水野直樹著『創氏改名』(2008.3)から強要の実態・抵抗運動を整理してみた。
分量が多いためどうしても取捨選択および要約が入るので、不満な人は原本を当たって欲しい。 ◆楽天 ◆Amazon
以下斜体は完全引用を表す。発言の「」内も特に断り書きのない限り完全に引用している。それ以外の部分については当方で適当に要約している。
取り締まりに関する法律について
創氏改名への批判言動は、多くの場合、旧大韓帝国時代の1907年に制定された「保安法」(「政治に関し不穏の言論動作」をなし「治安を妨害する者」を懲役二年以下に処すというもの)によって処罰されたが、1941年以降は、朝鮮独立を目的とする行為とみなされて治安維持法違反とされた事件もある。(116頁)
1941年3月、治安維持法が改正され(施行は5月)、新設された第五条では、国体の変革を目的とする結社の支援または結社の組織の準備を「協議」「扇動」「宣伝」した場合、あるいは「目的遂行のためにする行為を為した」場合に、一年以上十年以下の懲役を科すもとのとされた。これにより、何らかの形で独立を目指すような言動をした場合には、この第五条が適用されることになった。(126頁)
(参考)治安維持法条文・現代語訳(第六・第七条省略)
第1条 国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的として、結社を組織し又は事情を知ってこれに加入した者は、10年以下の懲役又は禁錮に処す。
第2項 未遂罪はこれを罰す。
第2条 前条第1項の目的をもって、その目的たる事項の実行に関し協議を為した者は、7年以下の懲役又は禁錮に処す。
第3条 第1条第1項の目的をもって、その目的たる事項の実行を煽動した者は、7年以下の懲役又は禁錮に処す。
第4条 第1条第1項の目的をもって、騒擾、暴行その他生命・身体又は財産に害を加える犯罪を煽動した者は、10年以下の懲役又は禁錮に処す。
第5条 第1条第1項及び前3条の罪を犯させることを目的として、金品其の他の財産上の利益を供与し、又はその申込み、もしくは約束を為した者は、5年以下の懲役又は禁錮に処す。事情を知って供与を受け又はその要求もしくは約束を為した者も同じ。
(治安維持法の条文は本書にはなかったので、当方で必要な部分だけ抜粋して提示しておいた)
強制ではない
総督府は、民事令改正の発表以後、「創氏は強制ではない」という言葉を繰り返していた。公布に際して発表された南次郎の談話では、「本令の改正は申す迄もなく半島民衆に内地人式の『氏』の設定を強要する性質のものではなくして、内地人式の『氏』を定めうる途を拓いたのであるが、半島人が内地人式の『氏』を称(とな)うることは何も事新しい問題ではない」(76頁)
総督府局長会議で南次郎発言「創氏せよというのは強制するという主旨では絶対にない」(『京城日報』1940.3.6)(77頁)
法務局長宮本元
「好むと好まないのとに拘らず一律に内地人式氏を設けなければならぬ性質のものではない」(『京城日報』1939.12.28)(77頁)
「氏制度の設定に依り氏の設定を義務附けられた次第でありますが、内地人式氏の設定に付ては法令上何等義務附られたるものに非ざるは固より、法令の運用上に於ても、聊かたりとも強制的又は勧奨的意図を有せざる所であります」
(『朝鮮』1940年3月号、1940年1月の東京帝国大学法理研究会における朝鮮民事令改正についての講演より)(77頁)
「強制ではない」が消える
届出開始直後の不振状態が三月末になっても改善されないという状況が明らかになると、「強制でない」という言葉は消え去り、創氏の意義を一方的に強調する言い方に変わって行く。それを最も明確に示したのが、四月下旬に開かれた道知事会議での総督訓示である。
道知事会は、原則として年度初めに道知事を招集して開く会議であり、総督府の施政方針に関する指示を伝え、知事からも意見を表明させる場であった。公式には総督府が開くもっとも重要な会議と位置づけられていた。
4月23日の道知事会議で南次郎は次のように訓示した。
「紀元の佳節を卜して施行せられたる氏制度は半島統治史上まさに一期を画するものでありまして、往古の史実に顧み、大和大愛の肇国精神を奉ずる国家本然の所産であると共に内鮮一体の大道を進みつつある朝鮮同胞に更に門戸を開きたるものに外ならず、各位宜しく本制度の大精神を究め管下民衆の各層に徹底せしめられたし」(『論告・訓示・演述総覧』)
ここには、「強制でない」という言葉は見られない。氏制度創設は「大和大愛は肇国精神」によるものであり、「内鮮一体」にとって極めて重要なものであるとしたうえで、「管下民衆の各層に徹底せしめ」と、と指示する言葉だけが強調されている。これは創氏「徹底」への総督の大号令であった。(78頁)
道知事会議では、「氏制度創設趣旨の周知徹底の具体的方針」という諮問事項に関して、各道からの答申をもとに協議もなされたが、詳しい内容は新聞に報じられておらず不明である。そこで全羅北道知事の孫永穆は、創氏制度反対の答申を提出し、会議でも反対意見を述べようとしたという。(79頁)
創氏改名の雰囲気作り
総督府内部で民事令改正案づくりが進められていた頃、朝鮮人が日本名を名乗ることを当然とする雰囲気作りがなされていた。新聞記事から次のような事例を拾うことができる。(41-42頁)
・全羅南道羅州郡で1937年から1939年2月までの出生届を調べたところ、英男、正男、貞子、花子、さらにはトヨ子というカタカナ名も見られたとして、「半島人の内地化」がうかがわれると書いている。(『大阪毎日新聞・朝鮮版』1939.5.20)
・南次郎は1939年5月に「内地」に行ったが、東京に行く途中立ち寄った新潟で、ある村に住む朝鮮人が「内戦融和」のために活動し、姓名まで中村一郎に改め、全村民の信頼を集めていたが、惜しくも死んでしまったという話を聞いて、南がその遺族に金一封を贈った。(『京城日報』1939.5.5)
・南を迎えて大阪で開かれた「半島同胞を語る座談会」では、出席者から「内地に居住する半島人の人達に日本の着物、日本の言葉、日本名などの外的同化が大切と思います」という意見が出た。(『大阪毎日新聞・朝鮮版』1939.5.20)
・塩原学務局長あてに送ってきた手紙に、白承吉という朝鮮人が、所属部隊長に白井正吉と名をつけてもらったことを「光栄の至りと感謝しております」と書いていることが報じられた。(『大阪毎日新聞・朝鮮版』1939.6.11)
塩原が意図的にこの手紙を新聞に公表したと考えるのは、不当なことではないだろう。また、このような記事が1939年5月前後に集中しているのは、偶然ではないだろう。日本人風の氏名に改めるよう図っていた塩原らの意向が反映していると見るのは、考えすぎだろうか。(42頁)
締め切りの直前の町の様相
以下、出典がないものは新聞報道である。
・総動員連盟の機関誌『総動員』7月号は、「創氏の届出期間も後いくらもない。(中略)一日も早く創氏の届け出を出すべきだ」と絶叫調で呼びかけた
・街頭で創氏を呼びかける活動がなされた
・「創氏決行推進隊」が組織され「仮設創氏相談所」を設けて、無料の相談と代書に応じた
・「8月10までに全戸創氏を完了されんことを期待してやまない」「今日何も躊躇する必要もない」「内地人式に氏を創定して貰いたい」と朝鮮人府民に呼びかけた
・市場に来る者に創氏を呼びかけ、南大門楼上に据えた拡声器で「代書も無料」と放送した
・「創氏督励班」をつくって派遣したり、「遅れたら駄目だぞ」と督励したことが新聞にも伝えられた
・京畿金浦郡では神社で奉告祭が催され、全郡民の創氏を祭神(天照と明治天皇であろう)に告げた (101-103頁)
届出率の推移
2月0.4%、3月1.5%、4月3.9%、5月12.5%、6月27.0%、7月53.7%、8月(10日まで)80.3% (朝鮮総督府法務局・資料)(64頁)
釜山地方法院が管轄する慶尚南道では6月上旬に一割以下、地域によっては3%(釜山地方法院指示文書1940.6.12)(84頁)
全北道の成績は6月6日の調査によると18%(『大阪毎日新聞』6.35)(86頁)
忠南牙山部では4月末までに七割が創氏(『大阪毎日新聞』5.17)(87頁)
7月23日、大田府尹野口は、氏設定届出が「依然として低調で」五割程度にとどまっていた。(『大阪毎日新聞』7.27)(102頁)
締め切り直前の9日には「五割を突破する」見込みとされ、「発案者の総督を喜ばせている」と報じられた。(『大阪毎日新聞』8.9)(103頁)
締め切り直後に報じられた数字は全戸数の約七割というものであった。
その後集計により80%に達することになった。
朝鮮人の反応
各地の警察から送られてきた報告書をまとめた「氏決定に対する言動調」(『高等外事月報』1940年3月号)によると、「賛意を表する言動」8件、「反対的言動」17件、流言蜚語6件が記録されている。
「賛意を表する言動」としては「内鮮一体の精華」などとするもので、「反対的言動」としては、祖先より受け継いできた姓を変えることへの抵抗、朝鮮人差別がなくならない以上「内地人式氏」は不要などの見解が多く、内地転籍認めざるは遺憾(面長)、真の内鮮一体は官吏差別待遇改善、渡航制限撤廃を先決とすべき(商店主)というのもあった。「流言蜚語」としては、朝鮮人へ徴兵制を適用するための便法であるなど。(110-111頁)
「内地」の朝鮮人については、 内務省警保局の『特高月報』(1940年4月号)に内地在住朝鮮人の感想を収めている。それによると、賛成13人、反対10人。賛成意見としては、内鮮一体の表れとして評価するもの、大陸に於いて中国人と区別がつくようになってよい、婿養子が可能になるなどがあり、反対意見としては、氏名を「内地式」にしたところで差別がなくならなければ意味が無い、長い習慣を変えることは不合理、などがあった。(113-114頁)
朝鮮軍参謀部が年二回作成していた『朝鮮思想運動概況』(昭和15年前半期)に、朝鮮人の発言が記録されている。「転向者」「民族主義者」を含む、警察の監視対象になっていた人物から聞き出したもので、朝鮮人の「本音」が記録されているといえる。(112頁)
○姜永錫(特別要視察人・共産主義)
「創氏制度の如きは大失敗なり。半島人の総意に非ずして総督に媚を使う一部のものの発言に過ぎず。何故祖先伝来の姓を改むる必要ありや。半島人は心より内地人、否日本人に対し敬服しあらず」
○李甲基(特別要視察人・民族主義)
「氏の創設慫慂は率直に云えば朝鮮人の大なる恥辱にして、朝鮮の旧習に従えば姓を変更することは自己の親を更(か)うるに等し。誰が喜んで姓を更うるものがあろう」
○金明奎(普通要視察人・民族主義)
「朝鮮人に氏制度を創設したりとて、直ちに朝鮮人が内地人になるものに非ず。鮮人の精神並びに風俗が内地人と同等に至れば同化さるる筈にして本制度は時期尚早なり」
○洪懿植(普通要視察人・民族主義)
「吾々半島民が先祖より継承し来れる姓を、如何に当局の政策なりといえども容易に創氏出来得るものに非ず。之に反対せば非国民扱いにせらるる虞あるを以て不本意ながら賛意を表すものなり」
これら四名が警察官の聴取に応じて本音を語ったからといって検挙されることはなかった。しかし、同じ「本音」を公共の場で、あるいは他人に語った場合には、「不穏言論」として検挙されることになる。(113頁)
在満朝鮮人の反応
朝鮮戸籍(当時は「民籍」)の根拠法である民籍法が制定された1909年以前に、朝鮮から満州などに移籍した移住していたものが相当数いたため、在満州朝鮮人は無戸籍者が多かった。総督府や外務省は、満州国成立の後、就籍事務に力を注いだ。一定の実績を上げたものの、1930年代末の時点で在満朝鮮人の半分程度は無籍者であると考えられていた。(197頁)
1940年1月15日、奉天の楊東赫(総督府から派遣されていた警察官の補助員として雇われていたとみられる人物)の警務局保安課長への報告に依れば、日本内地人と接触機会の多い官吏や小店員はこれを歓迎しているが、「一般の多く」は名前を変えても「特点」がないので「祖先伝来の姓を変える必要な」いと考えている。ただし、変えずにいたら「特別強圧的取扱」を受けるかもしれないと心配しているので、このような誤解を一掃してほしい―――これが楊の意見であった。(198頁)
2月下旬、総督府は李升雨ら中枢院参議の四名(創氏は梧村升雨のみ)及び法務局事務官を満州主要都市に派遣して講演させた。講演では、「日本式氏」の設定は強制ではないが、「日鮮両民族が宿命的に一体となっていく運命にあるだけに、支那式姓を捨てて日本式をとるのがよい」「朝鮮人の将来のために日本式に創氏するのが良い」と力説している(199頁)。
在満特命全権大使梅津美治郎が南次郎に宛てた書簡: 「就籍又は氏設定等の手続き履行者は、智識階級又は営業上の関係等に依り自発的に之を希望する者に過ぎずして、奥地僻シュの地に在住する無学の鮮農等は就籍又は氏設定等に対し無関心」(200頁)
『満州日報』の記事によると、創氏した者の多くは官吏、自営業者、会社員であったことがうかがい知れる。新京で期日までに創氏したのは17%だった。(200頁)
検挙された朝鮮人
金漢奎(農業・30歳)は親族との創氏について話し合う中で、「自分は氏創設には絶対反対である。一体創氏は何故に為すものか。今政府の制度に従い止むを得ず創氏を為すも、子孫に於て祖先たる自分等を憎むかも知れぬ」などと述べ(中略)将来朝鮮が独立したらもとの朝鮮姓にもどるであろうなどと発言したとされる。判決文では「氏制度を曲解して之を誹謗したるもの」「一般民衆をして氏制度に対し不当なる疑惑を抱かしむる虞ありて其の影響するところ甚大」という判断が示されている。(保安法違反、懲役一年)(時期不明だが1940年5月以前の出来事、117頁)
全州公立農業高校三年生姜信洪(神農信洪)は、治安維持法で検挙された日本人教員から思想的影響を受けて、黒板に「朝鮮独立」などと書いたり、「生徒創氏一覧表」に「神農信洪」と書かれていたのを見て、他の生徒の前で「創氏する必要なし」と放言したりしたとして、保安法違反で検挙された。ただし、判決文には創氏に反対する言動は記録されていない。(時期不明、1941年5月9日全州地方法院判決、118頁)
李紀鎔(農業・43歳)は、1940年2月、友人と創氏問題について雑談中、李王公家は創氏を拒否したために日本政府も認めざるを得なかったが、全州李氏各派も李王公家がしない限り創氏する必要がないと決議したので、「貴下も他に率先して創氏するが如きことなく寧ろ従前通り李姓を襲用することとせらるべし」と述べ、さらに別の日にも、「日本人の氏制度に依れば、日本人は五倫の道を知らざるものと謂うべし、何となれば日本人は単に君臣の関係にあることのみを知りて父子の関係あるを知らざるものにして、其の血統関係、結婚風習等は恰も禽獣に等し。即ち日本人は父の姉妹、兄弟の嫁と結婚しつつあり」と語った。これが「氏制度に対し反対の意向を表明して以て政治に関し不穏の言動を為し因て治安を妨害したるもの」とされ、懲役六ヶ月の判決を受けた。(118頁)
檜山錫斗(朝鮮名不明・製棺業・54歳)は1942年11月2日、釜山府寿町福成旅館の庭先にて金光今述外二名に対し「『一昨年、犬の子と創氏して副邑長に書類を差し出したら理由を問われたため(要旨)、朝鮮人は変姓せば犬の子、牛の子と言われるから、創氏は変姓であるから犬の子と創氏したと答えたら、副邑長は自分を叱り、若し斯様なことを警察に知られたら貴殿は処罰されるから改めて届出よと云われ、檜山と創氏したが、朝鮮人は存在がない』と放言」したとして、懲役六ヶ月の判決を受けた。(120頁)
1940年6月頃、金ユファン(金田ユファン・共産主義運動で執行猶予判決を受けたことあり・消費組合常任理事・41歳)は友人に対し「氏を設定するも朝鮮人はやはり朝鮮人にして日本人にはなれぬ故、犬としても豚としても良いではないか、中央政府から朝鮮人に氏を設定せよとの命令ではなく南総督が自分の顔立てる為、勝手な制度を設けたものなる故、、服従する必要はない」と語り、経済統制、志願兵制度などを批判する言動をしたため保安法違反で懲役六ヶ月の判決。(120頁)
(方改め)松方義勲(精米業・24歳)は1941年7月、友人らに対し「南総督は内鮮一体を唱え創氏制度を設けたるが、創氏制度に就いては内地の政治家連にも歓迎せられず、又朝鮮人は創氏するも内地転籍も許されず、其の他内鮮人の差別待遇は毫も改善せられず、結局内鮮一体は形式的なものに過ぎざる旨放言」したとされ保安法違反、懲役八ヶ月の判決。(121頁)
清原純治(朝鮮名不明・株式会社取締役・34歳)は1943年1月、自宅で友人らに「我々に創氏をさせて見たり名前を変えさせて見たってそれが何になるものか、創氏をしても内鮮人差別を相変わらずやって居り、何処でも朝鮮人を優遇せぬではないか」と放言、起訴された。(適用法律不明、量刑不明、121頁)
(安改め)安田炳耆(無職・22歳)は1943年12月、友人に対し「我々朝鮮人は馬鹿を見た。内鮮一体と甘言を弄し我々を騙して創氏改名をさせた南総督の奴は内地に逃げ帰った」と語ったほか、日本の敗戦を予想する発言を繰り返したため保安法、海軍刑法などの違反で懲役一年の判決。(122頁)
書堂(寺子屋)教師金徳集は1940年6月9日、「千余年近く伝えて来る吾等の姓、今般施行する創氏には極力反対しましょう」と書いた紙11枚を各地の面長に郵送したとして検挙され、保安法違反で起訴された。(『氏制度ニ於ケル民心動向ニ関スル書類』、量刑不明、123頁)
豊川龍秦(任龍秦・22歳・公立職業学校学生)1942年1月は、差別的待遇、朝鮮語禁止などを体験したことにより民族意識を強め、朝鮮独立の必要性を訴えるために、自作の「朝鮮国歌」を友人に渡したことが警察に探知されて逮捕。その日記にも民族意識が表れていると起訴意見をつけて送致した。日記の文面は次の通りである。
1940年7月25日「故郷の人の話に依れば、全部創氏したという。(中略)良心に耽(もと)ることはないか。東洋平和、聖戦とかいいながら。」
1940年10月29日「(前略)どうして朝鮮人の姓を取られて日本人の姓に従いましょうか。あー私でも胸が痛かったので、(後略)」(治安維持法違反、量刑不明、125頁)
崔相ウク(松山和暎・22歳・事務員)は1943年5月、友人と料理屋で飲食中に朝鮮人の女中に対して、「朝鮮人は朝鮮語を使うべきものだ」と話したり、軍隊での朝鮮人差別に触れながら、「自分は創氏改名に就いても祖先より長く続いた崔という姓を自分の時代になって松山と改正〔ママ〕したのだが、実に憤慨に堪えない。(中略)朝鮮人には朝鮮魂と云うものがある」と語ったりした。それらの言動が「内鮮一体の総督政治に関し不穏の言論を為し因て治安を妨害」したとされ保安法違反、不敬罪などで懲役二年の判決。(126頁)
戦後韓国の小説家として知られる金珖燮は、中東学校英語教師をしていた1941年2月、授業を通じて生徒に民族意識を鼓吹したという容疑で、治安維持法で検挙された。取り調べでは、創氏改名に反対か、「皇国臣民の誓詞」にも反対かなどと尋問されたという。金に対する予審決議書では「朝鮮の独立を企図すべき旨扇動」したとされているだけで、創氏改名に反対については触れられていないが、取り調べでは創氏改名への反対意思を見極めることが治安維持法事件を作り上げるための定石となっていたいことをうかがい知ることができる。(127頁)
金珖燮と同じ事件で検挙された李南植(下岡義和・金融組合書記・23歳)は、友人に「朝鮮人を名実共に日本人たらしむる目的を以て創氏制度が制定せられたるが故に、此の際大いに朝鮮人の民族意識高揚に努め朝鮮の独立実現を計るべ」しと語ったことが治安維持法違反とされた。(量刑不明、128頁)
洪淳昌(徳山實・小学校訓導・38歳)は1940年2月、同校六年生に大して「朝鮮が日本に併合された為、祖先伝来使用して来た姓名迄も改めねばならぬ。実に残念である」と述べ、他にも生徒に「民族意識を注入」する発言をしたため治安維持法第五条、懲役二年の判決。(128頁)
李種世(28歳・もと京城高等女学校教師)は1940年10月、他の被告らに次のように語ったことが「国体変革の目的たる事項の実行に関し扇動を為した」とされている。「(前略)元来朝鮮の姓制度は朝鮮大家族主義の表象である姓を基本として居るから、朝鮮の民族的団結は固いのである。然るに創氏することに依り其の姓を分割することは、朝鮮民族の団結を破壊することであって、其の他何等の意味もない。他の施政方針には或程度の理解は持てるが、創氏制度だけは徹底的に反対である」。 李らはアジア太平洋戦争が始まった後にも、日本の敗戦を利用して独立を図らねばならないが、それまでは朝鮮人の実力を養成する必要がある、などと語り合ったとされる。李に懲役二年六ヶ月、他の三名に執行猶予付きの有罪判決が下された。(128頁)
李正雨(岸田時和・22歳・無職)らは長野県の農業高校在学中の1940年、日本人生徒から朝鮮人を侮蔑し差別的な言辞を浴びせられたため、「内鮮一体とは名のみにして内地人は事毎に朝鮮人を侮蔑し差別待遇を為すものなりとの偏見を抱き、民族意識漸次濃厚となり朝鮮独立を翹望するに至」り、独立のために身を賭すことを誓ったという。東京にいる同郷の先輩あてに「志願兵募集とか旧姓改姓等は吾等韓国を日本民族と飽和〔ママ〕せん溶解せんとする一手段と私は考える。兎に角国なき吾等は世界中でこの上もない悲しい寂しい民族と言える」と書いた手紙を送った。これが国体変革の「目的たる事項の実行に関し協議を為し」たものとされた。(懲役二年など)(129頁)
全羅南道の光州西公立中学校生徒らが独立運動容疑で検挙された事件でも、創氏改名への批判が容疑の一部とされている。(中略)1929年の光州学生運動の歴史などから民族意識の強い学校だったという。同校生徒の南廷埈ら10名は、朝鮮人への差別待遇などを批判する言動をしたとして検挙され、「朝鮮統治政策を誹謗し遂に朝鮮民族の自由幸福を招来せんが為には、朝鮮をして帝国の統治下より離脱せしめ独立国家を建設するの他なきものと思惟し居たりたるもの」として裁判にかけられ、南が「諺文〔朝鮮語〕統制、国語〔日本語〕常用、創氏制度、志願兵制度等当局の施設」を批判したこと、奇英度(徳山英世)が「創氏問題其の他内鮮差別問題に付不平不満を語」って朝鮮独立の必要を力説したことなどを容疑。南に懲役二年、奇ともう一人に短期二年・長期四年の懲役刑、他の被告に一年六ヶ月あるいは一年の懲役刑(1944年9月18日光州地方法院判決)(129頁)
東北帝国大学の朝鮮人学生閔泰崑ら七名は、1940年頃から朝鮮独立をめざすグループを結成したが、彼らは「創氏設定は徹底的に朝鮮文化の破壊と民族意識の絶滅を図らんとする日本政府の悪辣極まりなき圧政である」とし、「我々はかかる弾圧に屈することなく朝鮮民衆の指導啓蒙に当たるべき」だと話し合ったとされる。(起訴不明、量刑不明、『特高月報』1942年3月号)(130頁)
これらの事件に見られるように、当局が治安維持法を適用する意図を持って誘導した点を割り引いたとしても、創氏への批判が民族意識、民族独立の思いにつながっていくものであったことは容易に理解できよう。(131頁)
検挙未満の言動
1940年12月15日『京城日報』が河東鄭氏一族が門中会議で「河東」と創氏することを決めたとする記事を掲載したが、これを「朝鮮独立を妨害するもの」と非難し「汝等門中を皆殺しする」と脅迫する手紙が「大同決死団」名義で門中代表あてに送られてきたことを警察が探知した記録が残されている(『氏制度ニ於ケル民心動向ニ関スル書類』)。手紙の送り主は、結局検挙されなかったようである(115頁)。 (引用者注:特定されて検挙されなかったのか、特定できず検挙されなかったのかは不明)
1940年3月23日、日本語新聞の『朝鮮日日新聞』は、「創氏した学生に対し/同僚数名が鉄拳の雨/京城大学法文学部にまた不祥事件が発生/東大門警察で加害者取り調べ」という記事を掲載。同署は法文学部二年生の朝鮮人全員について「家宅訪問」したが、真相は判明しなかった。(創氏ニ関スル学生間ノ不祥事ニ関スル件、122頁)
1940年6月1日、京城府内の国旗掲揚台付近に「朝鮮独立万歳」「創氏制度反対」「日本製品排斥」などと書いたビラ11種2500枚がまかれた。犯人は捕まらなかったが、警察は朝鮮日報編集員金炳道を取り調べ、ビラの噂を他人に伝えたこと、また知り合いの面書記に、「創氏勧奨の問題は強制的に為すべき趣旨に非ざることを強調し、殊に同人は面書記の地位に在る関係上其の挙措を誤らざるよう」注意する手紙を送ったことをつかんだ。さらに朝鮮日報社内に「創氏反対グループ」が存在するのではないかとの疑いをもって調べたが、確認できなかったとしている。(不穏ビラ散布事件ニ関スル件、123頁)
「朝鮮風習を保護すべし、氏制度を中止すべし」(総督府宛の投書)、 「天皇族皆殺郎」「昭和亡太郎」と創氏するのは許可されるかと書いた葉書(『昭和15年前半期朝鮮思想運動概況』)。(123頁)
学校およびその周辺の話
創氏改名については、学校でさまざまな強制がされたと語られることが多い(例えば(中略)梶山季之の小説『族譜』)。実際はどうであったのだろうか。(89頁)
○学校の教員へ創氏を率先実行するよう指示が出ている。「創氏は教職員より」「職人一人残らず創氏」 (複数の学校、省略)
○クラスのほとんどは創氏改名していたが、自分は創氏していないことで教員からなにか言われたことはない。(金晶国・尋常第二小学校)
○子供を通じて親に圧力をかけたケース。例えば創氏した生徒には「創氏札」をつけさせ、そうでない生徒との差別化をはかった。結果七割が創氏改名した。(『大阪毎日・朝鮮版』1940.6.25)
○黒板に新名と旧名をかかせ、新名で呼べと命じられる一方、黒板に書かれない生徒が教師から「白眼視」された。(尹麟錫)
○開城公立高校で生徒を通じて「内地人式『氏』制定方(かた)強要し」ているため父兄が困惑しており、強要を続けるなら子供を退学させると反発する親がいる。「其種事例は決して少なからず」と警察文書が報告している。(『氏制度ニ於ケル民心動向ニ関スル書類』)
○「田舎では民衆に日本名を付けさせるために、地方の警察、役人、面長によって強い圧力が加えられている。家を建てたり買ったりするための許可も、申請者が日本名をつけていなければ、役人たちは許可を出さない。小学校に入りたいという子どもたちも、ところによっては名前が日本化されるまで戸籍証明を得ることができない」(尹致昊の日記1940.5.30)
○1940.3月頃「創氏をなしたる者に非ざれば入学出来ざる由なるが、若し事実なりとせば相当紛議を醸すべし」という「流言蜚語」が咸鏡南道で流れていた(『高等外事月報』)
○咸鏡北道羅津府では創氏率が13%と「不成績」だったため、府尹ら係員が「府内全朝鮮人の創氏改名を期し徹底的の勧誘に乗り出す」ことを決め、各町総代、各公官署、会社、学校も協力することになった。実際に実行されたかは不明だが「場合によっては将来小学校児童の入学に創氏者と非創氏者とに手加減を加える方針も考慮中」という記事が新聞に出ている。(『大阪毎日・朝鮮版』1940.6.28)
○1941年3月19日の枢密院会議で、朝鮮・台湾において「内地流の氏名」に改めなければ児童の入学を許可しないと聞いているが事実かどうかと質問したのに対し、秋田清拓務大臣は「実情においては必ずしも非難の声なしとせず」と答えて、入学許可にあたって創氏を強制する例があることを認めている(93頁)。(枢密院会議筆記)
(以上、89-93頁より選択要約して箇条書きとした)
1943年2月26日の貴族院予算委員会第三分科会で、水野錬太郎議員(もと朝鮮総督府政務総監)が、創氏改名に関して警察や学校からの圧迫を受けたためにやむを得ず従ったという声を聞いており、「前総督〔南次郎総督〕の時には大分そういう方面に力を入れた」ということだが、事実はどうか、と質した。これに対して朝鮮総督府政務総監田中武雄は、「官辺の強制というようなことに関してでございまするが、〔中略〕必ずしも絶対そういうことがなかったとは申上げ兼ねまするのでありまして、一部遺憾な事例もあるようであります」と答弁せざるを得なかった。(219頁)
「創氏札」が創氏しない生徒とその親に圧力として作用したことは言うまでもない。(91頁)
これが実行されたかどうかはわからないが、入学者を決めるのに創氏したかどうかで「手加減」を加えるべきだとする考えが当局にあったことは確認できる。そもそもこのような記事が新聞に掲載されたり、そのような風聞が伝えられたりすること自体が大きな圧力であったといわねばならない。(93頁)
役所にて
届出状況は道別のみならず、郡や面、さらにはその下の里洞レベルでも統計が取られていた。新聞にも郡別、面別の届出を伝える記事が掲載されている。(中略) このように、地域ごとの「創氏成績」が発表され、それが皇民化の物差しにされるなど、届出率の低い所は「不名誉」を挽回するために届出の督励にいっそう力を入れざるを得ない立場に置かれることになる。(85-86頁)
ある老人が「張」をそのまま氏とすることを考えていたところ、面長が勝手に「張本」と戸籍に登録。祖先に顔向けできないから「張」で氏を設定してくれと1941年3月に総督府に陳情書を送る。全州地方法院は、家族が氏の届出を希望しても戸主である老人がこれを承諾しなかったため、孫が勝手に「張本」で創氏を届け出た、という顛末を法務局に報告した。面長が勝手に書き改めのたのか、それとも孫が氏設定届を出したのか明らかでないが、届出を一戸でも多くしようとした面長が孫に圧力を加え、法令に違反する届出をさせたように思われる(96頁)。 その後法務局は、戸主が氏を設定するという民事令に反するという理由で「張」に改める戸籍訂正の手続きを面長に指示した。
8月9日、創氏に反対している父に無断で息子(28歳)が勝手に氏を届け出たが、創氏に反対している父の叱責を受けたために面事務所から申告書を持ちだして破棄するという事件が起こった(『氏制度ニ於ケル民心動向ニ関スル書類』、要旨)。 この場合も、届出期間終了直前に面事務所が成績を上げるために息子に届出をさせたものであろう(96頁)。
以上のような事例は多くは見られないが、上部からの督励の激しさが末端機関の違法行為を引き起こすという事態が生まれていたのである。(96頁)
率先垂範
国民総力部落連盟理事長の柳大興は、1941年12月京城にて知り合いらとの宴会の出席し、その席で、米の供出が農民を苦しめていること、綿花栽培が強制されていることなど農村の実情を語るとともに、創氏について次のように話したとされる。
朝鮮人の創氏は私の面では九割八分程度に達するが、其の中八割以上は皆何の意味か解せず、当局が無理矢理に勧めるから仕方なく創氏した実情で、私も柳(ヤナギ)として別に柳本と創氏する必要もなかったのであるが、人に強制する立場上柳本と創氏せるも、一般部民は之に対し非難している。私も反対者の一人である。(94頁)
警察はこの話を探知し、柳を検挙して取り調べた。最終的な処分としては検察段階で起訴猶予となったようだが、創氏強制の実態を語ることは逮捕につながるものだったのである。(95頁)
満州に派遣された巡回講演班(李升雨らのこと)には、まだ創氏をしていない中枢院参議も含まれていたため「創氏せぬ講師、つまり創氏制度に共鳴せぬ人が、創氏講演の演壇に立つ資格があるか」という批判が投げかけられている。(『朝鮮行政』1940.5)(199頁)
朝鮮人知事の抵抗?
(本項は完全引用する。以下斜体となっていない部分を含めてすべて引用である)(176-178頁)
氏の届出期間終了後、9月2日に総督府の人事異動が発表された。この時、届出をしなかった似たりの朝鮮人知事が更迭されている。全羅北道知事の孫永穆、忠清北道知事の兪萬兼である。
道行政の最高責任者である知事が氏の届出をしないことに対しては、早くから批判が起こっていた。『釜山日報』4月20日付に「忠州郡民の/創氏熱旺盛/先ず知事より範を示せの声」と見出しをつけた記事が掲載され、忠清北道の「忠州邑知名人士」らが「我等は他に率先して創氏を断行す可きであるが、〔中略〕先ず知事よりさきに創氏を為し、次ぎに郡守、面長、区長と一般民衆に範を垂れしむ可きものであ」る、と語っていることを伝えている。知事の兪萬兼こそがまず創氏すべきであるというのである。
結局、孫と兪は氏の設定を出さなかったが、8月26日の『京城日報』に彼らを非難する記事が掲載された後、9月2日の人事異動で彼らは知事を免職されることになった。それまで、朝鮮人の知事は五人いた。このうち創氏をした三人(尹泰彬→伊東泰彬、金秉泰→金村泰男、金聖根→金川聖)は留任または他道の知事に転任したが、創氏をしなかった孫と兪の二人は免職された。新たに二人の朝鮮人が知事が任命されたので、朝鮮人知事の人数は変わらなかったが、この人事異動の結果、朝鮮名を持つ知事は一人もいなくなったのである(その後、1943年に金大羽が全羅北道知事に任命されている)。
総督府は「内鮮一体の具現」である氏制度の趣旨に反する者が知事の地位に留まることを許さなかったといわねばならない。
全羅北道知事だった孫永穆は、戦後、韓国政府樹立直後に「反民族行為処罰特別法」によって設置された反民族行為特別調査委員会で親日派容疑者として審問された際(1949年3月9日)、創氏問題について次のように述べている。
昭和15年2月頃に創氏制度が実施・発布されるや、最初は強制しないといっていたのが、次第に強制的にやりはじめ、各道が競争するようになりました。本人は一線官吏ににまで勧誘することはせず、その自由に任せたところ、同年5月末、統計数字で他道は道人口の9割もしているのに、全北は六分、すなわち百分の六という大変不調な成績であったため、上部の攻撃が激しくなりました。本人は初めから決心するところがあり、頑強に耐えていましたが、同年七月初め(ママ・日付不詳)の知事会当時、創氏問題が諮問事項として出題され、本人は数万言を尽くしてその不当性を指摘・答申しました。会議の際に大竹内務部長〔総督府内務部局長大竹十郎のこと〕から私的に注意がありましたが、本人は会議席上、一大論争をしようとしました。しかし、左右の人たちが引き止め、本人も決心するところがあったので、沈黙・我慢したところ、同年8月初めに辞職勧告を受け、同年9月初めに罷免・退官しました。(韓国歴史情報統合システム・反民特委調査資料)
日付や数字に間違いがあるが、孫永穆が創氏の問題をどのようにとらえていたかがよく表れている。もちろん、場合によっては、「反民族行為」の容疑で特別裁判にかけられる可能性があるなかでの審問であり、孫が自らの「潔白」を証拠立てるために創氏問題での「抵抗」を力説したという面は否定できない(孫は裁判にかけられたが、刑免除の判決を受けた)。しかし朝鮮人高級官僚として植民地体制を支える地位にいた孫のような人物からも、「抵抗」を受けるほかなかったのが創氏政策であったことを指摘しておきたい。
先に述べた人事異動を見ると、孫が「最後まで頑強に創氏制度の不当性を指摘して闘争した関係で罷免処分を受けたのであります」と述べているのも、それ相応の根拠があるものと考えられる。
なお、兪萬兼は忠清北道知事を更迭された後、中枢院参議に任命されたが、孫は官職に就くことはなかった(ただし「興亜報国団」など時局に協力する団体には名を連ねた)。
尹致昊
朝鮮YMCA会長でもあり資産家。1938年に国民精神総動員朝鮮連盟常務理事に就任し、総督府に全面協力する姿勢を示していた。朝鮮人名望家というべき尹は、南次郎総督とも面談できる立場にあった。(171-175頁) ※以下日記「」内は斜体にはしていないが完全引用である。
1月4日の日記「日本式の苗字を採用するか、それとも朝鮮名を変えずに維持するかは、朝鮮人、特に上層両班を悩ませる問題である」「南総督は公式には、朝鮮人に日本名を選ぶよう強制する考えを持たないと言明した。問題は、同じ声明で総督が、朝鮮人が日本名を選ぶなら喜ばしいと紛れも無くほのめかすようなことを述べたことである。朝鮮のあらゆることを日本のやり方に従わせようとする熱狂は、まったく不必要で無分別な政策のように思える」「日本がなりたいと思っている大帝国は必ず多くの人種で構成されるべきものである。彼らにすべての点でまったく同じようになれと強要することは、馬鹿げた不可能な政策である」
1月7日、尹は親しい親族と「日本名を採用するかどうか」について意見を交換した。弟の致旺、致昌、いとこの致[日午]は子供たちのために日本名を採用すべき、いとこの致暎は強く反対、同じくいとこの致昭は「態度を決めかねている」と書いている。また尹徳栄(子爵・中枢院副議長・貴族院議員)は「絶対反対」の意見を持っていた。4月29日、各地から100名以上が参加した海平尹氏の門中会議にて、出席者は「日本名の採用を認めることを満場一致で決めた」(174頁) 5月18日に門中委員会が再び開かれ、日本式の氏を「伊東」とすることを決めた。
2月1日の日記「総督以下の当局者は、この件〔創氏改名〕は完全に各人の選択にゆだねられており、強制するものでは全くないなどと言明している。しかし、我々は皆、当局が朝鮮人に日本名を選ばせたいと考えていること、それを拒否する者を威圧するであろうことをよく知っている」「いまや、当局が朝鮮名に固執する者を反日で、それゆえに危険な人物とみなしていることは明白である」
2月6日、尹致昊は親日団体・同民会の集まりで宮本法務局長の講演を聞いたが「私は氏と姓の違いが理解できない。朝鮮人はこの千年間、父から子へ苗字すなわち姓を受け継いできた。なぜこれを変えるのか?」
5月1日、尹は南総督と面談して、「内鮮一体」を完成させるために氏制度創設に賛成だが、反対論者の主張も考慮する必要が有ることを力説する。「東京」が反対していること、日本人が優越的地位を失うことを恐れて反対していること、そして「朝鮮人は数世紀にわたって朝鮮名を維持してきたのであって、なぜ金や李のままで忠実な日本国民たり得ないのか」と考えていることの三点をあげたうえで、尹は三番目の主張はきわめて当然なものであると述べた。そして、氏設定の届出期限を六ヶ月ないし一〇ヶ月延期するように南を申し入れた。
同月17日、尹は南と会って回答を聞いた。南の説明は、尹の提案について法務局長と相談したが、期限延長案を実現するには内閣への提出、天皇の裁可、枢密院の審査という手続きをとらねばならないので困難であるというものだった。(173頁)
5月21日の『京城日報』によると尹は創氏政策について「南総督閣下の歴史的偉業」「内鮮両民族の霊肉の融合一元化」と評価し、「因習的には多くの悩みもありますが、私は喜んで半島民衆のために進んで創氏をやり、また勧めるものであります」と語ったと記されている。
5月22日の日記「今日午後、トゥルチュク(ブルーベリーに似た木の実)のジュース六本入りのケースの贈り物を受け取って驚いた。総督が私の贈り物をするのは初めてのことだ。私が日本名を付けることを決めたという記事を読んで南総督が喜んだからだろうか?」
5月26日の日記「内鮮一体、つまり日本と朝鮮を分かちがたいものに結合することは、南総督の目的ないし趣味となっている。文章でも演説でも、東洋人の東洋を築けるかどうかの究極の成功は日本と朝鮮との統一の完成にかかっている、と述べているくらいである。〔中略〕朝鮮人が日本名を採用するように後押ししたり圧力をかけたりすることは、朝鮮民族を日本の主要民族にしてしまう手段の一つなのである。そのように決めたからには、当局者は朝鮮人が日本名を付けるようにしむけるであろう」 (創氏を決めた理由について)「私は子どもたちをブラックリストに載せるようなことはしたくない。そのために私は決めた。そのうえ、このような状況では、スコットランドがイングランドに統合されたように、朝鮮民族は日本民族に統合されるのが両者のためにとって最善であろう」
6月17日、尹は京城府庁の戸籍係に「伊東」という氏と子どもたちの改名を届け出た。 日記には「今日から私のフルネームは日本語で伊東致昊またはT.H.Itoとなった」(176頁)と残している。
T.H.というイニシャルは、致昊(チホ)の朝鮮語読みにほかならない。これが、植民地当局に協力する行動をとっていた尹致昊の、創氏改名への最後の抵抗であったのである。(176頁)
「朝鮮的」な氏による抵抗
「朝鮮的」な氏を付けることは、日本人の氏との違いを生み出したが、それは同時に、朝鮮人としてのアイデンティティを保持し、創氏政策に対してある種の抵抗を試みることでもあった。(149頁)
娘の羅英均の回想録によると、羅景錫(社会運動家、実業家)は、創氏を「総督府が権力で強要するものだから、抵抗してみても無駄だった」としながら次のように述べている。
父は私たちの姓の羅という字に田という字でも一つ加えるかと言って、羅田に姓を変え、下の名前は韓国式のままにした。だから父の名前は羅景錫、私の名前は羅田英均になった。日本語ではこれを「らでん」と発音していた。日本の姓でもなく、そうかといって朝鮮の姓でもないこの言葉を口にしたり聞いたりするたびに、奇妙な感じを受けたものだ。(羅英均)
社会運動との関わりを絶っていた羅景錫であったが、羅田という「奇妙な」氏を付けることによって、「日本人風の氏」を受け入れないという姿勢を示したのである(150頁)。
金史良が1942年に書いた「親方コブセ」という短編小説にも、東京近辺の朝鮮部落に住む労働者として、韓原、李山、崔本、朴沢、馬川、玉村、金海という氏が描かれている。 金史良は、労働者たちにこのように際立って「朝鮮的」な氏を付けることによって、創氏によっても朝鮮人の生活と魂は変わらないこと、変わってはならないことを暗示したのである。(150頁)
族譜について
族譜は私的文書であり、創氏改名で戸籍上の名前が変わっても、自動的に変えなければならないというものではない。したがって、創氏改名に反発を示した朝鮮人が族譜の記載を変えることはなかった ―― これまで多くの研究者はそう考えてきた。(184頁)
しかし、1940年以降に編纂された族譜の中に、創氏(および改名)に関わる記載をしているものがあることが、最近明らかになった。2006年11月の韓国史学会のシンポジウムで、忠南大学校の金弼東教授(社会学)が紹介した族譜がそれである。その族譜には、ある宗族部落に居住する一族の戸主のところに新しい氏が書かれており、内容を見ると、編纂の時点で生存していると見られる男性667名のうち、4名を除いて新たな氏を持っていたようである。つまり、この相続部落とその周辺に住む一族がほぼすべて氏を設定したと考えられる。しかしそこには16種類の氏も記されており、門中で同じ氏を決定するという方法は採らなかったと見られる。
この発見は、シンポジウムの参加者を驚かせる内容だった。私(著者)は同じような族譜がほかにも作られたのかと質問したが、金教授の答えは、「ほかには見たことがない」というものであった。
その後、韓国の国立中央図書館で調査したところ、創氏(および改名)に関わる記載のある族譜を相当数発見した。創氏(および改名)の記載方法は様々だが、多くは本名の横に小さな文字で「創氏○○」「新名△△」としている。つまり新氏・新名はあくまで仮の氏名という扱いである。わずかな事例だが、朝鮮名がなく日本風の名だけで記されているものも見られる。 族譜に記される集団全体で同じ氏を設定した場合には、序文で「我が一族は○○と創氏した」とだけ書いて、個々の人の部分には何も記載していないものもあった。
いずれにしても、創氏(および改名)に関わる記載をしている族譜は、宗族集団の「生き残り」を目的に編纂されたものであるということができる。もちろん、族譜といえども警察の許可を受けなければ印刷できなかったので、当局からの圧力を受けたことは十分考えられる。しかし、その一方で、新氏・新名を記載した族譜を刊行するということ自体が宗族集団の生き残り戦略を表していると解釈することが可能なのである。本名の横に小さく新氏・新名を記載すというやり方が、総督府の政策に完全には同調しないという宗族集団の意思を示しているといえよう。 (187頁)
梶山季之『族譜』(1961)
梶山が「族譜」を書くヒントを得たのは、『文藝春秋』1950年12月号に掲載された、「金龍周公使・大いに語る」という文章からである。これは、駐日大韓民国代表部の公使だった金龍周が、鎌田澤一郎(南次郎前任総督宇垣一成のブレーン)の質問に答えたインタビュー記事である。その中で鎌田は、創氏改名にまつわる悲劇として全羅北道の薛鎮永の入水自殺について、知事の孫永穆から聞いた話として次のように語っている。
薛鎮永はあの地方の旧家ですから、ずい分族譜を尊ぶんですね。だから姓だけはどうしても変えたくない、ところが薛家が創氏しなければ、その附近の人達が一人も改名しない、薛家が宗家ですから、無理もないのです。役人達はそこでなんとかしなければならないのだが、こればかりはと言って誰が何と言っても諾と言わない。しかし彼は民族主義者でもなければ反日でもないので縛るわけにはゆかない。それどころか、彼は大変な親日家でした。
鎌田の話に応えて、金龍周は、「そこで薛さんの愛児の通っている学校の受持先生を動員して、創氏しなければ進級も出来ないし、退校になるかもしれないと嚇したものだから、子供が泣く泣く帰宅して、お父さんにぜひ創氏してくれと訴えたのです」と話し、薛が子どもの教育のことを考えて、創氏の手続きをした後、石を抱いて自宅の井戸に入り自殺した、という経緯を述べている。
(中略)
実際の事件は、警察などの文書による限り、若干異なっている。薛鎮永(戸籍上の姓名は薛鎮昌)は、地元の有力者ではあるが、親日家ではなく「頑固一徹」の儒学者であったとされる。自殺の原因も、子どもの通う学校からの圧力で創氏したことにあるのではなく、一族が協議して氏を「玉川」とすることを決めたのに対し、薛一人が「氏の創設は子孫の絶滅を意味する」として反対し、自らの意志が通らなかったことに抗議するためだったとしている(『氏制度ニ於ケル民心動向ニ関スル書類』)
警察文書の記述どおりだったとすれば、鎌田が孫永穆から聞いたという話は、かなり潤色が施されたものだったといえる。
(中略)
鎌田が紹介した話を元に梶山は「族譜」を書いたが、(中略)梶山の誤解に基づく奇妙な記述が多々見られる。(中略)創氏改名に抵抗するために、多くの朝鮮人が姓をそのままにして名前だけを改めたとするなど、法的手続きについての誤解も多い。最大の誤りは、小説の題名に示されているように、創氏改名と族譜との関係をストレートに結びつけている点である。創氏改名に因って直ちに族譜の記載も変わってしまうかのように梶山が描いているのは、誤りといわねばならない。(創氏の督促に対して)「この代で、七百年の薜家の族譜が、白い紙になるなんと、とても出来ませんです」と答える。また薜は自殺する時、族譜の最後に、「昭和十六年九月二十九日。日本政府、創氏改名を強制したるに依り、ここに於て断絶。当主鎮英、之を愧じ子孫に詫びて、族譜と共に命を絶てり」と書き込んだとされる。創氏改名をすればただちに族譜の記載も変えねばならない、あるいは族譜の存在理由がなくなってしまう、と読者が思ってしまう描き方である。
(中略)これを見ると、梶山は必ずしも創氏改名と族譜の記載を直結させて理解していたわけではないようであるが、小説全体としては創氏改名によって族譜がなくなる、あるいはその記載が変わってしまうかのような印象を読者に持たせることは否定できない。(180-184頁)
自発性の強要・同化と差異化
創氏改名は、朝鮮人が役所に届け出をし、また裁判所の許可を申請するという形式をとった。それだけを見るなら、それぞれの朝鮮人の自発的意思にもとづくものということになる。しかし、それはあくまで建前に過ぎなかった。
「内鮮一体」と氏制度の創設が「大和大愛の肇国精神」、天皇の「大御心」によるものである以上、それを拒否する者は「皇国臣民」ではない、「非国民」だ、という理屈が大きな圧力となって朝鮮人にのしかかった。
そしてさまざまな形での創氏の「指導」「周知」「督励」が個々の朝鮮人に対してなされた。それは行政の末端機関が行ったというより、朝鮮総督府あげての「督励」であり強制であったといわねばならない。
創氏を徹底するためにとられた植民地支配当局の手法は、「自発性の強要」と名付けることができる。(230頁)
しかし、創氏改名にはもう一つ見落としてはならない側面がある。創氏改名は植民地支配の同化主義的性格を端的に表す政策ととらえられてきたが、本書で検討したように、同化の側面と差異化の側面が同時にあらわれたものであった。1940年という植民地支配の最終段階にいたっても、支配当局は差異、差別をなくそうとはしなかった。
もちろん、日中戦争開始後、「内鮮一体」が声高に唱えられ、それを象徴するものとして創氏改名が実施されたが、支配当局そして日本人は、植民地支配者としての地位を決して手放そうとはしなかった。
「内地人風の氏名」という点をめぐって、総督府内部でも、総督府と「内地」政治家との間でも見解の違いがあらわれた。創氏改名に対して日本の支配層は、かならずしも一枚岩ではなかったといえる。さまざまな意見対立を内に抱えながら実施されたのが創氏改名であり、それゆえにそこには相互に矛盾する複雑な面も見られたのである。その意味で、植民地支配そのものがはらむ複雑さを表していたともいえる。だからといって、朝鮮人がうけた苦痛が軽減されるものではないことはいうまでもない。(231頁)