朝鮮総督府は、日本風ではなく朝鮮風の氏名を推奨していた〔創氏改名〕

「創氏改名」については今では正しい知識がかなり普及してきている。 すなわち創氏改名とは姓名とは別に「氏」を追加する制度であり、姓名(民族名)はそのまま残ったというものである。 (→「創氏改名」の基礎知識

しかしそれでも、創氏改名の際には日本風の氏名が歓迎されたかのようなイメージをもっている人は、今でも多いのではないだろうか。

じつは最近の研究よると、朝鮮総督府は日本風の名前どころか、「氏」は朝鮮風を推奨し、下の名前についても従来の名の使用を勧めていたこと、また総督府に近い緑旗聯盟なども「親からつけてもらった民族名を大切にせよ」(改名するな)という記事を出していることがわかっている。*1
つまり創氏改名は日本風の名前(氏名)をなのらせるどころか、逆に「朝鮮人らしい氏名をなのれ」という制度だったのである。

以下の資料は水野直樹『創氏改名』(2008)からの抜粋である。(水野氏は朝鮮学校とも関わりの深い左派系の学者)

○法務局作成の『朝鮮に氏制度を施行したる理由』では、「(前略)日本既存の氏を踏用せしむる趣旨にあらざること〔中略〕の周知徹底を図」っていると書いている。
民事課長岩島肇は(中略)「氏の設け方ですが、模倣するのは私は考え物ではないかと思います。内地人に木村というのがあるから木村を選ぶのでは意味がないかと思います」と述べている。
緑旗連盟が設けた氏相談所の顧問を務めていた松本重彦(京城帝国大学教授)も、新たにつくる氏は「これまでの姓と全く離れるのが正しい」のであり、家にかかわりのある地名をとるのがよいとしながら、日本人の苗字をそのまま使うのはよくない、「故なく皇国人の氏を真似て佐藤、五味、井上、堀内などとするのは最も笑うべきことであります」と書いている。
このように法務局などは、朝鮮人が「日本既存の氏」を「踏用」「模倣」しないように注意を払っていたのである。(145-146頁)

○総督府は、由緒ある地名から氏を付ける方法や、姓あるいは本貫から氏をつくるとうい方法を奨励したが、次第に姓・本貫に由来する氏に重点を置くようになった。つまり、金という姓に一字を加えて金本・金山・金田にしたり、本貫を金海とする金一族なら金海を氏とするというやり方である。(146頁)

○内地人式の氏を定めた場合に必ずしも名を変更するの必要はなく、寧ろ個人の個性を現す意味合いからはなるべく従来の名を使用したほうが適当。(民事課長岩島の談話@4月5日京城日報)(154頁)

○次は名は如何にすべき。それはもとの名の字のままにしてそれを国語の訓で読むのが最も正しいのであります。もとの名の字を変えて新しい名をつくるのは最も正しいとはいわれません。上に皇国風の氏があり、下にシナの名があるのではなんだか釣り合わないように感ぜられるかも知れませんが、その字を国語の訓で読めば、少しも釣合わないことはありません。(松本重彦「氏の話」『緑旗』1940年2月号)(154頁)

○『緑旗』編集人の森田芳夫も、高額の料金を取る姓名判断を「内鮮一体の時局を食い物」にしていると非難して、そんな姓名判断を信じるより「両親が自分のことを考え、自分の将来が良くなるようにと考えて、つけてくれた名の方がどれだけ尊いことであろう」と書いて、改名しないように勧めている。(『緑旗』1940年4月号)(155頁)

こうした資料(→*1も参照)からは当局側が朝鮮風の氏名を推奨していたことが見てとれよう。一般に考えられている「創氏改名」のイメージとはずいぶん印象が異なるのではないだろうか。

なぜ当局は朝鮮風の氏名を推奨していたのだろうか。それは創氏改名は<朝鮮人を日本名によって日本人化する>政策ではなかったからである。あくまでも民族名(姓名)とは別に、家族名である「氏」をつけさせる政策に過ぎなかったからである。 ゆえに「氏」は朝鮮人らしいものが推奨されたし、「名」は変えないことが推奨されたのである。(変えさせる必要性がない)*2

創氏は届出制(つまり自由)だったため、姓がそのまま氏となった人、すなわち姓名(民族名)をそのまま氏名として使った朝鮮人も多く存在した。 ある統計によれば二割強が姓名そのままを氏名としている。 (※創氏は届出制で約八割が届け出た(→創氏率)。一方改名は許可制で、改名したのは約一割(→改名について)。)

「氏」は公的な場でかぶる、いわば帽子のようなものにすぎず、私的な場では脱帽してもよかった。 ただ、姓と氏が異なる場合に混乱が生じたので、たとえば郵便局は自宅の表札には姓名と氏名の両方を掲げるように通達を出したりしていた。*3

民族名の使用が禁止されていたかのような説明は、もちろん完全な嘘である。(禁止する必要性がない)

結局「創氏改名」とは、明治期の日本と同様に、氏制度(ファミリーネーム制度)を導入するための制度にすぎなかった。*4

ところでもしあなたが朝鮮総督・南次郎だったとして、姓・名、本貫、族譜という朝鮮の名前文化(→基礎知識)に「氏」を導入するとしたら、どのような制度設計にするだろうか? 朝鮮の名前文化を温存するために、日本のケースとは異なった配慮、すなわち廃姓・改姓ではなく、姓名とは別に「氏」を追加するという方式(しかも届出制)にしておけば問題ないと思うのではないだろうか?*5

しかもこの創氏制度は、その導入にあたり中枢院という朝鮮人貴族からなる諮問機関に長年にわたって諮ってパスしてもいる。 そのようにして慎重に導入された氏制度が、後になって「名前を奪われた」「日本名を強制された」と言われることになると想像できるだろうか? おそらく南次郎は想像もしていなかっただろう。

(この「創氏改名はむしろ日本側の朝鮮の名前文化に配慮した制度だった」という説明に反発を感じる人もいるかもしれないが、水野『創氏改名』をよむ限り、それ以外の理由を見つけることはできなかった。詳しくは下の関連拙稿・長文版を参照のこと)

では、創氏改名がこのように穏当な制度であったにもかかわらず、なぜ激しい抵抗運動があった(かのように云われている)のか?と詰問したくなる人もいるだろう。その謎については次頁で説明しよう。

*1) 緑旗聯盟について水野『創氏改名』に直接の説明はないが、総督府の政策の影響を強く受けた団体で(http://www.niigata-u.info/hyena/files/xsheng/sotlon/07sot/19tama.html)、当局の意向に近い記事を書いていたようである(水野145-6頁,154頁の構成と氏相談所顧問が京城帝大教授であることなどから判断)。 改名しない方がよいという論調は緑旗聯盟だけのものではなく、他の解説書も「出来るだけ旧名は存置して国語で読むようにしたい」(笠原敏二、水野155頁)などと書いている。 また、5月中旬に、氏の設定を優先し、名前の変更は後回しにしてよいとする法務局長の談話が新聞に掲載されている。6月釜山地方法院長の指示文書にも、改名を後回しにするよう書かれており、これも「改名はしない方がよいとする法務局の見解に沿うもの」(水野155頁)であった。(参考→改名は促進せず以前「~民族名を大切にせよ」を総督府の意志そのものであるかのような書き方をしていましたが、緑旗聯盟は総督府に直結した組織ではないため不適切でした。お詫びして訂正します。(日本風氏はなんら推奨されておらず、事実上、朝鮮風氏名が推奨されていたという全体の論旨に変更はありません)
*2) 引用にある、総督府は日本風の氏を使わせないよう注意を払っていたという意味の記述が気になる人がいるかもしれないが、これは水野氏の意味づけである。総督府が朝鮮風の氏を推奨していたのは、朝鮮人には当然、朝鮮風が相応しいからであって、ここでは単純な意味で佐藤などの日本風氏をつけるのはよくないと言っているにすぎない。水野氏のこの「意味づけ」の意図が気になる人は関連拙稿の長文版を参照してください。
*3) →創氏制度実施後の姓名使用実態参照
*4) 朝鮮に氏制度が導入された理由については、水野『創氏改名』からははっきりとはわからない。
*5) 日本統治時代の朝鮮の教科書(外部サイト)を見ればわかるように、総督府は朝鮮人にハングルや歴史も教えていた。また総督府は朝鮮の文化財なども保護していた。これらはどれも日本人化どころか、朝鮮人のアイデンティティを強化するものである。 「皇民化政策」も、朝鮮人のアイデンティティを毀損するための政策ではなく、むしろ朝鮮人が朝鮮人のまま皇国臣民となれるように図った政策だった。ゆえに創氏改名についても「日本名強制」ではなく「氏を追加する」という方式を採ったのである(私見)。 (なお参考までに→「日本語強制」政策がどのように誤解されていたか

〔参考文献〕
『創氏改名』 水野直樹 2008年  ◆楽天 ◆Amazon