが誰であり、何であるかについて、自分に嘘をついている国である。この国は一つのマイノリティによって支配された多くのマイノリティからなる国であるのに、あたかもアングロサクソン系白人新教徒の国であるかのように考え、行動している」(95頁)
○プロテスタンティズムにもとづく労働倫理は、アメリカの雇用と福祉に関する政策にも大きな影響を及ぼしてきた。「政府の施し」とよく呼ばれるものに頼ることは、他の民主主義工業国とは比較にならない不名誉となる。(112頁)*
○1760年1月、ベンジャミン・フランクリンはカナダのアブラハム平原でイギリスのウルフ将軍がフランス軍に勝利したことを称えて誇らしげに、「私はイギリス人だ」と宣言した。1976年七月になると、フランクリンは独立宣言に署名して、自らのイギリス人としてのアイデンティティを放棄した。僅かな年月の間に、フランクリンはイギリス人からアメリカ人に変貌したのである。 フランクリンだけではない、1740年代から70年代の間に、北米の入植者の大多数もイギリス人からアメリカ人へと自らのアイデンティティを変えた(後略)(160頁)
○国とは、ベネディクト・アンダーソンが言ったように、想像された共同体だが、より明確に言えば、それは記憶された共同体であり、想像された歴史を持つ共同体であって、それは共同体そのものの歴史的な記憶によって定義されている。どんな国も、その国の歴史なしには存在し得ない。国民の心には苦難や功績、英雄や悪漢、敗北や勝利の共通の思い出が宿っていなければならないのだ。この基準からすれば、19世紀初めまでほぼずっと、アメリカは一つの国だったとはいえない。何しろ、国としての歴史はなかったからだ。(169頁)
○ハーマン・ベルツが著書『変質した平等』で主張したように、それは「公民権政策を集団の権利または結果の平等原理に変え、雇用者の目的、趣旨、あるいは動機づけではなく、雇用の実践における社会的な結果自体を、その合法性を判断する上で考慮すべき決定的な事項に変えた。この決定は優遇措置の理論的根拠となったばかりか、実際、人種意識した優遇政策を拡大するための誘引になった」 (中略)最高裁は「公民権法の要求とその趣旨とはまるで反対の差別の理論」を採用したとベルツは結論した。(213頁)
○1997年にクリントン大統領が、アメリカはヨーロッパの支配的な文化なしに存在できることを証明するために、三度目の「大革命」が必要だと述べたとき、その革命は既に進行中だった。アメリカの本流であるアングロ-プロテスタントの文化を、主に人種・民族的なグループと結びついた多様な文化と置き換えようとする多文化主義の運動は、1970年代に始まった。(242頁)
○多文化主義は、本質的にヨーロッパ文明に対抗するものだ。 それはある学者が述べたように、「ヨーロッパの中心の価値観による単一文化の支配に反対する運動なのだ。そうした価値観は概して他の民族的文化価値を過小評価する結果になった……(多文化主義が反対するのは)アメリカの民主主義の原則、文化、アイデンティティに関するヨーロッパ中心的な狭義の概念である」。それは基本的にヨーロッパのイデオロギーに反対するものなのだ。(242頁)
○多文化主義者はいくつかの概念を推進した。第一に、アメリカは多数の異なった民族および人種グループで構成されている。第二に、こうしたグループはそれぞれ固有の文化を持っている。第三にアメリカの社会を支配するイギリス系白人のエリートはこれらの文化を抑圧し、その他の民族または人種グループに属する人々にエリートのアングロ-プロテスタント文化を強引に受け入れさせるか、またはそう仕向けた。第四に、正義と平等とマイノリティの権利を考えれば、これらの抑圧された文化を開放し、政府および民間団体がその活性化を奨励し、援助することは当然のことである。アメリカは一国を象徴する単純かつ支配的な文化を持つ社会ではなく、そうあるべきでもない。るつぼやトマト・スープの比喩は本当のアメリカをあらわしてはいない。アメリカはむしろモザイクやサラダであり、ドレッシングであえた「トスサラダ」ですらある、といった主張だ。(242-243頁)
○多文化主義者は「アングロ順応」主義的なアメリカのイメージに真っ向から挑んだ。彼らはアメリカ人が「文化的には定義が困難な集団」になる時代も望んでいた。(245頁)*
○多文化主義者には多数の知識人や学者や教育者が含まれていた。彼らは、かつて移民の子孫がアメリカの社会や文化に溶け込む働きをしていた公立学校を、逆に、多文化主義の教育の場へと改革していった。(245頁)*
○その結果、1987年に高校生を調査した研究では、独立戦争でアメリカ軍を指揮したのがワシントンだったことや、エイブラハム・リンカンが奴隷解放宣言を書いたことよりも、奴隷解放の運動家ハリエット・タブマンが誰であるかを知っている高校生の方が多いことがわかった。「最終的な効果は、アメリカ文化全体の消滅である」と、ストットスキーは結論する。1997年にこうした状況を見て、ネイサン・グレイザーは、「アメリカの公立学校における多文化主義の勝利がいかに完璧なものだったか」を強調した。 (248頁)
○21世紀になる頃には、アメリカの上位50の大学のうち一校もアメリカ史の科目を必須とするところはなくなった。履修課程におけるアメリカ史と西洋史の重要性が低下するにつれ、大学生はこの国の過去に起こった多くの主要な出来事や、重要な人物について無知になった。(中略)1999年に上位55校の四年生を対象として行われた調査も同じような結果になった。(中略)40%の学生は、南北戦争が起こった年代を半世紀単位でも当てられなかった。(中略)「人民の、人民のための、人民の統治」という言葉の出所として、ゲティスバーグの演説を選べたのは22%にすぎなかった。(248-249頁)
○南北戦争以前は、アメリカ史は主にそれぞれの州や地方の歴史だった。国としての歴史は南北戦争後に始まったのであり、それは100年にわたってアメリカのアイデンティティの中心にあった。やがて20世紀末になり、サブナショナルな人種および文化集団の歴史が、1860年以前の州と地方の歴史にも似た形で新たに脚光を浴びるようになり、国の歴史の重要性は低下していった。だが、国というものが想像された共同体であると同時に、記憶された共同体でもあるとすれば、その記憶を失いつつある人々は、国民以下の存在になり始めているのだ。(249-250頁)
○1990年代、移民に脅威を感じて、ヨーロッパの学者の一団が「社会的安全保障」という概念を展開した。(中略)社会的安全保障とは、「コペンハーゲン学派」のオーレ・ウェーバーが定義したように、「変わりゆく条件と潜在的または現実的な脅威のもとで、社会がその本質を為す性格を貫き通す能力」を問題とする。 それは「発展のための受け入れ可能な条件のなかで、言語、文化、人間関係、宗教的アイデンティティとナショナル・アイデンティティおよび慣習の伝統的パターンを維持できるかどうか」ということである。(255頁)
○ネイサン・グレイザーも言ったように、アメリカは「つねに移民の国であったわけではない」。(274頁)
○アメリカは移民の国であるのと同じくらい、断続的に移民を制限してきた国でもあるのだ。(274-275頁)
○アメリカ政府ほど、移民が出身国の文化とアイデンティティを保持し続けることを奨励する政府は世界にまず存在しないだろう。(285頁)
○古代アテネには、メイトコスという非市民階級が存在した。「経済的な好機を狙って」アテネに引き寄せられてきた人々である。メイトコスは市の防衛に参加する義務を負っていたが、政治的権利はなく、その子供もまた非市民の身分を相続した。メイトコスだったアリストテレスはこの制度を支持し、市民になるにはなんらかの「卓越性」が必要であり、「人はただある場所に住んでいるだけで」市民にはならないと主張した。(300頁)
○共和政ローマでは市民と非市民のあいだは明らかに区別されており、市民は人びとが憧れる身分だった。帝政になると、市民権はより多くの人に拡大され、やがてその特殊性を失っていった。(300頁)
○20世紀末になると、同化はもはやアメリカ化だけを意味しなくなった。それは別の形態を取りうるのであり、実際にとってきた。 一部の移民にとっては、それは部分的な同化となった。つまりアメリカの主流文化と社会ではなく、サブナショナルな、それもしばしば末端の一部に同化することである。ハイチ移民は特にこうした方向へ押しやられている。たとえば、ニューヨーク市やマイアミ、イリノイ州エバンストンでは、ハイチ移民とアメリカ黒人との間で同化をめぐって緊張が高まっている。(中略)ハイチ移民の子供は、他の子供達からマイノリティであるアメリカの黒人のサブカルチャーを受け入れさせられ、「アメリカ人というよりも、アメリカ黒人」になるように圧力をかけられたのである。(307-308頁)
○アメリカの20世紀の三度の戦争では、敵はいつもアメリカの信条の中心となる原則の対極に位置づけられた。「敵が第一次世界大戦のドイツの独裁支配だろうと、第ニ次世界大戦における日本の軍国主義であろうと、冷戦期のソ連の集産主義的な共産主義だろうと、アメリカが敵を定義するうえで中心となる要素は、敵が反個人主義的な価値観を具現しているとことと関連していなければならなかった」とデイビット・ケネディは言う。(364頁)
○アメリカはその信条にもとづくアイデンティティゆえ、他国がどれほど人権を抑圧しているか、あるいは麻薬取引の支援、テロリスト集団への荷担、宗教にもとづく迫害などの悪徳行為に関わっているかによってその国をランク付けし、分類するようになる。世界各国で、敵のリストを公表しているのはアメリカだけだ。(366頁)
○グローバリゼーションは「土地の所有者は必然的に自分の土地がある特定の国の市民であり……資本の所有者は世界の市民であって、必ずしも特定の国に帰属しない」というアダム・スミスの言葉が正しかったことを証明している。(372頁)
○「コスモクラートは、社会の他の部分からますます遊離している。(中略)彼らは近所で行われる行事に参加して隣人と話すよりも、世界各地にいる仲間と、電話やEメールで、しゃべって時間を過ごすほうが多い」 (375-376頁)
○ディアスポラは民族集団(エスニック・グループ)とは異なる。民族集団は国家の内部に存在する民族的または文化的な統一体である。それにたいして、ディアスポラは国の境界線を越えて存在する民族的または文化的な共同体だ。(386頁)
○現代の世界では、貧しい国から豊かな国へと人々が大量に移住し、また本国と移住者との繋がりを維持する新たな手段ができたため、祖国政府はディアスポラを祖国およびその目的に貢献する重要な存在と考えるようになった。(中略)貧しくて人口過多な国は人を輸出して影響力を行使するのである。(388頁)
○教育、職業、雇用および住居面における構造的な同化は、婚姻による同化につながった。1956年に、ウィル・ハーバーグが有力な著書の中で、その当時すでに通婚は一般的な風潮になっているが、それは同じ宗教の人々のあいだでしか見られないという論証をした。「ホワイト・アメリカ」は、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教という三種類のるつぼ を形成している、と彼は主張した。イングランド系とノルウェー系のプロテスタント同士は結婚したし、イタリア系とアイルランド系のカトリック教徒同士も、ドイツ系とロシア系のユダヤ教徒同士も結婚したのである。(410頁)
○先祖からの民族的アイデンティティが象徴化し希薄になると、二世が忘れたがったことを三世は想起しようとするという「ハンセンの法則」のとおり、三世代目はますます宗教にアイデンティティを見出そうとした。アメリカに同化するには、かつての国への忠誠と帰属意識を放棄しなければならないが、信仰と宗教的アイデンティティは手放さなくてもよいということも、このプロセスを促進した。(410頁)
○20世紀後半には、アメリカの白人のあいだの通婚が急増した。リチャード・アルバによる1990年の国勢調査の分析によれば、白人同士の結婚のうち56パーセントは民族的な血統が重ならない人同士のものだった。民族的アイデンティティが一部重なる場合、たとえば「ドイツ-アイルランド系の花婿が、アイルランド-イタリア系の花嫁をもらうようなケースがおよそ25%を占め、民族的な背景が同じ人同士の結婚は20%だった。(412頁)
○こうした通婚パターンは、アメリカの白人の本質に二つの意味で根本的な影響を及ぼす。①第一に、るつぼは確かに作用しているが、移民の波は一定の新しいアメリカ人を作り出しているのではなく、民族的に異なる無数の新しいアメリカ人を形成しているのだ。「ホワイト・アメリカ」は数十の異なった民族集団からなる多民族社会から、何千万もの異なった民族的背景をもつ個人からなる民族色のない社会に変わりつつある。理論的には、異民族同士の結婚がつづけば、いずれ同じ親から生まれた兄弟姉妹以外に、民族的に全く同じ血統の人はいなくなる。②第二に、個人がますます異なった血統を受け継ぐにつれ、民族的なアイデンティティは主観的な選択の問題になる。かりに前述の家族の四代目がいたとすれば、そのなかの一人はアイルランドの血統を自分のルーツとして選び、全面的かつ積極的にそれと一体化しようとするかもしれない。だが、そうやって選択することは、アイルランドの血をまったく受け継いでいないが、アイルランドの文化、音楽、文学、歴史、言語、伝承に魅せられた人がアイルランド人になろうとすることと、さして変わらないだろう。(413-414頁)
○民族的アイデンティティの選択が会員制クラブに入るようなものになれば、民族的クラブは白人のあいだで、独自の風習、仲間意識、会員としての楽しみを共有するひとを競って勧誘するかもしれない。あるいは、この四代目は受け継いだ民族性のうちいくつかを選んで、複数のクラブに参加することもあろう。さらに、受け継いだ民族的アイデンティティを意識的に拒絶するか、ただ単に忘れてしまうことも可能だ。(414頁)
○外国系のアメリカ人であることは、ハイフン(引用者注:○○系アメリカ人の○○系)の数が増えれば増えるほど難しい問題になり、民族的アイデンティティを無作為にまたは恣意的に選ぶようにもなるだろう。(415頁)
○民族性がなくなれば、アメリカの白人は自分たちをどう定義するのだろうか?(415頁)
○アルバは、祖先の移民としての共通体験がアイデンティティの根源となりうると示唆する。とはいえ、アメリカの白人が民族的な観点から自分たちを考えなくなるにつれて、彼らがアイデンティティを求める先が、かなり漠然とした歴史上の出来事で、遠くなる一方の過去における祖先の移民体験になるとは考えにくい。(416頁)
○1960年代のスローガンは「ブラック・イズ・ビューティフル」だった。1990年代でそれに相当するスローガンは、さしずめ「二人種(複数人種)は美しい」だろう。(424頁)
○21世紀の初頭には、複数人種であることは粋であり、価値のあることにもなったのだ。(425頁)
○「複数人種」という選択肢を設ければ、間違いなく黒人利益団体のリーダーが心配するような影響が出てくるだろう。黒人をはじめとするアメリカ人が、複数人種の血統を正式に主張できることに気づくからだ。(427頁)
○「ネイティビズム(土着主義)」という言葉は、無国籍化したエリートのあいだでは軽蔑的な意味あいを持っている。それは自らの「ネイティブ」な文化とアイデンティティを積極的に守り、外国からの影響にたいして純粋さを維持するのは間違ったことだ、という考えからである。(430頁)
○この種のホワイト・ネイティビズムは、過激派グループと混同すべきではない。(中略)それとは対象的に、今後に出現すると思われる広範なネイティビズムの動きは、アメリカ社会の新しい現実に即した反応となるだろう。そのような運動の指導者には、過激派グループのリーダーと共通するところはほとんどないだろう。その多くは、キャロル・スウェインが「新しい白人ナショナリスト」と名づけるような人となるはずだ。「教養があり、聡明で、大抵はアメリカの名門大学のすばらしい学位をもち、白人種を擁護するこの新しい一派は、ポピュリストの政治家やかつて南部で頭巾をかぶって活動したクー・クラックス・クランとはまったく異なる」(430-431頁)
○この新しい白人ナショナリストは、白人の人種的優越性を主張するのではない。彼らが信じるのは、「人種的自決権と自己保存」であり、アメリカは「急速に非白人によって支配された国家になりつつある」ということなのだ。特に注意すべき点は、彼らが多文化主義者のホーラス・カレンや、二分化したナショナル・アイデンティティの概念を主張する人々の伝統にのっとって人種、民族性、文化を一括して考えていることだ。彼らにとって、人種は文化の根源なのである。 ある人間の人種は固定されており、変えることが出来ないものであって、そのためにその人の文化も変えられない。したがって、アメリカの中で人種のバランスが変わることは文化のバランスが変わることを意味し、アメリカを大国にした白人文化を、黒人や褐色人種の異なった、彼らの目からすれば知的にも道徳的にも劣る文化に置き換えることでしかないのだ。このように人種を混合し、それゆえに文化も混合することは、国を衰退させる道となる。だから彼らにとって、アメリカをアメリカとして維持するには、ホワイト・アメリカを維持する必要があるのだ。(432頁)
○前述したように、民族性の終焉が生み出したアイデンティティの真空状態は、広い意味での白人種のアイデンティティによって埋められるだろう。そうしたアイデンティティを支持するのは、1980年代に人種がナショナル・アイデンティティの要素から正式に排除された後、マイノリティグループが奉じた人種的アイデンティティに対する反応だろう。ネイティビストの白人ならばこう聞くに違いない。黒人とヒスパニックが組織を作り、政府が認める特権のためにロビー活動をしているなら、白人が同じことをしてどこが悪いのか? (435頁)
○1990年代末に、白人が白人であることを意識することが、他の人種を理解するために必要だと主張する学術的な運動が生まれた。「われわれは白人を人種化したいのだ」と提唱者の一人は言った。「他人種の社会を築こうというのに、集団の一つが白人で、自分たちの一つの人種なのだと認識していなかったら、どうやってそうした社会を築けるだろうか?」 白人であることはもはやアメリカの特徴ではない。したがって、白人も他の人種と同じく、自分たちを人種集団の一つとして考えるべきなのだ、という主張である。(436-437頁)
○アメリカ人はアメリカという国が今後も、一つの国語とアングロ-プロテスタントという共通の主流文化をもつ国でありつづけるのかという問題も避けているのだ。だが、その問題を無視することは、それに答えてもいるのであり、アメリカがいずれ二つの民族と二つの言語と二つの文化を持つ国に変貌することを黙認しているのである。(441-442頁)
○ヒスパニック組織の指導者は、彼らの言語を積極的に推進しつづけている。ジャック・シトリンとその同僚によると、1960年代から、「ヒスパニックの活動家は言語権の概念は憲法によって保証されたものだと明言していた」
彼らは政府機関や裁判所に圧力をかけ、民族的出自にもとづく差別を禁ずる法律により、子供は親の言語で教育を受ける必要があると解釈させた。二言語教育はスペイン語教育になり、スペイン語に堪能な教師の需要が高まると、カリフォルニア、ニューヨークなどの州はプエルトリコから教師を積極的に採用することになった。慎重を期した一件の例外(ロウ対カリフォルニア州)を除いて、言語権をめぐる主な裁判にはスペイン語系の名前が並んでいる。グティエレス、ガルシア、イニゲス、フラド、セルナ、リオス、エルナンデス、ネグロン、ソベラル=ペレス、カストロ、と。(443頁)
○さらに中心的な役割を果たしているのが、ヒスパニック市場を狙う産業界である。英語の公用語化に反対したのは、「スペイン語のテレビ・ネットワークで、学生が英語を学び始めたら視聴者を失いそうなウニビジョン」のみならず、ホールマーク社のように「スペイン語の放送網SINを所有」していて、英語の公用語化を「英語以外の言語を話す顧客の需要に応える自分たちの能力に対する脅威」とみなす企業も同様だった。 産業界がヒスパニックの顧客に照準をあわせることは、ますますバイリンガルの従業員が必要になることを意味する。(446頁)
○同じようなことがジョージア州の小さな町トラビルでもおこった。ヒスパニックの流入に伴って、地元スーパーマーケットの店主は商品、看板、広告、言語を変えていった。また雇用方針も変えざるをえなかった。変更したあとで、店主は言った。「バイリンガルの人間以外は雇わない」。そのような応募者がなかなか見つからないと、「ほとんどスペイン語だけしかできない人でも雇うことに決めた」と。(447頁)
○アメリカの歴史が始まって以来初めて、英語しか話せないために就職できない、あるいはもらえたはずの給料がもらえないアメリカ人が増えているのである。(447頁)
○2002年3月1日、テキサス州知事の民主党の指名候補を争う二人の候補者、トニー・サンチェスとビクター・モレラスはスペイン語による正式な公開討論を行った。2003年9月4日には、民主党の大統領候補のあいだの最初の討論会が英語とスペイン語の両方で実施された。アメリカ人の大多数が反対しているにもかかわらず、ワシントン、ジェファソン、リンカン、両ローズベルト、ケネディ兄弟たちの言葉に加えて、スペイン語がアメリカの言語となりつつある。(449頁)
○この傾向がつづけば、ヒスパニックとアングロのあいだの文化の境界線が、アメリカ社会で最も深刻な溝として、黒人と白人のあいだの人種の境界線に取って代わるだろう。二つの言語と二つの文化をもち、二つに分断されたアメリカは、一つの言語とアングロ-プロテスタントの一つの中心的な文化をもち、三世紀以上にわたって存在してきたアメリカとは、根本的に異なっていくだろう。(449頁)
○大衆は総じて社会的安全保障に関心をいだいており、それは前述したように、「発展のための受け入れ可能な条件のなかで、言語、文化、人間関係、宗教的アイデンティティとナショナル・アイデンティティおよび慣習の伝統的なパターンを維持できるかどうか」を問題にしている。(450頁)
○アメリカ人は自分たちの国を移民の国と考えたがるが、おそらくアメリカの歴史上いつの時代にも、アメリカ人の過半数が移民の拡大を支持したことはなかったと思われる。調査資料が入手可能な1930年代以降は明らかにそうだった。(457頁)
○政界の指導者が大衆に「迎合」できなくなれば、どのような結果になるかは予測がつく。重要な争点で政府の政策が大衆の見解から明らかに逸脱すれば、大衆は政府への信頼を失い、政治への関心と参加が減り、政治的なエリートによって支配されない別の政策立案手段に訴えるようになると考えられるだろう。(460-1頁)
○こうして、多くのアメリカ人が、アメリカは多人種、多民族で構成され、核となる文化のない国になりうるが、それでも信条によってのみ定義されたアイデンティティがあるため、いまなお統一された国家となりうると信じるようになった。だが、はたして本当にそうだろうか?国家は政治的なイデオロギーだけで定義できるのか?いくつかの研究は、否定的な答えを示唆する。信条だけでは国家は作れない、と。(467頁)
○共産主義国家(中略)では、ソ連、ユーゴスラビア、チェコスロバキアがそうであったように、イデオロギーが異なった文化や国民性をもつ人々を統一するために利用された。あるいは、東西ドイツと南北朝鮮のように同じ国民性を持つ人々から一部を引き離すために用いられもした。信条によって、あるいはイデオロギーによって定義されたこれらの国家は、強制されて成立したものだった。 共産主義が魅力を失い、これらの統一体を維持する誘引が冷戦とともに失われると、こうした国々は北朝鮮を除いてみな消滅し、国民性と文化および民族性によって定義された国に取って代わられた。一方、中国では共産主義イデオロギーが衰退しても、何千年も続いてきた漢民族の中心文化をもつ国の統一が脅かされることはなく、それどころか新たに中国のナショナリズムを鼓吹することになった。(467-8頁)
○フランスでもやはり政治的な原則がナショナル・アイデンティティの一つの要素となってきたが、それが唯一の要素のなったことはない。フランス人は長い歴史のある国としてのフランスに帰属意識を抱いている。「ノ・ザンセートル、レ・ゴロワ(われわれの先祖、ガリア人)」と、彼らのアイデンティティの宗教的な要素はイギリスとのたび重なる戦争によって強化された。イデオロギー的な要素はフランス革命とともに加わったに過ぎず、それをフランスのアイデンティティとして受け入れるべきかどうかをめぐって、二十世紀になってもまだ熱い議論が続けられた。(468頁)
○人は、政治的な信条であれば、比較的に容易に変えられる。 共産主義者は熱心な反共主義者になった。リベラルな民主主義者はマルクス主義を信奉した。社会主義者は資本主義を採用した。(中略)1990年代には、かつての共産圏のいたるところで、元共産主義のエリートたちが次々と自らをリベラルな民主主義者ないし自由市場主義者、あるいは熱心なナショナリストとして再定義していた。だが、彼らはハンガリー人、ポーランド人、あるいはウクライナ人としてのアイデンティティを捨てはしなかった。政治的なイデオロギーだけで定義された国は、脆い国家なのだ。(468頁)
○人は政治的な原則の中に、身内と友人、血縁関係、文化と国民性がもたらす深い感情的な意義や意味を見出すことはないだろう。こうした強い愛着は実際には何ら根拠がないのかもしれない。だが、それらは意味のある共同体を求める人間の深い願望を満足させるものだ。「われわれはみなアメリカの信条を信じるリベラルな民主主義者」だという考えが、その欲求を満足させることはないだろう。(469頁)
○エルネスト・ルナンが言ったように、国というものは「日々の国民投票」なのかもしれないが、それはこれまでの伝統を存続させるかどうかを問う国民投票である。これまたルナンが言ったように、それは「昔からの努力と犠牲および献身が成就したもの」なのだ。 その伝統なくしてはどんな国家も存在せず、国民投票でそれが否定されれば、国家の命運は尽きる。(469-470頁)
○アメリカは「教会の魂をもった国」である。だが、教会の魂は神学的な教義のなかにだけ存在するのではなく、本来そこにあるわけでもない。むしろ、その儀式や賛美歌、礼拝、道徳的な戒律と禁制、典礼、預言者、聖人、神、そして悪魔のなかにその魂は存在するのだ。だから、国家もやはり、アメリカのように信条を持ったとしても、その魂は「神秘的なる記憶の琴線」の中に祀られた共通の歴史、伝統文化、英雄と悪漢、勝利と敗北によって定義されているのである。(470頁)
○「われわれ合衆国民」は、まず共通の民族性、人種、文化、言語、および宗教をもって存在しなければならなかったのであり、そこから初めて「アメリカ合衆国のためにこの憲法を制定」〔合衆国憲法の前文より〕することができたのだ。アメリカ人が自らの信条の根拠となるアングロ-プロテスタント文化を放棄すれば、この信条もこれまでのような顕著性を保持できなくなるだろう。多文化のアメリカはいずれ多数の信条を持つアメリカになり、異なる文化グループごとに、その特定の文化に根ざした特有の政治的価値観と原則を信奉するようになるだろう。(470頁)
(終)
※引用は暫定的なものであり、適宜入れ替える場合があります。ページ数は単行本のものです。
〔参考文献〕
『分断されるアメリカ』 サミュエル・ハンチントン 2004年 ※今は文庫版が出ています ◆楽天 ◆Amazon